ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

年の瀬に想う

2009-12-31 23:18:58 | Weblog
 何だかんだといいながら、一年なんてあっという間に過ぎ去り、しかし同時に、じっくりと思い起こしてみれば、結構たくさんの出来事が起こっていて、自分の考え方もそれにつれて大きくブレているのが分かる。そう言えば、2009年のはじまりは、ずいぶんと無茶をやらかして結婚した相手との別れから始まった。お互いに諒解した離婚になるはずだったので、2008年の年末に離婚届けを相手に託したら、新年早々のメールで、調停にかけたとの知らせ。人間って、理解し得ない関係性など、とりわけ男女のそれは、徹底的に深みにはまり、心の傷が深まるばかりである。たった5カ月の結婚生活の破綻劇だったが、同じ地球上に棲みながら、まるで違う精神の次元にいたようで、それならなんで無茶な結婚をしたのかと問われると、自分でも論理的な説明が一切できないから不思議である。相手が一方的に悪いなどという卑怯な考えは持ち合わせてはいないが、それにしても、一年の約半分の時間を不条理な世界に身を浸していたわけで、その後の調停に巻き込まれて、ずいぶんと心腐った。

 たった二人の問題に過ぎないが、信頼し得る人々にずいぶんと迷惑と心配をおかけした。思い立ったら体が先に動いているという個性だったが、この離婚劇に纏わる出来事の多くが、単なる突進型の単純な思考しか出来ない僕の思考回路を幾分柔軟にさせてくれたのかも知れない。その後の猪突猛進型の思考の名残で取り組んだ小さな事業の完璧な失敗とが、立ち直りのきっかけを与えてくれたと思う。それにしても、自己の存在意義を根底から揺さぶられ、生きる確信を失っていた僕など、他者からは見放されても致し方のない存在であって当然だったが、それでも支えてくれる人がいるもので、人の情けが身に沁みた。心底ありがたい、と思う毎日であった。存在論的な次元でいうと、生と死との境目などないという思想に変わるところはなく、何かの拍子で、生死のどちらにでも惹きつけられる個性だが、いま年の瀬に2009年を振り返ってみると、結果的には、かつての自分と比べると、ずっと強く生のベクトルの方へ惹きつけられていた感がある。

 2010年を生き抜くことが出来るのであれば、長命を望んではいない自己であるからこそ、さらに濃密な生を実感したいと思うばかりである。「さらに」と書いたのは、腐れた人間などはもう相手にはしないが、尊敬に値する人たちとは、誠心誠意のお付き合いをしたい、と願う。尊敬に値するとは、年齢の高低なども、職業なども、男女の違いなどの区別をすることとは真逆に、残り少ない人生であればこそ、あらゆる世間的な価値意識のバリアを取っ払って、学びとりたい人々と人間的な関係性を深めたいし、新らたな出会いにも鋭敏な感性を持ちたいと思う。無論その価値基準とは、僕には到底追いつけない意識の高さを持った人々との関係性を大切に育むということでもあり、そういうプロセスの中から自己の中に幾分なりとも精神の柔軟さと斬新な発想の原型が創造出来れば、という想いで、この一年を締めくくりたいと思う。

 ところで、いま隣の部屋では、何が出演基準かもわからなくなった、紅白歌合戦の出演者の歌声が聞こえてくるが、どうしてもいまだに分からないことがある。EXILEというグループのことだ。二人のボーカリストの歌のうまさはずば抜けているし、僕も大ファンの一人だが、二人の他に、後ろで踊っているメンバーの意味はいったいどこにあるのだろうか?確かにダンスはうまいのだろうが、それこそ、EXILEを支えている二人の優れたボーカリストの他に、メンバーとしてのダンサーがなぜ必要なのかがまるでわからない。メンバーの数も7名から14名に倍増しているのはどうしてなのか?さらに、EXILEというグループ名をなんの意味があってつけたのか?EZILEとは、国外追放、亡命(者)をさす英語だろうに、彼らに異端者の要素などどこにもないではないか。この間などは、天皇誕生日に歌とダンスを天皇さんの前で披歴していたではないか。体制べったりなのに、何がEXILEなのかが、意外に僕が拘っている疑問なのである。さらりと歌っているようで、カラオケで真似てやろうとしてもまったく歌えもしないほどの次元の高さだ。体制べったりでも別に構いはしないが、EXILEというグループ名をつけた意味が分からないのは、何故だか、引っかかりが大きいのである。それにしても、2009年の年の暮れに際しては、あまりにもつまらない観想になった。来年度が思いやられる気もするが、志だけは高く、と思う。みなさんもよいお年を!

老いの美しさの意味をはき違えたらアカンよ

2009-12-31 04:08:22 | 観想
老いの美しさの意味をはき違えたらアカンよ

科学の発展がいびつなために、とくにその中の医学というジャンルは、何のための医術なのか、という思想を確立できないままに、人間の命をただただ、引き延ばすことに躍起になっているのではなかろうか。確かに平均寿命は延びた。厭になるほどに。しかし、80歳、90歳まで生き延びたとして、いったいそれが何になると言うのだろうか?物事の表層的なことしか考えないヒューマニスト諸氏には猛烈な批判を受けそうだが、僕に言わせれば、人間が生きて、老いて、その過程の中で、あくまで老いという現象を評価の対象から除外した上で、現役のままの人間として何ものかをなし得るのは、僕の考えでは50歳くらいまでではなかろうか、と思う。それ以後の生は、何ほどか無意味な要素を孕んでいそうな気がする。こんなことを書いてはいるが、自分自身のことは全く参考にはならないと思う。僕の場合は、50歳を遥かに超えてしまっていまだ生きながらえてしまったが、自分がこの世界に生み落とされたこと自体が間違いだったような気がするくらいだから、本当はこの種のことを書くこと自体に何らの説得力などないのかも知れない。その上、僕は、世の中のために何一つまともなことをなし得ていない。無駄飯食いとは僕自身の存在の実相をよく言い当てている言葉であると思う。早々にこの世界から立ち去るべきか、とかねてより思い、何度も生とは真逆の場に自分を置いてはみたが、なぜかその度に無意味に復活してくるのはいったいどうしたわけか?

