ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○(続)善意あれこれ。

2011-06-28 15:41:18 | Weblog
○(続)善意あれこれ。

長年共依存の支配下で苦しみ抜いたというか、支配を支配と感じられないほどに精神が麻痺して、飽和状態になって、やっといまの自分とはなにものなのかに気づき、自問した日記。その「このババア、一回殺したろか!!!」というちょっとエグイ題名の内実というよりも、たぶん、このような言葉を使うことに嫌悪感を抱いたのに、直截的にもの言うことを敢えて避けたお二人のコメントには、「善意」が溢れていた。特に括弧つきの善意の代表格は、再度書き抜くが、次のごときもの。
>私は親元はなれて暮らしてますが・・年に3回帰省しますがそれでも喧嘩するときあります。でも親は親です。特に自分が家庭を持ち親になると特に親のありがたみ が身にしみます。お互い価値観も違いますが 近くにいすぎて 親のありがたみもわからなくなってるのかもしれませんよ。一度冷静になって考えて下さい。
場合は違えども、人が絶望のどん底にいるのに、この手の善意の一般化で慰めてくださるお方には、たぶん、いつも価値観の基準はご自分であり、相手方に対して共感し、いや、もっとありふれた言葉を用いれば、相手の身になって考えるということなど、もともと眼中にない人なんだろう、とつくづく思う。残念なことにこの種の人間は腐るほどいるから、日常生活が結局は殺伐としてくるのである。なぜなら、こういう人は、自分が苦境に立ち至ると、それこそ他者の言葉を拒絶するからである。換言すれば、ホンモノの善意が通用しないからだ。

世に云うヒューマニズムという偽善的思想を底支えしているのが、他との共感を拒絶しているような「善意」である、と僕は思っている。偽善という概念があるなら、偽悪という立ち振る舞いもあるのだろうが、おそらく僕の好みとするのは、後者の方だ。


人間の価値観を平均化していくと云う意味で、民主主義は浅はかな政治制度だが、それにしても、衆愚政治に陥らない限りにおいては、人間の、いまの限界点だろう、この制度が。人間が、衆愚と化する契機とは、ヒューマニズムが跋扈するような風潮が大勢を占めたときだろう。その意味で、衆愚とは、愚昧な人間のなせる業などではなく、偽善のまん延の結末である。

日本は、災害の質量ともに、未曾有の困難の只中にいる。もっと正確に言うと、災害によって、明らかにされた政治と経済のありようの下劣さゆえの失望感。如何ともし難い。菅直人が首相の座に居座ることの出来るこの日本の政治制度とはいったい何なのか?あるいは、菅直人以外のごく、ごく少数の政治家たちを除いた大多数の政治家たちの愚劣さときたら、もはや批判の対象ですらないではないか。現代の日本で政治家の暗殺が起こり得ないのは、彼らの存在に、それだけの価値がないからだろう。いまの日本は、あらゆる偽善が剥ぎとられた後の、カタストロフィーの姿そのものではなかろうか。カタストロフィーは、東日本大震災の災禍と福島原発の悲惨さだけではなかったのである。それ以前の、日本の政治と経済界の癒着の一部が白日のもとに晒されたことである。今日は東京電力の震災以後、初の株主総会であるという。これを書き綴っているいまも、株主総会は終わることなく続いている様子。日本の株主総会の長時間記録を塗り替えるのだろう。しかし、こんな状態になってすら、前列に居座っている連中たちは、関連企業の幹部連中で、東京電力の管理職の報告に対して拍手喝さいなのだそうだ。アホらし。東京電力だけではなく、電力会社の株主総会というのは、原発反対動議を出しても簡単にスル―されてきた。原発は絶対に安全だから、だそうな。アホらし。いっとき、東電を守る動きが政財界に色濃くあった。裏金が動いていたのを、自分たちで証明していることを隠蔽する余裕などもはやなく、議論の対象になったわけである。これからの、原発被害に遭った人々に対する保障をめぐって、東電を救わんがために税金の投入を考えている輩もいる。東電を潰さないためにだって。潰したらいいではないか。株主が損をするのはあたりまえだ。絶対安全な株式などあり得ないのだから、こういう事態になれば、株主たちは大損を喰らう。それが株の世界の鉄則だろうに。老後のことを考えて、安全であるはずの東電に投資した方々をどうするのか?なんてしたり顔で言う、あるテレビ番組のコメンテイタ―がいたが、アホか、と思う。配当を受け取っていたのだろう?よいときは。ダメになったら、根こそぎ持っていかれる。投資などという行為は、欲得ずくのもの。偽善を振り回すなと言いたい。損もするわな。東電の株式社債が紙くず同然になるのが、事の成り行きからして当然の帰結だ。東電も一旦は潰れて、その後にまた別会社が創立されればよい。欲得ずくの投資を救うためにゆめゆめ税金投入などすることなかれ!こういうときの「善意」ほどアブナイものはないのだから。今日の観想である。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム    長野安晃


○「生誕祭」(上)(下)文春文庫と「エウスカディ」(上)(下)角川書店(馳星周著)

