ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

なぜキム・ジョンイルは暗殺されないのか?-素人政治論考

2009-03-31 20:11:49 | Weblog
 世界政治においては、数えきれないほどの劇的な政治的指導者たちの暗殺劇がまかり通ってきたのを誰も否定はすることなど出来ないだろう。しかし、どのように評価を差っ引いても、まともな政治がなされていないと思われる北朝鮮の指導者であるキム・ジョンイルがあれほどの無能ぶりを世界に知られつつも無事でいられるのは、どうしてなのだろう、と考えたことのない人を探す方が困難なのではなかろうか?歴史的事実として、政治の渦の中で、暗殺という手段によって、政治家としての唐突なる生の中断を強いられた政治的指導力に恵まれた傑出した才能たち。政治的指導者としての力量に恵まれたからこそ起こる悲劇が、キム・ジョンイルには起こり得ないのである。なぜならキム・ジョンイルが国家の指導者としては、たぶん戦前・戦中を通して最悪の力量しか持ち合わせていないのにも関わらず、北朝鮮にもいるであろう優れた政治手腕の持ち主たちが台頭して来れないのは、それなりの理由と根拠があるからに他ならない。
 キム・ジョンイルの父親の、キム・イルソンは、現在マスコミの大きな問題になっている拉致というスパイ工作員養成という無慈悲な政策のために、いまや大いに政治家・革命家としての評判を落としている。拉致被害者のみなさんに同情するのにやぶさかではないが、政治という酷薄さは、世界の非戦闘員たる市民にはいつなんどき、どのような形で予期せぬ不幸が襲いかかって来るかも知れない。人間が生きるために政治があり、経済があるとしても、それらに本質的に内在している要素とは、国家という大きな器を維持発展させるためのものであり、個としての人間の生きる意味などは、常に犠牲になるべき存在であるに過ぎない。キム・イルソンの第二次大戦を通じて、筋金入りの革命家として生き抜いた政治的指導力と比べると、息子のキム・ジョンイルは、中国・ロシアの実質的属国として生き延びているに過ぎないのである。中国やロシアが直接試行することの出来ない政治的実践と実験を、国民を自国の政治・経済で支えられない北朝鮮を生かしもせず、殺しもしない援助の仕方によって、自国がやれば、世界中の非難を浴びそうな負の代理実験場の場としての役割を担わせているのではなかろうか。スジ者の世界で言えば、チンピラにしかやらせない鉄砲玉の役割をさせるように創られた国として、多すぎず、少なすぎずの小遣いを与え、エセものの国家として生かせているのである。それに比べて、韓国の政治のあり方を、戦後を通じて眺望してみれば明らかではないか。無敵に見えた何人もの大統領たちが、急転直下、死刑囚にもなり、信頼していたはずの部下に暗殺されるということがどれだけ起こったことだろう。日本で当時の韓国の大統領の命令によって拉致され、殺されかけた金大中氏は光州事件の首謀者として、死刑囚にさえなった。その後釈放され、何度目かの大統領選で、大勝利を果たし韓国の大統領になった。思えば能力も人知を超えたものを持った人だが、悲運に晒されながらもなすべきことをやり遂げた。ノーベル平和賞まで受賞した。これが筋金の入った政治家の生きざまというのではなのではなかろうか。
 さて、北朝鮮のキム・ジョンイルは何をなし得たか?強大な軍隊(それも多分にハリボテの軍備しか持ち合わせぬと思われる)に、間尺に合わない国家財政を投入し、国家財政は、中国やロシアとは異なる意味で、孤立させれば何をやらかすか分からないという意味で、先進諸国から小遣い銭をせびってまかなわれている。言うまでもなく、国民生活はすでに破綻している。革命国家が、独裁国家になり下がった。キム・ジョンイルほど、軍部のエリートたちにとってくみしやすい指導者はいないのではなかろうか。だからこそ、あの国にはクーデターは起きないのである。権力のうま味を知った人間たちが醜悪な姿で利権を貪り食う。女好きで有名な独裁者?には、美形の女性を飽きるほどに与え、彼が映画ファンなら、俳優まで拉致してきて、映画を創る。キム・ジョンイルは切ないほどに、センスのない衣装を身にまとい、海外のブランド物に見える大き過ぎるサングラスをかけ、薄い頭髪を隠すように、まるで日本で言えば何十年も前に流行ったパーマネントを町の散髪屋で、当時の意気った青年たちがかけたように古めかしくかけて、殆ど見た目はキャベツ状態である。別にアメリカファンでもないが、オバマ大統領のスマートで行動力のありそうなイメージは微塵も感じることができない。何より、むさ苦しいキム・ジョンイルお気に入りのドブネズミ色のジャージのごとき服装からはみ出した太鼓腹。国民が食えないのに、贅沢なものを食い荒しているのが手にとるように分かる。
 彼らの国家の収入源は、麻薬の精製であったり、偽ブランドの生産であったり、たぶん核実験においても中国やロシアでは世界の批判のもとで、やれないことを敢えて北朝鮮にやらせる。テポドンがまともに大陸間を横断出来るとは誰も思っていないだろう。北朝鮮のやらされていることは、中国やロシアが実験したい、いわば前実験である。それは失敗を前提にして組み立てられたプロジェクトであろう。すべての先進国諸国のブレインは事の意味を理解しているが、敢えてやらせているのである。そして本当にけん制したい国である中国、ロシアの動きを北朝鮮の核実験の失敗から逆に見とおそうとしているのではなかろうか。いずれの国の権力者の意図などどうでもよろしいが、それよりも、北朝鮮では食えない大半の市民をどうするのか、真剣に考える時期に来ていると思われる。北朝鮮のネポティズム(世襲制)をとりあえずは崩さねば、全ての試みは始まらないのではないか?世界の不思議、北朝鮮を存続させておく意味など、この21世紀のどこにあるというのだろう。僕の書いたことは政治的発言などではない。ごく一般的な庶民感覚からの観想に過ぎない。プロの意識高き政治家諸氏よ、覚醒すべき時期なのではないか?今日の観想である。

