この問題を話題にするためにまずやっておかねばならないこと、それは、個性とは一体何か、という問題である。こういうとき、広辞苑の言葉の定義をまず紹介して、その上で論じるという方法論は、つまらない論文やエッセイの決まり事である。だから、敢えて僕はそんなことはしない。僕自身の解釈であくまで書いていく。個性とは僕の解釈によると、ある人間が持っている言葉の表現力のことなのである。僕はそんなふうに規定したい。表現者の端くれとしては。
いま、この現実の世界の中において、最も困難なことは生の肯定である。何故かと言うと、現実社会は、あまりにつまらなくて、生きるには値しないことが、満ち溢れているからである。これが現実である。ここを無理やり生きることはすばらしい、というふうに全肯定してしまうのは、考えることを放棄するようなものなのである。確かに、現代は生きにくいのである。それが否定し難い事実である。
しかし、だからこそ、この生きにくさの中で生き抜くことの価値を表現者は見い出すべきなのである。これが表現者の仕事である。試作品であろうと、小説であろうと、哲学であろうと、エッセイであろうと、ジャンルはなんでもよい。どのようなジャンルにおいても表現者は、個性を壊さないため、というより、もっと積極的に言うと、個性を生かしきるために、生の意味を語るのである。どんなに苦しくても、生き抜く意義を自分の生を賭けて探し出すのである。これが表現者の義務であり、それに伴う苦悩をも自分で引き受ける、という勇気でもある。
個性を生かすこととは少し矛盾するように聞こえるかも知れないが、換言すれば、それは、個を限りなく逸脱する行為でもある。個を逸脱する行為とは、個の可能性をあらゆる角度から表現するという勇気でもある。ここで目を向けたくない領域に対して目を背けてはならない。大きく瞼を開くのだ。そこに到って初めて個性の芳醇さと可能性と生きる喜びが発見できるのである。個を逸脱する、と書くと単純な人は、生と最も遠く離れた、というか、ある意味で最も行き当たりばったりに想定することのできる死という観念に囚われてしまうのである。死は美しいものでも、憧憬の対象でもない。死とは生の終焉という意味以上の存在ではない。死を売り物にする売文家はエセ者である。また、死を演出する人生など、無意味でもある。そんなものは美しくも何ともない。生があってこその死なのである。死とはあくまで生の従属物に過ぎない。それを強調するのは、逸脱という行為などではなく、単なる逃げの行為である。死のギリギリの淵まで行き着くのは構わないが、死を選んではならない。死とは個の選択の問題ではなく、唐突に向こうからやってくるものであり、それを自ら選び取る必要などないのである。誰もが死を経験することになっている。だからこそ、生はいつも途中経過で終わるのであるが、それでも、生き抜く意味があり、生きている間に思い切り逸脱して、生の可能性をえぐり出すことこそが個性を壊さないこと、いや、個性的であり得ることなのである。と僕は今日考えたのです。いかがですか?
〇「推薦図書」「幸福の無数の断片」中沢新一著。河出文庫。生の豊饒さと中沢氏が書く幸福とは何か? という問いかけと人生の可能性についてのエッセイ集です。よろしければどうぞ。
いま、この現実の世界の中において、最も困難なことは生の肯定である。何故かと言うと、現実社会は、あまりにつまらなくて、生きるには値しないことが、満ち溢れているからである。これが現実である。ここを無理やり生きることはすばらしい、というふうに全肯定してしまうのは、考えることを放棄するようなものなのである。確かに、現代は生きにくいのである。それが否定し難い事実である。
しかし、だからこそ、この生きにくさの中で生き抜くことの価値を表現者は見い出すべきなのである。これが表現者の仕事である。試作品であろうと、小説であろうと、哲学であろうと、エッセイであろうと、ジャンルはなんでもよい。どのようなジャンルにおいても表現者は、個性を壊さないため、というより、もっと積極的に言うと、個性を生かしきるために、生の意味を語るのである。どんなに苦しくても、生き抜く意義を自分の生を賭けて探し出すのである。これが表現者の義務であり、それに伴う苦悩をも自分で引き受ける、という勇気でもある。
個性を生かすこととは少し矛盾するように聞こえるかも知れないが、換言すれば、それは、個を限りなく逸脱する行為でもある。個を逸脱する行為とは、個の可能性をあらゆる角度から表現するという勇気でもある。ここで目を向けたくない領域に対して目を背けてはならない。大きく瞼を開くのだ。そこに到って初めて個性の芳醇さと可能性と生きる喜びが発見できるのである。個を逸脱する、と書くと単純な人は、生と最も遠く離れた、というか、ある意味で最も行き当たりばったりに想定することのできる死という観念に囚われてしまうのである。死は美しいものでも、憧憬の対象でもない。死とは生の終焉という意味以上の存在ではない。死を売り物にする売文家はエセ者である。また、死を演出する人生など、無意味でもある。そんなものは美しくも何ともない。生があってこその死なのである。死とはあくまで生の従属物に過ぎない。それを強調するのは、逸脱という行為などではなく、単なる逃げの行為である。死のギリギリの淵まで行き着くのは構わないが、死を選んではならない。死とは個の選択の問題ではなく、唐突に向こうからやってくるものであり、それを自ら選び取る必要などないのである。誰もが死を経験することになっている。だからこそ、生はいつも途中経過で終わるのであるが、それでも、生き抜く意味があり、生きている間に思い切り逸脱して、生の可能性をえぐり出すことこそが個性を壊さないこと、いや、個性的であり得ることなのである。と僕は今日考えたのです。いかがですか?
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