ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○随想(8)

2013-01-22 10:33:54 | 哲学
○随想(8)

自分の過去がどれほど惨めであり、惨めであるがゆえに忘却の彼方に追いやったつもりでいても、人は心のどこかで過去の出来事の中から、事実を無意識下で改ざんし、自己肯定出来る素材だけを抽出し、いま、ここを生きていることにつなぎ止めている。何故なら人生の成功、不成功を問わず、人は自分の<いま>を生き抜くための足場の脆さを感得しているからだ。

磐石な生き方というものはない。もし、自分の生がそのようなものであると思っている人がいるとすれば、それは磐石でありたいという希求か、あるいは幻想の中に身を浸しているだけのことだろう。

このように書くと、たぶん悲観主義的でありすぎるとか、卑屈な人生観だという批判がすぐにも返って来ることと思う。でも、僕は敢えて言う。人生は楽観出来るほどには生きやすくはない。「残り少ない人生」という言い方をよくしてきたが、その真意は、やっとここまでこれたのか、という想いが底にある。無論、よく生き抜いたなどという慰撫からの言葉ではない。ここまで来て、やっと自分の感得した人生観に対して、ある種冷徹で、確信を持った観想を述べてもいい時期が来たのだ、という安堵の気分が強い。足場の危ういことが生きることと同義語だ、と確信を持って言える年齢だ。さて、改めて、敢えて声を大にして言う。人生とは、偶発性が基調であり、生のプロセスの中で折々に決断を強いられるもの。その決断のありようが、一般に人生の成功者とそうでない者を分け隔てている実体ではないのだろうか。

自分のことを書く。僕は生きる力に乏しい人間だ。常に退屈感から自由になれず、日常生活の軌道から逸脱することを心地よし、と感じてきたわけだから。日常性からの逸脱という概念の内実は、僕にとっては、延々と続くかにみえる日常を耐えるだけの胆力が乏しかったということだ。そして、それを合理化するための、たぶんに逃避的な色合いの濃いものに過ぎなかった、と想う。心の奥底には常に、いま、この日常を終わりにしたい、という強烈な欲動が在った。これまでの生き方の中に自滅的・破壊的な要素があったとするなら、それらは平凡な人生の中から意味あるものをつかみとろうとする意思の欠落感ゆえである。

意味あるものなら、それらを拾い集めて構築する。構築したものが、疲弊し、唾棄すべきものに成り下がったら、バラバラに破壊し、棄て去るものを棄てきったあとに、新たな価値を再構築をするというシジフォス的な行為は、僕にとって、あくまで神話的作業であり、「反抗の論理」に行き着くまでに挫折した。その意味で、僕はたぶんアルベール・カミュが最も嫌うカミュ信奉者であり、カミュ思想の衣だけを羽織った中ヌケのアホウということになる。

さて、ここまで自分の生き方の間抜けさを白日のもとに晒したら、あとは負け犬の遠吠えのごとくに吠えるだけである。ただし、もはやオーケストレイティドにではなく、あくまでくぐもった声で、密やかに。今日の観想として書き遺す。

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長野安晃

○取り替え可能。これが人生だ。だからこそ・・・

2012-11-20 09:32:16 | 哲学
○取り替え可能。これが人生だ。だからこそ・・・

人は他者からの正当な評価を求めて止まない。また、それなしに如何なるポジティブな内的動機が立ち現れるはずもない。自分という一個の人間が、帰属する組織に対して果たし得る役割。それを果たし得た後に味わう充足感。何らかの原因で、他者との関わりを自ら放棄しない限り、人は他者の集合体としての組織に対する帰属意識( a sense of belonging)に忠実であることを歓びとするものだ。そうでなければ、組織のための自己犠牲的な如何なる行為も、そもそも起こり得ないだろう。

しかし、人の心の中に帰属意識が内在しているとしても、僕たちが深く認識しておくべきことがある。それは、人は組織に忠実な余りに、時として内心の声を否定してしまうこともある、ということだ。如何に正当で、意義ある場合でも。

なぜ、こういうことが起こるのだろうか?人が、たとえば良心という内心の声に反して、人間としてなすべからざる行為すら組織的利益のために行うのはなぜなのか?明瞭な犯罪行為でなくても、この種の反社会的行為が特定組織の利益のために、しばしば正当化されるのはなぜなのか?金とそれにまつわる権力ゆえか?無論、表層的にはそうだろう。僕には、しばしばこの種の誤謬を犯してしまうことの内的な問題について書く意味はあるだろう、と思えるのである。

個人的な怨蹉は別にして、人が意図的な組織犯罪に走るのは、帰属している組織にとって、自分という存在がなくてはならぬという、深い想い入れ、もしくは自己存在の絶対性があたかも当然のごとくに在ると錯誤するゆえだろう。人はここを揺さぶられると明らかな弱体を晒すハメになる。自己が取り替え不能である、という認識は、確かに不確かな己れの、この世界における存在に理由を与える重要なファクターではある。しかし、この次元でなされる自己犠牲的な行為は、たとえ犯罪的でもなく、むしろ善性に基づいた行為であっても、それ自体に当人が感じているほどの価値はそもそもない。厳しいのかも知れないが、これは、自己正当化の変質した姿に過ぎない、と僕は思うのである。この種の自己の絶対化がもたらす不幸は、自分が関わった某かの渦中にいる間はよいにしても、渦中を通り過ぎたときの他者からの評価が良くても悪くても、人は何かを取り遺したような不全感を抱く。もしも、最悪の場合、挫折の中でもがくことにでもなったら、自己への絶対的存在理由など脆くも瓦解するのがオチである。幻像としての自己絶対化が招く不幸とは、惨めな己れの末路でしかない。

さて、僕たちがしたたかにこの世界に居座ることの出来る唯一の気づきとは、言葉の定義づけとは裏腹に、自分の存在が常に取り替え可能なそれだ、と識ることである。そうであれば、不必要に自分の力量を肥大化させる装いもなければ、はたまた過小評価の苦痛の中で苦悩することもない。自分一個の存在など、ふと今日、明日に消失したところで世界はそこに在り続けるのである。このリアリティを過酷だと受け止めるか、これこそが人間のリアルな姿だと認識し、取り替え可能性から、自ら構築し得たものを次代へ有意義に受け渡すことが出来るとしたら、僕たちの未来はかなり明るい、と思う。

己れの矮小な構築物(権力や金や名声等々)にしがみつくことなかれ!独占・独善こそが、人間の可能性を自ら奪う元凶なのだから。そんなことを想って、今日の観想を閉じる。

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○愛の不可能性ついて、少し。

2012-06-14 17:36:17 | 哲学
○愛の不可能性ついて、少し。

性の違いに関わらず、他者を全的に信頼したい、という欲動の存在こそが、人に何ほどかの希望を抱かせる。しかし不幸なことに、このようなポジティブな心性を呼び起こすための、純朴・素朴な人の感性は、しばしば期待とは裏腹に他者との距離感だけを感得してしまい、どうせ、他人など、信用するに値しない、という、やけっぱちの気分に流されてしまうこともあるから難儀である。これは誰しもが経験していることなのではないだろうか。この種の絶望感は人間存在にとって、かなり普遍的な負の要素だ、と僕には思えてならない。が、その一方で、他者を信頼し、信頼の度合いが深まり、他者と自己との精神的距離感が限りなく近づく一瞬、一瞬が訪れもする。そういうときに、認識される他者とは、心許せる友人であるとか、恋の対象者とか、絆深き人生の同伴者などを指す。ここに敢えて、性別という概念を持ち込む必要はないだろう。

