ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

個性を壊さないために

2006-11-30 22:26:02 | Weblog
この問題を話題にするためにまずやっておかねばならないこと、それは、個性とは一体何か、という問題である。こういうとき、広辞苑の言葉の定義をまず紹介して、その上で論じるという方法論は、つまらない論文やエッセイの決まり事である。だから、敢えて僕はそんなことはしない。僕自身の解釈であくまで書いていく。個性とは僕の解釈によると、ある人間が持っている言葉の表現力のことなのである。僕はそんなふうに規定したい。表現者の端くれとしては。
いま、この現実の世界の中において、最も困難なことは生の肯定である。何故かと言うと、現実社会は、あまりにつまらなくて、生きるには値しないことが、満ち溢れているからである。これが現実である。ここを無理やり生きることはすばらしい、というふうに全肯定してしまうのは、考えることを放棄するようなものなのである。確かに、現代は生きにくいのである。それが否定し難い事実である。
しかし、だからこそ、この生きにくさの中で生き抜くことの価値を表現者は見い出すべきなのである。これが表現者の仕事である。試作品であろうと、小説であろうと、哲学であろうと、エッセイであろうと、ジャンルはなんでもよい。どのようなジャンルにおいても表現者は、個性を壊さないため、というより、もっと積極的に言うと、個性を生かしきるために、生の意味を語るのである。どんなに苦しくても、生き抜く意義を自分の生を賭けて探し出すのである。これが表現者の義務であり、それに伴う苦悩をも自分で引き受ける、という勇気でもある。
個性を生かすこととは少し矛盾するように聞こえるかも知れないが、換言すれば、それは、個を限りなく逸脱する行為でもある。個を逸脱する行為とは、個の可能性をあらゆる角度から表現するという勇気でもある。ここで目を向けたくない領域に対して目を背けてはならない。大きく瞼を開くのだ。そこに到って初めて個性の芳醇さと可能性と生きる喜びが発見できるのである。個を逸脱する、と書くと単純な人は、生と最も遠く離れた、というか、ある意味で最も行き当たりばったりに想定することのできる死という観念に囚われてしまうのである。死は美しいものでも、憧憬の対象でもない。死とは生の終焉という意味以上の存在ではない。死を売り物にする売文家はエセ者である。また、死を演出する人生など、無意味でもある。そんなものは美しくも何ともない。生があってこその死なのである。死とはあくまで生の従属物に過ぎない。それを強調するのは、逸脱という行為などではなく、単なる逃げの行為である。死のギリギリの淵まで行き着くのは構わないが、死を選んではならない。死とは個の選択の問題ではなく、唐突に向こうからやってくるものであり、それを自ら選び取る必要などないのである。誰もが死を経験することになっている。だからこそ、生はいつも途中経過で終わるのであるが、それでも、生き抜く意味があり、生きている間に思い切り逸脱して、生の可能性をえぐり出すことこそが個性を壊さないこと、いや、個性的であり得ることなのである。と僕は今日考えたのです。いかがですか?

〇「推薦図書」「幸福の無数の断片」中沢新一著。河出文庫。生の豊饒さと中沢氏が書く幸福とは何か? という問いかけと人生の可能性についてのエッセイ集です。よろしければどうぞ。

再び文学的・哲学的天才少女へ

2006-11-30 22:22:54 | Weblog
君は僕のところから結果的に逃げ出した。君の手紙の理由たるや、僕にとっては取ってつけたようなものでしかなかった。君は、君にとって何ら関係のない僕の表現の一部を取り上げて、なんくせをつけた。そして、それが僕に対する違和感を感じた理由だと書いてきた。しかし、君、それはウソだろう。君は本質を書くのが怖かっただけなのではないか? 僕は前の君への言葉として、君の詩的表現は死の魅惑とその美化したものにいまだにしがみついている旨のことを書いた。だから、君との話は、大学生になってからの君の表現に、生の意味を探究することが課題だ、ということに徹したものになっていた、と思う。君はある時は肯定的に、またある時は弱々しく頷いた。またある時は積極的に否定してもみせた。それで、よい、と僕は思っていた。何故なら、君は僕と語り合うことによって、また大学で、書くことの意義を学ぶことによって、必ず生の方にも傾いていくと確信していたからだ。君が気質的に生を謳歌する人間でないことは諒解していた。ただ、死に傾いているだけでは、君の表現力はそこまでで自己撞着に陥ると僕は思っていただけだ。君が生き続けるためには生と死との危ういが、その危うさの中で、君の表現力という力で、何とか折り合いをつけながら、生と死との均衡を保っていけること、これが、僕の、君への唯一のメッセージであった。ところが、君は見事に僕のメッセージをかわしていった。それも天才とは言えない方法で。君の心の病は諒解しているし、それがいかに苦しいかも想像に難くない。だが、君はあくまで表現者なのである。そこのところを忘れてはならないのである。表現者は、自己の精神的病理をさえ乗り越える。ただし、苦しみながらではあるけれども。しかし、そういう自己を築き上げてこその天才なのである。少なくても今の君は文学的にも哲学的にも凡庸な表現者として停まろうとしているような気がする。それは結局のところ、君自身を苦しめるだけなのである。このままいけば君はすぐに大学教育に嫌気がさすことだろう。何故なら、凡庸であれば、凡庸な存在である大学という場を表現者としてうまく変容させていくことなど到底できないからである。そんなことは君になら分かっているはずである。だからこそ、君はがくんと落ち込んだのである。落ち込んで僕への絶縁状を書いたのである。それが真相であろう。そろそろ君は、いま甘んじて受容している凡庸さを捨てよ。そして、また天才的表現者としての君の才を伸ばせ。それが君にかせられた仕事なのである。人間としての仕事なのである。たぶん、君はこれを読むことはないであろう。いつか何かの拍子で、これを目にすることがあればそれで十分である。いまは無意味かも知れないことを僕はやっている。しかし、それこそが実存主義者として生きている僕の役割なのである。

〇推薦図書「むずかしい愛」カルビィーノ著。岩波文庫。ちょっとしたずれが日常の風景を一変させる。それは姿の見えない相手との鬼ごっこに似ている。カルビィーノは、それを短編の小説集として書いています。一読の価値あり、です。

