ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

遅まきながら、アウトプットを!

2016-07-25 11:58:10 | 省察

ひどく疲れた日々だった。ほぼひと月。別の側面から言うと、このひと月で、やっと自分の実年齢に意識が追いついたのかも知れない。

ずっと何かにとりつかれたような日々を過ごしてきた。人生のどこから始まったのか?といえば、たぶん、もの心ついたころから、だ。ずっと焦り続けてきた日々の正体が、人生の終焉に近づいたいまになって初めて理解出来た気がするこの頃だ。

これまでずっと自分に関わることをこの場に書き綴ってきたけれど、そして、それらを自己の人生の総括なんていう都合のよい言葉で定義してきたけれど、それはたぶん、大いなる誤謬だ。

この場に書き綴ってきたことの殆どは、自分の馬鹿げた自己中心的な、生きた軌跡の言い訳である。自虐的に言っているのではなく、これは非常にリアルな感覚なのである。

僕の人生のコアーは、一言で表現することが出来る。それは怖れだ。あるいは焦燥感か?前向きなモチベーションなどとはまるで無関係な感覚と言っても過言ではないだろう。

脅迫観念に取りつかれたように本を買う。ジャンルは問わず、興味だけに惹かれて買った本は自分の読書出来るペースをはるかに超えた分量である。だから本はどんどんたまるが、そこから学んだことは非常に微細なものだ。本の分量に自分の吸収力が追い付かないので、焦燥感はかえってつのる。かといって、自分のルーティーンを変えることなど出来るわけがないのである。焦燥感を克服しようとして、焦燥感がよりつのるというわけである。もちろん、その根源に在る生に対する怖れがさらに深くなる。アホウな悪循環だ。

想いが高じて、京都の、あるビジネススクールに入学した。そしてたった3カ月で退学した。先日のことだ。理由はいろいろあるが、根っこは実に単純だ。僕は教育など信用していないのだ。自分が長年教師という立場で教育現場に居て、確信を得たことは実に皮相的なことだが、人は教育行為と云われるものから学び、感得することなど本来ない、ということだ。だから、たぶん、ビジネススクールというところに籍をいっときでもムダ金を使って置いたのは、無駄な本を無目的に多量に買うようなものだ。続くはずがないし、そもそも教室に座っていることに耐えられなかったからである。

さて、萎え切った体力・気力ともに徐々にもどってきたわけだし、無駄なインプットにも厭き厭きしてきた。そろそろアウトプットの時期かも。出来得る限りの方法でやってみようか、と想う昨今だ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○省察(6)

2013-05-04 19:32:40 | 省察
○省察(6)

23年間の教師生活に関わる観想をあらゆる角度から総括してきましたが、なぜかずっと不全感があり、そのことに苛まれていました。が、今日、理由が分かりました。「遠い空の向こうに」(October Sky)という映画を観たことで、僕の心の奥底にうもれていた感覚が呼び覚まさられたのです。

この映画は、人間として生まれてきたことの意味、人には可能性が誰にもある、と思わせるだけの説得力を持っています。背景は、1957年のソビエトのスプートニク打ち上げの、ちょうどその時代の実話にもとづいた物語。斜陽し、閉山に追い込まれつつあるバージニア州の炭鉱町で、炭鉱夫になることを運命づけられた少年たちが、スプートニクに触発されて自らロケットを制作し、試行錯誤を繰り返した後に打ち上げに成功し、その結果、4人の少年たちは大学進学への奨学金を得て閉塞的な町からまるでロケットのように飛翔していくというプロットです。

閉塞感が生み出す差別感が支配的な田舎町。優れた才能を持ちながらも、炭鉱夫のボスとして、炭鉱を仕切り、優れた指導者でありながら、古びた頑迷さを分ち持った主人公の父親。彼は、息子の将来を自分の後継者としか見れない狭隘な価値観から抜け出せないでいます。しかし、偏狭でありながらも父親として少年を愛してはいる。長年の労苦で、無感動になりつつあった母親が、この少年を自分の手のヒラから、この町から飛び出させようとする強固な意思によって、そんな父親の気持ちを変化させていきます。少年に対する愛の姿を解放させていく過程で、父と子の、そして、家族の絆が再生されるという大筋のプロットの流れは感動的で、涙なしには観れません。