他者との距離感が限りなく近づく一瞬、と書いたのは、このような状況はあくまで永続的に打ち続くものは極端に少なく、むしろ、自ー他との接近を生成と定義するなら、接近した結果、精神的離反が生じることを崩壊という概念性として定義づけることができるようなものだからだ。この意味で、僕たちの人生のすべてとは云わないが、とても重要な生の側面は生成と崩壊のプロセスを経ながら、再構築を繰り返すことになる。これを他者との関係性の原質と、たとえば呼ぶことにする。しかし、人は生の、他者との関係性における生成と崩壊という再構築のあり方そのものに対して、しばしば臆病である。換言すれば、関係性の<壊れ>が明らかであるにも関わらず、前を向き、その<壊れ>を引き受けることを回避する心的傾向からなかなか自由にはなり切れない、ということである。まさに、ここにこそ、他者との新たな関係性構築の困難さの主因が在る。

恋愛における愛の成就が困難なのは、たぶん、次のような原因によるからだ。相互の信頼感と云ってもよいし、緩慢な依存的関係と称してもよいが、そういうものが、恋愛の根っ子に在るとするなら、愛する者どうしは、とりわけ生成と崩壊がない交ぜになることを忌避したくなるのは必然だ。だからといって、生成と崩壊という心的概念性を否定すれば、互いの愛の情念がより高次なところへ引き上げられることなど起こりえない。しばしば、恋愛が痴情沙汰に終始し、醜悪さを露呈してしまうのは、愛における生成と崩壊が、他ならぬ愛の再構築に繋がるということを認めようとしないからである。そうであれば、愛する対象者が傍にいても、いなくても、人の心は決して安らぐことなどない。ほんのわずかな息抜きすら出来る状況すらなくなる。こうして、愛は狂気と同義となる。フランソワ・トリュフォーの「隣の女」のラスト・シーンの台詞。「あなたがいてもだめ、いなくてもだめ」という不条理さは、愛の不条理さそのものである。生における再構築の全否定、それが、愛の<壊れ>の実質である。

さて、だからこそ人は前記したごときの理由のために、愛の<壊れ>を怖れる。ヴァージニア・ウルフが、「孤独は横たわる、夫と妻のあいだにさえも深淵が、そうして、それはおかすべからざるものなのだ」(『ダロウェイ夫人』)という愛の不条理性を、このように普遍化せざるを得なかったのは、決してヴァージニア・ウルフという作家のニヒリズム故ではない。それは、たぶん、愛における不可能性に対する、かなり普遍的で、敗北的なありように対する言及だったと、僕は思うのである。

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○しばしば考え違いすることなんだけれど(あるいは、僕の考え違いか?)

2012-06-06 22:35:57 | 哲学
○しばしば考え違いすることなんだけれど(あるいは、僕の考え違いか?)

今日は、理性と感情についてのちょっとした観想。どうなんだろうか?人が、生きることに何がしかの意味を見出したい、と感じたその刹那から、当然のことながら、その人なりの表現の仕方で、それが、深遠であれ、浅薄であれ、裡に堆積した想念を言語化しようとするのではないのだろうか?書き残すか、はたまた、発話した言葉が空中に飛散してしまうのか、そんなことはどうでもいい。問題は、たとえば、前記した理性と感情というふたつの人間の思考形体、その思考形体を言語化するときに、一般的に相反する両者のどちらを、僕たちは、自らの存在理由を問う手段として、また、その存在価値として上位に置いているのか?繰り返して言うならば、人は自己の認識力として、理性と感情のどちらを価値意識として、上位に置いているか?疑問を差し挟む余地なく、それは理性の方だ。大抵の人は、そう思っているだろう。しかし、僕の考えは少し違う。

知らない人の方が少なく、たぶん、知っている人は、この画家の絵が大好きか、あるいは控えめに見ても、嫌悪感は抱かないはずだ。あまりに有名過ぎて今さらながらこの画家に関わることを書いても無意味な気もするけれど、まあ、それでも僕なりの理性と感情論の援用としての観想を。セザンヌの残した言葉は、理性と感情に関する関わりを端的に示しているように僕には感じとれるから。すなわち、次のセザンヌの言葉はどうか?

>>描くとは、感覚を具現化することである。-ポール・セザンヌ

という定義になるようだ。セザンヌの考え方からすれば。感情に裏打ちされた感覚というものが最上位にあって、それを描く(表現する)とは、理性と技量をフル稼働させて、発露した感覚(感情)を具現化(表現する)こと。これが画家としてのセザンヌの自然な振る舞いである。さて、セザンヌにおいて、明らかに感情(それを感覚と云ってもいいし、感性と云ってもいい)は、理性の力を、自らの創造性を構築するための、道具的要素(無論、抜き難きもの)として捉えている、と僕には思えてならない。ならば、近現代における理性主義とは、その底に、上品から下劣までのすべての感情を含み込んだものであって、決して、理性が感情を超克しているような代物ではないことが分かる。まあ、今日は、こんなことを考えたということで。観想とは云い難き観想。ご辛抱願いたいものです。

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○孤独という名のレッスン

2012-05-30 16:25:07 | 哲学
○孤独という名のレッスン

生きることにまつわる孤独感を回避することは出来ない。生きている限り、人は、どのような環境下にいようとも、その人の個性に特有の、孤独の苦い味わいを噛みしめつつ生きるのである。日のあたる社会的地位を獲得したとして、それゆえに自分の周りには、たくさんの他者が当然のように集まってくる。また、それとは真逆に、不運な人生を背負わざるを得ない人が、他者から身を潜めるように生きているにしても、襲い来る孤独感、寂寥感は、現れ方が異なるだけで、やはり回避することは不可能なのである。すなわち僕たちは孤独を生きている。そう表現しても、決して言い過ぎではないだろう。

繰り返しになるが、孤独とは、ひとりでいることと同じではない。ひとりでいようが、見知らぬ群衆の中にいようが、知人・友人・家族と伴にいようが、やはり孤独感は襲い来る。もっと突っ込んで云うなら、ひとりで過ごすことを孤独と感じる人よりも、複数の他者との関係の中に孤独を感じる人の苦悩の方が深いと、僕は思う。

上記したように、孤独と苦悩は僕たちの脳髄の中で交錯している概念性だ。それゆえに、意識的な思想的格闘もなく、ひとりで居るほうが心地よいと感じるような心性は、人間の自然な価値意識が生のどこかの時点で転倒している可能性がある。人は、たとえ孤独にまみれても、自分以外の他者と居ることを好む。もっと正確に言うと、集団の中の孤独の方が孤独そのものを意識化しにくいからだ。しかし、本質的には、ひとりぼっちでも孤独、他者と交わっていても孤独(意識しているかどうかだけの問題です)。すなわち、孤独の前にあっては、人は八方塞状態なのである。

このようなことに自覚的になった上で、この難儀な孤独という感性を思想化することは出来ないものか?また、孤独を思想化するとは、どういうことか?