○推薦図書「葬列」小川勝己著。角川文庫。北朝鮮という国が所詮、国家として成立していないのであれば、知性も教養も権力もある人々もいるでしょう。せめて、この書のごとく、世界的視野から言うと負け犬の心境でしょうが、その時点からでも、闘いをはじめてほしいものです。そして、この世界に生き残り、国家としてまともな政治的・経済的・社会的活動をしてもらいたいものです。世界中のマスコミももっと真面目に物事の本質を捉えないと存在理由を失くしますよ。

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自由とネクタイ

2009-03-27 00:12:50 | ファッション
○自由とネクタイ

植木等が「サラリーマンとは気楽な稼業ときたもんだ~」と歌って大ヒットを飛ばし得たのは、植木等の「無責任男」としての闊達さと自由でお気楽な空気を、現実に日本の高度経済成長を支えてきた、数多くの働きバチたる無名で無数のサラリーマンたちが、自分たちを覆う不自由さを取っ払うために足繁く映画館に疲れた体を運んだ結果であると感じるのは、果たして僕だけなのだろうか?映画館のスクリーンに映し出される植木等が主人公で、主人公をとりまく会社の雰囲気は活気に溢れ、社員も役員も会社の未来を素朴に信じ、5時になればさっさと退社して、どこぞの馴染みの飲み屋でクダを巻くお気楽サラリーマン諸氏の物語が、重い荷物を背負って残業に残業を重ねている現実のサラリーマンにとっては、ある種の心理的浄化作用としての役割を担っていた貴重な娯楽映画が、植木の「無責任男」シリーズの存在価値である、と敢えて断言しておこう。勿論、会社人間と称される働き者のお父さんたちが、何とか頑張り切れたのは、会社のために働けば、あるいは会社に自分の身をささげていれば、生涯会社も自分を裏切らない、という暗黙の了解が成立していたからに他ならない。終身雇用制度とは、日本的なゆるやかな社会主義的政策として、日本の経済発展の底支えになり続けてきたように思う。

しかし、子どもであった頃、青年になった頃に、僕の目に映った現実のサラリーマン諸氏の姿はあえて言葉を選ばずに言うと、終身飼い殺し政策のなせるわざの結果とも見え、彼らのくたびれたスーツ姿に、ダサイネクタイは、まさに囚人服、ネクタイに至っては、首に縄をつけられたペットもどきに見えのだから、当時の僕は、世の中を舐めた、生意気なだけの若造だったと猛省する。世の中を舐めて暮らせるのも、企業戦士と呼称された人々が、低賃金もなんのその、終身雇用制度があるからこそ、さらに、会社のため、自分の家族を支えるために頑張ってくれたからこそ、成立した社会形体だったといまにして思う。

それにしても、まさに社会に飛び出そうとしていた僕が考えていたことは、実にたわいのない、根拠のない、あり触れた社会逃避的発想でしかなかったと思う。僕が考えたことは単純なる次のような選択規定であった。それは、ネクタイを締めなくてもいい仕事に就こう。たったこれだけのことしか考えられなかった自分に赤面するしかない、浅薄な判断に頼っていたのが、生意気だけを生きるエネルギーにしている自分の姿だった。根拠はますます単純である。ネクタイという無意味で、首縄のごときセンスのないものを身につけることなどまっぴらだ、というに過ぎないだけの理由だったと記憶する。当時のサラリーマン諸氏の身につけているネクタイは確かにダサかった。とは言え、そのダサいネクタイとは人間の自由を疎外するべき象徴的存在物などと気どって息巻いていただけの自分がいまとなっては情けない。

社会という場にどうにかもぐりこんで、しばらくは学生時代の服装のままに仕事が出来る環境だったので、僕はあくまで表層的な自由を、自由そのものと錯誤して享受していたと思われる。言うまでもなく、まったくの手前みそである。よく考えてみれば分かることだが、男性の服装とは本来、実に見栄えのしないものであり、女性が様々な衣装に身を包んでその美しさを披歴するがごとき要素はどこにもないのである。見栄えのしない男性の洋服の要素の中で、男性に許された服飾における革命的な存在、それがネクタイではないのか?という閃きが頭の中を過ぎる一瞬が確かに在った。ドブネズミ色のスーツの胸元の、小さいけれども、そこにはいかなる色彩をも付加し得る、大胆で、真っ白なキャンバスのような可能性を秘めた小宇宙が厳然と在る。ええ歳こいたおっさんですら、真っ赤な色を胸元にひけらかすことさえ出来るのである。考えてみれば、ネクタイの模様ほど自由闊達なものはないし、同じ色調のそれにも、数えきれないほどのバラエティが創りだせるのも、女性の服飾並み、あるいはそれ以上ではないだろうか?男性の服飾という不自由極まりない、まるで水たまりのような狭隘な胸元の空間の中にこそ、無限大の自由が広がっているという、皮肉で痛快な現実が理解出来なかった僕はよほどのセンス音痴であり、不可能性の中に可能性を見出そうとするがごとき、強固な意思などまるで持ち合わせていない、権力―非権力という古めかしい、死に絶えた思想のごときものに拘泥しているだけの、頑迷な青年だったと総括せざるを得ないのである。