人が優しくあるために僕たちは闘った

2006-11-30 00:05:51 | Weblog
僕が高校生の頃、学生運動をやったということは書いたが、意外に地域に密着したこともやっていた。たとえば、その当時僕たちは坊主頭に学生服に学生帽をかぶって、登下校しなければならなかった。僕たちはこれには反発した。地域の住民の中に入り、大規模な署名活動を実施した。大人の人々も多くの賛同者が署名してくださった。僕たちはそれをもって、学校側と交渉した。僕たちは小さな闘いに勝った。それからというもの、僕たちはカリフォルニアのヒッピーみたいな服装になった。下駄を履いて、レイバンのニセ物のサングラスをかけて、ジーンズを履いて登校する仲間もいた。今から考えればおかしな格好だが、僕たちは有頂天だった。進学校だった学校は、定期テストや実力テストの度に職員室のボードに1番から50番までの成績優秀者の名前を貼り出した。また、有名大学に合格した生徒の名前も貼り出していた。僕たちはこれにはたいへんな反発を覚えた。差別・選別主義である、という大義名分のもとに団結した。在日の仲間は本名を公にした。そして自分が在日であることを誇りにできる環境でもあった。最近はいくつかの自治体で評判を落としているようだが、解放同盟の仲間たちとも共闘した。みんなで、共闘した。学校側とかけあった。ジグザグデモを校庭から職員室の中までみんなで押して入った。校長室を3日間占拠した。学校側が今度も折れるかたちになった。僕たちは、束の間の自由を謳歌した。(僕が勤めた学校は当たり前のように大学合格者の名前を貼り出していたので、僕はそのことがどんな問題を孕んでいるかを訴えたが、教員の中に理解者は少なかった。そんなふうにして成績優秀で、おとなしい生徒だった人々が教師になっているのである。そこに貼り出されない生徒の気持ちなどを想像だに出来ないはずだ。たぶんいまもその制度は続いているはずだ)僕たちはたぶん他者に対して一番優しかった時代を過ごしていたのだと思う。誰かが困っていたら、みんなで闘った。それが僕たちのやり方だった。さて、束の間の自由と書いたが、権力側は常により大きな権力で挑んでくる。校長は更迭され、新しい校長が赴任してきた。彼は辣腕家であった。僕たちの仲間は次々に出席不足を理由に留年を選ぶか、学校を去るかの選択を迫られた。何人かの仲間が残り、何人かが学校を去った。制服が復活した。表面上は制服を着る自由もあるというのが学校側の主張であった。勿論、僕たちには反対者もいたから、その生徒たちは好んで制服を着、頭は坊主頭のままであった。そういう生徒の数が少しずつ多くなった。政治的な色彩を帯びた運動とはそんなものである。時の権力の中心に従う羊の群れが普通の人間の姿なのだと僕たちは悟った。絶望はしなかった。僕たちはかなり少数派になってはいたが、みんな優しかった。僕は権力の本質をその頃、見抜いた、と思っている。僕も、僕の仲間も人間のやさしさとあるべき姿をもとめて彷徨したが、得たものと失ったものとの量はたぶん同じくらいではなかっただろうか。この頃から世の中をうまく生きる人間と、最後まで自分の中の正義を捨てられずに生きる人間との違いがすでに出来上がっていることにも僕は気づいていた。やさしい人間ほど、自分の中の正義を棄てきれなかった。やさしい人間ほど、傷ついて学校を去っていった。僕は何とか学校にとどまったが、ある意味で中途半端であったのだろう。傷ついたし、大学も一年は受験せずに東京に逃げたが、卒業出来ずに去った友人のことは忘れたことがない。彼らは僕よりはるかに優しかったし、はるかに自分に正直な人間として行動したと思う。彼らも僕と同じ53歳である。どこで、どうして生きているのか? 悠々として生を生きていることを願うばかりである。僕は彼らのことは忘れはしないし、尊敬するばかりである。こういう運動に参加したばかりに、生徒は将来を閉ざされ、傷ついたばかりだった、と言うのは簡単だが、その当時、僕たちは確かに、生きていたことは誰にも否定できはしないのである。

〇「革命について」ハンナ・アレント著。ちくま学芸文庫。僕たちの小さな革命と同様に、ハンナは革命によって生まれた政治体はなぜ永続性をもたなかったのか?という視点でするどく20世紀政治の惨状を分析してくれています。一読の価値はありますよ。

僕が人生の先輩としての父から学んだこと

2006-11-29 23:56:33 | Weblog
を僕は50歳を超えたいま、やっと気づいたのである。僕は何度か書いたが、親父のことが好きであった。家族の扶養能力という点に関しては欠けていたかも知れないが、時折彼から出てくる言葉や言動に僕は、子どものくせに自分の中の男を刺激される想いがして、とても心地よかったのである。高校一年のときに学生運動が真っ盛りで学校は学校としての機能を完全に失っていた。授業は抜けたい放題だったし、神戸の新開地という盛り場、いまは廃れた感があり、盛り場の中心地は三ノ宮に完全に移ったようだが、当時はまだまだ映画館も何軒もあったし、当時流行っていたボウリング場もたくさんあった。学校から歩いていける新開地は、僕たちの気軽な遊び場だった。まあ、学生運動とはいいながら、僕は結構な不良だったわけである。高一のある日も午後から学校を抜けて、ボウリング場へ行って友達(これは学生運動の友達ではない。真面目に勉強していた友達である。彼らさえ、僕たちと同じような行動をしていた時代だったのだ)と3ゲームセットで争った後、近所の美味しいので有名なうどん屋に入ってうどんを啜ってから市バスに乗って家に帰った。帰宅するには少し早い時間だったが、両親も学校がまともに授業をしていないことを知っていたので、当たり前のように僕は家に辿り着いた。両親は炬燵に入ってみかんを食べながらテレビで女子プロのボウリングを観ていた。今日は早かったね、とお袋が言ったので、僕は咄嗟に口からウソが出た。ああ、今日は全校集会があって、それが早く終わったからだよ、って。両親は僕が学生運動の闘士であることは知らなかったので、その言葉通りに全校集会に出ていたと信じたのであった。僕もみかんを食べながら、女子プロの中山律子のパーフェクトに近いゲームを観て、すげぇーなあ、と心の中でつぶやいた。と、その時、一度も僕の家を訪れたことのない、学校をさぼってボウリング場へ行った友達の一人が何を思ったのか、僕を訪ねてやってきた。両親はいつもにない愛想の良さで、その友達を迎え入れた。奴(とあえて呼ぼう!)は、中山律子の投球フォームを観て、やっぱりプロはちがうなあーと感嘆した。そこでとまれ! と僕は心の中で祈る思いだった。しかし、彼の口上は停まるところを知らなかった。今日の自分の出来がどうの、僕の腕があがったの、と彼は僕を褒めるつもりで何とも止めどなく喋りたおした。お袋は僕を睨んでいるのが横目で観て分かった。ああ、親父にはこっぴどくやれれるだろうなあ、男はウソなんかつくもんじゃあねえ、くらいはいわれるなあ、と思って奴が帰るまで心臓がひっくりかえるような気分で過ごした。長い、長い時間に思われた。そしてひとしきりみかんを食べ尽くして奴は帰って行った。親父は寝っころがったままの姿勢で、固まっている僕の腕をボンボンと二度軽く叩いてニンマリしていた。負けた! と思った。

〇「みんな十九歳だった」山川健一著。講談社文庫。山川は僕と同じ歳の小説家だ。かなりなナルシストの小説家でいっときはよく売れたので文庫でたくさん読めたが、いまはなぜだか殆どが絶版になっている。これもたぶん絶版になっているかも知れませんが、どこだかの出版社で山川健一の小説全集が出ていたので、そちらの方で読んでみてください。amazon.com.jp で調べればよく分かると思います。あるいはヤフー・ジャパンの検索欄に山川健一、小説、と入れて頂いてもいいですよ。幻冬舎文庫には、彼の作品のいくつかは出ています。