たとえば、人が生きるプロセスで、自分でも意識することなく、意識の襞の隙間に埋もれさせている事柄がある。それが普通のあり方だ。まず、褒められたものなどないゆえに、意識の奥底に隠蔽しておくのである。そういうものが、確実に人にはある。殆どは、無意識下に埋もれているので、人は隠蔽した事実すら忘却しているのが普通だ。そして、記憶の奥底に圧し込んだものほど、掘り起こすのに痛みを伴うものはない。が、その掘り起こしと痛みにこそ、孤独を媒介にした思想の具現化、思想の底上げに寄与するものはないのである。

生きることには、理屈抜きの楽しさもあれば、隠蔽、忘却しなければ耐えがたき要素も含まれている。真実の片側だけを見ている限り、僕たちの生は豊かにはなり得ない。孤独を掘り起こす作業。孤独と向き合う姿勢。苦さを伴って気づくことの価値の高さ。これこそが、孤独という名のレッスンだ。生きるためのレッスンである。敢えて、挑もうではないか!だって、これは、人間にとっての高次元の精神的営為ですから。

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○血縁という絆?要らんなあ。

2012-05-17 16:15:59 | 哲学
○血縁という絆?要らんなあ。

昔、昔の話だが、こういう議論があった。人が子どもを産んでも、子どもは国の未来の財産として、親から離して集団主義的に国を背負って立てるように育てるべきである、というような。血縁という繋がりを全否定する思想だ。それを聞いたとき、つまらぬ夢物語だろうとさすがに思った。理由は、たとえ、国の概念が、万民共通の利益の追求としての社会主義・共産主義の思想に根ざしたものであれ、畢竟、国家利益追求のためのロボトミーを工場生産のように創ることになるだろうし、それこそとりとめもない話だ、と感じたからである。

いくら子育ての失敗があろうと、親が子どもを産み育て、縁戚関係の中で成長していくことの方が、人間の歴史を俯瞰してみても、それが自然な姿だろうと思う。ただ、血縁という縛りが、精神構造のありようを限定化し、血の繋がりがあるというだけで、愛憎深き関係性が際限なく再生産されてきたことの不条理さを認めないわけにはいかない。

吉本隆明が逝って、本屋には吉本の著作が目につくところに並んでいる。もはや内容も忘れ果てた「共同幻想論」が文庫になっていたので、つい買ってしまった。かつてこの書をありがたがって読んだ記憶があるが、いま冷静に再読すると、その根本的な思想は、至極単純な西欧主義思想の礼賛であることが分かる。とり上げている素材は、日本的な土着的思想が主だが、その実体は日本的土着的風習を西欧的な思想のふるいにかけて論じたものだ。そこには、日本人の国家観の屋台骨を支える野太い思想との対決の跡が見てとれる。この書の論点は、国家と云うものの正体を吉本なりに見抜いたことにある、西欧諸国の国家観というものが、絶対不動のものとしての国家ではなく、民衆による共同幻想としての国家である、ということに対する吉本自身の気づきと驚愕に在ると言っても過言ではない。西欧と比して、日本人の国家観とは、動かしがたい不動の価値があるもの、あるいは、そのような志向で国家というものを捉えているという結論に吉本は行き着く。当然のことながら、日本の伝統的な素材を敢えてこの書の素材に選んだのは、日本人の国家の土台を支えるのが、古き伝統に基づく血縁、血縁を基点にした地縁の延長線を極大まで広げたかたちが、日本の国家だと吉本は気づいているからである。誤読、飛躍、こじつけがあることを認めつつも、ただただ、吉本を有難がっている読者よりも、多分僕の方が吉本の思想の核心に触れている可能性がある、と思う。

さて、吉本は、最終的には日本人的な血縁・地縁ーそれが日本の天皇制を支えている主因だが、直接的な天皇制に対する論及を回避しつつも、少なくとも現象としての日本人の精神構造を暴いたとは思う。単純な西欧ー東洋ー日本という比較論ではなく、比類なき本質的な日本人論になり得ている。とまあ、「共同幻想論」に対する拙稿は、こういう結論になるが、工場的ロボトミーはお笑いだとしても、僕個人としては、血縁・地縁の存在には心底辟易しているので、時折自分のことを世界に裸で投げ出されているなどと書くのだが、そのように書いているとき、案外と、気分爽快だったりするのである。無論、それについてまわる孤独感や孤立感に悩まされもする。しかし、どちらかと云えば、世界に独り投げ出されたところに、考えの支点を置き続けたいものだと思っている。今日の観想として、書き遺しておきたいと思う。

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○挫かれてもよいものーそれが<希望>だ、と思えるようになったね。

2012-04-09 17:30:36 | 哲学
○挫かれてもよいものーそれが<希望>だ、と思えるようになったね。

人は希望がなければ生きていけない、などとしばしば囁かれるけれど、人間の生存に対する欲動ほど強いものもないわけで、生き抜くためには、生きるための理屈が不可欠であることの証左である。これは、あくまで人の存在論的な次元の問題で、暮らしが豊かであるとか、仕事に恵まれているとか、社会的地位が高いと云った次元のものではない。もし、このような生活的・社会的・経済的要素が、人を生かしめているとするなら、誰もが羨むような人々が、自死なんかするはずがないだろう。しかし、このようなことはしばしば起こることだ。

無責任に推察すれば、このように生を唐突に見切る人は、生の真実を見誤っているのである。誤解なきように。僕は決して、死した人々に鞭打つような心境で物語っているのではない。金があってもなくても、社会的に恵まれていようがいまいが、人がかけがえなきものとしての<希望>を、精一杯育んできたと思い込んでしまった<希望>を、なにかのきっかけで喪失したと思ってしまった瞬時、思い入れの強さと比例するかのように、自死と生との境目が現出することになる。無論、一般論的に不遇な生活環境に追い込まれた人々が、<希望>なきがゆえに自死するなどということもしばしば起こる現実でもある。

しかし、だ。人間にとって、希望とは、そもそも生きるための、その折々の生きるための、抽象的なイメージに過ぎない。それがあたかも具体的な目標物にすり換わるのは、具象化する方が精神的エナジーを自己の裡から引き出しやすいからに他ならない。