自分のことはとりあえず、このくらいで留保しておくが、昨今の多くの人々は長く生きたいと思っているらしい。僕自身の思想から言えば、何となくウンザリもさせられるが、長く生きたいのであれば、その生き方に対しては、少し言いたいことはある。長く生き抜くということは、自分にのしかかってくる老いという現象を引き受けるということでもある。言うまでもないことだが、老いとは、若さが持つ美しさを喪失する過程でもある。体力の衰え、肌のツヤがなくなり、皺も増える。白髪が目立ち、あるいは白髪さえ喪失し、禿げチャビンの頭を晒すことでもある。このような老いの姿に対して、昨今では、誰もが醜悪だと感じてしまうような思想が蔓延していると思う。美容整形でいくら姿かたちの各部を修正しても、限りがあるだろう。若さを保つためのさまざまなサプリにもある程度の効果があるにせよ、いっときのものだろう。その他数えたらキリがないほどに、若さを保持するための方途は、その市場を狙う業界の思惑によって、尽きることなく新たな商戦が繰り広げられ、有り余るほどのアンチ・エイジングの商品がどっと押し寄せるように、垂れ流される。

このような若さを保たせるという思想、経済の論理は、その底に老いることは醜いという考え方を積極的に醸成させる。しかし、このような思想こそが醜悪だと感じるのは、アンチ・エイジングの思想には、老いというプロセスで若さにはない老いた美しさもあるということが欠落しているのではないか、と思う。肌の色艶が失せた後に残るもの、皺が増えたことで、果たしてそれを美と対極のものだとなぜよく考えもしないで、すでに喪失した若さゆえに持ち得るあらゆる要素を取り戻そうなどという不可能なことに血道をあげるのだろうか?老いる過程で表出する美しさになぜ気づこうとせずに、単純に若さを奪還すべく無意味な試みを繰り返すのだろうか?ならば、若さとは、掛け値なしに美しいのか?若さが有する人間の特徴をあまりにも誇大に、そして、絶対的な美の原型とするような思想が蔓延してはいまいか?こういう思想は繰り返しになるが、多分に経済の論理が底に在るはずなのだ。そのことに僕たちは、老いも若きも気づいておかないと、金の亡者たちの餌食になるのがオチである。その上、美意識に対する価値観すら操作されてしまう。

いまは、老いという過程に、思想の深化という要素を絡めるのを避ける。これを書いている目的はあくまで、老いの美的な意味を再考することである。人間の生涯の中で、若さの只中に身を置ける時期の方が圧倒的に短いのである。人間が本当に美しさを増すのは、老いの影が忍びこんで来始めてくる頃からだ。僕の裡では、長命など決して望んではいないが、それはあくまで己が生きる意味を喪失しているからであって、老いを回避したいという意味は皆無である。もしも何かの間違いでこれ以上長く生きることになるのであれば、僕自身は老いのプロセスを味わってこその、人生の終焉の意味があると確信する。生きているなら、僕は大いに、老いの美を慈しむ男でありたい。特に異性に対しては。若さゆえの美しさを感じたくもなるだろうが、それは、スクリーンの向こうに飛びきりの美女がいつの時代にもいるではないか。日常性の中の若き異性にはもうあまり興味はない。そういうことは、あくまで幻像としての存在を感受する機会があれば十分だ。それよりは、老いることに美を感じる感性を養いたいものである。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

東洋の思想・西欧の思想から感じ取れるもの

2009-12-29 23:37:59 | 哲学
東洋の思想・西欧の思想から感じ取れるもの

哲学的観想ではありますが、あくまでざっくりとした日常性に関する考察です。

僕たちの日常生活は、土台のところでは、動植物と変わるところがありません。日々の繰り返しの中の、生活時間なるものは、文化的・文明的なフリンジがつきまとっているにせよ、生活言語で語れば、飯を食らい、排泄し、動物が水浴びをするように風呂に入り、眠りを貪るということにおいては、本質的に生命現象として、特段優れたことはない、と言っても過言ではないでしょう。脳が発達したことによって、生きるという形態に、人間特有の営みや感じ方が付随してはきますが、心理学者の岸田秀の言葉をかりれば、人間とは、本能の壊れた生き物であるがゆえに、引き受けるべき苦悩が生じるのである、ということになってしまいます。

さて、人間の生活形態から文化・文明という要素を剥ぎとれば、その実体の単純さにはとても耐えられそうにもないものですから、東洋思想といっても幅広いですが、たとえば、禅宗のごときは、人間の思想を駆使して、思考回路のベクトルをどこまでも自然との合一に近づけるということによって、人間存在を無一物化して、すべての猥雑物を除去することに知恵の価値を置いているように感じとれます。換言すれば、人間と自然界のありとあらゆる存在物とは、存在という価値において同一であるという思想です。

これに比して、西欧思想とは、ひと言で言い表わせば、人間第一主義です。ギリシャ神話の時代から、ゼウスを頂点にした神々がおり、その下に人間がおり、またその下には、動植物、もっと広く言うと自然があるという思想です。この思想の回路は、キリスト教の旧約聖書にも引き継がれ、神が頂点におり、神に似せた人間が神によって創造され、神が、自然界を支配するのを人間に仕立て上げたわけですから、東洋思想と西欧思想の思考回路のベクトルは正反対の方角を向いていることになるでしょう。どちらが優れた思想なのか?というような疑問を持つよりも、いずれの思想も、人間の日常性を特別なものにしようという意味においては、同価値であると僕は感じます。

優れた言語能力を持ち、言語を駆使して思想をかたち創り、思想の力で、文化・文明のありようを洗練させることで、究極的には、人間の存在意義をいかに高めるか、という課題に思想は貢献してきたのであろうと思います。たぶん前述した岸田秀の発想からすれば、本能の壊れが、文化・文明を創造した原型であるということになりますから、どこまで人間が、それが東洋的であれ、西欧的であれ、思想の洗練さに磨きをかけたところで、たとえ、壊れても人間に確固とした生物としての本能が備わっているかぎりは、文化・文明のレールから逸脱することからは無縁ではあり得ないということになるでしょう。たぶん、だからこそ人間の日常性の中における幸不幸は、どこまで行ってもつきまとう厄介なものなのでしょう。しかし、それこそが、生のかたちということにもなりますから、自己の生を生き抜く限り、幸不幸に満ち溢れた日常からは自由にはなれないのではないでしょうか。人間は東洋思想のベクトルであれ、西欧思想のベクトルであれ、ゴールのない思想の闘いをしているようです。人は生き抜くつもりであるなら、シジフォス的な終わりなき闘いと対峙していくしか選択の余地はなさそうです。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