2011-06-23 16:47:16 | Weblog
○「生誕祭」(上)(下)文春文庫と「エウスカディ」(上)(下)角川書店(馳星周著)

馳星周という人はおもしろい作家で、エンターティンメント系列に属する作家だと認識されていると思うが、時折その系列から逸脱するような作品を書くので、結構好きな作家なのである。上記二点の長編作品は、僕の心に深い印象を残したものなので、ここに書きとめておくことにする。

ニ作品ともに、時代性はまったく異なるが、その時代性ゆえに翻弄された人物像を通して、特筆すべき二つの時代そのものの本質を抉っていると思う。人は自分の個性を自分特有のものだと考えがちだし、またそのように考えることが自己確立における大切なファクターでもあるので、僕としてはそれでよしと考えてもいる。しかし、本音で語れば、人間の個性とは、自己の周縁からの影響を強く受けざるを得ない存在なのである。古めかしい言語表現を借りれば、形而下的なるものが、形而上的価値意識に深い影響を与えるということだろうか。少なくとも僕の感性から言えば、こういう規定の仕方が最もぴったりと来る。自己の内面の周縁の代表格が、人が生きた時代そのものである。つまりは、人は時代という周縁性から決して自由ではあり得ないし、それは換言すれば、人は時代の空気によって人格や価値観が変容させられてしまうとも言えるのである。

「生誕祭」における主人公の彰洋は、あのいっときの時代的狂乱、世界が金で牛耳られると素人にも夢想できた、生成と破滅が同居しているような、札ビラが大気の中を乱舞する時代の中に己れの可能性を賭けた。金銭が人の個性をどれほど簡単に壊すことが出来るのか、ということを彰洋の人格の壊れを通して、読者は何ほどかのアホらしさと同時に、その蔑視の対象である銭金の魅惑を全否定できないアンビバレンスな感情の中で、右往左往させられる。「生誕祭」を手にした読者が、つまらない、根拠なき倫理観や清貧の思想を振りかざすことなどない。人は金によって支配などされ得ないという価値観と対極の、人は金によってこそ己れの信念すらドブに棄てることが出来るのだ、という隣り合わせの、深き、暗き欲動のあり方を凝視すべきなのである。いや、もっと有り体に言えば、このアンビバレンスこそを楽しめばよいのである。人の人格の高潔さと卑俗さの同居。たぶん、この領域に踏み込んでこそ、人は他者と真性の絆を築くことの出来る可能性が出てくるのだろう。バブル経済旺盛期の、狂乱の一時期に意味を見出そうとするなら、主人公の彰洋の追い詰められた挙句の果ての、精神の錯乱から立ち直っていくプロセスそのものの中にありはしまいか?

さて、「エウスカディ」におけるテロリストの吉岡がフランコ政権からの独立運動に身を投じるのは、日本赤軍の兵士としては、まったくの偶然的で偶発的な、テロリスト組織どうしの連帯という名目がそもそものはじまりである。当時の重信房子率いる日本赤軍の革命とは、世界同時革命下において、日本の体制そのものも破壊させるということだった。これまた思想の錯乱を言下に否定できない時代的バックグラウンドがかつて存在したという信じ難い証左でもある。後年、冷静に考えてみれば精神的狂乱のもたらす夢想性と不可能性などすぐにわかりそうなものだが、時代の波に呑み込まれると、思想が人間存在のすべてを凌駕し得る。その意味においては、バブル経済で日本中が銭金の力で、あらゆることが可能であると錯誤していたものと同質である。

バブル経済であれ、思想の横溢であれ、いっときの乱痴気騒ぎなどと言って、それらを忘却の彼方に押しやることは、案外難しい。人は最も影響を受けた時代的な空気を背負いながら、また別の時代の中で閉塞しながら生きているのである。自分の人生を全方位的に肯定など出来はしない。むしろ自分が最も影響を受けた時代性を何とかかいくぐって、次の時代を不全感を抱きつつ生きながらえていると云うのが妥当な感覚なのではなかろうか。

私事になるが、ごく最近知り合い、気心の知れた友人になり得るだろう人たちとの、互いに距離感を詰めながらの歓談の中で生じた言葉に出来なかった違和感とは、実はこの二作品の時代性の違いと開きがもたらした結果なのである。互いにクセ多き時代の残り滓を身にまとった人間どうし、これからいったいどうなっていくのやら。贅を尽くすことで、存在証明を勝ち得ようとした世代と、過剰な贅は人の精神を蝕み、不平等を加速させるだけの唾棄すべきものだと考える世代に共有し得る価値意識が果たしてあるのだろうか?可能性の問題よりも、おそらくは、受容する力の問題なのだ。僕はそう納得することにした。今日の観想である。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム   長野安晃

○身体を鍛える!

2011-06-21 01:56:12 | Weblog
○身体を鍛える!