結論的に云うと、希望とは挫かれるために在るようなものである。僕たちは生きる過程で、その時々の希望を脳髄の中で紡ぎ出し、それを生のエネルギーに変換して、強く前を向く。が、その一方で、人の生き方ほど変質しやすきものはない、ということにも自覚的であるべきだ。同じような生活が淡々と続くように見えて、その内実には確実に変化が生じている。生活の激変(それが幸福なものであれ、不幸なものであれ)が起これば、否応なく生の変質を自覚せざるを得ないのだろう。こういうとき、頑なに己れの裡なる<希望>にしがみ付き、生の変質と希望の変化とを、絶望という概念と錯誤しないことだ。なぜなら、絶望とは、希望の反措定でもなく、安易な反意語でもないからである。

反芻する。希望とは、生きるための、変化し続けるべき抽象的な指標である。だからこそ、それは生のありようによって、変化すべきものだ。敢えて云うなら、希望とは、そもそも挫折すべき命運を背負った存在である。突っ込んで云っておくならば、絶望とは、生のリアリティに自覚的になり得た、高次元な気づきである。その意味では、人は絶望の極みに立ち至ったときの方が、生への希求が強靭になりやすいとも云える。執拗に繰り返す。希望は挫かれる。そういう覚悟で、この世界を生き抜こう!少なくとも自己に許された命の長さを、この種の気づきを抱きつつ、生き抜こう!と想う。


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○気づきその10

2012-04-08 11:08:21 | 哲学
○気づきその10

猛省すべきことー自分が何ごとにおいても力業を根拠にした発想と行動を好むこと。こういう心境でいると、世の中あまりにも不条理なこと多きゆえに、妄想の中においては、常に革命劇の果て、体制としての世界を転覆させてもいる。確信犯的な暴力主義者であり続けて、この歳になった。が、いまは、この種の妄想がいかに自分自身を腐らせ、それだけでなく、人間関係を必要以上に狭めることになり、世の中の出来事に対して、概ね皮相的になり、結果的に世界と切り離されたところで自分が孤立していることに気づく。よいことなど一つたりともない。

政治的な事柄に対して強引、かつオ―ケストレイテッド(orchestrated)になり得るが、その実、実質的な現れとしては、世に云う、政治的無関心層の人々と何ら変わるところがない。これを世界に対する絶望の果て、などと云う格好のつけ方で逃げるつもりはない。要するにダメな人間になり果てているのである。僕がアルベール・カミュの「シ―シュポスの神話」を座右の書としているのは、自己弁護というよりは、自己叱責のための、思想的道具として位置づけているからである。あるいは、硬質で、折れることなき小田実を尊敬の対象にしているのも、彼が市民などというヘナちょこ連中(失礼、これは表現上の分かりやすさゆえにもちいた言辞です。市民運動家のみなさん、お許しあれ!)相手に、生涯市民運動に根ざした思想家であり続けた彼の粘り強さに憧れるからである。直截的な権力を持ち得ない立場を敢えて選びとった人ゆえに、政治的勝利などとは殆ど無縁の人だったと思うし、また、そのことがますます小田の思想を強靭にしていったことを考えると、もう降参するしかない。

ネルソン・マンデラもアウンサン・スゥ・チーも金大中も、それぞれが旧体制に酷薄な弾圧を受けても立ちあがり、自分の地位を確立したという意味で、尊敬に値する政治家たちだが、しかし、彼らの天才的な才能と気力は、反権力、権力奪取という執念があってこそ花開いたではないか。しかし、小田実の思想、実践力は、まさにシ―シュポスのごとくに、絶えまない敗北の中から醸成された強靭さだ。爪の垢を煎じて飲むとしたら、やはり、小田のような生き方、死に方からだ。無論、僕は市民運動などまったく信じてはいないから、あくまで表層的な真似ごとであって、爪の垢も空中に飛散してしまった後に、結局誰のものとも知れぬそれを拾い集めるがごとし、だろう。まあ、僕の生き方など、これくらいの代物でしかない。決して自嘲的に開き直っているのではない。むしろ、これが、僕という人間の等身大の姿ではないか、と昨今思うのである。

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○実存主義・自己批判・自己嫌悪

2012-01-02 14:44:57 | 哲学
○実存主義・自己批判・自己嫌悪 

小難しい理論を自己正当化のために使うつもりなら、実存主義ほど便利な思想、あるいは直截的な実践のツールはない、と云って過言ではない。5月革命が起こり得る思想的土壌の中で、サルトルの左翼的思想が、その当時実存主義の代表格と見なされたことは、少なくとも僕と同じくらいの年齢の人たちにとっては、思想的な好みの問題はさておき、それほど違和感を抱かないはずである。実存主義的論理とは云え、サルトル=カミュ論争における、当時のサルトルの圧倒的優位性は、時代的背景の中では当然の帰結でもあった、と思う。サルトルのアンガ-ジュマン(参加)の思想は、体制変革のための実践的なファクターとしては、申し分なかっただろう。抜け目のない政治屋たちが、サルトルのアンガ-ジュマンを都合よく使ったのも頷ける事実である。それに比して、カミュの反抗の論理とは、シジフォスの神話に見られるような、あるいは異邦人における主人公の思考の型のように、内省的で、どこまでも報われない価値意識に対する永遠の希求のごとき様相を呈していたのである。しかし、サルトルだって、結局のところ、政治に利用される表層的なアンガ-ジュマンの論理のすり替えにはうんざりしていたはずだ。フランス共産党との決別という結果に立ち至るのは必然だった、と思う。そもそも、サルトルとカミュとは実存主義という思想の切り口が異なっていただけであって、その内実は僕には底のところで、深く通底していると思えてならないのである。たとえば、サルトルの「嘔吐」の主人公がマロニエの樹の下で、自己の存在の意味が曖昧にボヤケたとき、訳の分からない嘔心に襲わるさまと、カミュの「異邦人」の主人公の青年が、自分の母の死を、あるいは、自分の恋人の存在を、また、あるいは太陽の光の眩しさゆえに、アラブ人に銃口を向け、惑うことなく射殺したそれとの差異は、この二人の天才作家・思想家たちが永遠に袂を分かつほどに、大きなものなのだったのだろうか?

僕は思うのである。そもそも実存主義とは、思想的な敗走の過程の中で醸成する思想である、と。あるいは、実践不可能性を思想化したものこそが、実存主義ではなかろうか、と。そうでなければ、実存主義と自己批判とが分離不可能な存在として認識されるはずがないのである。実存主義とは、己れの存在の不確かさ、存在理由のための足場のなさを実感するところから、実存の意味を問うのである。そして自己の存在の意義を自問するのである。煩悶し、懊悩するのである。そうであれば、存在の曖昧さから派生する、己れに対する批判が、実存主義的思考に内包されていないはずがないではないか!思想的敗走と書いたが、より正確に云うと、政治思想的敗走を事のはじまりから内包しているのが、実存主義だと僕は考えているのである。それならば、政治思想としての敗北の側に立ち切った実存主義とは存在理由なき代物なのだろうか?いいや、そんなことはないのである。現実社会の政治を動かすプラグマティクな思想の中に、必然的に含まれる下劣で節操なき妥協の末の、とりとめもないバカ騒ぎに、鉄杭を打ち込むのが実存主義だと考えればよい。少なくとも僕はそう思っている。そういう意味では、結果としての政治的敗北など、どうと云うことはない。

実存主義的洞察の中に、自己批判という思考の装置が組み込まれているとするなら、その結末としての自己嫌悪は、実存主義における思想的排泄物のようなものだが、これほど意義深い排泄物など、いったいこの世界の中に存在し得るのだろうか?