人間の想像力を生活言語の領域に応用するとね・・・

2009-12-28 09:44:51 | 哲学
人間の想像力を生活言語の領域に応用するとね・・・

想像力という限りにおいては、やはり、想像力と模倣との関係性についての規定が必要であろう。古くて新しい問題である。想像力といっても、想像力を駆使する人間として生きるためには、当然学習の時期が必要であり、先人の知恵やそこから構築される思想体系の吸収が前提になければ、そもそも想像力などといっても、事のはじまりから個の独自性から生み出されるはずのないものである。模倣という言葉には何ほどかクリエィティブな要素の欠落した、簡単に言えば他者のモノまねに過ぎず、価値のないもの、という認識があるのかも知れない。

しかし、よく考えてみれば、模倣なしに、人間の想像力の次元が高まることなどあり得ないのである。もっと砕いていえば、人間の学習活動というのは、模倣することを、学ぶと言い換えても差し支えないであろう。つまりは、人間の想像力の質的な向上、独自の想像力の構築の土台は模倣そのものなのである。そのことをよく説明しているのは、優れた思想家である竹田清嗣のフッサールの現象学的な観点である。竹田の言葉を借りれば、個々の思想の構築とは、既成の思想を、その人独自の言葉による思想の編直しであると規定する。ここで重要なのは、<その人独自の言葉による思想の編直し>という視点である。ここを抜かすと単なるモノまねに脱落してしまう。事と次第によっては、著作権法で訴えられるわけである。

さて、生活言語の問題に移る。人という存在は学習せずにはいられない存在である。学習という言葉を狭く捉えると、勉強嫌いの人間は、オレは学習などとは無縁だと反論するかも知れないが、たとえどのような職業についていても、学習能力なしに、人間の進歩はあり得ないし、実際には誰もが模倣という学習を通して、自分独自の能力開発を成し遂げるのである。その中心概念が想像力だ。お手元の英英辞書を手にとってごらんなさい。想像力に関する英語の説明は実に詳しい。それだけ、imagination という言葉は、西欧の思想のコア-でもあるわけである。ひとつの名詞に、imaginative, imaginary, imaginable などという派生語としての形容詞が複数個存在するのも、彼らの関心が高くなければ、そもそも生まれ出ない現象なのである。現代の日本人の思想のコア-も明治以来の歴史からすれば、当然に西欧流である。またかつては、これも時代背景が異なるだけで、その思想のコア-は、アジアの高い文化圏から入ってきた、朱子学や陽明学、果ては儒教という精神も模倣からはじまり、日本流に変容した代物である。だから、模倣から想像力へ、という思想のベクトルの変容は至極あたりまえの出来ごとなのである。

最後に日常生活のことである。生活言語によって営まれる日常が、至福に思えたり、生きていく勇気を奪われかねない絶望感一色に染まったり、はたまた、日常生活の中では当然に入り込んで来る他者の存在が限りなく疎ましく思えたりで、忙しい限りなのである。人間といえども、日常生活の実体などは、いろいろな要素を剥ぎとれば、誰もが動植物の一変種に過ぎんなあ、と感じるのではなかろうか。人間が特別な存在などと思える人は、旧約聖書の世界の中にどっぷりと浸かっていればよろしいので、ひょっとすると祈りの中で至福を感じ取ることも出来るのかも知れない。僕のような無神論者はどうするべきか?日常生活がとてつもなく退屈で、文化・文明といっても、飯を食らい、好き勝手に消費あるいは浪費し、屁を垂れ、排泄する毎日の中に、想像力を割り込ませることしか自己の生を生き抜く術はない。そこに日常性の中から至福の瞬間でも感じ取れたらこの上ないラッキーな出来事ではなかろうか。ここで言う想像力とは、単なる夢想や、夢物語などではなく、必ず人生を生き抜くための知恵に満ちた概念のことを言う。そこから発せられる言葉は、当然に他者に対する多大な影響力があるだろう。しかし、残念ながら僕の場合は、自分の生の意義についての考察で手いっぱいの状態である。力がないのである。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

なんだか気持ちが切り換わった感じがするのです

2009-12-26 00:14:50 | Weblog
 これまで僕がいろいろなところで書き綴ってきた日記は、800を超える。読み返してみると何とも自分でも閉口するような内面の葛藤が開陳されているようで、恥じいるものがたくさんある。自分では長年の人生の過去の総括などとうそぶいていたわけだが、もし僕に、自分の脳髄に溜まった思念を言葉にする能力のひとかけらもなかったとしたら、たぶん、酒でもカっくらってクダをまいては、その時々のうっぷんを晴らすことで十分な内実であるような気がしてならない。2009年という年を終えようとしているいま、僕が反省すべきことは、自分に対する恥の感覚の欠如だったのかも知れない。

 しかし、だからと言って、たとえば、僕に自己の内面の葛藤を普遍的なかたちーたぶんそれは小説という形式が最もふさわしいのだろうが、小説世界を構築するような知的能力にはちと欠ける。残念だが、認めざるを得ない事実だろう。詳細を書いてもこれを読んでくださる方にとっては、何の興味も湧かないことなのかも知れないので割愛するが、今年は、自分の実生活上の、特に生きる術に関する新たな試みをいくつか試みた。大失敗もあり、またその他のこととて、何一つとして、大いなる成果を出しているとはとても言い難いのである。たぶん、大きな意味で、僕には生きる力と称して差し支えないと思うが、それに関する嗅覚のごとき才に欠けるのだろうと感じる。青年期の極貧の生活が、自分をしっかりと見極める時間の余裕を与えなかった。よく考えもせずに手近なところで、生活の安寧という誘惑に負けた。長年の平凡な教師生活の中で、子どもをつくり、家も飽きずに3度も建て、銭金の心配もなく、惰眠を貪るように生きた。細々とした反抗の精神の頼りなげな表現の持続の堆積で、学校経営者から恨みをかうことになって、追放された。それ以後の、今日に至るまでの生のありようはどのように控えめに見ても生活者としても失格だろうし、長年の怠惰がたたって思考する力も衰えた。紙つぶてを投げつけるごとき駄文を書き散らすことで、自己満足のいくばくかを満たしていた感がある。

 さて、今日の表題の意味することだが、2009年が過ぎ、その次の年に突入しても、駄文を書き続けることに変わりはないのだろうが、これまでの駄文の中に時折混じる自己憐憫は、自分で再読していても、単なるナルシシズムの変形に過ぎず、そこからは、どのような意味においても、過去に縛られた自己解放の道筋は見えては来ない。もっと言えば、自己憐憫に支配された精神では、新たな才、あるいは眠り続けていた才(もし、それらがあればの話だが)の発見と開拓など到底出来はしないだろう、と思う。2010年は、このような気づきに対して、真正面からぶつかっていけるだけの胆力をつけること。そして、そもそも不可能なのかも知れないが、自己の能力の開発に取り組むこと。これがいまの僕の課題である。これを読んでくださっている方は、いかにも頼りなげな観想を持たれるだろうが、僕にとっては、ここを乗り切らねばこの世界に生を授かった意味がないと、青臭いかも知れないが、かなり真面目に考えている。まずは己の裡なる自己憐憫を捨てきること。これが目下の課題である。僕の駄文に付き合ってくださるみなさんには、たいそう退屈な想いをさせてしまいかねないが、時代劇でいうところの真剣勝負である。そのような2010年にしたい。いや、そうしなければならないと心底感じているのである。

なぜマスコミや政治家は簡単過ぎる事実を隠ぺいするのか?