40代の頃、本格的に身体を鍛えたことがある。6,7年。過重な仕事ゆえに精神が疲弊し、当然のことながら、身体的な疲労感が埃のように粘りつくようだった。自分の身体が衰弱していくことだけが実感できる不如意な感覚。あの頃、体力にものをいわせた、ともかくがむしゃらな鍛錬が、自己の再生にとって不可欠だという根拠のない思い入れが、仕事のあとの疲れ果てた身体をいじめる主因だったと思う。理論的には間違いだらけの筋力トレーニングを2時間。その後、縄跳びの二重跳び、200回を5セット。その後、7キロのパワーウォーキング。すべてが終わるのが、午前1時過ぎ。それから風呂に入り、読書をし、午前3時頃に就寝。起床は午前7時で、鍛錬をはじめた頃は、いつも鉛のような身体を引きずって職場に出向いた。それでも、精神が腐り、身体もそれに伴って醜悪な体躯に変質していくよりは、眠気と疲労感を抱えている方がよほどマシだったのである。

皮肉というか、当然というべきか、体力がついた分だけ自分の舌鋒はさらに鋭くなり、権力におもねるくらいならば、闘って自滅する方がどれほどよいか、と思うようになった。長年の教師生活がどのように遮断されたのかは、何度か書いたので、いまは加筆することはしない。47歳で職を失ってからは、まったく身体を動かすことなく、約10年間が無為に過ぎる。肥満した身体はもうどうしようもないだろう、と覚悟していたものの、あるきっかけで、スポーツジムに通うハメになった。

かつては、軽々と持ち上げていたダンベルがまったく上がらない。バーベルに至っては、補助の重りくらいしか上がらないわけで、それならと思って、ヨガのスタジオプログラムに参加したら、5分で息が上がった。身体を折り曲げるだけで、玉のような汗が滴った。あと1,2分長かったら、確実に僕は失神していたと思う。身体は衰弱の域に達していたのである。

カラオケでもまったくついていけない歌手はミーシャだ。それでもミーシャは大好きな歌手なので、人に聞こえないようにお気に入りの「少しずつ」を口ずさむ。マシンは誤魔化しが効く。チョロイ重さに設定して踏んばっている表情をしていれば、何とか格好もつくというものだ。しかし、フリーウェイトのコーナーは実力の差、歴然なのである。隣でウンウン唸って、重そうなダンベルで胸を鍛えている青年の真似をして、同じ重量のを持ったら、すぐに肩を痛めた。痛めた肩を騙し騙ししながら、少しずつ負荷を増やしていった。歌えないミーシャの「少しずつ」を念仏のように繰り返しながら。初心者向けの運動生理学と筋トレの方法論の本を数冊読んで、工夫していったら、フリーウェイトのコーナーに出入りする人たちと同じ目線で話が出来るようになった。自分のレベルが上がったのである。

筋肉も筋力も筋量もルーティーンワークにはすぐに慣れてしまい、それ以上の向上は望めない。惰性という感覚を身体の方が見抜いてしまう。人間は意識が最も高度なものと考えているだろうが、実はそんなことはない。時と場合によっては、意識よりも身体の方がよほど感性が鋭いのである。とりわけ、惰性という感覚には身体は鋭敏に反応する。そして、身体は惰性を嫌う。

からだとしての思想が思想界を席巻して久しい。多くの人は、あまりその内実を考えないで、こころとからだ、という二項の統一体として、思想というものを構築するべきだ、というように考えている。しかし、僕たちはもっと突っ込んで考えるべきなのである。それも具体的に、である。思想の身体性とは、精神の陥穽としての惰性を、最も存在の深きところで感知し、惰性による精神の盲目性を覆す可能性、それこそが、<からだ>なのである。<からだ>が、精神の惰性という思想の硬直性を排斥し、柔らかな思念を創造し得る。精神の身体性とは、実はこういうことだ。

身体がきしむほどの重量に挑むのは、マッチョになるためではない。そんなのは結果論だし、僕にとっては、どうでもよいことなのだ。自分の肉体に潜んでいる誤魔化しの効かない、斬新さを常に要求する実体を感じとっているだけなのである。思想の身体性を獲得すること。これが目下の目的である。だから、僕のトレーニングは結構マジなのである。健康維持と体力増進?飛んでもない。むしろ健康にはよろしくないのかも知れないが、モノ言わぬ重さと向き合う価値はある、と僕は思いつつ、ジム通いを続けているのである。今日は報告まで。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム   長野安晃

○言葉の本質をいかに伝えるか、だけれど。

2011-06-07 16:02:42 | Weblog
○言葉の本質をいかに伝えるか、だけれど。

親しい友人がいる。彼は僕にとっては、心強き協力者である。客観的にそう言える。しかし、彼と同じ土俵の上で、仕事の話を進めていくには少々難しい面がある。なぜかと云うと、僕のビジネスの構想を、無論構想段階であるがゆえに、コア―は揺るぎなき、確固としたものだが、枝葉末節に至る部分では確かに穴があるからだ。本来ならば、この段階でアイディアとして語り合い、具体化の方途を考えていくのだが、彼には、この段階では構想を開示することが出来ないのである。たいへん能力ある人間だが、どうしたものか、彼の物事に対するアプローチの仕方は、常に懐疑主義が先行する。日常語で云えば、いつも疑心暗鬼なのである。幼き頃に辛き体験があることを何かの折に聞いた覚えがあるので、おそらくは、そういう体験が現在の彼の思考のあり方の原型をかたちづくっているものと思われる。だから、着想を大切にする他の協力者と比して、彼が得るものは到底彼の力量とは釣り合わないものにならざるを得ない。