人生にはいろいろな選択肢があったのに

2006-11-29 01:10:37 | Weblog
といまにして思えば、強く思う感慨である。僕の親父が人生の大半を遊び人として生きたために、お袋は僕に、真面目に、どこでもいいから、おとうさんのようにならずに、長く勤めるのよ、と言われて育った。(子どもの育て方としては最もまずいやり方ですね)それで、僕は、地味でもよいから、長く続けられる仕事を視野に入れていた。アルバイトで学校にいけず、学校に行くとアルバイトが出来ずに授業料が払えないという矛盾を抱えながら、何とか教職課程を踏ん張ってとった。英文学科だったし、当時は英語の実力もそれほどなかったので、地味で長く勤められる職業と言えば、英語教師くらいのものであった。これがいけなかった。僕は自分で自分の首に縄をかけたようなものである。自分には何となく向いていないような感じはした。僕は神戸の中学校の英語教師になって、生活指導を専門にやってみようかと考えていた。自分のグレた経験が役立つかも知れない、という漠然とした確信があったのである。しかし当時は第二次オイルショックの直後で、目ぼしい私企業は国公立大学にもって行かれるような時代で、私立大学出の人間には厳しい職業難だった。国公立学校の大学生も公立の学校や公務員試験を目指した。私企業の景気が悪いとてきめんに出てくる現象だった。神戸の公立中学校は、70倍を超える倍率だったと記憶する。それに僕は肝心なところが抜けてしまう人間で、実際には神戸市だけは一般教養の試験がなかったのだが、他府県では一般教養が課されていた。僕はよく確かめもせずに一般教養の分野が弱かったので、その試験に重点をかけていた。7月だったか8月だったか、暑い夏の試験日になって、僕は試験場になっている中学校へ出かけて行った。しかし、どうしたことだろうか、当時は他府県は一般教養は課せられるが、英語教師の試験といえども、ヒヤリングの試験などはなかった時代である。で、僕の生涯がかかった(と当時は思っていた)試験が始まった時、唐突にスピーカーから、英語が聞こえてきた。僕はその時、ポカンとしていたように思う。何と、ヒアリングの試験だったのである。僕がそのことに気づいたのはヒアリングの試験が半分以上過ぎた頃だった。しまった! と思った。過ぎてしまった問題は鉛筆をなめて正解であってほしいという記号に〇をつけた。後の問題は大体できたが、もう敗北は決定的だった。英語の試験が終わった時、廊下に出ると、神戸大の競争相手たちが、ああ、あれが出たなあ、なんて言っている。絶望した。さて次は一般教養である、ここで少しは取り戻せるか、という期待感を沸き立たせて試験に臨んだ。だが、試験は教職教養であった。それは何とかできたが、これはみんなができる問題であった。そしてついに一般教養の試験は実施されることなく、神戸市の教員試験は終わった。僕は敗北した。僕はもう教師はやめようか、と思った。僕の教育実習は9月だったから、その年には教師になれないことが分かっていながらの実習だった。思えばあの時やめておけばよかった。だが、僕は歯を食いしばって情けなさに泣きながら教育実習を終えた。大学に戻り、英文科の窓口に、一枚の張り紙があった。私立の中学高等学校の試験のお知らせだった。当時としては破格の初任給だった。僕は西本願寺系のその学校を受験した。30倍という難関だったが、どういうわけか、僕一人だけが通った。僕はお袋の罠にはまったかたちで、大喜びした。これで食える。自立できる。と思ったのである。しかし、そこは日本共産党の支配下にある労働組合と西本願寺系の寺の坊主が事務組織を支配する学校だったのである。僕のような新左翼出の人間がよく23年間も勤められたものだ、といまにして思う。一時は日本共産党系の組合の副委員長までやった。矛盾だらけだった。無神論者が、仏参と称する宗教行事に参加しなければならないことの苦痛。手は合わせなかった。いっぺんに理事会の嫌われ者になった。学校を追放される種はもう初めからあったのである。そして僕は予定通りに、学校を去った。僕は家族を失い、財産も失った。全てが人生の後半期からのやり直しになった。まだ僕は闘っている最中だ。

〇「堕落」高橋和巳著。新潮文庫。僕の小さな内面的崩壊過程と虚無感とは比べものになりませんが、この作品は大きな世界を舞台にした読みごたえのある小説です。いま高橋和巳の人気があるのかないのか分かりませんが、読んでみると見事に引き込まれます。

生の一回性について少し書こう

2006-11-28 00:34:25 | Weblog
世の中にはいろいろと考え違いをしている人たちがいて、生は一回こっきりのものではなくて、何度も、何度も、ある人間の姿を変えて生まれ変わってくる、という生きるのに役に立つのか役立たないのか、よく分からないことを言っている。その人たちの考えの中では前世があり、現世があり、未来世があり、それぞれの世界に同じ人間が姿・形・身分を変えて生き続けていく、というものだ。こういうことを僕はいっとき、本気になって信じようとしたことがあるし、この手の本もたくさん読んだ。でも僕の生きる確信にはならなかった。何だか現在の生を生きやすくするための処世の術のような気がだんだんとしてきたのである。アホらしくなった。僕はこの手の本から離れることにした。確かに現代という世界は生きづらい。それは確かである。しかし、だからといって、前世や来世を持ち出して、現世のつらさを忘れようとすることはないのではないか、と僕には思われた。この手の本はまだ家にたくさん残ったままだが、パラパラと読み返してみると、もう馬鹿げているとしか思えない。僕はよほどこれらを読んでいた当時、つらかったのだなあという感慨があるだけである。無神論者である僕にとっては生は一回性のものでなくてはならないのである。だからこそ、いま、ここ、現在、が、価値あるものであり、無駄にはできない時間の中を僕たちは生きていると実感できるのである。今の中学生や高校生たちがどんな本を読んでいるかはよく分からないが、僕の推察するところでは特に漫画の世界にはこの手の輪廻転生的な考え方のものが多いのではないかと思われる。だからこそ、漫画の中の人間はすぐに死んでしまうし、ゲームの中に登場する人物たちも簡単に殺されたり、死を選んでしまったりしているのではないだろうか? いま、マスコミ報道に影響されていると言われている、自殺したり自殺予告をしたりしている、生と死の狭間にいる若者たちの思想性の中には、意外に生の一回性という概念がないのではないだろうか? 僕には、彼らの裡には、生まれ変わりの発想が根底にあるような気がしてならない。ある自殺した中学生の遺書の一節には、もし僕が生まれ変わってくるとしたら、いまのお父さんとお母さんの子どもになって生まれ変わりたい、というくだりがあったと記憶している。これなどは、生とは中断してもまたその連続性の中に復活するものであるという発想に、子どもたちなりの、おそらくは表層的ではあるだろうが、判断が働いているような気がしてならないのである。僕はいま、自殺しようと考えている若者たちに言いたい。生は一回限りのものである。生まれ変わりなどはないのだから、いま与えれれた生を苦しいからといって、捨ててはならないのである、と。若者たちよ、一回性であるからこそ、生の意義と意味があるのであり、それを発見するプロセスが、人生なのである。自ら命を絶つことはない。人間は死というものからは逃れられないのである。だからこそ、生き続けなければならないのである。どうあっても、そういう考えになってほしい、と僕は心底、思っている。