ネクタイこそ、胸元に許された男性の、自由なる自己表現の場を創り出す見事なまでのツールである。地味なスーツに、ド派手なネクタイを組み合わせて、トラディショナルな風情を崩して見せる。これが果たして単なる服飾の自由だと言えるだろうか?ありふれた正常の一部なりとも意識的に壊してしまう密やかな意識を、僕は敢えて反抗の論理、あるいは、革命的な意識の発露と規定したい、と思う。あの細い、何でもなさそうでいて、それでいて、たった一本のネクタイが自由という概念を生み出す。人間、なかなか捨てたものではない。今日の観想である。

○推薦図書「未確認飛行物体」島田雅彦著。文春文庫。この物語は、「おかま」のルチアーノと医師笹川賢一が織りなす破滅と救済の物語なのですが、その意味ではネクタイという単なるオブジェでさえ、破滅的なる男の服飾に、密やかなる救済を与える存在であってみれば、島田の、この書は読む価値あり、の書です。ぜひ、どうぞ。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

神戸探訪(2)

2009-03-24 01:41:18 | 
○神戸探訪(2)

神戸の街はお洒落な街だと言う人たちがいる。この場合、お洒落の定義そのものをはっきりとさせておかねばならないのだろう。どこそこの街がお洒落である、というのは、そこには、頽廃と再生が混在している場としての街という認識があってしかるべきだろう、と僕は思う。確かに神戸が、お洒落であった時期はある。しかし、それは決して現在のようなどこの大都市にでも散見出来るごときのつまらないきらびやかさ故ではない。

神戸という街が急速につまらないありふれた街になり果てていくことと、神戸市の行政が、神戸株式会社などと揶揄されるような、財政上のやりくりの表層的な巧みさによって、合理的な街づくりが始まったこととは、深いところで繋がっている。神戸が戦後の頽廃を孕みつつ、それでいて、モダンを内包した街としてずっと生き残ってきたのに、現在のような巨大な市庁舎を建て得るまでに税金を貯め込んだ市政の頽落がそれを台無しにしたのである。大震災があり、神戸は壊滅的な崩壊状態だった。その瓦解のありさまは、日本中の人間を恐怖のどん底に突き落とした。しかし、人間は、どのような悲惨な状況からでも再生してくる存在である。勿論その過程では弱き者たちは、あの煉獄の事態から立ち直れずに、呆けたように生きて、そして間もなくは、死したであろう。遅まきながら日本に、PTSDという概念が持ち込まれたのは、震災が戦争のごとき様相を呈しており、その悲惨さに耐えきれず、精神の疲弊を長く引きずる人々が激増したからに他ならない。復興を考えるよりは、生き残りを考える方が先行するような状況下に置かれた人間は、それほど繊細な精神の持ち主でなくとも、何がしかのショック状態が長く残って消えることがない。このような不幸な出来事が起こったからこそ、神戸の再生は、経済の論理優先のそれであってはならなかったのではなかろうか。煉獄を見せられた街だからこそ、再構築の概念の中に、新生の息吹とともに、密やかな頽廃の美を含ませる、ある種の芸術的な営みが、街づくり、あるいは街の再生についてまわっていてしかるべきだったのである。

ところが、神戸の行政は、単純明快な経済の論理を最優先したに過ぎない。神戸市民を勇気づけようとしてはじめたルミナリエでさえ、結局は、他府県から人を呼び集め、神戸で金を使わせるための道具にした。確かに光輝くイルミネーションは、人間に備わった、光明という、希望や幸福を希求する思想と無縁ではないが、しかし、その一方で、神戸が震災で体験せざるを得なかった悲惨さが心に暗黒の影を落とした、否定してはならない負の概念性をも、街の復興の素材に組み込まれるべきであったと僕は思う。

神戸という街がずっと昔、言葉通りのモダンな街であった頃、神戸の街の光はまばゆいばかりの光に溢れていたわけではなく、むしろ、光と影がほどよく交錯した、どちらかと言えば、うす暗さがあちらこちらに残っているセピア色の色彩が醸し出す陰影の妙味が、モダンの正体ではなかったか?宗教が光明というとき、そこに何がしかの胡散臭さが混じるように、光輝くイルミネーションの力には、その底に経済効果を狙いにした狡猾な意図が見え隠れしているのは当然の結末である。経済の論理だけが優先されたからこそ、震災を体験した神戸が要らぬ空港までつくってしまったのである。大きな市民の反対運動さえ無視して、その空港は小規模に、神戸の海の先端に無様な姿を晒している。一事が万事、神戸の街の復興劇に、新たな価値の創造など微塵も含まれてはいない。かつての神戸独特のモダンを喪失してしまった、単なる近代的なショッピングモールとしてのセンター街、飲み屋街でありながら、なにほどかしっとりとした味わいのある空気を漂わせていた生田神社界隈は、大阪のミナミの繁栄ぶりと大差ないほどの醜悪な繁栄ぶりである。いまや、むしろ神戸から、かつてのモダンな要素を発見することの方が困難な街になり下がったのを嘆いているのは、果たして僕だけなのだろうか?若者たちは、モダンの意味すら知らずに神戸を認識しているのである。現代が貧相な文化しか認知出来ない時代でしかないのも分からぬではない。つまらねえ時代だ、と心の奥底で呟くしかない。死にゆく者の嘆きなど、大抵はこれくらいの力しか残されてはいないのだろう、と思う。今日の観想とする。

○推薦図書「快楽は悪か」植島啓司著。朝日文庫。思えば、モダンという概念性の中には、快楽に対するある種隠微なほどの欲求が内包されているような気がします。この書はコラム集ですが、筆者が「われわれが生きるのは、快楽を十分に味わうためではないか、他に生きる目的などありはしない」と言い切るとき、マルキド・サド公爵の、人間の表層的なる倫理を、全てその内実の醜悪さを暴いてみせることによって、醜悪さの中にこそ真理が潜んでいるという逆説を、時代に反抗しつつ自分の生を賭して描き続けた精神を彷彿とさせます。神戸という街にも、現代に突きつけられるような大きな価値意識を孕んでいたようにも感じますが、みなさんはどのように想われるのでしょうか?