2009-12-24 02:48:29 | Weblog
 政権交代劇が起こってから、民主党はいろいろと批判も出て来てはいるが、戦後、特に自由党と民主党が合体して後の55年体制以後の自民党政権が、勝手気儘に行ってきた政治という名の利権の貪り合いが、少しは具体的に市民の前に晒されることになったのは、評価に値する。が、その一方で、マスコミ全体が、なあなあの腰砕けの報道力しかないために、これまで国税がどのように使われてきたのか、知らないままに多くの保守層に属する市民の票が自民党を支えてきたわけである。しかし、よく考えてみれば、保守層といわれる市民もいい加減なもので、自民党が政権担当であるから、日本の経済的地盤も盤石だろうとタカを括っていた感がある。

 たとえば、民主党主導の「仕分け作業」の過程で、現在も多額の血税を、何十ものダム建設に注いでいた事実が明るみに出てきたわけで、たぶん、このような現実を殆どの市民は知らされていなかったことだろう。ことほど左様に、政治のウォッチャーとしてのマスコミの報道の甘さ、場当たり的な報道姿勢、その場限りの事件報道に明け暮れている姿も明白になったのではなかろうか。いま、着々と洗脳とも言える税制の見直し議論が喧しいが、その中でも直接税に頼っていては税収入が減少するばかりだから、間接税としての消費税を欧米並みに上げるという前宣伝を政治家、マスコミこぞってやっている、と言っても過言ではない現実がある。

日本の不況は戦後最大であろう。アメリカも失業率が10%を超えるのだから、もはや日本の過去の自民党政権のごとくに、政治・経済の模範国ですらない。欧州もしかり。つまりは、いまや、どこかの国を真似て何とかなる時代ではなくなったということである。日本の現状も相当にひどい。失業率さえ、アメリカにすぐに追いつく勢いである。こういう情勢の中で、日本の経済再建のために、欧米並みに、間接税たる日本の消費税を上げねばならないという議論の只中で、マスコミも軽薄に政治家批判をやるポーズをとりながら、消費税アップを喧伝しているのである。しかし、こういう間接税を世界の国々と比較しながら、政治家たちが市民に消費税の大幅な値上げを納得させようとしているときにこそ、マスコミの取材力・批判力が試されているのではないか。

 たとえば、日本の消費税と比べ物にならない欧米の間接税率の高さは、その一方で、直接税率が日本と比べて断然低いという事実を報道すべきではないのか。日本の国税は、直接税が7割以上を占めている。しかし、よく日本の政治家たちは、ヨーロッパ諸国の最も高い間接税率を日本の消費税との比較の対象としているが、間接税率がバカ高い国ほど、その国の直接税率は日本と比べようもないほどに低いのである。なぜ、マスコミはこの事実を正確に市民に知らせないのか?さらに言うなら、間接税率が高いヨーロッパ諸国においても、食品などの生活必需品は殆どの国で非課税対象なのである。日本はどうか?そのような議論が他の間接税の高い国との比較をする際に、ほんの一握りのマスコミ報道でしか事実を知らされなかった、と記憶する。いまや、まともな議論がなされないままに、間接税率の使い道を福祉税と見なすというような目的論に終始しているのは、何とも幼稚な議論だ。日本とは、いまだ名実ともに、アメリカの属国なのか?こんなことを言うと、右翼政治家や評論家たちの、日本の再軍備強化論者と間違われる可能性もあるのでこれくらいにするが、しかし、それにしても、日本の左派は滅亡したのだろうか。またマスコミが、かつて、第二次大戦の大本営に全面協力したように、権力に擦り寄る体質が抜けていないのか、ともかく腹立たしいことが多いこの頃である。

育む!

2009-12-22 01:50:10 | 観想
○育む!

もう若い人は知らないのだろうが、1970年は、安保改定の大きな政治的うねりの時代であった。関わり方の違いはあっても、誰もが時代の一員たる意識を強く持てた時代ではなかったか?それと同時に、歌手に三波春夫という人がいて、大阪の千里が丘で開催された万国博覧会のテーマソングを声高々と謳ったものである。満面に笑みを浮かべて、「千九百70ねんのこんにちは~」と未来に向けて、無際限の信頼を持って夢を語るように謳ったのである。あの頃、21世紀とは、大袈裟ではなく、手塚治の夢見た科学万能の時代が、人々を限りなく幸せにしてくれる、という信仰にも似た規定を誰もがしていたのではなかっのだろうか。少なくとも、自家用車は、手塚治の描いた漫画のごとく、空を遊泳しながら進むべき乗りものになっていたはずだった。

しかし、現実の21世紀はどうだ?青年たちが夢を持ち得る明るい時代になり得たか?自動車は空を飛んでいるか?科学は人間を幸せにしたか?人間は友愛の心情を持って生きているか?答えはすべて否だろう。

昭和の時代に夢見た21世紀の未来とは、社会的・経済的・人道的・思想的に、生き難い時代にしかなりえなかったのである。個別的な現象を分析すれば、分析の数だけ原因は発見できる。しかし、僕たちに最も欠けていたのは、育む!という濃厚な人間的行為ではないだろうか。現代は、育む!という概念とは真逆の、切り捨てと、放置の時代である。若者を育めない時代は、社会が荒廃する。科学が人間を必ずしも幸福にしなかったこの精神の荒廃した時代にこそ、人の心を育む!べきときが来たのだ、と確信する。この道筋を辿っていくしか、僕たちに未来はない。心底そう思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

自由と禁忌

2009-12-19 05:08:27 | Weblog
 江藤淳の評論集にも「自由と禁忌」という優れた作品があったと思うが、今日僕が語るのは、もっと卑俗な問題に関してである。人間の自由とは、どこまで自由であり得るか、また、自由というものを自己の精神のコントロール下におけるものなのか、ということである。