しかし、この映画の中で、僕の裡のわだかまりの澱の中から救い出してくれたのは、一人の女教諭の存在です。主人公の少年に対して、「人の言うことばかり聞く必要はない。大事なのは、自分の心の声なんだから」と言ってのけた若きミス・ライリーという女性。彼女は、決して無条件に少年たちの夢想を擁護するような個性ではないのです。また、何かを悟って超然とした人間でもない。自分がホジキン病だと告知された日の動揺の仕方は、誰の声も耳には入らない。その意味ではごく普通の感性の持ち主です。無論、主人公に語ったような言葉に裏打ちされているような言動は、教師としての資質として、群を抜いています。僕を揺さぶったのは、具体的なセリフとして、彼女の口から出た言葉ではありません。それは、僕なりの解釈をすれば、彼女の教師としての覚悟と云えばよいものです。もっと突っ込んで云うなら、それは、この少年が自分を遥かに超えていく存在であることを、心の深きところで諒解した上で、主人公を飛翔させようとする強い意思です。教師は、常に自分を乗り越えていく存在を育てることを歓びに出来る人間である、と彼女は認識しているのです。おこがましいことですが、僕も同じ考えの持ち主だったと思っています。しかし、彼女と僕との大いなる違いは、自分を乗り越えていく後継者たちの存在を生きる糧に出来るかどうか、という一点です。僕が教師として、人間としてダメだったのは、飛翔していく多くの個性たちの存在を歓びとしながら、その一方で、自分はこのままこの場に止どまり続けていなければならないのか?という焦りに苛まれていたのです。根っこには若き才能に対するジェラシーがあったのだろうと思います。彼女と同種の言葉を吐き続けたと思いますが、僕は年を経るに従って、自分を卑下していったのです。これでは、教師失格です。僕が教育とは別の次元で雇用者たちと争ったのは、教師としての立ち位置を見失ったためです。いくら屁理屈をつけても、本質を飛ばした内実は言い訳でしかありません。

ミス・ライリーは31歳の若さでこの世を去ります。人間として、若くして逝くことに対する無念の情は有り余るほどにあったでしょう。けれど、彼女は僕が47歳にして、教師という仕事を辞め、その後も長年心の奥底でくすぶり続け、その内実が明かされないまま生きてきたことを、理解し、実践してこの世界から去っていったのです。僕の完敗です。しかし、今日を限りに、無名のままでいることに屁理屈をつけてきた自分からは卒業です。そのことを歓びとしたい、と思います。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○省察(5)

2013-04-27 13:08:01 | 省察
○省察(5)

人はあまりに耐え難き事象が身に降りかかったとき、しばしばリアルな視点を見失う。いや、もっと正確に言うと、過酷なリアリティを虚構に仕立て上げて自分をごまかすのである。

かなりなリアリストであるはずだ、と自分に言い聞かせてきたし、この場に書き続けてきたことの殆どはそのような視点で貫かれていると思うが、実像からは程遠い虚構を書き綴ってきたことがある。今日、それを書くことにした。

それは何度となく自分の父親のことを書き綴ってきたことである。この場に書き現した父親像とは、社会人としてはハミ出し者だが、豪胆にして、時として女性的とも云えるやさしさを持ち合わせた男として、僕の幼き頃からオトナの世界を見せてくれた粋な父親として登場する。

無論、上記のような要素が現実にあったにせよ、それらを、いや、それらだけを強調することで、僕は幼い頃のつらさを耐えてきたのである。この歳にしてなにを今さらと思わぬでもないが、この歳にしていまだ父親の悪しき影響の痕跡を自分の中に見出し、背筋が凍る想いを断ち切りたくなったのである。