自己を肯定しよう!そのことには、大いに賛成する。しかし、ズルはいけない。自己肯定に至る思想的道筋というものが前提である。漠然と考えているよりも、自己肯定までの思想の道のりは、険しいのである。その意味で、今年も実存的に生き抜こう、と思うのである。

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長野安晃

○乗り越えるべき壁?いつも自分の前に現存します。

2011-11-18 23:48:10 | 哲学
○乗り越えるべき壁?いつも自分の前に現存します。

人はどのような環境下においても、自分自身と向き合って生き抜く覚悟があれば、なんとか生き抜いていけます。無論、生き抜くとは、惰眠を貪るような生き方を指しません。それは、常に自分が対峙すべき課題から目を背けずに、向き合う覚悟のことを指して使う言葉です。<乗り越えるべき壁>と書きました。つまりは、乗り越えられない壁など存在しないからです。ここで話題にしているのは、くどいようですが、あくまで自分自身ときちんと向き合う覚悟のある人についての観想ですから、空想的にありもしないことを仮想して、考えにふけることを意味しません。誤解なく。

まったく間尺に合わないことをやっている場合は別として(そういう自覚があれば、即効やめればいいわけです。なすべきことはいくらでもあります)、ある程度でよろしいですから、適応できるところに身を置けたらそれは儲けものです。無論努力の成果でもあるのでしょうけれど。さて、問題は、その次です。人間の脳髄には、慣性のモーメントが働く能力?が備わっているようで、手をつけ始めたときの困難さなどは、時間を経るに従って、困難さが、普通の感覚に変わります。所謂慣れですね。簡単に慣れと言いますが、これは、その人に能力があるという証左です。慣れるにはそれなりの力量が必要だからです。でも、大抵の人は、慣れたら、その時点の精神状態に安住したがります。新たなことに挑戦することに憶病になりがちです。

たとえば、職場の異動や転勤や昇進で、仕事内容が変わった途端に調子を崩す人が出ます。これは、脳髄の慣性のモーメントに隷属した精神性だと言える状況です。社会科学的に表現すると、こういう心性を保守主義というのです。無批判な体制擁護の思想というのは、心的現象としては、慣性のモーメントに傾斜して、そこに安住している心境と言えるでしょう。保守主義者と自己規定して憚らない人は、その理由として、保守すべき価値あるものがあるだろう、と言います。それを伝統と言い表わしても構いませんけれど、しかし、伝統とは、その時々の成果がかたちとして残ったものであって、その一方で、人間をとりまく状況は刻々と変化し続けるのです。また、変化し続けるということを認めないと、状況が変わることに人は怯えてしまいます。つまり、人というのは、かなり意識的な自己確認、自己改革の機運を働かせる努力をしなければ、放っておくと、既成の価値意識に確実にすがります。蛇足ですが、既成の価値観とは、常に一歩も二歩も遅れた存在ですから、伝統という、聞こえのよろしいものにしがみ付くこと自体が保守主義です。保守主義とは、結局のところ、人が前を向き、刻々と移り変わる時代と向き合うことに背を向けた懐古趣味です。惰眠を貪っていたら、自然に保守主義者になることが出来ます。惰眠に理屈をつけることが、保守主義者の論理です。そこから何も得るものはありません。当然のことでしょう。


現代は、政治も経済も文化も含めて、何もかもが閉塞している感があります。しかし、この種の閉塞感は、マスの報道やエセ評論家たちが振りまいた雰囲気です。また、政治家たちも、既得権益を守ろうとする旧態依然とした金持ちたちに繰られています。あるいは、金持ちが自己の権益を守るために政治に携わりますから、僕たちはよほど意識的に、社会は変革し得るという思想を堅持する必要があります。当然のことですが、既成の名前ばかりの革新?政党などの政策はお話になりません。革新と云うばかりで、自らが保守化しています。そうでなければ、票をとれないと思い込んでいるからです。既得権益の暴かれ方を見ていれば、わかるでしょう?指弾されるのは、小物ばかりです。もっと大きな、国政レベル、国際的な既得権益を保守しようとする輩がいるのです。政治家もマスコミも事実を暴きません。自分たちの存在が危なくなるからです。

騙されないようにしましょう!僕たちは、この世界を切り開くことが出来ます。言葉どおりの再生も出来きます。いろんなことを視えなくさせられているだけです。かつてアメリカがもっと健康だった頃、一人の天才作家が出現しました。彼はラルフ・エリソン(Ralph Ellison)と云います。アメリカ社会におけるブラック・アメリカンの存在を「見えない人間」として描きました。しかし、それは現代社会にも十分に通用します。現代において、見えないのは、まともな人間です。そういう意味で、一読の価値はあります。お薦めします。かつては、ハヤカワ文庫で読めましたが、いまは絶版のようです。これだけ英語ブームなのです。石川遼くんの英語会話教材もいいですけれど、ペーパーバックで読んでご覧になるといいです。英語力がつきますから。Invisible Man(Vintage International)です。アマゾンで手に入ります。越えるべき壁が視えるかも知れませんから。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃





○世界に対して、否(ノン)と言い続ける勇気。

2011-11-12 14:41:15 | 哲学
○世界に対して、否(ノン)と言い続ける勇気。

心理学という学問の世界に対して、僕が懐疑的であり続けるのは、この学問が人間洞察のごく表層的な入り口論でしかない、という失望感と、生を肯定することだけで、歪曲した精神性を、直線的に豊かで、生きやすき思想を構築出来るかのように描いているからです。なのに心理カウンセラーなのか?という疑問を抱いく方がおられることは覚悟の上です。僕なりの理屈を開陳すると、僕のカウンセラーとしての立ち位置は、クライアントに対する具体的助言をなすことが、カウンセリングだというものです。また、初回のカウンセリングで、全的な解決に至るはずもないのですが、少なくとも問題解決に関わる道筋を示していくことが真情です。このようなアプローチ以外のカウンセリングは、本質的に無意味、無効だというのが、僕の考え方の根っ子にあります。これは、臨床心理士をはじめとするカウンセラ―の世界においては、まったくの異端でしかありません。しかし、異端にしか言いえない真実があるわけで、そういう意味では心理学という狭い世界において、僕は否(ノン)と言い続けてきたわけです。そのことが間違っていたとは思っていませんし、これからも、まったりしたカウンセラーの手法に不満を持った方々が、少数であれ、僕を必要としてくれるものと確信しています。あとしばらくは、この仕事をやり続けるつもりでいます。

