何だかんだといいながら、一年なんてあっという間に過ぎ去り、しかし同時に、じっくりと思い起こしてみれば、結構たくさんの出来事が起こっていて、自分の考え方もそれにつれて大きくブレているのが分かる。そう言えば、2009年のはじまりは、ずいぶんと無茶をやらかして結婚した相手との別れから始まった。お互いに諒解した離婚になるはずだったので、2008年の年末に離婚届けを相手に託したら、新年早々のメールで、調停にかけたとの知らせ。人間って、理解し得ない関係性など、とりわけ男女のそれは、徹底的に深みにはまり、心の傷が深まるばかりである。たった5カ月の結婚生活の破綻劇だったが、同じ地球上に棲みながら、まるで違う精神の次元にいたようで、それならなんで無茶な結婚をしたのかと問われると、自分でも論理的な説明が一切できないから不思議である。相手が一方的に悪いなどという卑怯な考えは持ち合わせてはいないが、それにしても、一年の約半分の時間を不条理な世界に身を浸していたわけで、その後の調停に巻き込まれて、ずいぶんと心腐った。
たった二人の問題に過ぎないが、信頼し得る人々にずいぶんと迷惑と心配をおかけした。思い立ったら体が先に動いているという個性だったが、この離婚劇に纏わる出来事の多くが、単なる突進型の単純な思考しか出来ない僕の思考回路を幾分柔軟にさせてくれたのかも知れない。その後の猪突猛進型の思考の名残で取り組んだ小さな事業の完璧な失敗とが、立ち直りのきっかけを与えてくれたと思う。それにしても、自己の存在意義を根底から揺さぶられ、生きる確信を失っていた僕など、他者からは見放されても致し方のない存在であって当然だったが、それでも支えてくれる人がいるもので、人の情けが身に沁みた。心底ありがたい、と思う毎日であった。存在論的な次元でいうと、生と死との境目などないという思想に変わるところはなく、何かの拍子で、生死のどちらにでも惹きつけられる個性だが、いま年の瀬に2009年を振り返ってみると、結果的には、かつての自分と比べると、ずっと強く生のベクトルの方へ惹きつけられていた感がある。
2010年を生き抜くことが出来るのであれば、長命を望んではいない自己であるからこそ、さらに濃密な生を実感したいと思うばかりである。「さらに」と書いたのは、腐れた人間などはもう相手にはしないが、尊敬に値する人たちとは、誠心誠意のお付き合いをしたい、と願う。尊敬に値するとは、年齢の高低なども、職業なども、男女の違いなどの区別をすることとは真逆に、残り少ない人生であればこそ、あらゆる世間的な価値意識のバリアを取っ払って、学びとりたい人々と人間的な関係性を深めたいし、新らたな出会いにも鋭敏な感性を持ちたいと思う。無論その価値基準とは、僕には到底追いつけない意識の高さを持った人々との関係性を大切に育むということでもあり、そういうプロセスの中から自己の中に幾分なりとも精神の柔軟さと斬新な発想の原型が創造出来れば、という想いで、この一年を締めくくりたいと思う。
ところで、いま隣の部屋では、何が出演基準かもわからなくなった、紅白歌合戦の出演者の歌声が聞こえてくるが、どうしてもいまだに分からないことがある。EXILEというグループのことだ。二人のボーカリストの歌のうまさはずば抜けているし、僕も大ファンの一人だが、二人の他に、後ろで踊っているメンバーの意味はいったいどこにあるのだろうか?確かにダンスはうまいのだろうが、それこそ、EXILEを支えている二人の優れたボーカリストの他に、メンバーとしてのダンサーがなぜ必要なのかがまるでわからない。メンバーの数も7名から14名に倍増しているのはどうしてなのか?さらに、EXILEというグループ名をなんの意味があってつけたのか?EZILEとは、国外追放、亡命(者)をさす英語だろうに、彼らに異端者の要素などどこにもないではないか。この間などは、天皇誕生日に歌とダンスを天皇さんの前で披歴していたではないか。体制べったりなのに、何がEXILEなのかが、意外に僕が拘っている疑問なのである。さらりと歌っているようで、カラオケで真似てやろうとしてもまったく歌えもしないほどの次元の高さだ。体制べったりでも別に構いはしないが、EXILEというグループ名をつけた意味が分からないのは、何故だか、引っかかりが大きいのである。それにしても、2009年の年の暮れに際しては、あまりにもつまらない観想になった。来年度が思いやられる気もするが、志だけは高く、と思う。みなさんもよいお年を!