〇「若い人」石坂洋次朗著。新潮文庫。中学生や高校生の皆さんはこんな本はいまは読まないでしょうが、ぜひ読んでほしい本です。現代とは違う若者の生きる姿がここには書かれてあります。時代が違うよーなんて言わずに、読んでごらんなさい。こんな生き方もあるのだ、という、こんな悩み方もあるのだということが分かるから。それだけでも価値がありますから。

何故人間の歴史からテロはなくならないのか

2006-11-27 23:28:08 | Weblog
というちょっと政治的な課題に挑戦してみようと思います。テロリストという表現から僕が想像するのは、孤独なオオカミの姿です。でも実際のテロリストはそんなに格好のよい存在ではなさそうです。テロリストといっても様々です。一番最近の記憶に新しい大きなテロ事件といえば、アメリカの同時多発テロですか。アメリカのドメステックの飛行機を乗っ取って、2機の飛行機が貿易センターのツインビルの両方ともに激突して壊滅させました。数年前に僕は現地でツインタワーを見ているので、逆に何かとても現実感のない出来事のように感じました。またもう一つの事件はアメリカの国防の象徴的存在である国防省に飛行機は激突し、かなりな部分が破壊されました。その地下にはアメリカのあらゆる軍事的な高度な命令系統が配置されているアメリカの軍事的な中枢とも言える建物です。これはブッシュ大統領の中東政策の失策が招いた、弱き者が強大な力を持っている国に対して実施し得る唯一の攻撃方法です。その意味ではテロを計画した側にとっては大成功の攻撃であったと思われます。ブッシュ大統領の政権がいかに対外的にも国内的にも失策をしているかの証明でもありましょう。いまだにイラク情勢は混迷の度を増していますし、アメリカ兵の死者の数もかなりなものになっています。結局ブッシュ大統領には政治的手腕がなかったと言えるでしょう。また彼の側近たちについても言えることでしょう。ブッシュ大統領はあのテロ事件があった時、犯人たちに対して、怒りの声を荒らげました。しかし、アメリカほど、テロ、それも大統領がテロリストに殺される国も珍しいのです。リンカーン大統領以来、一体何人の大統領がテロリストの前に倒れたことでしょうか。みなさんはケネディ大統領のことがすぐに頭に浮かぶと思うのですが、その前にもたくさんの大統領が暗殺されたり、未遂に終わったりしています。こう考えてみると、テロリズムには二通りあって、無差別テロ、今回の貿易センタービルが象徴的です。視点を変えれば、ある意味では、アメリカの犯した、第二次世界大戦の、B-29戦闘機から落とされた数えきれない爆弾も非戦闘員を狙った点で同じようなテロリズムとも言えるでしょう。その最も大きなテロ行為は何と言っても広島、長崎に落とされた原子爆弾でしょう。アメリカも戦争中とはいえ、無差別テロを実行した国です。こうは言えないでしょうか? 無差別テロとは人間の数をどれだけ多く奪うか、という点に的が絞られており、政治的な指導者を狙ったテロは、政治とは結局は人間の個性的な要素抜きには語れない要素があり、いくら政策や政治システムを改善しても、悪い政治が治らないのは、指導者の最後の決断の仕方に左右されるからです。だからこそ、特に個人を狙ったテロはなくならないのです。ある意味で現在の中東とアメリカは戦闘状態にあり、戦時です。だからこそ、悲しいですが、日本が被ったような無差別テロも起こり得るのであり、平時には起こりにくい現象です。しかし、個人を狙ったテロリズムは平時にも起こり得ます。その裏にはある個別の政策によって、経済的打撃を被ることになるような、意外に私たちには普通に見える経済団体や政治団体などが絡んでいる場合が多いような気がします。テロリズムは卑劣な手段ですが、悪政がある個人の権力のあるがままに行なわれているような場合、ある種避け難い解決策だと考える人々がいるのは否定し切れません。ですから、テロリズムは今後も忘れた頃に起こり得る政治的行動だろうと僕は思っています。誤解しないでくださいね。僕はテロリズムを肯定しているのではないですよ。

〇推薦図書「リチャード三世」シェイクスピア著。新潮文庫。テロリズムについて書きましたが、元来人間にはこうした暗い一面が内面化されているような気がします。シェイクスピアはこういう人間の恐ろしいような深淵に入り込んでいく作風を持つ天才劇作家です。こんなことは常識でしょうが、この作品は人間の心の深淵をよくえぐり出してくれています。名作です。

自殺しようとする若者たちへ

2006-11-27 00:12:19 | Weblog
僕は47歳のとき、永年勤めた教師という職業を奪われ、離婚し、そのために家を失い、絶望の果てに自殺未遂を二度繰り返して生還した人間だから、偉そうなことは言えないが、特に若い人、それも中学生や高校生が自殺するのはいかにも痛ましいと感じるのである。誰もがそう思っているだろうが、自分のその時代を振り返ってみると強気の時代だった。貧乏だったし、特技といえば喧嘩に強かったことくらいで、勉強といってもたいしたことはなかった。いっときだけは秀才と言われて有頂天になった時期があるが、それもほんものではなかったから、大学受験も以前書いた理由で、一年を棒に振ったし、東京の秋葉原でも電気屋の小僧として働いても半年しかもたなかった中途半端な人間だ。大学も中途半端な大学にしかその結果入れなかった。最近の学校は小学校では学級崩壊が実質的に起こっているし、中学でも内申書が物を言うから教師が最後にはこれを武器にして生徒を黙らせるような時代だ。高校に入っても中途退学が多いのは、学問がもう古びていておもしろくないからだ。それを一生懸命勉強しても、その古びた学問の結果で大学の合否が決まるのだから、いくら一流大に入ってもやはりおもしろくはないだろう。こんなおもしろくない流れの中にも適応できる若者もいるから、何とかもっているような学校制度ではないか。たとえば、僕は英語教師を23年間やってきたが、中学で習う英語が、高校に入ってまた同じことを習うハメになっている。見る目のある学生は、英語がおもしろくない、と思っているはずだ。高校に入っても中学で習ったことに少しだけおまけがついてくるようなものだ。体裁は整えなければならないから、英文自体は少しは複雑になって、それだからこそ余計に薄っぺらな内容で、おもしろくもない読み物が多い。だから、外国語に興味のある学生は語学学校へ通っているし、大学にさえ通ればよい、と思っている学生は予備校へ行ってより複雑なパズルのような英語を解読している。こんな時代だ。つまらないのは分かりきっている。いじめが起こる背景には、学校制度が古びているつまらなさと、硬直化した内申書制度の教師による脅しと、大学教育を受けて、いったい何になるの? という深い疑問が若者を苛立たせているからではないだろうか。政府単独で教育基本法の改革法案が可決されて、よい教育が生み出されるはずがない。政府の自己満足に過ぎないから、本質的に同じ問題を引きずることになるはずだ。いじめで命を落とす生徒や学生は、可哀相だ、という論調のマスコミがあり、学校においてはいじめの実体があったかどうか、という調査をやることに意味はなくはないが、それよりも、いじめによって命を落とした生徒や学生は、現代の教育制度に於ける戦死者であるという事実にもっと目を向けるべきだ。マスコミの報道が戦死者を増やすのは、当然だ。マスコミとはもともとそういう存在なのだ。戦死するであろう若者が、同じ境遇にあって命を絶った仲間を知って、自分も同じ境遇にあることを強く悟るのは当然なのである。視野を拡げて考えれば、ある意味でいじめた側の生徒や学生といじめられた側の生徒や学生との精神的な距離感はそれほど遠くはないのである。だから、いじめた側の生徒や学生も人生のどこかで、ひどい目に遇うのは目に見えている。そのことが政府やマスコミでは報じられない。制度疲労を起こしている学校教育の中で、生徒、学生たちは聞こえない悲鳴を上げているのではないか。そのことに気づかない教育改革は、戦死者を減らすことはできないだろう、と僕は思う。若者よ、大人にだまされるな! 特に偉いと言われている人々には。