なぜこういうことになるのだろうか、とつくづくと考えた。彼の懐疑主義の本質は、言葉に対する信頼度のなさなのである。さらに云うと、言い尽されぬ言葉は、すべて懐疑の対象になってしまうということでもある。しかし、よく考えてみると、言葉とは、そもそもいまだ言い尽されない領域があってこそ、洞察力という深い教養を媒介にした脳髄の中の言葉によって、蒙昧な姿かたちが具象化されてくるものではないのだろうか。翻って考えたとき、すべてが言い尽されたときには、それは確かに確実なのかも知れないが、考えるおもしろさも、また、具象化される過程で得られる果実をも、みすみす逃すことになりはしまいか。せっかくの才能が、猜疑心ゆえに生かされにくいのは、彼の幼き頃の両親からの虐待であるのではなかろうか、と彼の話を酒を酌み交わしながら聴き、その瞬時暗澹たる思いに駆られたものである。虐待と云う名の一方的で、近しい者たちからの暴力ゆえに、精神すらも蝕んでしまう苦い体験が、言葉に対する信頼を著しく損なったかに見える。しかし、さらによく考えてみれば、暴力も、いやもっと正確に云うと、暴力を生みだすものも、歪曲した言葉なのだ。つまりは、暴力そのものによって、言葉に対する信頼を失ったのではない。彼は、ねじ曲がった言葉の発露としての暴力によって、言葉そのものに対する愛着を失ったのである。当然、洞察力という、より高い次元の知性が機能するはずがない。いくら彼が優秀であっても、である。このことは、まだ、彼に伝え得ていない。言葉に対する信頼を失くした者に、言葉の持つ意味と力のありようを説いて、果たして通じるものなのかどうか、確信が持てないからである。

いつか、彼とは対等の立場で仕事がしたいと思っている。しかし、それには、前記した、最も難関たる論理的諒解をしてもらう議論を投げかけなければならない。彼にそれを理解出来る力量があるのは分かっているが、内在化された言葉に対する不信の念の、負の力が大きいこともよく心得ている。躊躇している途上のグチである。読者の方々にはまことに申し訳ないことである。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム  長野安晃

○いまや、日本の政治は、茶番を超えていますね。

2011-06-04 10:27:49 | Weblog
○いまや、日本の政治は、茶番を超えていますね。

菅直人首相の不信任決議案をめぐるあれこれの出来事が、新聞やテレビを通して伝わってきますが、現代日本の政治家たちのレベルが落ちているなあ、というのが正直な印象です。それにしても、鳩山由紀夫と菅直人との不信任決議採決直前の会談内容は笑止に堪えないものでした。鳩山曰く、菅直人が辞任する時期を明瞭に自分に述べたのに、不信任決議案が否決された途端に、自分との約束を反故にした。首相ともあろう者が前言を翻してはいけない。まるでペテン師だ、とマスコミの取材に対して憤慨している彼をテレビで観ていて、それなら、君だってペテン師だろうが、と誰もが思ったのではないでしょうか。沖縄普天間基地問題で前言を翻したのはどなただったのか?鳩山由紀夫と云う人は、政治家であるまえに、精神に異常をきたしているのではないだろうか、と僕などは思ってしまうのです。菅直人と云う人も、政治家としての力量がないのは、もはや誰もが疑い得ない事実として認識しているでしょう。鳩山首相時代に、菅直人は国家戦略相でした。しかし、首相たる鳩山由紀夫は思春期の坊やのように前言を翻すのはへっちゃらだし、言動は無責任極まるのひと言に尽きるし、また、国家戦略相としてその渦中にいた菅直人は、自分の立場から何一つ助け舟を出すことがなかったのは、忘れてはならない事実です。あの頃はまだひいき目に考えていました。菅直人という人間はしたたかに次の首相を狙うために、敢えて鳩山首相に手をかさないのか、って。それにしても無責任極まりないのですけれど。

しかし、事実は、そうではなかったのでしょう。菅直人は、国家戦略相という(ある意味位置づけも曖昧だし、何が任務なのか訳の分からない役職でした)ポジションにいながら、何をしてよいのか、まるでわからなかったのでしょう。国家戦略というくらいだから、何がしかの国際的なストラトジ―を考える立場でしょうね、たぶん。鳩山由紀夫のせいで、基地問題が迷走して、その挙句に沖縄県民を愚弄し、無視して直接アメリカ政府と交渉する始末。日本中のみんながあんぐりと口をあけるしかなかった出来事です。しかし、菅直人は、な~んにもしなかった。まったく表舞台にすら出て来なかったわけですから、その意味では政治家ですらありません。ただ、能力がなく、何も考えつかなかっただけのことです。いまなら、はっきりとそう言えます。かつての市民運動家の活動の内実すら空疎だったのではないのでしょうか。市川房枝ありきの菅直人でしかなかったのでしょう。