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

神戸探訪

2009-03-21 23:41:51 | 
○神戸探訪

神戸の海を眺めたくなった。勿論、真っ青な透き通るような海ではない。湾岸の海は磯のかおりも強烈だが、同時に重油で汚れきった真っ黒な海だ。さざ波が立っていると、それは神戸という街全体から吐き出されるあらゆる汚辱が混じり合ったざわめきのような音がする。その混濁した存在としての海が、僕は大好きでもあり、また同時に大嫌いでもある。幼き頃から青年の頃までの楽しきことから、汚辱にまみれた精神のぼろぼろの姿との両極が煮詰まったかたちで、僕の裡でざわめき立つ。

神戸はいまや完全に大震災から復興したかに見える。街並みは殆ど完璧なまでに回復した。三宮の繁華街は、むしろ震災前よりも賑やかしくなった感すらある。しかしセンター街を歩きながら両端に並んでいる店を仔細に眺めてみると、震災後にも立派に復興した、慣れ親しんだ幾つかの喫茶店や、有名な老舗のとんかつ屋がなくなり、長きにわたってセンター街の出口にあった子ども服専門店は姿を消し、さらに何より大きな喪失感を受けたのは、子どもの頃から慣れ親しみ、この店になら絶対に探している文房具がちゃんとあるという洒落た文房具店が、つまらないデザインの、若い娘向けの安っぽいブティックに変わり果てていたことだろうか。センター街は三宮の顔だ。子どもの頃の、現在よりは狭い通りに、センスある店が立ち並び、かつてのダイエーの興りといえる平屋の古い日本家屋をぶち抜いて、薬の安売りと下着類、その安売りを誇張するかのように、店舗のあちこちに垂れ下がった商品の名前がずらりと手書きの文字で書かれ、それらが屋根から垂れ下がっていたよろずやふうの建物。古いけれども西欧風を気どった街灯が両立している昔のセンター街は、震災の何十年も前に、まるで大阪の商店街のごとき様相に変わり果て、神戸という街の、日本ふうの雰囲気と何となく西欧を彷彿とさせる、あの何とも不思議な魅力は失われてしまっていた。それでも大阪に比べればこじんまりとした風情が神戸の存在理由をかろうじて醸し出してはいたのに、先日訪れた神戸の街は、まるで知らない街のよう感じられたのはどうしたことか?

震災後の神戸が、特に生田神社の屋根がへしゃげた飲み屋街近辺が、以前にも増して、煌々として使えるだけの電力を浪費していることに、なにほどかの違和感を感じたのは果たして僕だけなのだろうか?あのあたりはまるで震災の直後は戦場のごとき様相だった。神戸で育ったという現場中継のアナウンサーは、変わり果てた、かつての飲み屋街に立ちつくし、涙を流していた。そんな神戸が、何故以前のごとき、いや震災以後の、以前にも増してギラギラしたチャラケタ街にならざるを得なかったのだろう?震災後にわざわざ神戸港に不必要な空港までつくってしまったあの街の行政は、いったいどこを、何を目指しているのだろう?やはり震災後も、神戸の行政は、神戸市株式会社という皮肉とも、羨望ともとれる施策をとり続けるつもりであるようだ。人間の歴史感覚とはかくも懲りないものなのか?

大震災を体験した神戸こそ、資源の無駄を極力排し、電力消費量も他の大都市とは比べようもないほどに減らし、現代社会への警笛を鳴らし続けていくべき存在として復興すべきではなかったのか?割り切れぬ想いが街を歩きながら、止めどなく頭の中をよぎるのを、どうにもやるせない気持ちでやり過ごすことしか出来ない自分とはいったいどのような存在であり得るのか?人間の論理が経済の論理にどうしても敗北する世界に生きる、とはいったいどのような意味を持ち得るのか?

神戸再訪は、人間の生きかた、自分の生きかたを考えるための良き素材となった。これだけでよし、としようと思う。自己の力の微細さに懈怠を感じつつも、それが生のありかたなのか、と思う。そのような認識を受容しつつ生きることが、たとえ無意味な要素を孕んでいようと、生の真実の一断面であるなら、自分の中の凡俗さを認めざるを得ないのかも知れない。今日の観想である。

○推薦図書「市場原理主義が世界を滅ぼす!」高杉良著。徳間文庫。この書の主旨は、アメリカ型の資本主義のあと追いに徹して、現在の日本の過酷な労働市場を生み出す施策に終始した、小泉政権の市場原理主義とも言える経済論理を再構築するために何をなすべきかを真正面から書いている日本再生のための一方策です。神戸の街は、ある意味で象徴的な意味を持っているかも知れません。どうぞ、この機会にこの書を。

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長野安晃

生きる勇気、死する勇気

2009-03-17 20:00:50 | 観想
○生きる勇気、死する勇気

人生とは絶望的になることが生きている間に何度かあるという道程であり、その過程で死の淵まで行き着く人もいる。そのまま死に至る人も昨今は自殺大国日本と呼ばれるくらいだから、かなり多いと思う。死を覚悟した人の、自死へのまっしぐらの突進である。僕自身が、いまこうして書いているのが不思議なほどに、自死の直前まで何度も行って、この世界に立ち戻って来てしまった人間なのである。だからといって、その反動で、生きることに対して決して積極的な人間になったつもりはない。むしろ、何度も死の淵まで行く度に、死とはどのような意味においても特別なことを意味しない、人間の生の延長線上にある、果ての果てに過ぎないという認識しかない。加えて言えば、死するに当たって、何らの覚悟さえ必要がないほどの感覚しか僕にはない。換言すれば、生と死の境目が極めて曖昧な人間として、いまを生きているに過ぎないのである。それが僕の生のかたちであると言って過言ではないだろう。