さて、現在関わっている仕事に対して、否(ノン)と言い続けると書きましたが、僕の心的傾向は、ずっと昔、そう少年の頃から、世界に対して、否(ノン)と言い続けてきたと思います。常に現状をよし、としませんでした。そのために小さな試みであろうと、体制に対して、反体制の姿勢を取り続けてきたのです。僕の裡では、耐えることなく、否(ノン)という叫びが反響していたように思います。体制に潰されることが分かっていても、やはり、反抗し続けたわけで、そのために仕事を失いました。家庭を失いました。それでも、やはり、いまだに世界に対して、自分の立ち位置から、ノンと言い続けています。たぶん、息絶えるまでこの傾向は変わることはないのでしょう。それでいいと思っています。

時折弱気になります。そういうときには、セリーヌを読みます。「夜の果ての旅」(中公文庫)。彼は誤解を受けやすい人で、第二次大戦後に、反資本・反ユダヤ主義的言辞が災いして戦犯に問われました。逃亡先のデンマークで投獄もされました。フランスに帰国してからは、不遇のうちに生を閉じました。セリーヌの墓石には、ただひと言、<ノン>と刻まれているそうです。セリーヌらしい生き方、死に方だったと感じ入ります。セリーヌは、戦争という災禍を巻き起こした全世界に対して、その欺瞞性を呪詛したのです。そして、その糾弾に命を賭けました。絶望的で、孤独な闘いであるにせよ、僕には、立派な生き方だったと思えます。それに、こんなすばらしい傑作も残している。凄いことだと感じます。

世界を呪詛することと、単なる幼稚なゴネ倒しとはまったく違います。誰もが、もはや常識になり切った考え方、間違った思想の上に構築された取り決めごと等々に対して、常に本質に立ち帰って、間違いは間違いとして糾弾して、それを体制が跳ね返すのであれば、反抗し、世界に対して呪詛の言葉を勇気と覚悟を持って投げかけ続けること。これが、人の生きざまとして間違っているはずがありません。誰もが体制やその時々の権威に擦り寄っている時代です。こういう時代だかこそ、セリーヌのごとき、否(ノン)が必要なのではないか、と僕は思うのです。ちっとした告白ですけれど、いま少しはこの手の安逸な評論めいたものを書き殴っていますが、誰に認められなくても、僕は現代に投げかける否(ノン)を小説の文体で書き遺そうと思っています。やり遂げます。

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長野安晃

○人の考えは低きに流れるものだから鍛錬が必要なんです。

2011-11-03 10:37:35 | 哲学
○人の考えは低きに流れるものだから鍛錬が必要なんです。

パスカルは人間は考える葦だと言った。が、その「考える」という内実こそが問題なのだ。確かに人間は考える。目前に迫った難関苦難も、考えることによって乗り越える力が出てくるというものだ。その後には、考え抜いた末に出来あがった某かの<かたち>が残る。この<かたち>に従って、考え抜いた人以外の人々もその恩恵に授かる。人間の集団がなんとか今日まで持ちこたえてきたのは、このような考える人が存在したからに他ならない。

しかし、人間存在の最大の弱点と云えることがある。それは、考える人も、考えた末に出来あがった<かたち>を享受しているその他大勢の人々も、例外なく<かたち>という体制の中で安住してしまう危険性に常に晒されているということだ。人間が堕落することの本質は、たぶん、こういうことが主なファクターになっている。現代のような閉塞した社会で、息絶え絶えになっている人々から見ると、ずっと以前の、世界同時革命だの、永久革命論だのというような、連続的な変革、休むことなく変わっていく社会のありさまを模索した思想などは、まさに言葉どおりの空想にしか感じられないだろう。

歴史的な現実として語り得ることは、殆どの革命家が、権力を手中にした途端に<かたち>の変容を忌避するようになるということだ。チェ・ゲバラを稀有な例外としての話だけれど。優秀な指導者も、大抵は己れの権力を掌握したら、そのポジションに安住してしまう。安住するために、己れの地位を脅かすような人物を粛清してしまう。こういうことは、そもそも手にした地位がもたらす利権が、保守主義を生み出す思想的構造を持っているわけで、底には、経済の論理が働いているのは明白だ。東西冷戦時代が終焉して、かつての東側の国々の実体が明らかになってきて、また、東側にかつてあった実質的な独裁国も、西側の経済的豊かさの意味を知るにつけ、資本主義とか、共産主義と云った区別の仕方すら無意味になった感がある。要するに、現代は、政治手法のあり方などは、単なる表層的な違いに過ぎず、権力者はみな同じ顔をして、同じことをしているのである。

人間が考える葦であり得るのは、思想の次元を絶えず高次元へとおしあげる力学が働いているときだけである。思想の次元が高まるとは、突き詰めれば、人間として生きる権利を保障できる社会システムを評価しようとする心性のことではないか?もっと言おう。時代遅れの戯言だという誹りを受けることを甘受して、言う。人間が、どのような考えを脳髄の中で紡ごうと、思想的次元が高まるということは、自-他の精神の独自性を認めることがまずは第一だ。簡単に言えば、人はそれぞれに違う。その違いを認めることだ。強権的に一つの思想をおしつけることとは対極にある考え方である。社会的な構造としては、やはり人の暮らしは、平等でなければならない、と言いたいのである。

このように定義づけたからと云って、共産主義的独裁を批判し、資本主義的競争原理を同時に批判するごときの単純なことを書いているつもりは毛頭ない。なぜなら、結局は、両者は、<かたち>の違いがあるだけで、根底に在る思想性は、経済を独占出来る一握りの人々にとって都合のよいシステムであるという理由で、根っ子は同じものだからである。

裡なる経済の論理を、いまこそ打ち壊そう!少なくともそういう思想を分かち持とう!政治的・経済的リアリズムが、生存競争の勝者にだけにあらゆる可能性が開けている社会を意味するなんて、どう考えてもおかしい。一部に贅の極みを味わって生きている人間がいるかと思えば、ゴミ箱を漁ってその日の喰いぶちを探す人がいる。この違いが現存するかぎり、人には同じように可能性があり、その可能性を開花させるのが、人の能力だ、という論理を正当化するなら、そんな論理など、ドブに捨ててしまえばいい。人間はあくまで平等で、等しく豊かに生きる権利があり、それが視えるかどうかは別にして、ごく一部の人間が富を独占しているような社会は、原始社会を文化・文明という衣を被せてソフィストケイト(sophisticate)させただけのエセものだろう。

僕たち人間には、豊かに生きて、豊かな生を享受して、そしてその人なりの満足出来ることを成し遂げて、この世界から去っていく権利がある。これを人間の生と死として位置づけることのどこが非現実だろうか?ここに書いたことを非現実だと決めつけるのは、多分にマスの教育によって植えつけられた、浅薄な競争原理の正当化の思想に過ぎないのではなかろうか?人間の思想の枠組みを変えるだけで、現在のリアルがアン・リアルになり、また、その逆のことも起こるのである。要は、この世界が豊かになるかどうかの境目は、人がこの世界をどのように思想化するか、ということと同じである。