そして、今回の東日本大震災です。福島原発の崩壊です。阪神・淡路大震災のときの自民党の手際の悪さもさることながら、今回の菅政権はさらなる不手際だけが目立ちます。東北地方の復興に金がかかるので、辺野古への基地移転に出資する資金が日本からは出ないから、辺野古移転は見合わせようとアメリカ政府の方が言い出すくらい日本政府はバカまる出しなのです。無論、この時とばかりに民主党を批判している自民党は、己れの原発の推進力となった「安全神話」という詐欺を行い続けたことに対して、猛省するべきです。また、原発推進に際して、自民党議員たちの中で、日本中の原発建設にまつわる巨額の裏金が動いたことは、想像に難くありません。うまい汁を吸ったのですから、自民党も政権奪取のための材料に今回の震災と震災による福島原発の瓦解を利用しようとしても、それは通用しないでしょう。また、かつての自民党政権寄りの御用学者たちが、テレビのコメンテイターとして、東電が情報を隠蔽している最中に好き勝手なことを言っていたことも、忘れてはならないことだと思います。

それにしても、G8に参加した菅直人は、原発の安全基準の見直しをするとは言いましたが、原発撤廃をするとは言いませんでした。当事者国でありながら、何の具体的な施策も出せませんでした。恥ずかしい限りです。むしろ、まだ懲りずに原発に頼る電力行政を維持するのだとすら主張しました。それに比して、ドイツは原発全廃の時期まで決めて、目標に向かってすでに前進しているというのに、当事者国が、たぶんアメリカやフランスに気をつかったのでしょうか、むしろかつての自民党政権が続いていたら、言いそうなことを平然と言うわけですから、この人は、政治家である前に、人間として信頼出来ない人格だと感じます。

被災者のみなさんは、政府の、いや、日本の政治家たちのあまりに遅い対応に呆れているでしょう。怒りもあるでしょう。他の国ならば、すでに暴動が起こっていてもおかしくないし、日本中の国民が、政府やマスコミの風評被害という言葉に騙されています。ここに書くのは二度目ですが、25年前のチェルノブイリ原発の崩壊で、放射能が漏れ出て、2000キロも離れたイギリスの牧草にまで被害がいまだに出ています。放射能に汚染された牧草を食むイギリスの羊は、放射能検査を通過しなければ出荷も出来ないのです。日本では福島沖の海産物や、農産物の放射能検査が行われていますが、放射能は、当然、海洋にも、陸上にも飛散します。海流のことをどうして政府もマスコミも問題にしないのでしょうか?また、イギリスの例にあるようにどうして、雨による放射能の飛散が起きることを伝えようとしないのでしょうか?日本中が放射能被害を多かれ少なかれ被ります。致し方ないでしょう。証明しようのないガン死が増えるのでしょう。これも致し方ない。分かり切ったことを隠されるよりは、覚悟を決めて生きることの方がよいに決まっていますから。

日本の政治を茶番だと言いました。しかし、茶番とは、それなりに、次元は低くとも物事の本質が分かった上での、騙しのことを言うのです。けれど、いまの日本は違うようです。政治家たちが、仕事をしていない。政治戦略など高度なことはなし得ないわけですから、その無能ぶりだけが、国民にさらけ出されることになります。いま、僕たちに必要なこと。それは、今回の不幸を教訓にして、政治というものを一部の特権的な仕事のように考えないことです。二世議員などの存在はもっての他です。親の票田からあたかも特権階級のごとくに出馬するなんて、聞いて呆れる。当然仕事が出来ない。優れた二世議員もいますが、そういう人は、親の票田を当てにしなくて当選します。もう、こういう政治はやめましょう。菅直人が居座れるような国会の存在など意味がないんですから。

いまこそ、革命が必要です。胡散臭いことを言うなと思われるでしょうけれど、そういう方は、革命を暴力革命としか認識していないのです。言い直しましょう。いまこそ、革命的視点を日本国民一人一人がもつべきときです。そうであれば、政治も国のあり方も、生活も変え得るという確信を持つべきときです。絶望し、アイロニカルになることは、擬制者たちの思惑どおりです。これが僕たちのこれまでだったのです。もう止めましょう。もう気づきましょう。そういう想いで書き綴りました。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム    長野安晃

○これでいいのだ!と、こんなことでいいのだろうか?

2011-06-01 15:12:45 | Weblog
○これでいいのだ!と、こんなことでいいのだろうか?

何をいまさら、という感慨を抱きつつ、書こうとしています。これを書いているいま、何かを書き遺そうという強い意思も意欲もありませんし、パソコンのキーボードに自分の指が乗っかっている間は、しばらく思いのままに書き続けていようと思っているだけなのです。どうせ、つまらない内容なのですから、このあたりで切り上げる方は賢明だと僕は思います。