だから自分に関する限り、死する覚悟はとうに出来ていて、この世界と離別することに何の違和感もないのであり、もう死に至るまでの覚悟などという概念すらないのである。すでに死した人が生前に自身の生きる姿を、ドキュメンタリーふうに創った作品が時折テレビなどで放送される。たぶん、多くの視聴者のみなさんは、死を自覚した上での、死に至るまでの主人公たちの生きざまになにほどかの感動を受け、かつ心秘かに、自分は生きていてよかったと胸をなで下ろしているのではなかろうか。僕はこのような人々を批判しているのではない。むしろ彼らの死者に対する畏敬の念と、自己の生をいとおしく思う、という思考のありようは至極健全なものであると感じる。

このように考えると、僕にとっては、生に対する構えの方が死へのそれよりはよほど大きなものであるのは当然の結末であろう。剥いて言えば、僕の裡では、生は尊いなどというのは、すでに空虚な概念に過ぎなくなっているということでもある。生と死とが同義語であるがゆえに、生にまつわる猥雑さ、卑俗さ、退屈感、失望感、絶望感・・・書き始めればキリがないほどの、生への否定語が裡に巣くっている自己とは、日々生きる意味を模索しながらの、日常性を受け止める存在として規定し得る。だからこそ、僕にとっては、生きる勇気とはとてつもなく大きく重いのである。歳と伴に、人間の絆が音を立ててブチ切れていくのが分かる。僕が他者の受容力を話題にするとき、自分の神経組織がピンと張りつめていくのをとどめることが出来ない。他者を受容したくても、自分が他者から切り離されてきたことの方が圧倒的に多いのである。自信も確信もあったものではない。この歳にして自意識はボロボロ、再生不能状態である。もし、僕に存在意義があるとするなら、自己再生能力をすでに喪失し、絶望し、生きるための勇気を模索しているプロセスの中から、幾分かは生の、あるいは死の本質的な真実が、僕の言葉の中に含まれているからかも知れない。

生きているうちは他者と関わる努力を精一杯しよう、と控えめに自己の生きる勇気のあり方として、書き記しておこうと思う。今日の観想である。

○推薦図書「みんないってしまう」山本文緒著。角川文庫。大人になるにつれ、時間はだんだんと早くなります。物事は思った以上に早いスピードで流され、手の中からこぼれおちていきます。そして同時に大切な何かをひとつずつ失っていくのではないか?という作者の自分探しの物語に共感します。文体も卓抜です。お勧めの書です。ぜひ、どうぞ。

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長野安晃

無名のままに生きる

2009-03-15 01:22:48 | 観想
○無名のままに生きる

この世界の中で、世に名も知られず生きること、そして死にゆくことの生にどのような意味があるのかを、僕はずっと考え続けてきた気がする。たぶん、自分が直面してきた時代の風潮に対して、決して鈍感ではなかったのも、自分が無名であることへの小さな抗いが心の奥底にあったようにも感じるのである。それは別の角度から見ると、人間とは何ぞや?という使い古された存在に対する疑問が内包されているのを否定することは出来ないだろう。いや、むしろ現代こそ、かつての、使い古されたテーゼに拘りつつ生きていきたい、と昨今痛切に感じはじめたと言っても過言ではないだろう。

無名でないことの証左は、どのような生きかたであれ、生きる過程で己の才能を開花させることの出来る数少ない幸運な人々の存在が、人間の可能性への信頼を高めもし、同時に何故自分には、そのような機会が訪れることがないのか?という深い失望感の中に突き落とされることでもある。あまりに才能が豊かであり過ぎて、存命中には決して時代に受け入れられないままに、失意のどん底で死する天才たちが歴史の中に数えきれないほどに埋もれている。時代の方が追いつけない才能とは、いかにも優れたそれでありながら、同時に言い知れぬ不幸を背負わされた天才の悲劇だとも言える。

僕の密やかなる野心などタカが知れているわけで、決して自己の生きる時代の趨勢を決定づけるような試みをなしたいわけでもなく、時代の寵児たる幸運に浸りたいとも決して思わない。それは前記したように、自己の生きる時代に対する人知れぬ、微細な精神の抗いなりとも、何らかの表現形式を通じて、他者に対する小さなメッセージとして、この世界の片隅に残せればそれでよろしいのである。いまや、青年の頃のような傲岸とも言える自己主張の結末としての、時代を代表するような存在たり得るとは夢にも思わない。正確に言うと、その種の勇気が自己の裡から消失した感がある、と言って差し支えないだろう。もうスマートな創造者である必要などどこにもない。言い直すとすれば、むしろ、僕は、愚直な生きかたを通して、もしも許されることならば、愚直な自己主張の結果たる何がしかの、遺物らしきものが、自己の生の果ての先に残っているなら、それを至福としようではないか、と自分に言い聞かせている。