いま、僕たちに必要不可欠なことは、思想の豊かさを追求することだ。現実の不平等感など、即刻是正される。そういう力業としての思想を再構築することだ。それが、現代を生き抜く骨太な思想ではないのだろうか?間違っているとは思わないし、空想論だとも決して思わないのである。

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長野安晃

○不安という感情

2011-11-01 14:50:04 | 哲学
○不安という感情

生の、活気に溢れた、その真っ最中にでも、真逆の、暗黒の、生を全否定しかねない負の要素が立ち現れる。それが不安という感情ではないのだろうか。不安感は、自分の心が何らかの悪影響を受けて、徐々に弱っていく過程で現れるものでは決してない。追い詰められつつ、袋小路に直面して感得するのは、不安というよりも、絶望感である。だからこそ、絶望の果ての自死という悲劇が起こる。芥川龍之介の「漠然とした不安」とは、決して文字どおりの漠然とした不安などではなく、それは、芥川の裡の価値観の明らかな揺れ、あるいはブレのことを指して、「漠然とした」と称しているのであるから、芥川の漠然とした不安感の実像は、やはり絶望感に限りなく近いものという受け止め方が妥当だろう。

さて、不安感は確かに、裡に巣くった瞬間から身をすり減らす要因になる。が、皮肉なことに、僕が定義した不安感が襲ってくるのは、大抵は幸福の真っ只中である。おかしなもので、人間は、幸福に浸った瞬時から、その当の幸福に懐疑的になり得る心的存在である。その意味においては、幸福の只中をひた走ることの出来るような個性の持ち主は、現世的な成功者に確実になり得るのである。

さらに掘り進める。幸福の只中に不幸の前兆たる不安感が襲い来るのは、幸福を否定するかに見えて、実は、これまで解決不能であった不全感のファクターのあれこれを、観念的に解決したいという欲動が心の中でうごめくからである。その意味においては、前記した定義には、誤解を生じしめる要素がある。再度書き置くと、こうであった。つまり、「生の、活気に溢れた、その真っ最中にでも、真逆の、暗黒の、生を全否定しかねない負の要素が立ち現れる。それが不安という感情ではないのだろうか」。ここで云う、「活気とは真逆の」というところは、暗く陰鬱な、という意味ではない。それは、実現可能かどうかは別にして、足りないことを、遮二無二観念的に奪還しようとするエネルギーなのだから。もしも、暗く、陰鬱なという概念が当てはまるとするならば、それは、喪失したものを取り返そうとするときに、必ず伴って生じる過去への根拠なき憧憬が、消失感をさらに深めるから、暗くて陰鬱だと云うのである。もし、人間がこのような過去への根拠なき憧憬から自由であるのなら、世の不幸の大半は消えうせることだろう。人が現在の事象における恨みつらみをはじめとする負の感情を惹き起す事件の大半は、過去の己れの成育歴の中の暗き哀しい出来事が、現実の不条理によって、暴発した結末なのだ。事件性を帯びたことでなくてもこれは広く当てはまる。過去からの呪縛。ここからの脱却は、思ったほど楽なことではないが、もしも、未来を切り開き、新たな精神の地平を見ようとするなら、あるいは、そこにたとえ見るべきことがなかったとしても、自分の力で一から創造しようとするなら、人は、言葉どおりの幸福を自らの手中におさめることが出来るのである。

不安という感情から自由になることは、まずは、自己の意識、過去に囚われている意識から自由になろうとする意思を固くすることである。その上で、新たないまという時点から、その意思にもとづいた思想を創ることである。未来を少しでも明るいものにしよう!遺すべき言葉として書きおくことにする。

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長野安晃

○ええ歳こいて、何言うとるねん?と突っ込みたくなることを少し。

2011-10-25 12:01:36 | 哲学
○ええ歳こいて、何言うとるねん?と突っ込みたくなることを少し。

調子がよろしくなくなると、僕の場合、掛け値なしに正直になるらしく、心の底の底に封印してあるつぶやきが、ぶりかえす。この世界は、生きるに値しない、という、長年引きずってきたテーマだ。こういうことを書くと、精神療法家や、精神科医は、うつ病か、あるいは、その前段階の抑うつ症状なんだろう、と推理する。しかし、この種の判断に対する観想を述べるとするなら、単純なひと言で事足りる。「冗談じゃあねぇ!」である。自分の生が生きるに値しないと云う判断を、病的な要因だけに還元しているような想像力なき人々は、精神療法家や精神科医に限らず、たぶん、長生きするんだろうな、と思う。想像力なき人々とは、思想なき人々ということでもあるから、現世的御利益信仰に関わる神がかった啓発本や、現存する既成宗教、新興宗教の類にしがみ付きたがる。こういう心的傾向は、思想の力が極端に弱ると、誰にでも平等に訪れて来るもので、それは僕も例外ではなかった時期がある。しかし、さまざまな経緯を経て、やはり、すべての超越的な存在や現象に生きる根拠を置くなんてことには、反吐が出るほど反感を抱くのが自分と云う存在である。もはや、ブレることはない。

さて、視点を変えて、僕の裡に巣くう日常性に対するどうしようもない退屈感の出どころとは何に起因するのか?である。この原因こそが、まさに、この世界は生きるに値しない、という動かし難き思念に在る。堅実な生き方をしておられる人々から見ると、ここにわざわざその詳細を書く必要もなく、僕の、これまでの明らかな失策多き、挫折だらけの人生は、僕の裡なる前記した思念ゆえの、不可避で、必然的な結末だった、と即断出来る類のものである。そうでなかったならば、もうちっと先に起こることの計算くらは出来そうなものだが、むしろ計算することを唾棄する類の心性であるわけだから、まことに始末に悪いのである。失敗が視えていても、一旦動き出したことを止めることを恥だと思っている自分が、抑止や抑制という心の力学を平気で無視して突っ走る。突っ走って、行き着く果てなど、誰にだって予測可能な惨めな敗北感に満ち溢れたどん底である。どん底に落ち込むと、生きる価値なし、という思考は、ストレートに死することにむすびつく。そういうとき、死はすでに怖くもなんともないものになっている。しかし、見かたを変えると、死に対する恐怖心がない分、この種の死への希求は、ある種のapathy(無感動)を内在している。そうであるなら、生きる価値を見出せないという動機だけでは、生を放棄するだけの利益がないことになる。断るまでもなく、ここで云う利益とは、意味があるか否かという概念である。

さて、少なくとも自分の命が涸れ果てるまでは、たとえ、生きる価値など感得出来ず、前記した理由によって、自死という選択肢を除外するとすれば、いったい、感性の次元で浮き沈みがあることを想定した上での生の意味を、どのように再構築すればよいのだろうか?換言すれば、死への希求から生への渇望へと転じる契機とは、いったいどのようなものなのだろうか?という自問に対して、なにほどかの答えを書き記すことで、無価値だと断ずる自己の生に、それなりの意味を与えなければならないのだろう。また、それが、これを目にしてくださっている青年諸氏の生きるヒントになり得ればそれに勝ることはない。

たとえば、僕が精神のどん底まで落ち込んだとする。もう生きる気力すら失っているとする。当然、死への衝動は極限まで高まるのは必須である。感情は鈍磨し、無気力・無感動の状態である。生と死との境目すら認識出来ない状況だ。さて、どうする?感情はすり減っていたとしても、ハムレットの慟哭のセリフ程度には、悩んでみることは出来るのである。To be or not to be. That is a question.という状況において、生きていれば、いいこともある、などという戯言はもはや通用しない。さて、どうする?