たぶん、いつも今日のようなテーマのごとき心境でいる自分は、とても健康な精神の持ち主なのだろうと思います。どのようなつまらないことであれ、なにかをやり遂げた瞬時、これでいいのだ!という満足感(それは往々にして自己満足的でありますが)に浸り、やがて、同じ到達点にしばらく止まっていると、こんなことでいいのだろうか?という、僕にとっては、かなり悪魔的な囁き声が聞こえてくるわけです。悪魔的というのは、自分を駆り立てずにはおかないどうしようもない衝動的な感覚という意味において、やはり悪魔的と言わざるを得ないからです。これでいいのだ!という達成感と、こんなことでいいのだろうか?という不全感、あるいは不全感を達成感ならしめる希求との絶妙な精神のバランス。このような平行棒のような、二つの感性が車の両輪のごとくに働いている場合、人は個人としても、また個人の集合体がなした社会にとっても、そこにはとてもすばらしい展望ある未来を創造し得る土壌がある、と言えるのです。このような観点に立って考えたとき、僕の場合は、やはり、二つの感性のうちでも、不全感が支配的であり、不全感で充満している精神が憤りと化し、未来への明るい展望というよりも、不満タラタラの現在を崩壊させたき欲動が強く作用してくるわけですから、やはり、自分の裡でなにかが壊れていると断ぜざるを得ません。未来への希望に満ちた明るい展望を求め続けることが、人間にとって、どれほど大切な心性であるのか、この歳になってようやく分かってくる始末です。たいしたことなど出来なかったわけです。

これでいいのだ!とは、自分の、あるいは自分たちのなした行為に対する冷静な判断の別称でもあるはずです。これが欠落してしまうと、過去の総括なき、あくなき前進だけが自己目的化することになり、誤謬が、加速度的に肥大するばかりです。これでは、人間の未来どころか、現実の姿すら見誤りますから、人は不幸の連鎖の中に投げ込まれます。過去の歴史上の政治的独裁者が、長期的に政権を握った場合に、平然と同じ人間でありながらも、考えが少し違うというだけで、葬り去った粛清という行為は、たぶん、このような精神構造がなければ説明がつきません。人間の堕落の中でも、最も深く、罪深いそれは、一人あるいは、少数の人間たちが、他者からの批判に晒されることなく好き勝手に多くの人間を巻き込んでの、独裁的な政治手法です。これがもたらす不幸の結果は、計り知れないほどの負の遺産として、多くの人たちを苦しめることになります。

衆愚政治ぎりぎりの、現代の政治のあり方の中でも、やはり民主主義が迷盲な要素をたくさん内包しているにしても、限界ある人間の到達点としては、これが最も妥当な政治の姿ではないか、と思います。それにしても、この日本は、世界で唯一の原爆投下を体験した国とは思えない国です。どこかの大国の言いなりにいつもなってきました。原発は、一部の人たちにとっては、莫大な儲けを独占できるビジネスでもあったのでしょう。地震国であり、津波の影響を受けやすい地勢であっても、根拠なき安全神話を振り撒いて原発をつくり続けてきました。福島原発の崩壊があってもなお、先日のG8における菅直人首相は、原発大国フランスの顔色をうかがって、原発の安全性の強化による原発維持と脱原発への努力目標を掲げたに過ぎません。実に恥ずかしいことです。ドイツのメルケル首相などは、今回の福島原発事故の前は、むしろ原発推進派だと言われていました。けれど、彼女は2022年には、完全な脱原発政策を実施すると宣言しました。ドイツの与野党が脱原発という明確な目標に向かって走り出したのです。これでいいのだ!から、こんなことでいいのだろうか?への絵に描いたような未来への光り輝くような希求が感じとれます。

日本はどうでしょうか?被災者のみなさんは、いまだに避難所暮らし。マスコミがまた怠け出しましたが、当然行方不明者の数は、殆ど減ってはいません。当事国なのに、復興のメドも具体化されていません。また、放射能被害も福島近辺に限ったものにしようと躍起になっていますが、日本中が放射能被害を被ります。敢えて言わないのです。だって、チェルノブイリ原発が崩壊してから、25年も経つのに、2000キロも離れたイギリスの羊は、いまだに放射能検査をしなければ出荷できないのです。雨が遠く離れたイギリスに放射能被害をもたらしたのです。日本中が放射能被害を被らないと考える方がどうかしています。風評被害だといいますが、僕たちは、事実を風評だと誤魔化す一部の人たちの思惑に誤魔化されてはいけません。日本は、到達点も、根拠もないのに、これでいいのだ!という心理が働き過ぎます。いまこそ、これでいいのだろうか?という、日本にとって、妥当な心性をとりもどさないとたいへんなことになります。菅直人さん、いま、必死にご自身の不信任決議を阻止しようと躍起になっているようですが、あなたは、これまでのご自身の仕事に対して、これでいいのだろうか?という猛省をすべきときではないのでしょうか?なすべきことは自ずと見えてくると思いますけれど。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム    長野安晃

○自分の中の「君が代・日の丸」に関する考え方を整理する。

2011-05-30 14:36:59 | Weblog
○自分の中の「君が代・日の丸」に関する考え方を整理する。

僕の個性的な観点から云うと、体制側からのいかなる要請も、それが強制力を伴う限りにおいて、断固反対したいというのが偽らざる考え方だ。とはいえ、過去における僕の思想的傾向がいかなるものであれ、いま書こうとしているのは、そういうことに拘っているのではない。繰り返しになるが、あくまで個性的な感受性の問題だと考えている。そもそもある時代の権勢を牛耳っている集団から発せられる命令(と敢えて言う)には、権力にとって、体制を維持・存続させるためのご都合主義的な思想が濃密に隠蔽されている。常識だろう、これは。僕はもの言わぬ羊ではないから、それならば、いっそのこと彼らが放つ猟銃弾の餌食になるべき狼でありたいと思っている。無論、僕一個の存在価値などないに等しいから、前記したごときの標的にされるのは、むしろ名誉ですらあると思う。現実はまったく何の影響力も持たない遠吠え。そのことを自覚しながら書き綴らねばならないぶざまな姿を常に想起しながらの拙論である。ご辛抱あれ。