 テレビの番組を観ていて、いま民主党も沖縄の基地問題と、アメリカ政府との板挟みになって、明確な答えを出せずにいる。やはり戦後以来の長年にわたるアメリカの実質的な政治的・経済的属国になり下がっていたことで、民主党にもたくさんいる元自民党議員たち、あるいは、小説家であり続けていれば、なかなかの作品を書き遺せたと思われる、自民党から東京都知事に転身した石原慎太郎、いまや大阪庶民の代表を気どっている橋下大阪府知事、沖縄の基地をアメリカに撤退させた後の、基地労働者たちの代がえの仕事を創設するために、沖縄に大規模カジノをつくればどうかと提案している亀井静香、想いはそれぞれに違っても、日本にラスベガス規模のカジノをつくり、そこからの税収や労働市場を広げようとしている動きは、かなり大きなうねりとなってきているように思う。それを報じている番組の司会者、コメンテイターたちもこのような動きに反対するよりは、かなり良心的とも思える人々も賛意を表している始末である。アホか、と思う。

 どのようなものであれ、ギャンブルに纏わる悲劇は、枚挙に暇がないほどであろう。ギャンブルに関わる悲劇を報道しながら、賭博というものの存在を経済の論理だけで、その暗部に目を向けようとしない輩がいるのは、哀しい現実である。ギャンブル依存がどれほどの悲劇と、依存症に陥った当人の人生を取り返しのつかない状況に追い込むかに関して、もっと全体的な視野に立った議論をすべきであろう。アジアの新興諸国にはすでに国営のカジノがあり、めぼしい国としての日本にカジノがないのは、おかしいなどと彼らはのたまわる。アメリカのラスベガスをディズニーランドのように語る女性コメンテイタ-もいたりするが、たとえば、自分の娘がラスベガスにたむろする売春婦にでもならねば、悲劇を実感できないのかも知れない。ギャンブルという場に寄り集まってくる諸々の要素に、まともなものを探す方が困難なのである。そもそも、ラスベガスは、アメリカのマフィアが巨額の資金を投入して創り上げた巨悪の資金源を生み出すために生まれた砂漠の中の蜃気楼のような存在であることを忘れるべきではない。石原慎太郎などは、法律が悪いなどと平然と言い放つが、日本の法律では、カジノを賭博として公営させることを禁じているのは、真っ当なことだと思う。日本の賭博に関する法律は、勿論矛盾だらけではある。競馬や競輪や競艇が公営ギャンブルであるにも関わらず認められていることこそが、そもそもおかしいのである。競艇のドンであった笹川良一などは、もとA級戦犯の極右ではないか。日本の政治や経済の暗部を支え、保守党政治家への金をばら撒いていたのも、笹川をはじめとする、大物右翼が企業家きどりで、表社会に出てきたからこそなし得たことである。もちつもたれつの関係性は、その陰でどれほどの悲劇を生み出し、庶民の犠牲の上に成り立った悪徳であることを今こそ思い出すべきときである。

 しかし、もっと突っ込んで考えれば、人間とは度し難い存在であり、自由が手に入れば、その瞬間から悪徳が生み出される。かと言って、自由の禁忌が強烈に働けば、晩年の毛沢東が実行した文化大革命のごとき、思想の自由からかけ離れた施策になり下がる。大量の粛清、政治思想の強烈な統制などによって優秀な人間がどれほど犠牲になったのか、もはやいまとなっては、正確な数も知り得ない。

 自由と禁忌とは、あらゆる分野において、人間が人間として生きるために試されている両極の反対概念である。人間に、平行棒のごとき、中庸の論理は根付かないらしい。こういう限界性の只中で生きること。これが僕たちの生の姿なのである。致し方ない。

人は苦労しなければ成長しない、なんてたぶんどこかにウソがまじっているのだろう

2009-12-17 00:21:12 | 観想
人は苦労しなければ成長しない、なんてたぶんどこかにウソがまじっているのだろう

人は苦労しなければ、人間的な成長は望めないなどとよく人は言う。真理だが、この格言的な言辞には註訳が必要である。ほんとうは理解ある両親に恵まれ、兄弟姉妹と仲良く育ち、友人にも恵まれて成長することに越したことはないはずである。実際、こういう環境に育った人に何人も会ったが、すべからくみんな人柄がよい。こういう人には、死するまで幸福であってほしい、と心から願う。この人と一緒にいると心安らぐと思える人の中には、恵まれた生育歴から育んだ素直で実直な人柄をもった人が多いのは、悔しいが事実なのである。現代のようなギスギスした人間関係があたりまえのようになってくると、たまには温かな人柄の人間と出会うことで、ウンザリとして、腐りかけた感情が、また蘇生してくるのが実感できる。こういう人と巡り合ったら、友人として自分を認めてもらうのが賢明というものである。

人生の辛苦を舐めてこそ、限りなき優しさを身につける人もいる。立派だと思う。このような人と出会えるのは幸運な人である。ぜひとも友情なり、愛情なりを育むべきだ。ただ、残念なことに、人生の辛さの中を生き抜いてくるうちに、優しさというよりは、頑迷な個性の強さを身につける人たちも少なからずいる。勿論、苦労が自己の人生の中で生きてくることもあるだろうし、強靭な精神力を勝ち取って、少々の困難にはビクともしない人格を身につけることにも意味はあるだろう。しかし、人間、あまりに苦痛に満ちた人生を送ると、自分は強くなれても、他者に対する思いやりや、心の痛みに対して、共感する土台を失ってしまいかねないのも悲しい事実なのである。人生を劇場にたとえるならば、惨めな端役ばかり演じていると、役者の実人生まで、個性のネジくれた人格になり得る可能性が大である。たまには日のあたる主役も演じてみなければ、役者というものの醍醐味が分からないのと同様に、実人生においても、端役に例えてみれば、生の辛苦の中に居続けると、自己主張ばかりが強くなったり、他人をひがんでみたりで、あまり自己の生を大らかに楽しめなくなってしまう。僕自身が体験済みのことだから、たぶん、過剰な一人よがりでなければ、かなりの普遍性を持ち得ている生の真実ではなかろうか。


いまだにあまり変わってはいない気がするが、青年の頃に、権力や権力に支配された社会体制に対して異常なほどの嫌悪感を抱き、理屈抜きの権威への反抗の論理を自己の裡に構築したのは、何も僕自身が、社会という存在に対して鋭敏な感性を持っていたのではなく、単に育ちが悪かったせいもある。あまりに稚拙な要因なので認めたくはないが、どうもこの要素を抜きにして自分を語ることは不可能だろうし、そもそも真実から逃避している気がしてならない。この頃、不可能なことだが、卑屈にならない程度に豊かに、平穏な青春期を送っていたら、いったい今ごろはどのようなことを考えながら生きているのだろうか?などと他愛もないことを考える。いよいよ老年に立ち到ったのだろうか?