僕は、こういう状況に陥ったとき、大抵は、メメント・モリ!(死を想え!)という言葉を心の中で反芻する。メメント・モリ!とは一般的に誤解されているように、死することに想いを馳せることではない。少なくとも僕はそういう解釈をする。だって、死を体現して、生きてその意味を想うことなど原理的に不可能だからである。何らかの事情で死から生環した人には、死の記憶はない。正確に言えば、生環した人は、死の領域に足を踏み入れてはいないのである。そういう解釈が正しいと僕は思う。誤解を恐れずに言えば、人は、生に対しても、死に対しても、明らかな定義が出来ていない存在である。しかし、たとえ、生を放棄したい、と云う気分が最高潮に高まったとしても、その人こそが、生の側にいるのである。次元の高低はあるにしても、人はこのようなとき、自己の想像力を最大限に機能させて、死するとは何か?と自問するはずである。また、自問しなければならないと思う。衝動的な死は、死の名に値しないし、そういう人は生きていても、常に衝動に突き動かされて、つまらぬ生き方をすることになる。多分にそういう領域で生きてきたから、僕にはそれがよく分かる。

原理的に不可能な死を想う、という思想の逆立ちから、生を捉え返すことだ。焦ってはいけない。即効、生に対する光など視えてくるはずがないからだ。沈想すること。メメント・モリ!とは、人に、座して深く考える機会を持て!と言っているのである。生の領域の何が視えるのかは分からないが、衝動を抑え込んで、考えることに意味がないとは思えない。敢えて無骨に言う。死から生に転じるのはメメント・モリ!という思想の回路にしか、その可能性は望めない。僕はそう信じて疑わない。

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長野安晃

○個別的思想と普遍的思想

2011-10-03 15:19:11 | 哲学
○個別的思想と普遍的思想

お題は仰々しく感じるかもしれませんが、これから語ることはごくごく常識的なことです。ただ、常識的な問題ですが、人は案外自分にとって都合のよい考え方をする傾向があり、また、この際の<都合のよい>という意味は、自分が他者からの批判の的にならない程度の、自己保身のための、小理屈のごときものです。思想の次元で云えば、最も低次元の保守主義のコア-になっているのが、個別的思想ということになると思います。

個別的思想をもっと砕いて言うと、日常生活における出来事からなんの脈絡もなく個人が導き出した経験論的な、教訓めいたもの。そのように規定されるものです。このようにあらためて書いたものをご覧になって、大抵の方々はな~んだ、そんなものか、つまらない、無価値なものだという観想を抱かれることでしょう。

しかし、老いも若きも、このような個別的思想が、物事を考え、自分の意思決定のための、あるいは、他者認識のための、不可欠なツールになっていることを認識し直さなければなりません。失礼な言い方を敢えてさせてもらうならば、私たちは、自分が思っているほどには賢明ではありません。意識的な知的訓練の必要性を実感し得ない人の多くは、自己認識においても、他者認識においても、また、眼前の事象の認識のあり方においても、非常に表層的な感性で意思決定をしているのです。表層的な感性とはどのような環境で培われるかと云えば、大抵は、自己の成育歴の過程で獲得した言葉、その言葉による思考回路などが、表層的感性の正体です。さらに砕いて言いましょう。古めかしい言葉を使うな、と言われるかも知れませんが、それは、生まれ、育ち、氏素性等々という類のカテゴリーに属するものです。

結論的に規定してしまいますと、個別的思考の中から一歩も踏み出せない人は、意識的、無意識的に関わらず、思いのほか多い。それから、既述しましたが、個別的思考の最たるものは、個としての人間が育った環境ですから、たとえば、お金に困ったことがない人は、観念的なヒューマニスティックな心情に捉われて、貧困という概念を理解するだけで、貧困が人間に与える思考回路にまでは想いが至りません。逆も真なりです。僕たちが普段なにげなく生きている社会というのは、このような認識の次元の上に成立しているものです。だから、とりわけこの社会の中で、生起するマイナスの感情、たとえば、嫌悪感、憎悪の念、怨念などの本質は、個別的思考の絶対的差異が生み出したものゆえに、マイナスの感情を抱いた側の人間にとっては、他者に対するル・サンチマンそのものが、生きるエネルギーと化するのです。このような心的磁場からは、いかなる意味においても普遍性をともなった、分かち合いの感情など芽生えるはずがないわけです。かくして、人々は、この世界を生き難き世界という認識のもとに、諦めにも似た心情で、生き抜かざるを得なくなります。社会的不幸という言葉があるとするなら、このような人間の心的状況を指して云うのではないでしょうか?

<分かち合いの感情>と言いました。ならば、分かち合いとはいかなる概念規定であるのか?あるいは、その概念が人間の社会生活を、より豊かな、のびやかな、許容力あるものに変革出来るのか?という疑問か、はたまた希望に限りなく近い想念を抱くのではなかろうか、と僕は思うのです。人は個別的思考の中に埋もれてしまうと、限りなく閉塞していく存在ではあるにしても、決してそれを是としているわけではないからです。人は希望を抱くのです。どのような心的次元からでも、です。それが人間存在というものの本質だからです。個別的思考回路という高き壁を乗り越えて、あるいは、意図的にそれを取り壊してでも、まっ平らな、誰に対しても偏見もなく、むしろ自=他への愛に満ちた感情を分け隔てなく持てる心境に立ち至れる可能性があると僕は思っているのです。言わずもがなのことですが、ここにはいかなる宗教的概念などを差し挟む意図はありません。あくまでも思想の次元のアドベンチャラス(adventurous)な試みです。誤解なく。

自=他の存在意義を、不可避な環境の次元から解き放って、同じ思想的地平に立ち切り、互いの違いを認識し合い、理解し得る思考の回路を開くことは可能です。富んでいようが、貧しかろうが、自己閉塞に陥る可能性を断ち切ることは可能です。それは、思想の再構築でしかあり得ません。ネィティブ(native)な状況から、成熟した思想の獲得過程、それをリ・コンストラクション(reconstruction)というのです。いくらいま、ここの解決策を欲しているからと云って、安逸な啓発本などはものの役に立ちません。長い歳月を生き残ってきた書(ジャンルは問いません)にこそ、思想のリ・コンストラクションの可能性、異次元の思想の地平が視える可能性のヒントが隠れているのです。これを生きる幅を広げるという言葉で、僕たちは日常語で語っているのです。さて、みなさん、大いに思想の幅を、生きる幅を広げてください。もっと生きることがおもしろくなること請け合いですから。お試しあれ!

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長野安晃