このように考え始めてから、僕の裡なる愚直さという概念そのものが変質しているのを告白しなければならない。青年の頃の、天才性に対する憧憬と、自己の限界性さえ見極められない幼い未来への根拠なき、生きる展望を持ち得ていると錯誤している頃、確かに、愚直さとは天才性の反意語としての、そして、そのような概念性の検証に留まらず、当然のごとく僕は、生における愚直さを軽蔑していただけであったように思う。その頃の僕にとっての愚直さとは、日常性の中に埋もれるだけの生を意味したし、その中から、非日常的な一瞬の輝きなど生起するはずもないと頑なに信じていただけのことである。換言すれば、当時における僕の愚直さの定義とは、市民主義という思想が、無名であることの唯一の合理化の根拠である、と決めつけていたことである。だからこそ、無名に留まることは、自己の生の敗北にストレートにむすびついたのは当然の帰結である。力量のない人間こそが、このような人生の踏み外し方をするのだろう、と、いまは冷静に感得することが出来る。たぶん、このような思考の変質が裡で起こっているのは、諦念などという概念がそのように思わせているのではなくて、自己の生を締めくくる時機が迫り来ているということなのだろう、と推察する。

逆説的に過ぎるとは思うが、自己の愚直さに鋭敏になること。このような思考の過程は、僕のような天才性に憧れた人間にとっては、かなりな生の転換を強いられるし、それはあくまで潔い移行でなければ、未練たらたらの醜悪な世捨て人のごとき様相を引き起こすことになる。

愚直さを生きる。あるいは、愚直さを死する。いずれにしろ、それらに潔さがともなわなければ、無名のままに生きる、という意義がなくなるはずである。無名のままに生き残って、無意味に要らぬ飯を食らう老年など僕には必要ない。自己の内面に、他者を受容し切れなくなったときが、僕の死にどきだと思っている。入院保険?必要ない。生を受ける自由はなかったのである。せめて生を閉じる自由は残しておきたい。これが僕の無名に生きるという前提としたい。今日の観想である。

○推薦図書「恋愛中毒」山本文緒著。角川文庫。主人公の水無月という、それほどの美貌にも恵まれず、これから先の人生を他人を愛するくらいなら、自分自身を愛することが出来るように、という哀しい祈りを貫こうとする彼女の人生の軌跡を辿るのは一つの醍醐味です。世界の一部に過ぎないはずの恋が、主人公の全てを縛りつけてしまうという生の意味を味わってください。無名であるはずの主人公の、無名であってなお、世界に生きた刻印を刻みつけようとする意思が強く感じられる作品です。読みごたえのある作品です。ぜひ、どうぞ 


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長野安晃

すばらしきかな、人生!

2009-03-11 21:18:06 | 映画
○すばらしきかな、人生!

ジェームズ・スチュアートという男優は、20世紀を生き抜いたアメリカの良心を代表するかのような優しげで、温和な感じのする素敵な俳優さんだ。ロック・ハドソンが、アメリカの強靭さと豊かさと男前が売りの俳優さんだとすると、ジェームズ・スチュアートは、当時の日本人にとっては、意外に、アメリカの圧倒的な精神的・物理的な優位性を感じさせず、ごく身近な人間的存在として認識できた銀幕のスターだと言える。ロック・ハドソンは雲の上の人。文字どおりの銀幕のスター。こんな男前が世の中にいたのか、という驚嘆の中に、映画を観る人々を放り込んだとすれば、ジェームズ・スチュアートは、日常性と非日常性との間の垣根のない不思議なスター。それでいてやはりあくまで凡庸さという匂いからは遠く隔たった、親しみのある俳優さんなのである。僕の年齢でも彼の映画は、ロードショーで観たわけではなく、テレビの再放送か、あるいは、場末の映画館の3本立てで上映されるリバイバル映画として観たことがあるほどの、古き良き時代のハリウッドスターなのである。いまは、若い人たちも、ビデオか、DVDでこの「すばらしきかな、人生!」という映画を観ているのかも知れない。確かに、「すばらしきかな、人生!」と叫び出したくなるような、ハッピーエンディングは、僕たち日常生活者の生活の垢をたとえいっときでも洗い流してくれる。ジェームズ・スチュアートの主演映画で記憶に残っているのは、「翼よ!あれが巴里の灯だ」という、当時の単独無着陸飛行最長記録をつくったチャールズ・リンドバーグの実話の映画化で、それは、人間の可能性に対する信頼を感得させてくれた想いが、僕の裡では幼いながらも残っているし、逆にヒチコック映画の「裏窓」の主人公になった彼は、役どころが人間の内面の暗闇を映し出している作品だったので、僕にはどうもしっくりとこなかったのを覚えている。つまりは、ジェームズ・スチュアートという男優は、あくまで明朗で、正義感が強く、逆境にもめげることなく立ち向かっていく、元気なアメリカン・ドリームの思想と底で繋がっているような気がしてならないのである。

さて、「すばらしきかな、人生!」にもどろう。この映画は、何故人生はすばらしいのかということの最大の理由として、どうにも憤りばかりの結末を迎える映画のプロットで、登場人物たちが絶望し、もうこの世界には救いなどあろうはずがないのだ、という諦念の気分に苛まれている現実の時間の軸をズラせて見せる。すると、放置しておけば、殺伐とした現実だけが目の前に広がっているだけの、人生の虚しさが滲み出てくるような節目、節目に、より良き選択肢を主人公に選ばせる、というストーリーだ。選択肢を変えれば、当然のように、荒んだ現実がまるで異なった光り輝く未来が開けるように眼前に広がって来る。くすんで冴えない日常が、まるでアメリカン・ドリームが次々に実現していくように、変化していくのである。映画を観ている観客は、素朴に物事が明るい方へ、未来への展望が開けるように、映画のはじまりとはまるで異なる展開を見せ始めるのを、まるで自分の変わり映えのしない現実そのものがより良きものへと転化するかのように感じ、喜ぶのである。生きるのにアップアップだったはずの当時の大半の庶民が、この映画を観た刹那、生きるのも悪くはないのかも知れない、と思ったのである。