〇推薦図書「贈る言葉」柴田 翔著。新潮文庫。人間は夢を描いて生きているつもりが、人生の半ばくらいで、倦怠と惰性を見いだすような存在です。そこを突き抜けるのです。生き抜くためには。いじめられて命を捨てなくても、何とか踏ん張らないと生きていけそうにない時期がどうせやって来るのです。だからこそいま、踏ん張るのです。昔から人生って、青春の生が崩壊した後の勝負どころがつらくもあり、おもしろくもあるのです。

癌という病気の曖昧さ

2006-11-26 23:36:47 | Weblog
新聞を読んだり、テレビの報道を観たりしていると時折、矛盾だなあ、と感じることがある。結局は癌なんていう現代病(たぶん昔からあったのだ。定年が50歳か55歳の時代の日本人はたぶん知らないうちに癌に侵されて死んでいったのだ。だからこそ、定年は50代でよかったのである。定年後はそれほど長生きしないのであったから)は、進歩した医学のメスの素材であって、癌細胞が何をもって現れてくるのか、という真実は本当のところは分かっていない。だから早期発見、早期治療などと言っては、メスで患部を切り取ってしまう原始的とも言える治療法方?がとられているのであろうか。癌は遺伝的な要素もあるとも言われ、またそうではないとも言われている。そういえば、僕の親父は肝臓癌で逝った。またお袋の親類の方は5人のうち、2人が胃癌で逝った。そういう意味では遺伝性があるのであれば、僕は癌で死ぬ確率が高い。まあ、一昔前は癌は過大に死病として、怖がられていたし、昔の人はよく知っているが、「愛と死を見つめて」というテレビドラマは大ヒットした。最近リメイクされて放映されたから若い人たちもこの映画のストーリーは知っている人も多いだろう。だが、リメイク版を観て昔ほど悲壮な感じはなくなったように思った。あまり涙も出なかった。それほど、癌は身近な病気になってしまった。痛みをとる治療法も進んできたから以前ほど、ともかくどうあっても切り取れ、というような感じではなくなったのかも知れない。そういえば、教師時代、僕が三十代の時には社会科の教師が食道癌で亡くなった。四十代の前半には美術の教師が直腸癌で亡くなった。お二人とも好きな個性の持ち主で、学校が大嫌いな人たちであった。授業が終わるとさっさと車に乗って帰宅するというタイプの人々だった。しかし、お二人とも自分の病気を悟った時、何故か学校という職場にこだわってしんどいはずなのに出勤してきた。特に社会科の先生の場合は、パンも小さく、小さく千切って喉に詰め込んで昼食をとって、授業中は真っ白な顔で、同僚に入院を強く勧められるまで、授業を続けた。生徒も何か恐ろしげなものを感じてしーんとした授業風景だったのを思い出す。人間は死ぬ間際に、何かいつもと変わらない日常性を感じとって、心の平安を見いだすのかも知れないなあ、とその時実感した。だから、ひょっとして僕が癌に侵されて死を真近に感じたら、真っ白い顔でクライアントのお話を聞いてメモをとっているやも知れません。心臓麻痺やクモ膜下出血や脳溢血みたいな病気は何となくはっきりとした死をイメージ出来るのですが、癌は転移というものもあって、助かるか助からぬかも知れぬ何となく曖昧な病気です。僕は何かはっきりとした病気で死にたいような気が、これを書きながらしてきました。

〇「推薦文書」「がんほどつき合いやすい病気はない」近藤 誠著。講談社十α文庫。解説には間違った治療法が、癌の恐怖と苦痛の原因になっている。早まった手術や坑癌剤の投与が患者を苦しめている。と書かれています。この人は放射線科の名医ですが、慶応病院では助手か講師のままに出世の道を閉ざされている人です。これと数編の属編を書いたために。多くの医者を敵にまわしたものです。しんどいでしょうね。

クリント・イーストウッドの挑戦

2006-11-26 00:28:35 | Weblog
クリント・イーストウッドと聞けば、僕たちの世代は子どもの頃のテレビドラマ、ローハイドの伊達男か、ハリウッドでパッとしないときに、イタリア映画界が創って、流行った西部劇もの、だから、マカロニウェスタンと呼ばれた。例えば、復讐の鬼と化した主人公のガンマンが、バタバタと何十人もの悪漢たちを非情な表情で撃ち殺していくような映画だ。そして何よりも記憶に新しいのが、マカロニウェスタンで成功して、ハリウッドに呼びもどされて、クリント・イーストウッドは「ダーティ・ハリー」という刑事になって大型の銃で次々に犯人を撃ち殺してしまい、上司の怒りに触れるという、警察組織から常に逸脱していくような人物として、シリーズ化される。これで彼は押しも押されぬハリウッドスターに返り咲いたのである。その後も渋みのある演技をこなせる僕の大好きなスターであり続けた。そして、彼は、監督として映画を撮り始めたのである。その中でもいま最も僕が注目しているのが、太平洋戦争末期のアメリカ軍と日本軍の硫黄島の壮絶な戦闘をテーマにした作品である。これまでどれだけ多くの戦争映画が各国で創られたことだろう? 僕の記憶の底に眠っているアメリカが創った戦争映画の中で、最も興味を惹かれたのが「トラトラトラ」であった。日本の真珠湾攻撃の模様を中心にアメリカ側から見た太平洋戦争の映画だった。もう亡くなった三船敏郎が外国映画に初めて登場したのが、この映画ではなかったかと思う。たしか真珠湾攻撃とは、日本の暗号解読に成功していたアメリカ軍が、日本の攻撃を先につかんでいて、アメリカ国民の士気を高めるために日本にわざとやらせた攻撃であったという想定だったと覚えている。さて、今回のクリント・イーストウッドの試みはかつてない、戦争の無意味性をアメリカ側から見た硫黄島の闘い、同時に日本側から見た硫黄島の闘いを二作品として創り上げた。ここで日本軍は壊滅するが、アメリカ兵も1万数千人が戦死し、硫黄島にアメリカ国旗を数人のアメリカ兵が立てる。この戦闘が終わった時、彼らは英雄として迎えられるが、その後の彼らの生きざまにまでこの映画は及んで追求しているそうだ。(僕はまだ実際にこの映画を観ずに書いているので間違いがあるかも知れないが、クリント・イーストウッドがこの映画監督としてのインタビューを受けて答えていたことからおしはかって書いているのである)このような日米両面から見た戦争映画はかつてなかったのは確かである。そして、監督であるクリント・イーストウッド自身が、人間にとって、戦争の無意味性をこの映画で表現したかったのだ、という言葉は僕には新鮮でかつ重かった。戦後60年、忘れかけている世界戦争が、このように復刻されるように芸術的に創られることの意味は大きい、と僕は思う。戦後60年、世界中で戦争が途切れたことはなかった。この意味を改めて実感するのである。日本政府の高官が日本も核武装すべきである、と平然と言える時代性をいま迎えている。お隣の北朝鮮のキム・ジョンイル総書記は核実験を実際にやって見せたし、テポドンというミサイルを日本海に数本打ち込んだ。こんな時代である。日本が自主防衛のためには先取攻撃も致し方ない、という政治家が出てきてもおかしくはない時代である。一方で日本が核爆弾を落とされた世界唯一の国である、という事実を忘れかけている。こんな時、クリント・イーストウッドの映画監督としての力量が試されているのだ。どうかこの映画がたくさんの人々に鑑賞されますように、と僕は心の中で祈るばかりである。