たった二人の問題に過ぎないが、信頼し得る人々にずいぶんと迷惑と心配をおかけした。思い立ったら体が先に動いているという個性だったが、この離婚劇に纏わる出来事の多くが、単なる突進型の単純な思考しか出来ない僕の思考回路を幾分柔軟にさせてくれたのかも知れない。その後の猪突猛進型の思考の名残で取り組んだ小さな事業の完璧な失敗とが、立ち直りのきっかけを与えてくれたと思う。それにしても、自己の存在意義を根底から揺さぶられ、生きる確信を失っていた僕など、他者からは見放されても致し方のない存在であって当然だったが、それでも支えてくれる人がいるもので、人の情けが身に沁みた。心底ありがたい、と思う毎日であった。存在論的な次元でいうと、生と死との境目などないという思想に変わるところはなく、何かの拍子で、生死のどちらにでも惹きつけられる個性だが、いま年の瀬に2009年を振り返ってみると、結果的には、かつての自分と比べると、ずっと強く生のベクトルの方へ惹きつけられていた感がある。
2010年を生き抜くことが出来るのであれば、長命を望んではいない自己であるからこそ、さらに濃密な生を実感したいと思うばかりである。「さらに」と書いたのは、腐れた人間などはもう相手にはしないが、尊敬に値する人たちとは、誠心誠意のお付き合いをしたい、と願う。尊敬に値するとは、年齢の高低なども、職業なども、男女の違いなどの区別をすることとは真逆に、残り少ない人生であればこそ、あらゆる世間的な価値意識のバリアを取っ払って、学びとりたい人々と人間的な関係性を深めたいし、新らたな出会いにも鋭敏な感性を持ちたいと思う。無論その価値基準とは、僕には到底追いつけない意識の高さを持った人々との関係性を大切に育むということでもあり、そういうプロセスの中から自己の中に幾分なりとも精神の柔軟さと斬新な発想の原型が創造出来れば、という想いで、この一年を締めくくりたいと思う。
ところで、いま隣の部屋では、何が出演基準かもわからなくなった、紅白歌合戦の出演者の歌声が聞こえてくるが、どうしてもいまだに分からないことがある。EXILEというグループのことだ。二人のボーカリストの歌のうまさはずば抜けているし、僕も大ファンの一人だが、二人の他に、後ろで踊っているメンバーの意味はいったいどこにあるのだろうか?確かにダンスはうまいのだろうが、それこそ、EXILEを支えている二人の優れたボーカリストの他に、メンバーとしてのダンサーがなぜ必要なのかがまるでわからない。メンバーの数も7名から14名に倍増しているのはどうしてなのか?さらに、EXILEというグループ名をなんの意味があってつけたのか?EZILEとは、国外追放、亡命(者)をさす英語だろうに、彼らに異端者の要素などどこにもないではないか。この間などは、天皇誕生日に歌とダンスを天皇さんの前で披歴していたではないか。体制べったりなのに、何がEXILEなのかが、意外に僕が拘っている疑問なのである。さらりと歌っているようで、カラオケで真似てやろうとしてもまったく歌えもしないほどの次元の高さだ。体制べったりでも別に構いはしないが、EXILEというグループ名をつけた意味が分からないのは、何故だか、引っかかりが大きいのである。それにしても、2009年の年の暮れに際しては、あまりにもつまらない観想になった。来年度が思いやられる気もするが、志だけは高く、と思う。みなさんもよいお年を!