少年時代、青年時代の父は、淡路島というかつての辺境の地から対岸の明石やその向こうにある神戸という、彼にとっては憧れの都会に出ていくことを夢想していただけの、そして親の資産を食い尽くすだけの、見栄っ張りで、ダラしない男だった、と思う。当時の若者の社交の場はダンスホールだ。淡路島といえど、ダンスホールまがいの、青年たちの性のはきだめのような場が存在していたらしい。父親の仕事の手伝いで神戸から彼の地に来ていた母親(軽い女だったと思う)をダンスホールで引っかけて(そう、まさにひっかけて、だ!)モノにした後の産物が、この僕というわけだ。父にしてみれば、都会の女を落としたという満足感だけがあったと思う。20歳の男女の情欲に愛もへったくれもない。少なくとも僕の両親はそうだ。二人で出した結論は僕を抹殺すること。しかし、祖父の気まぐれで僕はつまらない人生を送るハメになったというわけだ。

祖父は、政治家を巻き込んだ、かなり大掛かりな贈収賄事件に巻き込まれた(いや、首謀者の一人だな、あれは)。当事淡路町役場の収入役だったからうってつけの役どころというわけだ。田舎の狭隘な世界で、居座ることなど出来ず、没落一家は神戸(父にとってはなんという皮肉な結末だったろうか!)に夜逃げ。僕が三歳の頃だ。当時の淡路島の記憶など一切ない。が、後年、一族の誰それが、事実を歪曲して昔を懐かしがる話を紡ぎ合わせると、前記したことが実態だったという結論が自ずと出る。

旧制中学を中退して、中途半端な家業の手伝いをしていた男が、突然神戸という街に放り出されたのである。出来ることは限られている。意にそぐわぬ仕事の断続と享楽的な遊び。僕は彼の気まぐれで、新開地という当時の繁華街へ連れ出されたわけだ。現実から逃げるために映画館をハシゴしていた父親に連れ回された経験を、僕の教養のはじまりは映像からだった、と書くしかなかったのである。

お山の大将だった男に長く続く仕事などない。父は、その鬱憤を僕に向けた。たぶん、自分から自由を奪ったのは、子どもの存在だと思っていたのだろう。ある時はペットのように連れ回し、別の瞬間には、ひどく殴られる。虐待という概念がなかった時代だ。それにしても、父に肩まで持ち上げられて、畳の上に放り出されたときの、グチャというなんともイヤな衝撃音からいまだに解放されず、耳に残って離れてはくれない。機嫌が悪いと、ボコボコにされる。そういうとき、母は救ってはくれなかったわけで、いまどきの虐待で両親に殺される子どもの、僕はハシリなのである。たまたまだ、死ななかったのは。

僕は自分の存在を認めるために、父を虚像化した。時折見せる小粋な言動をずいぶんと誇張して書きとめた。母は何度も妊娠し、その度に流産した。それでよかった、と思う。僕のような生き方を生まれ得なかった弟か妹たちにさせたくはなかったから。父親のこと、母親のことをずっと書き綴ってきて、やっとたどり着いた感がある。今日の省察とする。

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○省察(4)

2013-04-01 10:33:55 | 省察
○省察(4)

人はどこまで行っても、他者と繋がりたいという想いが消し難く裡にある。しかし、その一方で、他者に対する言い知れぬ嫌悪感を抱くことから自由にはなれない。その意味で、ヒューマニズムは、人間のこの種の相反する心性を相殺させようとする壮大な試みであったことを僕は否定しない。が、それ以上に正しいと思えるのは、拭い難い瑕疵のごとき人の精神構造の方だ。もしも、ヒューマニズムというものが実現され得るとか、すでにそのような考え方に基づいた人の歴史が綿々と続いているなどと公言する人がいるとするなら、さらに云うなら、ヒューマニスティックであることが、人間のあらゆる高次元の心的現象の中の、極めて価値ある存在であると認識している人がいるとするなら、僕はそういう人を信用しない。

今さらながら僕は想うのである。自分の言葉、言葉によって紡ぎ出された思想、それに基づいた行動を持ってしても、また、そこに誠実というファクターを加味しても、どうにもこうにも相手の心に滲みいるように、自分の想いが通じないことがあるのではないか、と。あらゆる次元における差別主義を取り除いたとしても、人間集団とは、相容れない他者が確実にいる。それは、自他の気づきや教養や育ちや人種等の違いがあるからではない。逆に考えれば、同じ環境下に育った人間どうしであっても、やはり本質的に相容れないことはしばしば起こり得るのである。近しい関係にある、あるいはかつてそうであった人たちの中にも、じわじわと、あるいは唐突に分かり合えなくなることがある。人はしばしば豹変し、変質する可能性を秘めている。だからと言って、その要因を書き連ねることは不可能なことだし、またそんなことに意味があるとも思えない。要は、人間どうしの精神構造という側面には、相容れない齟齬が生じる必然性がある、ということだけは書き記しておく。