〇「推薦図書」「黒い雨」井伏鱒ニ著。新潮文庫。原爆の犠牲になった人々を主人公にしたこの作品が、単に抗議のための作品に終わらず普遍的な意味をもっているのは井伏の筆致の凄さです。最近はこの手の作品が読まれなくなっているのではないでしょうか? ぜひお勧めしたい作品です。

親父のことを思い出した。そして悲しくなった

2006-11-25 21:09:31 | Weblog
親父は生来の遊び人だったが、晩年は僕より2つ歳下の女性と一緒に清掃の仕事を請け負う仕事をしていたようである。ギリギリ食べていける生活のようだった。僕が学校に就職した当初はその会社(とも言えない請け負い仕事だったが)を立ち上げたばかりの時だった。僕は学生時代に、京都の修学院というところの安アパートに住んでいたが、就職後も同じアパートにしばらくいたのである。ある日曜日の昼頃に、どうして調べたのか分からないが、親父とその女房が一緒に僕のアパートにやって来た。金の無心であった。僕が学校という職場に勤めたので、そこからお金を借りてくれないか、ということだった。僕は出来ることなら、そうしてやりたかったが、勤めて数カ月の頃でもあったので、学校からお金を借りるという資格がまだなかったのである。そういうふうに説明をしたら、親父は見るからにがっかりした様子で、何だか見ていて可哀相な気がした。何とかしたやりたかったが、その頃の僕にはそんな力はなかったのである。親父はとても気まずそうな様子で帰って行った。その後ろ姿がいまだに忘れられない。親父も40歳の後半期に行き着くところまで行き着いてしまったのだろう。もう自分の立っているところ以外に人生の選択肢はなかったのであろう。その意味で僕と親父は似た者どうしである。僕も結局は追い詰められていまこうして生きているのである。生涯の仕事だろうと思っていた教師生活も予想だにしなかった結末で終わったし、家庭崩壊も予想もしなかったほど惨めで、悲しい終末の仕方であった。いまはどうかというと、金の無心に来た当時の親父さながらの、人生のやり切れなさを抱えて生きている。どうにもこうにも動きがとれないのである。もうこれ以上の発展は望めそうにないのである。たぶん親父が絶望したように、僕もいま絶望しているのである。カウンセラーが嫌なのではない。ただ追い詰められた気分が受け入れ難いのである。もう後がない、という結末(たぶん僕の人生の結末であろう)が、僕を苦しめるのである。だからこそ、僕は唐突にあがいてみたくなるのであり、自分の人生をひっくり返したくなる誘惑に駆られるのである。もう可能性というものは残されていないのが見てとれるのだ。これほど嫌な気分はない。たぶん、人間は僕のように追い詰められた時、自殺を考える人が多いと思うのだが、僕はそこだけは抗ってみようとは努力しているのだ。ただ長生きはしたくない。親父は58歳で癌で逝ったが、後5年も生きれば十分である。あるいはもっと短くてもよい。ただ苦痛には弱い質なので、徐々に苦しみながらの死は避けれるものなら避けたい、と心底思う。さて、ずいぶん昔の話にもどる。淡路島から神戸に斜陽で逃げてきたころ、神戸の地区のアパートで、いまは絶縁した叔母が、睡眠薬がたっぷり入った風邪用の水薬の瓶を、ミシンの後ろに隠しているのを知っていた僕は、その瓶を一気に飲み干した。大人で1週間分の量だ。甘くて美味しかった。3日ほど眠り続けていたと後から聞いた。生き死にの境であったという。生還した。が、生きるのがつらいと小学生になる前に、意識をとりもどす直前に思った。あの覚醒する瞬間の気分の悪さはいまでも明確に覚えている。死にかけた話はたくさん書いたが、この話が生死を彷徨った最初の経験だ。甘くて美味しかったあの気分のまま、逝っていたらなあとつくづく思う。生き残ってしまった人間はどうもうまく死ねないらしい。クライアントのみなさん、これを読んでくださっているみなさん、僕は親父と同じようにギリギリのところで息をしているに過ぎないのです。だから生きている間だけは出来る限りクライアントのみなさんの生きるお手伝いをします。これを読んでくださっているみなさんのために、一生懸命に書きます。ぜいぜい息を切らしながらですけれど。

〇推薦図書「いやな感じ」高見 順著。文春文庫。僕のような小さな世界の物語ではなく、生き残ってしまったテロリストの壮絶な闘いを通して昭和初期の時代性を描いている名作です。読みごたえがありますよ。

浅尾美和とビーチバレー(ひと息いれましょう!)

2006-11-24 12:01:38 | Weblog
一見すると、砂浜の遊びのように映るビーチバレーが、いかに過酷なスポーツであるか、ということが理解できたのは、浅尾美和選手(19歳)の過酷な環境の中でくり拡げられる華麗なプレーである。北京オリンピックへの出場を視野に入れて彼女は美しく、そして強靱な肉体をつくりあげようとしている。彼女のなにがいいかというと、スポーツはなりふり構わずというところがあるが、彼女は常に観客が喜びを感じるように、ひとつひとつの動作に観客を引きつけるものを意識しながら、かつスポーツである限りは、勝たなければならないから、その二つの要素を流麗な姿で表現しきるすばらしい選手であるところだ。彼女が素敵なのは、自分が他者を引きつける魅力があることを十分に意識しながら、プレー出来るところが、厭味には見えず、むしろ溌剌とした、セクシャルな動きとなって、砂浜の上を飛翔するところである。浅野美和という魅力に満ち溢れた選手の汗が、観客の声援を受ける大切な要素である。いま、僕の心の中に大きな存在として在るのは、女子バレーボールの大山加奈の不敵なほどの強力なバックアタックの復活と彼女の爽やかな笑顔、最近知った浅野美和の華麗で大胆でかつセクシャルなプレーの、華やかな活躍である。そういえば、浅野美和の目元はスマップの木村拓哉のそれの女性版だから美人でないのが不思議であるし、これから彼女はますますそのプレーと華麗さに磨きをかけていくことであろう。