誰もが、自分の人生を取り返しのつかないものである、という感慨を、人生のいつかの時点で抱く。この感覚は、人生における成功者、敗残者ともに変わりはしない。オレ/ワタシの人生って、これでよかったのか?という深い自問は、もうすでに過ぎ去った自分の時間、自分に許された生の長きに渡る時間が、どれほど控えめに見ても、結局は、このような生きかたでしかなかったのか?という自己の人生航路が、紆余曲折、ならまだいいが、横転、反転までしてしまって、若き頃に夢想した自分の未来像などいったいどこに消失してしまったのか?という苦い味のする冷めきったコーヒーを飲み干そうとするときの、後悔にも似た感覚に突き当たる。たぶん、「すばらしきかな、人生!」という映画の中のジェームズ・スチュアートには、このような人生の苦渋とは無縁の、ハッピー・エンディングが最も似合うハリウッド・スターなのではなかろうか。ちょっと無理をして、呟いてみようか。「すばらしきかな、人生!」と。あくまで小声で。それが僕に出来る唯一の人生謳歌のマネごとだからである。

○推薦図書「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」ジェイ・マキナニー著。新潮文庫。もう死語になっただろう、ヤッピーたちの、若くて、その若さそのものを持て余しながら、きらびやかなニューヨークに生きる栄光とその影がよく描かれた良書だと思います。80年代の世相ですが、その時代を代表する青春小説です。いっときの清涼剤にでもなれば、と思います。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

人間の価値観の行き着く果ては、自由を如何にして手に入れるか?という課題に突き当たるのではなかろうか

2009-03-05 22:49:19 | 哲学
○人間の価値観の行き着く果ては、自由を如何にして手に入れるか?という課題に突き当たるのではなかろうか

自由とは何ぞや?という言い古された問いについての、僕なりの今さらながらの観想だが、自由の実現とは、己の意思が、必ずしも通せなくてよいのである。その意味で、あるときは、議論に敗北することもある。あるいは、自己の意思が正しくとも、自分をとりまく情勢というものもある。時代の趨勢もある。軽く言うとタイミングの問題すらある。いろいろな要素があるにせよ、その中で、自己の意思が貫ければ大いによし、挫折することも勿論あり、なのである。タチの悪い病気だとか、不慮の事故だとかで早くに命を落とすようなことがあれば、諦めるしかないだろうが、まずまずの年齢を重ねることが出来るのなら、その間には、かつては他者には、相手にもされなかった自分の主義主張が認められるときが、一度や二度は、必ずやって来るはずである。長年生きて、不運のうちに命尽きると見える人々は、たぶん自分にとって、ここぞという時宜というものを確実に見落としているはずなのである。何故そのようなことが起こるか、といえば日常的な己の思想の深化に関する努力を怠っているか、あるいはひどい場合は放棄しているかのいずれかの場合であろう、と思われる。成功体験のないまま、自由を圧殺されたまま、この世界を去らざるを得ない人々は、自由というものを体験することなく生を終える不運に見舞われることになる。世の中の不幸な現象は数あれど、たぶん、このような死に様をしなければならない人々が不幸中の不幸と言えるのではなかろうか?

自分が自由になり得るかどうかの指標は、これぞ、と思った他者の心底からの言葉を信じることが出来るかどうか、ということにかかっているのではないか、と思われる。この人こそ、と思う指標が屈折してしまっていたり、自己の裡なる他者性そのものが確立されてもいない幼稚な個性では、どのような考え方も自己の内面で閉じてしまっていることになり、広がりという概念がまったくないことになるだろう。信じるべき他者が存在しないために、あるいは自己障壁を、何のためかは知らないが、高くしてしまっていて、他者の言葉と自己の言葉との言語交通が成立することがない。換言すれば、このような思想?に陥った人々の世界観は、閉塞的でありかつ排他的でもある。

現代が閉塞的な様相を呈していればいるだけ、個としての人間の世界観は広がっていかなければならない。少なくとも、現代の閉塞感の中に閉ざされるような心性であっては、人は自ら自己を呪縛するばかりである。自ら手錠をかけ、牢獄の中に入りたがるようなものである。世の中が世知辛いといって、小さな犯罪を犯して堀の中に舞い戻るような、人間性を喪失した罪人志願者のような人々が増えるだけのことなのだ。このような状況のもとで、自由は死する存在だと言える。

人間が自由であるというのは、自分のわが身勝手な言動を押し通すようなつまらない行為を指していうのではない。自由とは、常に他者の存在を意識出来る思想性を有する状態を指して言うのである。自由とは、自然にそこに在るのではなく、勝ち取るべき存在である。勝ち取り、そして、自己の世界観を押し広げることである。そして、人間にとって、生きる可能性を広げることでもある。無論死する自由もあるが、それはあくまで、世界の放棄である。そして敗北である。出来れば、自己の世界観を他者との関係性を深めることによって、広げていきたいものである。それこそが、自由の概念と同義語でもあるからである。死は自由の放棄である。あるいは自由という可能性の放棄である限りにおいて、自死は敗北である。これはあくまで自戒の言葉であって、自死した人々を如何なる意味でも評価の対象とはしていない。誤解なきように断りを入れておきたい、と想う。

○推薦図書「自由論」J.S.ミル著。岩波文庫。自由というものの社会的な意義とその概念性を深い論考を通して確立しているという意味において、とても意義ある書です。ぜひ、どうぞ。  

