○随想(8)
自分の過去がどれほど惨めであり、惨めであるがゆえに忘却の彼方に追いやったつもりでいても、人は心のどこかで過去の出来事の中から、事実を無意識下で改ざんし、自己肯定出来る素材だけを抽出し、いま、ここを生きていることにつなぎ止めている。何故なら人生の成功、不成功を問わず、人は自分の<いま>を生き抜くための足場の脆さを感得しているからだ。
磐石な生き方というものはない。もし、自分の生がそのようなものであると思っている人がいるとすれば、それは磐石でありたいという希求か、あるいは幻想の中に身を浸しているだけのことだろう。
このように書くと、たぶん悲観主義的でありすぎるとか、卑屈な人生観だという批判がすぐにも返って来ることと思う。でも、僕は敢えて言う。人生は楽観出来るほどには生きやすくはない。「残り少ない人生」という言い方をよくしてきたが、その真意は、やっとここまでこれたのか、という想いが底にある。無論、よく生き抜いたなどという慰撫からの言葉ではない。ここまで来て、やっと自分の感得した人生観に対して、ある種冷徹で、確信を持った観想を述べてもいい時期が来たのだ、という安堵の気分が強い。足場の危ういことが生きることと同義語だ、と確信を持って言える年齢だ。さて、改めて、敢えて声を大にして言う。人生とは、偶発性が基調であり、生のプロセスの中で折々に決断を強いられるもの。その決断のありようが、一般に人生の成功者とそうでない者を分け隔てている実体ではないのだろうか。
自分のことを書く。僕は生きる力に乏しい人間だ。常に退屈感から自由になれず、日常生活の軌道から逸脱することを心地よし、と感じてきたわけだから。日常性からの逸脱という概念の内実は、僕にとっては、延々と続くかにみえる日常を耐えるだけの胆力が乏しかったということだ。そして、それを合理化するための、たぶんに逃避的な色合いの濃いものに過ぎなかった、と想う。心の奥底には常に、いま、この日常を終わりにしたい、という強烈な欲動が在った。これまでの生き方の中に自滅的・破壊的な要素があったとするなら、それらは平凡な人生の中から意味あるものをつかみとろうとする意思の欠落感ゆえである。
意味あるものなら、それらを拾い集めて構築する。構築したものが、疲弊し、唾棄すべきものに成り下がったら、バラバラに破壊し、棄て去るものを棄てきったあとに、新たな価値を再構築をするというシジフォス的な行為は、僕にとって、あくまで神話的作業であり、「反抗の論理」に行き着くまでに挫折した。その意味で、僕はたぶんアルベール・カミュが最も嫌うカミュ信奉者であり、カミュ思想の衣だけを羽織った中ヌケのアホウということになる。
さて、ここまで自分の生き方の間抜けさを白日のもとに晒したら、あとは負け犬の遠吠えのごとくに吠えるだけである。ただし、もはやオーケストレイティドにではなく、あくまでくぐもった声で、密やかに。今日の観想として書き遺す。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
自分の過去がどれほど惨めであり、惨めであるがゆえに忘却の彼方に追いやったつもりでいても、人は心のどこかで過去の出来事の中から、事実を無意識下で改ざんし、自己肯定出来る素材だけを抽出し、いま、ここを生きていることにつなぎ止めている。何故なら人生の成功、不成功を問わず、人は自分の<いま>を生き抜くための足場の脆さを感得しているからだ。
磐石な生き方というものはない。もし、自分の生がそのようなものであると思っている人がいるとすれば、それは磐石でありたいという希求か、あるいは幻想の中に身を浸しているだけのことだろう。
このように書くと、たぶん悲観主義的でありすぎるとか、卑屈な人生観だという批判がすぐにも返って来ることと思う。でも、僕は敢えて言う。人生は楽観出来るほどには生きやすくはない。「残り少ない人生」という言い方をよくしてきたが、その真意は、やっとここまでこれたのか、という想いが底にある。無論、よく生き抜いたなどという慰撫からの言葉ではない。ここまで来て、やっと自分の感得した人生観に対して、ある種冷徹で、確信を持った観想を述べてもいい時期が来たのだ、という安堵の気分が強い。足場の危ういことが生きることと同義語だ、と確信を持って言える年齢だ。さて、改めて、敢えて声を大にして言う。人生とは、偶発性が基調であり、生のプロセスの中で折々に決断を強いられるもの。その決断のありようが、一般に人生の成功者とそうでない者を分け隔てている実体ではないのだろうか。
自分のことを書く。僕は生きる力に乏しい人間だ。常に退屈感から自由になれず、日常生活の軌道から逸脱することを心地よし、と感じてきたわけだから。日常性からの逸脱という概念の内実は、僕にとっては、延々と続くかにみえる日常を耐えるだけの胆力が乏しかったということだ。そして、それを合理化するための、たぶんに逃避的な色合いの濃いものに過ぎなかった、と想う。心の奥底には常に、いま、この日常を終わりにしたい、という強烈な欲動が在った。これまでの生き方の中に自滅的・破壊的な要素があったとするなら、それらは平凡な人生の中から意味あるものをつかみとろうとする意思の欠落感ゆえである。
意味あるものなら、それらを拾い集めて構築する。構築したものが、疲弊し、唾棄すべきものに成り下がったら、バラバラに破壊し、棄て去るものを棄てきったあとに、新たな価値を再構築をするというシジフォス的な行為は、僕にとって、あくまで神話的作業であり、「反抗の論理」に行き着くまでに挫折した。その意味で、僕はたぶんアルベール・カミュが最も嫌うカミュ信奉者であり、カミュ思想の衣だけを羽織った中ヌケのアホウということになる。
さて、ここまで自分の生き方の間抜けさを白日のもとに晒したら、あとは負け犬の遠吠えのごとくに吠えるだけである。ただし、もはやオーケストレイティドにではなく、あくまでくぐもった声で、密やかに。今日の観想として書き遺す。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