さて、昨今喧しく議論の対象に再びなっているのが、「君が代・日の丸」問題である。「君が代・日の丸」を唾棄しようという空気は、戦後民主主義的思想の底に脈々と流れていた反抗の論理である。アジア諸国への侵略のシンボルとして、あるいは、それとは真逆の、戦後復興のシンボルとして、日本人の体内で、時には相矛盾するように、またある時には共存するように生き続けてきた複雑な存在理由の証左として、「君が代・日の丸」問題は在る。

僕自身の思想的な究極の姿は、コスモポリタリズムである。そして、生きる構えとしては、まごうことなきエピュキュリアンでもある。したがって、国家に関するさまざまな論理も、民族主義も、右や、左や、というがごときの政治的スタンスのあり方などは、まったくとるに足りないものである。無責任に聞こえるならば、そのように捉えていただいて差し支えないが、要するに、これらすべては僕にはどうでもよいことである。政治的・経済的視野で発言もするが、僕の思索の根底には、コスモポリタリズムが深く根ざしている。敢えて政治的スタンスとして自己を定義するならば、純正のアナーキストと言うべきなのかも知れない。

人間、自国の誇りであるとか、民族の誇りであるということを言い出すと、ロクなことはない。僕はそう思っている。勿論、武力・経済力がある国が、殆どの力なき国々を政治的・経済的支配下に置いてきたことは忘れてはならないし、むしろ、現代はこのような感性が鈍っている時代だから敢えて差別する側と差別される側の論理については、鋭敏でなければならないと思う。そして、前記した、その大きな原因についての考察をいっときでも忘れるべきではない。かつての植民地主義からの独立を支えた民族自決の政治的論理は、すでにその役割を終えたと考えるべきだ。現在の政治的原理主義も、民主主義を標榜する大国の思想の押し付けも、もはや古めかしい時代錯誤の思想に過ぎないことを忘れてはならない。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム   長野安晃

○昭和談義―断章

2011-05-22 23:45:53 | Weblog
○昭和談義―断章

長門裕之が逝った。役者としてはたいした記憶が残っていない。晩年に、奥さんの南田洋子という大女優が認知症になり、要介護状態になってから、長門はいかに南田洋子という女優がすばらしかったか、妻としての彼女がいかに大きな受容力の持ち主であったかということを思い知ったのだろう。老いさらばえた長門は、介護老人としての雄叫びをあげたのである。「ヨ―コ、ヨ―コ!」とカメラに向かって誰憚ることもなく、叫び続けた。あれは役者としての受けを狙ったものではなかっただろう。まごうことなき本音だった、と思う。スクリーンやテレビ画面のこちら側の人間にとっては、長門の弟の津川雅彦の存在の方が大きいに違いないが、どこまでも長門裕之は奥さんの南田洋子に救われて、自分の死の意味を広く知らしめたように思う。介護は疲れただろうが、幸せな男だと思う。

長門裕之がブレイクしたのは、石原慎太郎が芥川賞を受賞した「太陽の季節」が映画化され、その主役に抜擢されたからだ。南田洋子は、その頃すでにおしもおされぬ大女優だったのに、たいしたインパクトもない長門裕之という、ぽっと出の役者の求愛を受けたのだから男女の関係性などというのは、不可思議極まりない。華やかな世界に長年い続けた二人の最期にしては何となくもの悲しいような気もするが、人間の終焉のあり方なんて、著名人も、無名の人間とても、切なさという点において、あまり変わりはないのだろう。

長門裕之の死に想いを馳せながらも、人を人とも思わない言動を繰り返している石原慎太郎くらいになると、意外に自他ともに自己の個性を錯誤したまま、ある意味知らぬが仏のごとくの幸福な終焉の迎え方をするのかも、と思う。東京都知事でありながら、都庁に出勤するのが、週に3度ほどだとうそぶいていられるのだから、また、そんな人が都民の支持を受けるのだから、ほんとうに幸せな人なんだろう。政治家としては特になにを成し遂げたのかは定かではないが、一応自民党から衆議院議員に立候補して当選し、東京都知事に転身して、最初の選挙で落選したものの、その後は順調。長生きしそうだから、少なくともあと10年くらいはあのふてぶてしい顔を拝まされることになる。