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

無神論者として生きる覚悟

2009-03-01 01:05:38 | 政治哲学
○無神論者として生きる覚悟

無神論者とは、世界の中のいかなる絶対的価値意識に対しても、反抗し、対峙し、反抗と対峙に対する自己の思想性に常に意識的であり続ける思想を生きる、あるいは死するための覚悟として、それを胸に落とすことの出来る人のことを言うのである。単純な議論好きの人々は、無神論者とは、無神論という絶対的価値意識を自己の裡に構築することであり、その行為自体が絶対的価値意識にすりかわるのではないか?などという的はずれの屁理屈を考え出す。しかし、よく考えてほしい。無神論者を、世界の中に幾多存在する絶対的価値意識の一つに過ぎない、などというこじつけをしたい人たちは、必ず自己の裡に既成の絶対的価値意識を後生大事に抱え込んでいる人々であり、そのようなある種の信仰?によって、精神の平衡感覚をとっているような人々なのである。つまり彼らこそは、いかなる絶対的価値意識も信じない人々が現実に存在することに不安を感じ、ただ、不安から解放されたい、という想いが支配的で、凡庸な日常生活人である。この論考からは、敢えてこのような日常生活人を外す。理由は、出来る限りここに述べるべき論考を直線的に語りたいだけのことである。反論のある方々は、いくらでもこの論考に対して批判をくださればよい。

さて、無神論とアナーキズムは両輪の思想である。無神論者でありながら、たとえば既成の集団の政策や主義主張に心から共鳴しているということは起こり得ない。また反対に、アナーキストでありながら、どこかの政治的な集団などに所属し、それを信じているということもあり得ない。言葉を換えれば、無神論者とは、思想的・信条的にはあらゆる意味合いにおいて、自由であり、かつ反抗的である。そして、自由であることの孤独の意味を誰よりも深く認識している人々のことである。それでは、無神論者は、いかなる行動も起こさない人々、心に狼のような激情的な衝動を持ちながら、外見は物言わぬ羊の群れに属するような人々のことなのか?というような疑問を持たれる方々もおられるだろう。勿論、答えは否である。

無神論者は、あくまで絶対的な価値意識に対して反抗的である。が、さらに言うと自己が反抗的であるということに対して、自覚を失わぬ知性を崩さず、それどころか、己が知性を構築していくような強靭な精神の持ち主である。どのような現実的な団体や集団にも所属せず、行動も起こさないで、この世界で生きていくことなど出来はしないから、あくまで日常性に対して反抗的であることを忘却することなく、日常性の中に身を浸していることに耐えつつ生きるのである。だから思想的には、無神論者とは日常生活の中では、絶対に他者から無神論者とは看破され得ぬ人々であり、その意味では「見えない人間」(Invisible Man)(ラルフ・エリソン著。早川文庫。(上)(下):現在は絶版)と規定出来る。ラルフ・エリソンは、日本では忘れられた存在だが、当地アメリカでは、いまだよく売れる作家である。彼の伝記すら新刊としてペーパーバックになって本屋に並んでいるくらいだから。

21世紀という世界的大恐慌の中にあって、「見えない人間」は着実に増幅していくことだろう。そして彼らの存在によって、絶対主義的な存在を認めるような既成の価値意識の意味が徐々に希薄になっていくことになる。彼らはまた、日常生活における政治的・経済的情勢などを政治の力や、民衆の団結の力などによってよりマシな状況になし得るなどというような甘い展望などは一切抱いてはいない「見えない人間」のことであり、「見えない人間」が今後、この世界を席巻することは否定しようのない現実である。

無神論者にとって、生と死という一般的には正反対の概念、あるいはその実体としての真逆の思想性とは、両者がかけ離れた存在などではなく、むしろ常に隣り合わせの、いつでもどちらへも移行可能なものでしかない。元来人間には、生物体として生きるための機能が脳髄の中に組み込まれているものと思われる。それは感情的には死に対する恐怖心あるいは畏怖という、死を遠ざけるための脳髄の中の死に対する防御的な役割として存在しているのである。無論、無神論といえども、生物体としてこの世界に生きている限りにおいて、確実に生命体維持装置のごとき、死への畏怖心が抜き難く在るにせよ、無神論者にとっては、この種の生物学的な生に対する衝動なるものを超越すべき課題として、思想の確立の過程において認識しているのである。したがって、無神論者にとっては、生と死の境界線などは思想の中には介在しない。無神論者が死するとき、それは生きるがごとくに死ぬのである。絶対的存在である超越者を信じ、どこぞの神の思し召しで、自爆テロによって、死することで神のもとに召されるなどという、甘き考え方などは一切ない。それが無神論者の精神の行き着く果ての姿だと認識している。

それでは無神論者にとって生の意味、死の意味というものは存在するのか?という問題に突き当たるが、答えはシンプルにイエスである。彼らは、生の過程にいる間は生を感受し、生のあらゆる可能性を追求するが、かと言って、彼らに死が直面すべきときが訪れたとき、死とは全ての終焉を意味するのであるから、終焉を拒否するのではなく、言葉通りに終焉たる死へと淡々と向かうのである。これが無神論者としての生きかたであり、死にかたである。そこにヘタな理屈などない。シンプルで透明な生きかた、死にかただけが在る。

○推薦図書「唯脳論」養老孟司著。ちくま学芸文庫。文化、伝統、社会制度、言語、意識、さらに心等々、あらゆるヒトの営みは脳に由来する「情報」によって支配され、ヒトとはそれによって創り出された夥しい人工物によって生きている、脳の中に棲む存在だというのですから、養老氏は、かなり徹底した唯物論者ではないでしょうか。唯物論を、脳の機能の活動の結果の産物として考えているフシもあります。こういう学者がいてこその学問ではないか、と僕は思います。一読に値する書です。どうぞ。

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長野安晃