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

ヤワに生きることのすすめ

2009-12-16 06:02:43 | 観想
ヤワに生きることのすすめ

人間の営みなんて、ある意味、退屈で、その退屈感を耐え忍んで頑張っていたとしても、うまくいかないときは、徹底的にうまくいかないわけで、度重なる失策を重ねてしまうようなこともしばしば起こる。だからと言って、うまくいかないことで世の中を斜交いにみたり、自分の個性の良きところまで歪めてしまっては、自分から生きる価値をドブにでも投げ捨てているようなものではないか。以前のブログで、人生とは不公平なものである、と定義づけたことがあるが、これを書いているいまの心境も底では何ら変わることはない。僕はいまだに、不公平感を抱きつつ生きていると思う。金持ちとそうでない人間との差異を比較してみればよいが、まあ、貧乏な状況からは、よくもこれだけの不幸のかたちがあるものだ、と慨嘆させられるほどに、不幸が連鎖していく。かつて金持ちだった人間が貧困の底に落ちるような出来事が起これば、そこは底なしの暗い穴ぐらのごとき様相で、貧困は第一世代に止まらず、第二、第三世代にまで受け渡されることも珍しくはない。

自分の長きに渡る生涯を鳥瞰してみても、まだ人間としての意識のない幼児期に、富裕層から極貧の層の生活まで、一家ともども陥った。祖父の代で財産を全て投げ出すハメになったのである。第二世代の僕の両親などは、特に親父などは、どうしようもない甘えを鬼籍に入るまで捨てきれずにいた。当然僕の生きるべき時代にすべてを巻き返すことなど出来るはずもない。凡庸な教師の道を選んだが、いくら新たなことに挑戦してみても、学校社会などは、どこかで生活の安寧を優先して退屈感に耐えて生きるだけのことになる。僕がもぐりこんだのは京都の私学だったが、日々、金銭感覚が麻痺するほどに、生活は安定していたのである。これでいいのか?とも思ってはみたが、今度はどうしてもぶち壊したくなった。私学に働く教師が崩壊の道をたどろうとするなら、私学経営者に徹底的に嫌われることをやり抜けばよいだけである。ちょっとした学校改革も、自分の暴れっぷりの副産物として残る。少しはいい気分にはなれる。しかし、僕は確実に破滅の方へ、雪崩をうつように、転がっていたわけで、思い通りに学校を追放された。すべてはご破算になり、中高年にもなって、また無一物になった。いまもその延長線上に生き延びているようなものだ。貧乏なんて、伝染病のごとく伝播していくもののようだ。たぶん、僕の生涯は、この路線上に止まって、息絶えるのだろう。自己憐憫などは毛頭ない。世の中を生き抜くためにはどうしても何ほどかの退屈感を耐え忍ばなければならなかったと思うが、そういう選択肢が僕の裡にはなかっただけのことだ。


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長野安晃

死とは、換言すれば生の中断なのだ

2009-12-09 23:49:08 | 観想
○死とは、換言すれば生の中断なのだ

人間の錯誤の中で最も大きなそれは、死の捉え方なのではないか、と僕は思う。生きるプロセスで、人間は何かをやり遂げた、という確証をどうしてもほしいらしい。それは、ある人が亡くなると、生き残った側の人間が必ず口にする言葉によって、よく証明されているではないか。曰く、志半ばにして、この世界から旅立たねばならなかった故人の無念を想うと・・・云々というような。

しかし、人間の死とは、誰にとっても唐突に訪れる生の終焉の宣告なのである。それは医師にすがろうが、高価な薬を飲もうが、ともかく何をやろうが、死ぬときは確実に死ぬのである。だから自分の死を迎えるときが来たら、ジタバタせずに、生の中断としての死を認めないわけにはいかないであろう。つまりは、人間の死とは、あらゆる死の形体を考えてみても、すべてが中途半端に終わる。敷衍すると、人間の死とは、やり残したもので満ち溢れているのである。また、それでよいのである。

このように考えることが出来れば、あるいは、思い切ることが出来れば、人は完全主義的な思想に苦しめられることもない。世の中には、完全主義者、あるいは完璧主義者たちが案外多いし、その思想ゆえに、自ら自己の命を縮めていることに気がついていない。自分の直面している課題と真面目に向き合うことは好ましいことだが、だからと言って、常にその課題を自己の支配下に置く必要もないのである。支配しようとすれば、そこには確実に不毛で不合理な完全主義的思想が頭をもたげて来るのは必然である。人間はこういうつまらない錯誤のために、自らの命を台無しにしていることがどれほど多いか、ということにもっと関心を持つべきなのである。心の病の本質にあるのは、このような心的現象であることにも、覚醒しておくべきなのである。

人間が、生き生きと自己の生を全うするには、生の本質たる、生の中断ということに想いを馳せることではないか。死というものを必要以上に怖れるのは、死の意味を理解していないからに他ならないし、それは別の角度から見れば、生の意味も本質のところで見失っているということでもある。生とは死によって必ず中断する存在であることを諒解していれば、生の只中で、完全主義なる潔癖さに悩まされることなどありはしない。そうであれば、人はもっと大らかに生きることも出来ようというものではないか。そうではありませんか?

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漠然とした不安?そんなものあるわけがないよ

2009-12-08 22:07:09 | 哲学
○漠然とした不安?そんなものあるわけがないよ

知性のある方が好んでもちいる表現、それも切羽つまったときに使う紋切り型の表現、それが、<漠然とした不安>という言葉使いである。無論、かの有名な芥川龍之介の自死の際に、この言葉を残してこの世界から去ったことを知らない人はいないだろうが、僕から言わせると、「漠然とした」不安感などという思念はそもそも存在し得ない。我々が、もし、<漠然とした不安>などという言葉を使うとしたら、そこには必ず具体的な理由がある。それは卑近な例を挙げれば、金の心配であったり、健康のそれであったり、夫婦や恋人、親子の愛情に対する深い苦悩などが潜んでいる。芥川の<漠然とした不安>を近代という激流の中で、かつての日本の価値観に揺らぎが生じたことに対する文学上の高潔なる杞憂であると一般的には捉えられてはいるが、しかし、この規定に関して、僕はかなり懐疑的である。たぶん、芥川には、精神の深い病があり、人間関係上の問題があり、芥川のごときか細き神経に亀裂が走っていたと想像する方が説得力がある、と僕は思う。そういう日常的な心配事を止揚した言葉が、芥川の場合、たまたま<漠然とした不安>という近代日本のありようを代表するかのようなスローガンになったのではあるまいか。