孤独な探究者

2006-11-24 02:52:45 | Weblog
灰谷健次郎氏が逝った。また昭和の一つの象徴的存在が世界から姿を消した。残念であるという気持ちは大きい。しかし、正直に告白すると僕は彼の良き読者ではなかった。僕が読んだのは今日の朝日新聞に代表作として報じられている「兎の眼」と「太陽の子」がせいぜいである。それ以上の読者ではなかった。何故かと言うと、「僕自身の現代」と「彼の現代」という観点から見ると、灰谷氏はあまりに時代性という存在を無視したかのように思えたからであった。確かに彼の書いている人間の教育に対する姿勢には感服する要素は多い。が、僕自身も教師であった経験もあり、ある意味においては灰谷氏が17年間の小学校教師の経験を持っていたとするなら、僕には中学と高校の教師経験が23年間あったわけであり、灰谷氏が描く時代性が、僕の教師としての時代性にそぐわないところが多々見えたからである。灰谷氏よ、あなたのおっしゃることは、まことにそうだろう、が、しかし、今の現実の中であなたの書いていることがどこまで通用することでしょうか、というのが僕の感慨であった。だから、僕は灰谷氏の著作をやや遠くに置いていた、と思う。
灰谷氏は、よい教師であったことであろうし、これには疑いを差し挟まない。それは彼の筆致の強さと鋭さによって証明されている。だから、彼の同僚に会って本当はどんな教師だったのか、というような愚行は必要ないのである。彼の書き手としての力が、十分に教育に対する彼なりの愚直なまでの姿勢を現しているではないか。それで十分なのである。
彼は淡路島で農業を、沖縄の離島で漁師をして、一体何を体得したのであろうか。僕にはこれが疑問なのである。確かに一個の人間の生きざまとしては、興味ある行動力であるし、普通はこんな生活に入れ込むことはなかなか出来はしない。彼は孤独の中で何を考え、何を想い、何を表現しようとしていたのだろうか。彼自身の行動そのものが、灰谷氏という人間の最後の表現の証であるのだろうか。
現代はまさに教育というものの実質的な崩壊の時期なのか、あるいは再生の時期なのかが、全く見えない世の中である。これだけ教育というものの評価が下がった時代はなかったのではないだろうか。灰谷氏には、教育というものの存在意義がなくなりつつある時代が視えていたはずである。農業に携わっている間も、漁師になっている間もずっと彼には、教育の崩壊過程が視えていなかったはずはない。
灰谷氏は現代という時代に絶望していたのではないだろうか、と僕は推測している。だからこそ、彼は農業に従事し、漁師になり、自然の中に立ち戻ることによって、孤独な思索を続けていたのではないだろうか。彼が全く世界から身を引いたとは言っていない。彼なりの活動や創作活動はずっと休むことなく続いていたであろうとは思う。講演会も何度もこなしたことだろう。しかし、彼が本当に思い描いていたことは、僕の推測に過ぎないが、ソローが「森の生活」を書いたように、静かに自然と対峙して思索するという行動に、彼の活動の重点を移したのではないかと思う。灰谷氏の時代性は現代に合わないと僕は前記した。が、こうも思っている。灰谷健次郎という愚直なまでの思想性がいま、求められているのも事実ではないか、と。灰谷健次郎氏よ、あなたの存在は意義ある生であったと僕は、いま、思っている。灰谷氏の冥福を祈る。

〇「推薦図書」「森の生活」ヘンリー・D・ソロー著。講談社学術文庫。あえて、僕の推察する、ソローとの共通性に注目して、この本を推薦しました。灰谷氏は日本のソローとも言える表現者ではなかったでしょうか。

ポジティブに絶望するために

2006-11-24 01:57:15 | Weblog
現代社会において、絶望という言葉は、希望の反意語ではなくなった、と僕は思っている。絶望の淵から立ち上がる人間の姿が美しい、と思えるようになったからである。自分のことを言っているのではない。世の中にはこのようにして立ち上がっている人々がたくさんいる、ということがよく分かるようになったからである。
巨人軍の桑田真澄投手が、彼ゆえの巧守備のために痛めた肘の手術のために、明らかに勝てない投手になった。二軍での調整期間も長くなった。彼のエースナンバーの18番が、巧みな投球術によって、バッターを次々に空振りさせていく記憶がだんだんと薄れるようになった、いま、桑田は21年間の巨人軍を自ら去り、何と、アメリカの大リーガーになろうとしている。並の精神力しか持っていない選手なら、ここで引退、ということになるであろう。桑田もそうであっても少しも不思議ではない。桑田は選手生命まで危ぶまれるところまでいっていたはずだから。
桑田は間違いなく勝てない投手になってしまったことに絶望していたに違いない。引退ということすら、彼は考えただろう。しかし、桑田は絶望したままではなかった。桑田は絶望から単にはい上がろうとしたのではない。絶望をポジティブに反転させて野球人生、いや、彼の哲学を創造しようと考えたのである。ポジティブな絶望者、桑田投手は、いまや、その絶望ゆえに獲得した頭脳的ピッチングに確信を抱いているはずである。だからこそ、国内のチームなどに目もくれず、大リーグに焦点を当てて敢えて困難な挑戦をしようとしているのである。
僕たちは絶望すると、もう立ち上がれなくなってしまう、とつい最近まで思っていたはずだ。だからこそ日本は自殺大国なのである。しかし、もう少しだけ突き詰めて考えてみると、絶望こそは、自己の限界性への挑戦の入り口でもあるのではないだろうか。この真実を意識化せに、自己の限界性を超えた人たちは数多いと思う。が、この限界性を意識化することと、しないこととの間にはたいへんな距離が横たわっている。当然意識化することの方が言葉に出来ない程に値打ちがある。それは限界を超えるだけではなく、限界を超えてなお新たな可能性を自分の裡に芽生えさせることでもあるからだ。
だから桑田投手はどんな方法でチャレンジするかは分からないが、大リーガー選手としてある程度の成績は残すと確信する。彼は巨人軍を辞める時、自分の野球は心の野球だ、と言い放った。そういう桑田投手だからこそ、彼の投球にはなにがしか、神秘性を感じるのである。ポジティブに絶望することは人生の楽しみであって、試練ではない。
ポジティブに絶望することは、人生に新たな意義と可能性を与えてくれる大切な要素なのである。絶望だけしている暇は僕たちにはないのである。その絶望感をより高みへと押し上げていく気力を自分のために創造しなければならないのではないだろうか。人生は決して平坦には終わりはしない。平凡な言い方だが山もあれば谷もあるのである。そして、それは一度乗り切れば終わりというものでもなさそうなのだ。そうであるなら、僕たちは、この絶望感というものをポジティブに自分の人生に挑戦すべく変質させようではありませんか。桑田投手の、一見して平静な顔の裏に秘めた飛躍するはずの、僕たちにとっての模範になるはずの、彼の生き方に注目してゆこうではありませんか。ああ、何だか僕ですら、いまの絶望感をポジティブに変えていこうか、という気分になりつつあるのです。