僕は人間という存在に絶望しているのだろうか? たぶん、違う。嘘偽りなくいうと、限りなく絶望に近い感情を抱いていることは否定出来ないが、絶望のラビリンスを抜け出る可能性をまだ捨て去ってはいない。だから、僕はまだ当面は生き抜いていく。人間の生理的限界が僕を消し去ろうとするまでは。掴み取るべきものがいまだたくさんあるからだ。僕のような凡俗な人間には時間が必要だと思うし、そのために執拗に生き抜こうという意思が強固なってもくる。まあ、そんなところなのである。かつて、青年の頃、自分には何者にもなれる才が備わっている、と錯誤していたときとはワケが違うからである。

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○省察(3)

2013-03-28 02:07:42 | 省察
○省察(3)

あらゆる党派的思考というものが、僕は嫌いである。どういう意味でか?それは勿論、人が自由な個人という思想的闊達さ、それに伴って襲い来る負の要素、すなわち、思想的足場の危うさと精神的な脆さを伴ってこその思想に価値あり、と僕は思っているからである。人が党派的思想に甘んずると、当然のことながら、思想は一方向へと収斂されていくものであるゆえに、考える自由、考えあぐねた末に紡ぎだされる批判精神の芽生えを犠牲にすることになることは必然である。

ならば、なぜ人は党派的思想に惹かれるのか?それは、元来人というのは、何かを構築すると、その結果はどうあれ、まったく無意味なものでない限り、構築されたものを保守しようとする心性があるからだ。このような心性は、表層的な政治的保守主義とか進歩派、革新派などの区分けに関わりなく、思想とはある到達点に留まったその瞬間から保守的に転じる命運を背負っているというわけだ。思想のベクトルが右であれ、左であれ、党派とは保守主義で一致しようとする人間の集団的な特質のようなものである。もう少し露骨に云えば、集団的ヒステリーだ。

昨今の技術革新を、その程度のありようによって、innovationといい、renovationといってもよいが、それらは、トロツキーの世界永久革命の理念と通底していると感じている人は意外に少ないのかも知れない。普遍的世界観という範疇、思想の次元の高低等々は、時代の荒波にさらわれて、完全に消失したかに見えるが、どっこい、人間とは興味深いもので、昨今の技術革新というジャンルに見事にカタチを変えて現れているからおもしろい。あるいは、芸術、もっと粗野に芸能という人々の関心と営みが、たとえそれが伝統芸術、伝統芸能の分野においても、芸術的感性が刷新されないものは、自ずと滅んでいく。ここにおいても人々の思念的本流とは、変化・変革そのものである。動かず、留まることは、存在の死を意味するのである。

と、こんなふうに今世紀を捉え返して見ると、まんざらでもなさそうである。反吐が出るほど古臭く、それゆえに保守主義の醜悪さ、進歩なき退廃が見え隠れするのが、なにを隠そう、党派的思想、党派的集団主義なのではなかろうか。つまらなさ過ぎるから、こんなものはドブにでも棄てちまおう!それでいいではないか。

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○省察(2)

2013-03-26 16:28:17 | 省察
○省察(2)

「失敗多き人生だった」などと、僕はこの場でしばしば書いてきましたが、僕にとっての失敗とは実のところ何だったのか?と、このところ考えることが多くなりました。確かに現象的な失敗譚は数え上げればキリがありませんし、その意味では僕という人間はいかにも出来の悪い男だとも思います。悔やんでも悔やみきれないほどです。

多岐に渡る出来事、それもあまりいいイメージを持てないそれらは、僕の中では、あるひとつの慨嘆と連結しています。それは、自分という人間は、他者のために何かを、いや、何一つなし得ることが出来なかったのではなかろうか?ということです。時折、過去に関わった人から自分のその折々のイメージを聞かされることがあります。直接的・間接的にあります。そういうとき、自分の中の思い出というものを掘り起こしながらの過去への傾斜に立ち至るのですが、自分の裡で整理出来ているそれと、他者から聞かされるそれとの大きな乖離感を味わうことがしばしばあります。自分の中のイメージと、ある時は微妙に、またある時は隔絶した違いがあるので、驚愕に近い感覚を抱くことがあるのです。

