○省察(2)
「失敗多き人生だった」などと、僕はこの場でしばしば書いてきましたが、僕にとっての失敗とは実のところ何だったのか?と、このところ考えることが多くなりました。確かに現象的な失敗譚は数え上げればキリがありませんし、その意味では僕という人間はいかにも出来の悪い男だとも思います。悔やんでも悔やみきれないほどです。
多岐に渡る出来事、それもあまりいいイメージを持てないそれらは、僕の中では、あるひとつの慨嘆と連結しています。それは、自分という人間は、他者のために何かを、いや、何一つなし得ることが出来なかったのではなかろうか?ということです。時折、過去に関わった人から自分のその折々のイメージを聞かされることがあります。直接的・間接的にあります。そういうとき、自分の中の思い出というものを掘り起こしながらの過去への傾斜に立ち至るのですが、自分の裡で整理出来ているそれと、他者から聞かされるそれとの大きな乖離感を味わうことがしばしばあります。自分の中のイメージと、ある時は微妙に、またある時は隔絶した違いがあるので、驚愕に近い感覚を抱くことがあるのです。
原因はよく分かっています。それは、過去の体験譚を自分に都合よく変換させていることから生じる乖離感です。コンピュータ用語で云えば、上書き保存です。それも自分に都合よく上書きしてしまっているから始末に悪いのです。それでは、原本=過去のリアリティはどうなっているのかというと、私たちが一般にコンピュター上で、上書き保存する前の事実の記述や表現のありようをしばしば覚えていないように、僕は上書き前のリアルな現実を原型のままには殆ど何も覚えていないのです。無論、僕が「失敗多き」という場合、それが実はとてつもなくすばらしい成果であるはずはなく、失敗・失策の濃度を、創作を加えて薄めている可能性が強いということなのでしょう。ともあれ、何も考えず、ウザったいことは忘却の彼方に圧しやって生きるのも一手なのですが、間違いつつも、やはり自己総括は続けていくのだろうな、と思います。これを読んでくださっているみなさんは、常に眉にツバをつけながらの解釈でいいのです。それでもありがたきことだと思っています。今日の省察とします。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
「失敗多き人生だった」などと、僕はこの場でしばしば書いてきましたが、僕にとっての失敗とは実のところ何だったのか?と、このところ考えることが多くなりました。確かに現象的な失敗譚は数え上げればキリがありませんし、その意味では僕という人間はいかにも出来の悪い男だとも思います。悔やんでも悔やみきれないほどです。
多岐に渡る出来事、それもあまりいいイメージを持てないそれらは、僕の中では、あるひとつの慨嘆と連結しています。それは、自分という人間は、他者のために何かを、いや、何一つなし得ることが出来なかったのではなかろうか?ということです。時折、過去に関わった人から自分のその折々のイメージを聞かされることがあります。直接的・間接的にあります。そういうとき、自分の中の思い出というものを掘り起こしながらの過去への傾斜に立ち至るのですが、自分の裡で整理出来ているそれと、他者から聞かされるそれとの大きな乖離感を味わうことがしばしばあります。自分の中のイメージと、ある時は微妙に、またある時は隔絶した違いがあるので、驚愕に近い感覚を抱くことがあるのです。
原因はよく分かっています。それは、過去の体験譚を自分に都合よく変換させていることから生じる乖離感です。コンピュータ用語で云えば、上書き保存です。それも自分に都合よく上書きしてしまっているから始末に悪いのです。それでは、原本=過去のリアリティはどうなっているのかというと、私たちが一般にコンピュター上で、上書き保存する前の事実の記述や表現のありようをしばしば覚えていないように、僕は上書き前のリアルな現実を原型のままには殆ど何も覚えていないのです。無論、僕が「失敗多き」という場合、それが実はとてつもなくすばらしい成果であるはずはなく、失敗・失策の濃度を、創作を加えて薄めている可能性が強いということなのでしょう。ともあれ、何も考えず、ウザったいことは忘却の彼方に圧しやって生きるのも一手なのですが、間違いつつも、やはり自己総括は続けていくのだろうな、と思います。これを読んでくださっているみなさんは、常に眉にツバをつけながらの解釈でいいのです。それでもありがたきことだと思っています。今日の省察とします。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