僕たちを取り巻く社会環境は、確かに不安なのである。しかし、それはあくまで経済上・生活上のそれであって、観念的な不安感などではない。もし、敢えてこの種の不安感を観念的・思念的不安感であると規定したいのであれば、その心境の中には確かな逃避の意図があるに違いない。僕たちの理念をかたちつくるのは、あくまで現実の世界像であって、現実の世界像との折り合いの結果として、それを言葉にするための道具としての思念及び思想が形成される。芸術の分野における芸術至上主義というひとつの思考形態は、生活の現実を考えなくても生きることが出来た人々か、あるいは、生活の現実から敢えて身を離している人々の戯言である。その意味で僕は~至上主義という概念を信用しない。かと言って、生活言語にまみれて思想を構築する努力を捨てることもない。生活言語にまみれるのは、言ってみれば、生活至上主義という偏狭な生のあり方に過ぎないからである。


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長野安晃

肉体を鍛える!

2009-12-07 01:08:19 | 観想
○肉体を鍛える!

とは言っても三島由紀夫のごとく屈折した、三島のドグマティックな日本的武士道精神などとは何の関わりもないし、関わりたくもない。かと言って、昨今大流行りのメタボ追放の流れに乗っかったトレーニングでもない。僕は別にメタボが醜悪などとは全く思ってはいない。腹の突き出た中高年も昭和の時代は大人の象徴だったわけで、男が着物を着るとなると、いくら腹筋が左右で割れ、筋肉のコブが何個にも別れ、それが目立っていても、肝心のお腹の脂肪がとれ、ペッタンコであっては、貫録どころの騒ぎではない。ビールとタバコと日ごろの不摂生で、デンと突き出た脂肪たっぷりの腹の出っ張りが、昭和のお父さんの着物姿を美しく見せたわけだし、それこそが、昭和という時代の、父親という存在がいまだ家庭の中で、厳然たる力を保っていられた象徴的な姿だったのではなかろうか。勿論、こういうお父さんは、55歳定年であり、つまりは現代のような長命ではなかったわけである。退職後の数年後には多くのお父さんは脳溢血か、心筋梗塞かであっさりと、自分の役割を果たし、この世界から去っていったのである。

日本人の平均寿命は、トータルでは世界第一位の平均寿命の国になった。医療の発達は大きな貢献をしたことだろうし、悪性のガンや難病でもなければ、もう生きるのはいいや、と思ったところで、なかなか死なせてもらえないのが現実だ。オランダやベルギーのように、法的に安楽死が認められてはいないし、患者が亡くなってから後に患者の家族が、担当医や病院を相手どって医療訴訟を起されるのを医師は怖れているものだから、何が何でも延命治療をすることが日本の医療の基本である。本人がもういいと医師に伝えたところで、家族の意向によって、医師は自らの身を医療訴訟という場に置くわけにはいかないわけで、この点に関しては、死を望んでいる患者も、それをかなえてやれない医師も気の毒な話なのである。昨今は、こういう悲惨な状況の見直しがなされつつあるようだが、まだまだ法制化にも至っていないし、不完全なものだ。

さて、なぜ僕が長年自分の体を鍛えるのを怠ってきたのかと言えば、昔のお父さんたちのような脂肪がたっぷりとたまって突き出た下腹になるまで、好きなように飲み食いしてやろうと思ったからである。つまりは、体にいいことなど一切やらないと心に決めたのであり、その結果、突然死でも自分に訪れればそれでよいではないか、と決め込んでいたからである。しかし、考えてみれば、酒は、高校2年生のときに、悪友が安物のウィスキーの大びんを持ってやって来たときに、飲み方も知らないままに、二人で1000mlほどの瓶を、ストレートでぐいぐいやったら、しっかりと急性アルコール中毒になって死にかけた。天井と床の区別もつかないほどの苦しみを経験したので、後年、酒に酔って気分がよい、という感じになると、あのときの悪夢がトラウマのように襲ってきて、酒はまるでダメなのである。タバコは、教師時代は一日に100本は吸う筋金入りのチェインスモーカーだったが、殆ど全体主義的とも言える嫌煙権運動に嫌気がさして意地で止めた。タバコくらいと思うだろうが、日に100本ともなると、すっぱりと止めると幻影が見える。気がつくと、真夜中に何度もタバコの自動販売機の前にいて、ハッと気がついたなどという洒落にならない経験だってある。だから僕は、昭和のお父さんたちが、大手を振って大酒を飲み、タバコをふかしながら仕事をし、家庭でもスパスパとやっているわけにはいかないのである。なんだかとても健康で、それなら、たぶん中高年の心臓には悪いだろう、ウェイトトレーニングをやってやろうじゃあないかと、10年ぶりに再開した。当然、どこかのジムのトレーナーなどにつくことはない。だって、健康のためにやっているのではないんだから。

僕だって、ウェイトトレーニングの常識はよく知っている。本格的に筋力をアップさせるためには、筋肉の適度な休養が絶対に必要だ。それが筋肉を発達させ、筋力を増強させ、結果、健康になる。しかし、僕の目的は、トレーニングの途中で何かの拍子に、心臓でも止まってくれないか、と思いながらやっているのである。当然筋肉など休ませてやらないのである。だから極限まで追い詰める。筋力トレーニングは毎日やるのはご法度だが、最もキツイ方法で毎日自分を責め立てる。朝は、体がギシギシと音を立てている。僕の意図どおりに事が運んでいるのかどうか?なんだか、近頃は、ずいぶんと腕も太くなったし、胸板も厚くなった。まあ、これなどは単なる見た目のことだから、僕の思惑どおりに、ある日電球が切れるようにパタリと逝くのかも知れない。それでよい、と思う。あまり思い残すこともない。そんな想いで、毎日自我流のトレーニングに僕は励んでいるのである。やっぱり僕はアホなんだなあ、と思う。ただ、三島のようには、自分の死を美化しない。それだけは確信がある。

