○そろそろドーピング狩りはやめにしたらどうでしょうか?
ドーピングとは、いろいろなスポーツ選手たちが、日頃から命がけで体を鍛え抜き、自らの記録と直面し、その記録を少しでも伸ばすために、鍛え抜いた体に筋力増強剤なる薬剤を飲んだり、注射したりすることによって、筋力強化の更なるアップを図った行為に関与することの、全てのことを指して言っているようである。しかし、人間とはまことに勝手なものであり、東西冷戦中などは、とりわけ東側の国々では、国を揚げてオリンピック代表選手たちに、この種の薬を飲ませていたわけである。国の威信をかけてのスポーツエリートの育成。さて東西の壁がとれて、スポーツ選手たちの日頃のトレーニング方法が飛躍的に近代化・現代化されるに従って、あらゆるスポーツの記録は、かつてないほどに伸びた。驚くような記録が出てくるが、これらの記録の中には、所謂ドーピングによる筋力増強剤の投与によって生み出されたものも少なくない、という。
いまやオリンピック委員会といい、さまざまな国際大会の主催団体役員たちは、各種目の選手たちをまるで犯罪者扱いで、尿検査を主にして、禁止薬物の摘発に躍起である。禁止薬物といっても、ひどい場合は風邪薬の中の薬剤までが、ドーピングの対象になっている。選手たちはおちおちと風邪もひいていられなくなった。風邪で熱があろうと、ドーピング疑惑に晒されないために、疲れた体を酷使して何の治療も受けられないままに、競技に参加しなければならない。これなどはまさに非人道的行為なのではなかろうか?
僕に言わせてもらえばこうだ。ドーピング、大いに結構である。筋力増強剤といっても、日常的に平凡な肉体的素養しか持ち得ない、運動不足の、ビールの飲み過ぎのために下腹が出っ張ったような、大半の怠惰な人間がそれらのひとつを飲んだところで、何の効力もないだろう。日常的な、ストイックな鍛錬の結果、自分の肉体の限界点近くまで行き着いた選ばれし者たちが、さらなる飛躍を目指すために、鍛え抜いた体に少しの刺激を与えるのが、ドーピングと呼ばれている行為の結果なのではなかろうか?良いではないか、それくらいのことは。合法と言われている煙草を人の迷惑も顧みずスパスパと吸っているような人間や、同じように合法とはいえ、酒に溺れて身を持ち崩すようなアルコール依存症の人間と比べて、人類の可能性の追求に憑かれている人間の方がよほど生の存在理由があるではないか!特に現代という時代に生まれた優れた肉体と精神の持ち主が、自分の限界点をさらに上げるために試す薬が、人間の肉体的可能性を少しでも高めてくれるという、人類共通の夢に寄与するのであれば、平凡な人間にとって、自己の中にひょっとすると同じ種の能力が眠っているのかも知れない、という淡い期待感や錯覚を抱かせてくれもするではないか。また、大リーガーのテレビ観戦で、ドーピングの批判の嵐に晒されていた、バリー・ボンズの、巨大な打球の軌跡を残しながら、場外に消えていくホームランの球のゆくえを眺めて、何故単純にすげえ!と叫べないのであろうか?それが野球観戦している凡庸な人間たちの明日への活力ともなれば、生きている甲斐もあろうというものだろうに。
ドーピングする選手だって、自己の身に降りかかる危険に対して、覚悟の上でやる行為なのである。あの手の薬は特に消化器系や呼吸器系の内臓に対して大きな負担をかける。それでも、鍛え抜いた体に、もともと持病があれば、とても危ういものだが、そうでなければ、何とか切り抜けられる種の危険度である。自分の限界点まで鍛え抜いたスポーツマンの根性をバカにしてはいけない。彼らがドーピングに走るのは単なる記録向上という名誉が欲しいのではないだろう。そんなことよりは、彼らは自分の限界性、それはすなわち人類の限界性への挑戦を意味することなのであるから、ある意味において、捨て身の行為なのではなかろうか。優勝した選手にドーピング疑惑がかけられ、優勝選手からメダルが剥奪され、3位以内にも入れなかった選手がメダルを手にする姿を見ていて、なにほどか割り切れぬ気分に陥るのは、果たして僕だけなのであろうか?
僕の観想では、いまやドーピングの基準が 微細に渡り過ぎ、この状況が深まれば、国際大会に出場するような選手たちは、どのような薬も飲めないという馬鹿げたことも起こり得るのではなかろうか。本末転倒とは、こういうことを言うのである。繰り返す。体に特に異常のない世界的選手たちに対して、筋力増強剤の投与を認めよ。我々のような凡庸なる人間が、平均的次元を遥かに上回るような人間に対して、それもストイックなほどに自分を日々鍛えている人間に対して、四の五の言わないことだ。それが凡庸なる人間の作法というものではなかろうか?
