○(続)善意あれこれ。
長年共依存の支配下で苦しみ抜いたというか、支配を支配と感じられないほどに精神が麻痺して、飽和状態になって、やっといまの自分とはなにものなのかに気づき、自問した日記。その「このババア、一回殺したろか!!!」というちょっとエグイ題名の内実というよりも、たぶん、このような言葉を使うことに嫌悪感を抱いたのに、直截的にもの言うことを敢えて避けたお二人のコメントには、「善意」が溢れていた。特に括弧つきの善意の代表格は、再度書き抜くが、次のごときもの。
>私は親元はなれて暮らしてますが・・年に3回帰省しますがそれでも喧嘩するときあります。でも親は親です。特に自分が家庭を持ち親になると特に親のありがたみ が身にしみます。お互い価値観も違いますが 近くにいすぎて 親のありがたみもわからなくなってるのかもしれませんよ。一度冷静になって考えて下さい。
場合は違えども、人が絶望のどん底にいるのに、この手の善意の一般化で慰めてくださるお方には、たぶん、いつも価値観の基準はご自分であり、相手方に対して共感し、いや、もっとありふれた言葉を用いれば、相手の身になって考えるということなど、もともと眼中にない人なんだろう、とつくづく思う。残念なことにこの種の人間は腐るほどいるから、日常生活が結局は殺伐としてくるのである。なぜなら、こういう人は、自分が苦境に立ち至ると、それこそ他者の言葉を拒絶するからである。換言すれば、ホンモノの善意が通用しないからだ。
世に云うヒューマニズムという偽善的思想を底支えしているのが、他との共感を拒絶しているような「善意」である、と僕は思っている。偽善という概念があるなら、偽悪という立ち振る舞いもあるのだろうが、おそらく僕の好みとするのは、後者の方だ。
人間の価値観を平均化していくと云う意味で、民主主義は浅はかな政治制度だが、それにしても、衆愚政治に陥らない限りにおいては、人間の、いまの限界点だろう、この制度が。人間が、衆愚と化する契機とは、ヒューマニズムが跋扈するような風潮が大勢を占めたときだろう。その意味で、衆愚とは、愚昧な人間のなせる業などではなく、偽善のまん延の結末である。
日本は、災害の質量ともに、未曾有の困難の只中にいる。もっと正確に言うと、災害によって、明らかにされた政治と経済のありようの下劣さゆえの失望感。如何ともし難い。菅直人が首相の座に居座ることの出来るこの日本の政治制度とはいったい何なのか?あるいは、菅直人以外のごく、ごく少数の政治家たちを除いた大多数の政治家たちの愚劣さときたら、もはや批判の対象ですらないではないか。現代の日本で政治家の暗殺が起こり得ないのは、彼らの存在に、それだけの価値がないからだろう。いまの日本は、あらゆる偽善が剥ぎとられた後の、カタストロフィーの姿そのものではなかろうか。カタストロフィーは、東日本大震災の災禍と福島原発の悲惨さだけではなかったのである。それ以前の、日本の政治と経済界の癒着の一部が白日のもとに晒されたことである。今日は東京電力の震災以後、初の株主総会であるという。これを書き綴っているいまも、株主総会は終わることなく続いている様子。日本の株主総会の長時間記録を塗り替えるのだろう。しかし、こんな状態になってすら、前列に居座っている連中たちは、関連企業の幹部連中で、東京電力の管理職の報告に対して拍手喝さいなのだそうだ。アホらし。東京電力だけではなく、電力会社の株主総会というのは、原発反対動議を出しても簡単にスル―されてきた。原発は絶対に安全だから、だそうな。アホらし。いっとき、東電を守る動きが政財界に色濃くあった。裏金が動いていたのを、自分たちで証明していることを隠蔽する余裕などもはやなく、議論の対象になったわけである。これからの、原発被害に遭った人々に対する保障をめぐって、東電を救わんがために税金の投入を考えている輩もいる。東電を潰さないためにだって。潰したらいいではないか。株主が損をするのはあたりまえだ。絶対安全な株式などあり得ないのだから、こういう事態になれば、株主たちは大損を喰らう。それが株の世界の鉄則だろうに。老後のことを考えて、安全であるはずの東電に投資した方々をどうするのか?なんてしたり顔で言う、あるテレビ番組のコメンテイタ―がいたが、アホか、と思う。配当を受け取っていたのだろう?よいときは。ダメになったら、根こそぎ持っていかれる。投資などという行為は、欲得ずくのもの。偽善を振り回すなと言いたい。損もするわな。東電の株式社債が紙くず同然になるのが、事の成り行きからして当然の帰結だ。東電も一旦は潰れて、その後にまた別会社が創立されればよい。欲得ずくの投資を救うためにゆめゆめ税金投入などすることなかれ!こういうときの「善意」ほどアブナイものはないのだから。今日の観想である。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃