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長野安晃

文学と政治再考

2009-12-04 22:55:40 | 文学
○文学と政治再考

日本の戦後の民主主義をずっと貫いて文壇の中で飽きることなく論じられてきたのは、「文学と政治」という関わりについてであった。どのようなコンテキストで語られたかと言うと、主に、文学は、政治にとって有効か?という疑問詞がついてまわるような論理がまかり通ったのである。戦後民主主義とは、戦後から今日に至るまでずっと通用する概念か?と言えばそうではない。それを大雑把にまとめれば、軍国主義時代の思想的弾圧下をくぐりぬけて、アメリカ軍を中心とする極東軍事裁判という日本の軍部に対する報復劇の後の、誰が何を言おうと、もはや特高警察に引っ張られる心配もなくなって、焼け野原から日本の高度経済成長期に突入する前後までのごく限られた期間の、政治的には左右の綱引きが世界政治の底の方でしきりに行われている頃の、牧歌的な政治空間に咲いたあだ花のごとき対立概念だったと規定しておく。

1960年安保改定闘争から1970年のそれへの時代的推移の過程で、日本における政治革命があたかも現実的可能性に満ち溢れた課題として論じられていた頃、マルクスやエンゲルスに象徴されるプロレタリアート独裁政権への理論的構築は、日本の左翼的な青年たちには抗えない効力を持ち得た時代である。このような政治的空気が日本に蔓延するずっと以前に、現実にレーニンの指導によって蜂起したプロレタリアートは、ソビエト連邦という巨大な共産主義国家を確立したし、ソビエトを中心にして、中国共産党による共産主義政権の発足、東ヨーロッパ諸国の共産化、北朝鮮という身近な共産主義国家の樹立等々が世界を席巻した時代、そして、共産化をまぬがれた西側諸国との、東西両陣営が対立関係にある狭間で、日本という、アメリカの実質的な属国でありながらも、社会主義的な政治制度がまだらに生きている不思議な空間の中で、日本のインテリたちは、果たして文学とは政治革命にとって有効なのか?というある意味浮世離れした議論の渦中にいたのである。その頃の情勢は、プロレタリア独裁政治革命における文学の役割など、ほぼ無効であるという烙印を押された感があった、と記憶する。

しかし、文学と政治という概念を対立的に論じるならば、本来ならば、文学は、当時のような劣勢に立つようなものではそもそもないのである。たとえそれが革命的な政治的戦略という実践論であれ、革命を指導し、そして革命を成し遂げる実践論の中に、人間の荒々しい気慨と目標に立ち向かう勇気、折れそうになる気弱さ、敵をなぎ倒す瞬時の躊躇いと怖れ、といった人間的気質を抜きにした政治戦略などあり得るはずがないのである。ここに文学という人間を映す鏡のごとき、あるいは泉のごとき存在がなければ、人は革命的な政治の闘いの場になどに意味を見出し得ないのである。無論、ここで言う文学とは、政治的スローガンとしての扇情的なそれではない。人間存在の根源に関わる生と死と愛と憎悪とがない交ぜになった真正の文学である。優れた政治的指導者はすべからく、優れた文学の享受者でもある。たぶん、政治的指導者たちの方が、文学の本質をよく捉えていたのではないか。ごちゃごちゃとした両者の優劣を論じていたのは、他ならぬ文学者たちであり、学者連中であり、エセものの政治屋たちだけであったことだろう。

そもそも文学と政治論争などは、成立し得なかった、と僕は言いたい。文学を享受し得ない人間には政治はわからない。そういう政治家がいたとしたら、それは、政治屋に過ぎないのだろう、と思うこの頃である。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

なんでもかんでも、個人情報保護とはいうけれどもねえ・・・

2009-12-03 19:34:20 | Weblog
 これまで個人情報の管理があまりにズサンに行われて、いろいろな悪徳商法や、公安警察などに、利用されていたことに関する改善の意味を込めた個人情報の保護というなら納得もできる。しかし、最も肝心な要素は改善されることなく、個人情報保護という概念だけが独り歩きしていることはないか?個人情報保護法が施行された後にも、たとえば、政府の厚生労働省は、大量の個人年金記録を喪失しているし、世の中にはびこる悪徳商法も衰えるどころの騒ぎではない。パソコンをお持ちの方なら、いったいどこから自分の情報が漏れるのか不思議でならないほどの迷惑メールが受信ボックスの中に飛び込んで来るような体験をお持ちだろう。また、こんな法令など無視して動くのが、昔で言うなら特高警察であるところの現代の公安警察である。個人情報の獲得こそを活動の主な要素としなければ仕事にならないだろう。

 勿論、個人情報がしっかりと守られるということ、それ自体は当たり前のことだろうし、大切なことなのである。ところが、このような風潮が一般的になるにしたがって、私が心配するのは、若い層に属する人々の意識が、拡がりを失い、それどころか、収縮していくさまに何度もめぐり合っている。40歳以下の年齢層の人々に、この傾向は顕著だと感じる。つまりはこういうことだ。個人情報は守られねばならない。ただし、個人情報をたとえば、仕事上、あるいはプライベート上明らかにしなければならない状況もある。しかし、ここがうまく機能していないように思われる。再度明らかにしておかねばならないことは、個人情報保護法とは、無論その当人にとって不特定多数の人々に、当人の了解なしに、情報が漏れるのを防ぐための重要な法律である。現代の日本においては、考えることにあまり慣れていない人々まで、個人情報における秘密保持に関して敏感に反応する。しかし、私に言わせれば、これは決して喜ばしい現象ではない。私が危惧するのは、現在のような風潮が創りだしたのは、若者たちの、思考の閉塞を助長しただけなのではないか、と思えるからである。

 仕事がらみの話だが、仕事上の担当者として私の仕事に関する補助的な役割を担っている31歳の青年は、よく仕事も出来るので、この青年を飛ばしてその上司に、あるいは最高責任者に物申すことはしないでおこうと決めた。まずはこの青年の意識の濾過にかけて後、私の素案を上に持っていくことを二人の約束事にしたわけである。私が知っているのは、この会社の本部のメルアドしかないわけで、そちらに書き送ると、前記したことが実行できなくなるから、私はこの青年に君のメルアドを教えておいてくれと何度か機会あるたびに頼んでいたが、現在に至るも知らせては来ない。今朝も電話で同じことを依頼したが、会社のパソコンで私のメールを見るとの返事だった。携帯の電話番号は知らせるのに、メルアドは秘密らしい。それがこの男のプライバシー保持なのか?さっぱりわからんが、はっきりとしたのは、私がこの男に対する信頼感を全く失くしたということである。31歳にもなって、自分が信頼されているかどうかも理解できない人間をなぜこちらが立ててやらねばならなん?もう、この男は使い走りにしか使わない。すべての重要な案件は上司に向かってものを言うことに決めた。女の子がボーイフレンドにメルアドを教えようかどうか迷っているのではあるまいし、アホらしいこと、この上ない。今日は単なる愚痴ブログである。お許しを。