ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

棄てる(7)

2021-09-12 14:29:05 | 文学・哲学
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 AIだとかIOTだとか、それに伴うデジタル時代の到来によって、ロボットが人間の仕事を奪う、という恐怖感と多くの人々は闘っているのだそうだ。ぼんやり眺めているテレビ報道や討論番組の論調は、ほぼ同じように時代が変わり、仕事の質量も変わるというような感じだ。しかし、そういうことをテレビ番組の司会者や多くの論者たちは、事の本質を伝えている側であるからこそ、自分たちは安泰だと云う顔をしているのを観ると、オレはついつい吹き出しそうになる。
 何故って、この時代、誰もが例外にはなれないということだからね。
特に激変をまともに食らうのは、大学を出て、就職活動をして職を得た中間層の人間たちだと云うことは当然のことだとオレは思う。だって、彼らの事務仕事や営業の仕事等々こそがAIの得意な分野ではないか!事務仕事をコンピュータを操って効率的にこなしていると思い込んでいる人々そのものの仕事がAIにとって代わられる。ロボットは単純労働を人間の代わりにこなしてくれるのではなく、自分の仕事が高度だと認識している人間の仕事そのものをロボットがやり抜くわけだろう?人間の創造性がAIを創ったわけだから、特に先端技術の研究者を始めとした知識階級だけはどこまでもこの社会に必要であるはずだ、と思いたがるのは心情的にはよく分かる。
ロボットに人間が支配されるなんて、マンガっぽい未来社会を描いた映画の世界でしょう?という反論が聞こえてきそうだ。映画の世界さながらにロボットが人間の支配者になるかどうかは別にして、大した能力も持たないのに人並み以上の生活をしてきた人間こそが、頭を柔らかにして、自分たちの仕事を創り出さなければならない時代に突入した、と思うのが当然の論理的帰結だとは思うね。
まあ、変化は気づいた時には変化そのものが加速度的に速度を上げて起こる、という真理をオレは信じているが、多くの人間が右往左往している頃にはとっくにオレはこの世にいない。孤独な老人の孤独死の後のことだ。その意味でオレは幸福な?ことに逃げ切り世代だね。こんなことを考えると、常に襲い来る自己憐憫も少しは和らぐ。ともあれ、自分は大した自己中人間だと思う。オレみたいな精神的な根っ子のない人間は、どこか卑屈だということで、偶然にもこんな駄文に遭遇した人たちの怒りの鞘を納めてもらう他ないな。
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 オレの日課は、暑すぎたり、寒すぎたりする自分のアパートから抜け出すことが行動の動機になっている。が、それにしてもむさくるしいアパートを一歩出ると、心も少しは軽やかになることは事実だ。コンビニ弁当を鴨川べりで食す。夏は橋の下のベンチで涼やかさを味わえるが、冬の寒さが川の水が身体の芯まで冷やしてしまう。それでもやはりアパート以外の場所にいたい、と想う。アパートはどこまでも自分の憂鬱を深めるだけで、何の発見もない。その意味で、オレはドストエフスキーが「地下室の手記」を書いた精神性には全くかなわないことに対して自覚的なのだ。そもそもオレのやることなすこと、独自性なんて一切ないし、思いつきと真似事だけの行為なんだから。本当ならば金のかからない屋内は整っているし、実際には粗末と云えど、オレのアパートがオレ自身の「地下室」だが、弱気がオレを大切な場所から引き離してしまいがちだ。平たく言えば、必要以上に老人の散歩で気を紛らわしているということだ。
最近は主に市営の図書館の食堂でささやかな飯を食い、食べ終わったらロビー前のカウンターの司書のおねえさんのところに本を借りに行く。本を借り出さない場合は、勝手に書棚から気に入った本を取り出して、読書机で読めばいい。が、オレはあくまで借り出しを装う。何時間かを図書室で過ごした後、もう読み終わりましたと称して、再びカウンターに向かう。目的はオレたちのような金も人生の目的もない老いぼれの無目的な生き方からすると、若い女に出会えることが人生最大級の幸福だからだ。少なくともオレにとってはそうだ。オレたちの場合、もし、街中で、きれいな若い女に声をかけでもしたら、いきなり警察の取り調べ対象者だ。だからこそ、市民サービスを仕事にしている、事務的な声、心の籠ってもいないカタチだけの対応から得られる異性の空気を思い切り味わうのだ。オレは人と心を通じ合わせることをとっくに諦めた人間として言うが、そもそも人と人とが心を通わせているなんていうのが幻想ではないかと、この歳にして改めて想うのである。
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 ある日のことだ。オレが市民図書館でカウンターの向こうの若い女性司書とたわいもない話をしていると、さりげなく40代後半の色気たっぷりの、おそらくは水商売上がりの女がオレの隣にいる。その女は、探している本の場所を司書に聞いているというさまである。自然に耳に入って来る書名はたいしたものではない。渡辺淳一の「失楽園」がどこの棚にあるのか?ということだった。小説の棚のところに行けば確実に見つかるような、オレにはライトノベルの部類に入る、無理やり書いた感のある恋愛小説?(と言えるだろうか?)だから、その女を目的の本が並んでいる書棚のところまで連れて行ってやったのである。