○推薦図書「死生論」西部 邁著。日本文芸社刊。ドーピングの問題と死生観の問題とは一見かけ離れているように感じますが、実は、ドーピングに手を出すような世界的選手たちの心情は、多分に自己の生死のギリギリのところまで行き着いているような気がします。西部の論述する死生論には勿論ドーピングの問題など一言も触れていませんが、論理の底で相通じるものがあるように僕には思えてなりません。興味のある方はどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
ドーピングとは、いろいろなスポーツ選手たちが、日頃から命がけで体を鍛え抜き、自らの記録と直面し、その記録を少しでも伸ばすために、鍛え抜いた体に筋力増強剤なる薬剤を飲んだり、注射したりすることによって、筋力強化の更なるアップを図った行為に関与することの、全てのことを指して言っているようである。しかし、人間とはまことに勝手なものであり、東西冷戦中などは、とりわけ東側の国々では、国を揚げてオリンピック代表選手たちに、この種の薬を飲ませていたわけである。国の威信をかけてのスポーツエリートの育成。さて東西の壁がとれて、スポーツ選手たちの日頃のトレーニング方法が飛躍的に近代化・現代化されるに従って、あらゆるスポーツの記録は、かつてないほどに伸びた。驚くような記録が出てくるが、これらの記録の中には、所謂ドーピングによる筋力増強剤の投与によって生み出されたものも少なくない、という。
いまやオリンピック委員会といい、さまざまな国際大会の主催団体役員たちは、各種目の選手たちをまるで犯罪者扱いで、尿検査を主にして、禁止薬物の摘発に躍起である。禁止薬物といっても、ひどい場合は風邪薬の中の薬剤までが、ドーピングの対象になっている。選手たちはおちおちと風邪もひいていられなくなった。風邪で熱があろうと、ドーピング疑惑に晒されないために、疲れた体を酷使して何の治療も受けられないままに、競技に参加しなければならない。これなどはまさに非人道的行為なのではなかろうか?
僕に言わせてもらえばこうだ。ドーピング、大いに結構である。筋力増強剤といっても、日常的に平凡な肉体的素養しか持ち得ない、運動不足の、ビールの飲み過ぎのために下腹が出っ張ったような、大半の怠惰な人間がそれらのひとつを飲んだところで、何の効力もないだろう。日常的な、ストイックな鍛錬の結果、自分の肉体の限界点近くまで行き着いた選ばれし者たちが、さらなる飛躍を目指すために、鍛え抜いた体に少しの刺激を与えるのが、ドーピングと呼ばれている行為の結果なのではなかろうか?良いではないか、それくらいのことは。合法と言われている煙草を人の迷惑も顧みずスパスパと吸っているような人間や、同じように合法とはいえ、酒に溺れて身を持ち崩すようなアルコール依存症の人間と比べて、人類の可能性の追求に憑かれている人間の方がよほど生の存在理由があるではないか!特に現代という時代に生まれた優れた肉体と精神の持ち主が、自分の限界点をさらに上げるために試す薬が、人間の肉体的可能性を少しでも高めてくれるという、人類共通の夢に寄与するのであれば、平凡な人間にとって、自己の中にひょっとすると同じ種の能力が眠っているのかも知れない、という淡い期待感や錯覚を抱かせてくれもするではないか。また、大リーガーのテレビ観戦で、ドーピングの批判の嵐に晒されていた、バリー・ボンズの、巨大な打球の軌跡を残しながら、場外に消えていくホームランの球のゆくえを眺めて、何故単純にすげえ!と叫べないのであろうか?それが野球観戦している凡庸な人間たちの明日への活力ともなれば、生きている甲斐もあろうというものだろうに。
ドーピングする選手だって、自己の身に降りかかる危険に対して、覚悟の上でやる行為なのである。あの手の薬は特に消化器系や呼吸器系の内臓に対して大きな負担をかける。それでも、鍛え抜いた体に、もともと持病があれば、とても危ういものだが、そうでなければ、何とか切り抜けられる種の危険度である。自分の限界点まで鍛え抜いたスポーツマンの根性をバカにしてはいけない。彼らがドーピングに走るのは単なる記録向上という名誉が欲しいのではないだろう。そんなことよりは、彼らは自分の限界性、それはすなわち人類の限界性への挑戦を意味することなのであるから、ある意味において、捨て身の行為なのではなかろうか。優勝した選手にドーピング疑惑がかけられ、優勝選手からメダルが剥奪され、3位以内にも入れなかった選手がメダルを手にする姿を見ていて、なにほどか割り切れぬ気分に陥るのは、果たして僕だけなのであろうか?
僕の観想では、いまやドーピングの基準が 微細に渡り過ぎ、この状況が深まれば、国際大会に出場するような選手たちは、どのような薬も飲めないという馬鹿げたことも起こり得るのではなかろうか。本末転倒とは、こういうことを言うのである。繰り返す。体に特に異常のない世界的選手たちに対して、筋力増強剤の投与を認めよ。我々のような凡庸なる人間が、平均的次元を遥かに上回るような人間に対して、それもストイックなほどに自分を日々鍛えている人間に対して、四の五の言わないことだ。それが凡庸なる人間の作法というものではなかろうか?
○推薦図書「死生論」西部 邁著。日本文芸社刊。ドーピングの問題と死生観の問題とは一見かけ離れているように感じますが、実は、ドーピングに手を出すような世界的選手たちの心情は、多分に自己の生死のギリギリのところまで行き着いているような気がします。西部の論述する死生論には勿論ドーピングの問題など一言も触れていませんが、論理の底で相通じるものがあるように僕には思えてなりません。興味のある方はどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