原因はよく分かっています。それは、過去の体験譚を自分に都合よく変換させていることから生じる乖離感です。コンピュータ用語で云えば、上書き保存です。それも自分に都合よく上書きしてしまっているから始末に悪いのです。それでは、原本=過去のリアリティはどうなっているのかというと、私たちが一般にコンピュター上で、上書き保存する前の事実の記述や表現のありようをしばしば覚えていないように、僕は上書き前のリアルな現実を原型のままには殆ど何も覚えていないのです。無論、僕が「失敗多き」という場合、それが実はとてつもなくすばらしい成果であるはずはなく、失敗・失策の濃度を、創作を加えて薄めている可能性が強いということなのでしょう。ともあれ、何も考えず、ウザったいことは忘却の彼方に圧しやって生きるのも一手なのですが、間違いつつも、やはり自己総括は続けていくのだろうな、と思います。これを読んでくださっているみなさんは、常に眉にツバをつけながらの解釈でいいのです。それでもありがたきことだと思っています。今日の省察とします。

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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○省察(1)

2013-03-25 18:26:55 | 省察
○省察(1)

意味あって、過去を捨て去ろうという想うのはよくあることです。想えば、唾棄したくなるような出来事というのは、生きている限りいくらも襲い来るものだからです。どうしようもなく耐えられないものに押し潰されそうになると、人は生理的に、そう生理的に、なのであって、いろんな理窟をつけて思想的あるいは論理的に過去の出来事を唾棄するのではないのです。

角度を換えて言いましょう。人が過去をかなぐり捨てたいと思い、実際にそのように行動するのは、生存本能がそうさせているからです。自分の過去がどうにもこうにも耐え難きものだ、ということに立ち至ったとき、とるべき路は二つしかありません。生存本能が勝っていれば、思い切りよく過去を唾棄します。無論そういう生き方を選びとるのであって、実際には過去は消しようもなく体内に残存し続けます。それでも、この種の路を選んだ人にとっては、過去が蘇って来るのは人が風邪を引くくらいの頻度でしかないでしょう。もう一つは、耐え難き過去と伴に生き抜こうとすることです。これはかなり辛い選択です。生理的現象を超越して、自分の概念と命懸けで向き合うことだからです。これを観念的という批判で笑い飛ばすような人も、耐え難きことに遭遇し、それでも自死しないとするならば、いずれは前記した、どちらかの選択を強いられるときがやって来ます。そういうものです。人が生きることにまつわる回避不能の問題だからです。

どれほど自分の過去が輝かしいものであれ、過ぎ去り、いまが過去の栄光(というものがもしあったとして)とは無縁の生であったとしても、過去を慰撫するように生きるなんて、虚しいことだと僕は思います。勇気を持って自身の過去と向き合う覚悟。少しくらい女々しい(これは女性を蔑視する意味ではありません。語法上の語彙の選択なので誤解なく)生き方でもいいと思いますけれど、生き抜くことそれ自体が、無名のままこの世界から退場せざるを得ない大多数の人間には意味あることのような気がするのです。日常生活は退屈であるにしても、その中に、平凡な生の只中に、自分と他者との関わりの中に、結果的にはあぶくのように消え果てるにせよ、生にまるわるありとあらゆる経験とその蓄積、プラスマイナスゼロよりは、少しはこの世界に生の痕跡を遺せる可能性があるように感じます。

自死することを否定しません。しかし、自死はどのような観点から考えても、卑近な言い方ですが、もったいない、といまの僕には思えるのです。素直にそう思います。かつて自死を試み、(それも何度となく)生き遺ってしまった人間として、声を大にして言いたいのです。生きましょう!ブザマでもいいです。生きる価値あるやなしや、などとは僕はもう言わないことにします。これから先、どのような不幸、あるいは不幸の種が降りかかっても、生き遺れる限り生き抜こうと思います。医療費を無駄遣いしない範囲で。今日の省察です。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