これがこの女とその裏でこの女を操っている詐欺のプロ集団だったということを後で知って、人の欲望の果てることなきことにむしろ感嘆させられた。「振り込め詐欺」にはじまり、この手の詐欺の手口はどんどん巧妙になっていくのをテレビで観たことがある。勿論、この時、この女が詐欺の仲間とは見抜けなかった。というよりも、見抜きたくなかったのである。すでに自分の生活が最底辺であることに嫌というほど慣れきってしまっていた。そんなオレが詐欺に遭うということなどあり得ない、という自分なりの冷静な判断があったし、何より、もう人を疑ってかかる生き方はとっくに卒業してしまった、と思っていたのである。
女は不自然なほど馴れ馴れしかった。オレの本好きを話題にしてどんどん距離を詰めてきた。軽い話題から、彼女の人生の物語(と敢えて言っておこう。作り話であることは話の辻褄が合い過ぎていることから分かるものだ)を語り出すまでに一週間とかからなかった。10日後には彼女はオレのアパートに出入りするようになっていた。
オレはかつて風俗で金を使い果たした経験があった。性の放出だけならあらかじめ立てた予算で済みもしたが、あの時は、見え透いた風俗嬢の小芝居のような喘ぎ声で、何度も萎えてしまったせいで時間延長を数回強いられるハメになり、なけなしの金が底をついたのだった。その後のことはカードローンの自転車操業地獄のループの中から永らく逃れることが出来なかった。このことが自分の頭の底にへばりついている。
この女の色気が、何某かの目的を持ったものであることは、いかに鈍いオレにも感じとれた。そうでもなければ、オレみたいな男にこんなに不自然な近づき方はしてこない。彼女だったら気の緩みを誘うためなら、確実にオレと寝る。そう思った。同時に、彼女はオレみたいな小遣い銭にもならない厚生年金と生活保護受給の小金を狙っているのか?と想像を巡らせると、何となく気の毒にもなってしまう自分がどこかにいる。風俗のヘタな演技じみた喘ぎ声と同様、この種の雑念は、オレの雄の欲求を萎えさせるのだ。そして遂にオレは彼女と寝ることはなかった。中途半端に勃起したペニスをなだめながら、理性の声が聞こえるのを待っていると、客観的な自分の像が感じられて、彼女とは適度な距離を保ち続けた。1カ月もすると彼女は姿を現さなくなった。図書館にもどこにも彼女の痕跡すらなくなってしまった。
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 図書館で何となく口をきくようになった老人仲間から、彼女の噂を聞くハメになった。彼女は世の中から相手にもされなくなった独居老人の年金狙いのために、躰を開いて安心させ、性的な悦楽から永らく遠ざかっているために、貧相な性の放出の後はすぐに寝入ってしまう老人たちの預金通帳とハンコと保険証を盗んでいた。貧困ビジネスと云えども、数で稼げばかなりの儲けが期待出来るのだろう。裏にはこの手の詐欺グループがいて、通帳の解約係が身分を偽って通帳解約ですばやく現金化するというシステムだったらしい。今どきの金融機関のコンプライアンスの隙間を縫ってやり遂げる詐欺なのだろう。
 貧困ビジネスというか、貧困詐欺は孤独な老人が失った過去の、豊かだった(と自分で思いたいだけのことなのだが)自分の姿を思い起こさせてくれる心情をくすぐられれば、多分大抵の老人は詐欺の罠に落ちると思う。その上、熟した肉体を差し出されれば、成功率はほぼ100%だっただろう。オレが被害を免れたのは、過去の苦い体験があったからに過ぎない。オレたち老人に、しかも地位も金も名誉もない人間に近づいてくれる女たちはいない、と思い知る方がいい。酷な話かも知れないが、オレたち、死にゆく老人が直面すべき現実を受け入れる時期だと、認識を新たにしなければならないのだ。
死を前にして平静に振舞うことをオレたちの世代はもはや強いられているのだ。もし、オレたちと同年代かそれ以上で、金や地位や名誉に恵まれた人間がいて、男女を問わずちやほやされることの意味をわきまえず、勘違いした老年を過ごしている人間たちがいるとしたら、そいつらは畢竟、人生の何たるかを知らずに生を閉じるバカだとオレは思う。奴らなら助かるものなら命乞いさえするだろう。太古の昔からあらゆる栄華を手に入れた一握りの人間たちが行き着く果ては、「不老長寿」だからだ。
所謂成功者と呼ばれる人間の中には、もともと恵まれた環境に生まれた人間もいるだろうし、苦難の中から這い上がった人間もいるだろうが、成功者こそが自らの生と死の意味を独自の視点で捉えて、この世界を去る時に心に残る言葉を発するべきだ、とオレは思うね。そもそも彼らは社会的影響力を得た人間たちだ。これからの若者たちに対して、どのようなカタチであれ、意義あるメッセージとなることを遺す義務があると確信を持って言える。まあ、自分に出来ないことを言うのが人間の本性だ。オレの呟きも「神さま」「仏さま」がいればにっこりと微笑んで許してくださるだろう。


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