〇推薦図書「そしてみんな軽くなった」トム・ウルフ著。ちくま文庫。ニュージャーナリズムの鬼才、トム・ウルフが1970年代を軽妙に描いて見せます。こんな本も時には、単なるセンチメンタルに過去を思い出すだけでなく、ようし、元気になってやるぞーという気分にさせてくれます。気楽に読んでください。

人生に躓いたときに

2006-11-23 23:14:11 | Weblog
昔の人はよく言ったものだ。人生山あり谷あり、なのである。人々は必ずその人なりの山や谷を体験する。それが生きる、という意味だと言ってもよい。時折谷が深過ぎて自らの命さえ奪ってしまうことだってある。そこからなんとか立ち上がってくる人たちもいる。どこがどう違っているのかは分からないが、自死した人たちが単に弱かった、とも一概には言えない。運の問題もある。僕だってもう生きてられなくて、首を2回吊ったが、特に2回目では完全にうまくいくはずだった。それが安物のネクタイを2つ括って首に巻いたが、安物故の悲しさか、僕の体重を支えきれなかった。ネクタイは見事にブチッという音を立てて切れた。僕は畳の上にお尻からドスンと落ちた。生還である。それ以来、もう生きていたくない、という経験をたくさん重ねたが、まだ生きている。いまだって時折、自分の理性がブチギレそうなときもある。しかし、結果的には生きている。僕はまだ谷の底にいるようだが、そのうち、山の頂上に上がることもあるのかも知れない。たぶん死ぬ間際だろう。そういえば、小学校、中学校、高等学校、大学、就職、という時期に、いろいろあった。詳しくはプロフィールに書いてあるので再度書かないが、右往左往の人生だった。いま50歳を越えて、弱気になり、細かいことが気になるようになったのだろう。うじうじした毎日を過ごしている。若い強気の頃は明日のことがどうなるか分からぬ時だって、何とかなると思えたが、いまは、その反対である。だんだん悪くなっていくのではないか、という気分に支配されている。僕の人生は小学生の頃には自転車に乗っていて、後ろを見ずにUターンしようとしてタクシーにはねられた。僕はポーンと飛ばされて、そのままお尻から道路に尻もちをついた。普通なら大腿部骨折というところだが、大きな馬糞の上にビチャリと尻もちをついた。当時の神戸には材木を運ぶ馬が道路を自動車と一緒にたまに走っていたのである。そのたまたまの馬糞に救われた。淡路島では従兄弟と海水浴に行って泳ぎが何とかマスター出来た時に、沖につくられた木製の飛び込み台まで泳いでみようという無謀な考えに取りつかれて、途中で溺れかけた。黙っていれば、確実に僕は水死していたはずであった。が、その時あろうことか、僕は大声を出して、助けて!と叫んでいた。若いお兄ちゃんがたまたま側を泳いでいたのか、僕を助け上げてくれた。中学生の頃は無事な時期だったが、苦い失恋を2度味わった。そんなことでは死ねなかった。でも、好きになった女性に振られるという連鎖はこの頃から始まったような気もする。高校生になった時、学生運動にのめり込んだ。逃げるのがうまかったから、機動隊には直接殴られることもなかったが、セクトを離れる時、仲間の大学生たちから、「総括」と称して、殴る蹴るの暴行を受けた。死ぬかと思ったが、たぶん肋骨にヒビが入った程度で何とか生きていた。前に「中核と革マル」という立花 隆氏の本を紹介したが、あのままセクトに停まっていたら、それこそ生き死にの問題に巻き込まれていただろう。大学は毎日が授業料を稼ぐのに必死だった。誰も金銭的援助はしてくれなかったからであり、それを承知で半年の社会人生活から大学生という生活に戻ったからだ。授業料を稼ぐために大学に通えず、大学に通うと授業料が払えないという自己撞着に陥っていた時代だ。しかし、本だけは腐るほど読んだ。教師として就職し、結婚してからの23年間は退屈感に苦しんだ。家庭人を装っていたが、心の中は退屈でいつもムズムズしていた。結局23年目でキレた。ずっと理事会には労働運動で目をつけられ、管理職からは嫌われ、同期の数学教師とは特に不仲であり、彼が日本共産党員のくせに理事会にオベッカを使って教頭になって、ますます学校が嫌になった。(だからよけいに日本共産党が大嫌いなのです。まともな党員の方々、すみません)学校改革の時期に僕は単独で短期の留学を生徒にさせる目的で、旅行社数社と懇意になる努力をして、自腹を切ってカナダ・アメリカ・イギリスの、外国人を受け入れる施設と実際の授業を見学して回った。その成果を紀要にも報告した。が、これが悪用された。僕が旅行社と金銭的に癒着しているという嫌疑がかかった。校長・教頭は僕を失墜させるための努力をした。英語の教師だったが、一緒に立ち上げたはずのプロジェクトチームの仲間(だと思っていた)若い教師があること、ないことをわざわざ管理職に報告に言った。自分が助かりたかったからだろう。若い人の中にも情けない人間がいるのである。そうして僕は懲罰委員会というものにかけられることになった。そのメンバーたるや、かつて組合役員をしている時の理事会のメンバーばかりで構成された委員会だった。懲戒免職は免れなかった。だから僕は自分から学校を去ることにした。依願退職というやつだ。退職金を得るためだった。6月20日が僕の退職日になった。その日が給料日であり、その日から給料は止まった。教師には失業保険という制度が適用されないので、僕は給料が止まった時点で丸裸同然になった。妻とは10年ほど前からうまくいってなかったので、すぐにほころびが出た。離婚騒ぎがあり、ローンの残っていた家を売却し、その金を子どもたちのために、と思って、悪妻にすべて持たせてやった。僕は本当に丸裸になった。その時が自殺を実行し、失敗した時だった。どうやら、同情もあってか、当時の同僚の15歳歳下の社会科の教師が僕を拾ってくれた。僕たちは結婚し、彼女も学校を辞めて、僕は行き着くところまで来て、いまカウンセラーになった。ギリギリの生活である。将来が明るいとは決して言えないが、いま命だけはある。そしてカウンセラーをしていて、たまに凄い人間に巡り合う。その時だけは生きるエネルギーが少しは湧いてくる。こんなふうに自分の人生をさらっと鳥瞰してみると、出入りの多い人生だと思う。出入りの多い人生を歩んだという痕跡は今の妻と数人のありがたい知人たちが、僕が死んだ後も少しの間は覚えていてくれるであろう。それが個の人生の終わり方というものではなかろうか。いまはそんな気分で何とか生きているのです。

〇推薦図書「賢い血」フラナリー・オコナー著。ちくま文庫。今日は目先を変えて、アメリカ文学史上に特異な輝きを放つ、真摯でグロテスク(という概念は気持ち悪いというだけではなく、例えば僕のような生き方もグロテスクという範疇に入るのです)な生と死のコメディです。どうぞご一読を。