長年共依存の支配下で苦しみ抜いたというか、支配を支配と感じられないほどに精神が麻痺して、飽和状態になって、やっといまの自分とはなにものなのかに気づき、自問した日記。その「このババア、一回殺したろか!!!」というちょっとエグイ題名の内実というよりも、たぶん、このような言葉を使うことに嫌悪感を抱いたのに、直截的にもの言うことを敢えて避けたお二人のコメントには、「善意」が溢れていた。特に括弧つきの善意の代表格は、再度書き抜くが、次のごときもの。
>私は親元はなれて暮らしてますが・・年に3回帰省しますがそれでも喧嘩するときあります。でも親は親です。特に自分が家庭を持ち親になると特に親のありがたみ が身にしみます。お互い価値観も違いますが 近くにいすぎて 親のありがたみもわからなくなってるのかもしれませんよ。一度冷静になって考えて下さい。
場合は違えども、人が絶望のどん底にいるのに、この手の善意の一般化で慰めてくださるお方には、たぶん、いつも価値観の基準はご自分であり、相手方に対して共感し、いや、もっとありふれた言葉を用いれば、相手の身になって考えるということなど、もともと眼中にない人なんだろう、とつくづく思う。残念なことにこの種の人間は腐るほどいるから、日常生活が結局は殺伐としてくるのである。なぜなら、こういう人は、自分が苦境に立ち至ると、それこそ他者の言葉を拒絶するからである。換言すれば、ホンモノの善意が通用しないからだ。
世に云うヒューマニズムという偽善的思想を底支えしているのが、他との共感を拒絶しているような「善意」である、と僕は思っている。偽善という概念があるなら、偽悪という立ち振る舞いもあるのだろうが、おそらく僕の好みとするのは、後者の方だ。
人間の価値観を平均化していくと云う意味で、民主主義は浅はかな政治制度だが、それにしても、衆愚政治に陥らない限りにおいては、人間の、いまの限界点だろう、この制度が。人間が、衆愚と化する契機とは、ヒューマニズムが跋扈するような風潮が大勢を占めたときだろう。その意味で、衆愚とは、愚昧な人間のなせる業などではなく、偽善のまん延の結末である。
日本は、災害の質量ともに、未曾有の困難の只中にいる。もっと正確に言うと、災害によって、明らかにされた政治と経済のありようの下劣さゆえの失望感。如何ともし難い。菅直人が首相の座に居座ることの出来るこの日本の政治制度とはいったい何なのか?あるいは、菅直人以外のごく、ごく少数の政治家たちを除いた大多数の政治家たちの愚劣さときたら、もはや批判の対象ですらないではないか。現代の日本で政治家の暗殺が起こり得ないのは、彼らの存在に、それだけの価値がないからだろう。いまの日本は、あらゆる偽善が剥ぎとられた後の、カタストロフィーの姿そのものではなかろうか。カタストロフィーは、東日本大震災の災禍と福島原発の悲惨さだけではなかったのである。それ以前の、日本の政治と経済界の癒着の一部が白日のもとに晒されたことである。今日は東京電力の震災以後、初の株主総会であるという。これを書き綴っているいまも、株主総会は終わることなく続いている様子。日本の株主総会の長時間記録を塗り替えるのだろう。しかし、こんな状態になってすら、前列に居座っている連中たちは、関連企業の幹部連中で、東京電力の管理職の報告に対して拍手喝さいなのだそうだ。アホらし。東京電力だけではなく、電力会社の株主総会というのは、原発反対動議を出しても簡単にスル―されてきた。原発は絶対に安全だから、だそうな。アホらし。いっとき、東電を守る動きが政財界に色濃くあった。裏金が動いていたのを、自分たちで証明していることを隠蔽する余裕などもはやなく、議論の対象になったわけである。これからの、原発被害に遭った人々に対する保障をめぐって、東電を救わんがために税金の投入を考えている輩もいる。東電を潰さないためにだって。潰したらいいではないか。株主が損をするのはあたりまえだ。絶対安全な株式などあり得ないのだから、こういう事態になれば、株主たちは大損を喰らう。それが株の世界の鉄則だろうに。老後のことを考えて、安全であるはずの東電に投資した方々をどうするのか?なんてしたり顔で言う、あるテレビ番組のコメンテイタ―がいたが、アホか、と思う。配当を受け取っていたのだろう?よいときは。ダメになったら、根こそぎ持っていかれる。投資などという行為は、欲得ずくのもの。偽善を振り回すなと言いたい。損もするわな。東電の株式社債が紙くず同然になるのが、事の成り行きからして当然の帰結だ。東電も一旦は潰れて、その後にまた別会社が創立されればよい。欲得ずくの投資を救うためにゆめゆめ税金投入などすることなかれ!こういうときの「善意」ほどアブナイものはないのだから。今日の観想である。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