芥川賞作家、石原慎太郎ということになっているが、実は「太陽の季節」なんて、時代の潮流にのっかっただけの作品で、石原の作品群の中ではむしろ見劣りがする。「化石の森」を筆頭にした石原作品の殆どは、現在絶版になっていて、図書館にでも出向かない限り、読むことが出来ない。あの圧しの強い石原ならば、出版社を動かして全作品集の出版など、軽くやってのけられるのだろうが、どうも、石原自身がそれを好んでいないフシがある。なぜか?それはたぶん、石原のかつての作品の存在が、保守本流の(たぶん自分だけが思っているに過ぎないのだろうけれど)、政治家としての立ち位置を危うくさせ得るものだからだろう、と僕は思っているのである。石原の作品群は、彼に対する好悪の感情とは無関係に、荒々しいほどの生命の息吹が感じられる、動的な革命性を秘めていると僕は思う。自民党保守政治家石原にとっては、彼自身の表現した傑作が、政治家としての石原慎太郎にとって、ひどく都合の悪い存在なのだ。まあ、僕にとっては、石原慎太郎なんてどうでもいい人間のひとりなので、どうってことはない。それにしても、どうでもいいことついでに書いておくと、石原慎太郎のバカ息子が自民党の幹事長というのも、自民党総裁が地域利権誘導型の古臭い谷垣偵一であるのも、自民党が現代における保守政党というにはあまりに情けない話ではある。

さらにどうでもいいことついでに付け加えて書いておくと、僕は自民党支持者ではないけれど、これまで自民党を支持してこられた方々は、やはり政治の根底のところで騙されていたのだ、という認識を持つべきだろう。現在の政治的混迷の明らかな現象としての沖縄基地問題、あるいは、東日本大震災における福島原発の瓦解について、またあるいは、全国の原発行政について、自民党の政策そのものを自民党こそが猛省するべきではないのだろうか?民主党は情けないことこの上ないが、自分たちの負のツケを殆どダンマリを決め込んで民主党を批判するだけで済まそうとするのは、どう控えめに見ても見苦しいだけである。かつての自民党の長期政権がもたらした負の遺産について、はっきりと総括的にものを言っているのは、河野太郎さんだけではないのか?彼は、父親の河野洋平さんに自分の肝臓を分け与えた立派な人だ。もしも自民党に再生の道があるとするなら、河野太郎さんが総裁になるくらいでなければ、つまらない保守野党になり下がったままだろう。言うまでもないことだが、河野太郎さんは、自民党の中では、異端中の異端者扱いである。
いずれにしても、今日の雑感はつまらない上に、希望のかけらもない。書いている自分がウンザリとするのだから、読まされているみなさんがいかにウンザリとさせられているか、十二分に分かっております。申し訳ないことです。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム    長野安晃

○「大家族貧乏アイドル」という幻想

2011-05-13 10:51:33 | Weblog
○「大家族貧乏アイドル」という幻想

 上原美優というアイドルが逝ったという。テレビ報道を観てはじめて知った。この24歳という若き女性タレントのことは、テレビのバラエティ番組で、自分の育ちを売りにさせられて、可哀そうな女性だなあ、というぼんやりとした記憶が残っているだけである。

 自殺だと云うが、僕から見ると明らかに、自死に限りなく近い殺しだろう、と思う。無論、殺人者が明確にいるわけではない。この少子化の時代に、10人きょうだいの末っ子であり、極貧のために食うや食わずという生活。アイドルという虚像とは本来相容れない要素を逆手にとって、売れっ子になったのである。もっと正確に云うと、<売れっ子にさせられた>のである。この女の子をどこの芸能プロダクションが発掘してきたのかは知らないが、平成と云う現代に、かつての日本の、貧しくとも強く生き抜いてきたという、人間の幻像を復古させることで、幅広い層のファンを得ようとした。それはまさに欲深き浅薄なオトナたちの思惑の犠牲のありかただという印象は拭えない。

 食いものがなく、野草すらも食んだから、人の精神は強靭になるのではない。10人きょうだいの末っ子だから、生存競争に長けているということでもない。上原美優の場合は、そのすべての要素が真逆に彼女の生に影を落としたのだ。野に咲く花を口にせざるを得ないやるせなさが、彼女の生きる足場の危うさとして心の闇を押し広げた。産めよ増やせよ、という古めかしいスローガンがまかり通った時代の、日本中の庶民が一様に貧しい空気の中には、地域共同体という意識があっただろう。その中で、子どもたちも数多いきょうだいたちを自分の生きる環境として積極的に受け入れることも出来たのだろう。多くは労働力として生き、ずばぬけた能力ある子どもは自力でも知力を得るために邁進出来た。しかし、この時代に、10人という子だくさんの環境で、上原美優という傷つきやすい個性は、愛情を受ける術を持たなかったのではなかろうか?愛情を十分に受けられなければ、他者に自己の愛を与え、愛を表現する手段を喪失したまま生きねばならない。上原美優は縊死する前に、二度も自殺未遂をしでかしている。恋愛の痛手のように漏れ聞こえて来る。縊死する2日前のブログで、人を愛することの不可能性を彼女なりの言葉で書き綴っているのである。痛ましい24歳の慟哭が聞こえてきそうだ。

 現代社会の生活様態、教育の現状を考慮に入れれば、到底怖くて10人もの子どもをこの世に送り出すことなど出来はしない、というのは、たぶんそれほど間違った考え方ではないだろう。都会であれ、種子島であれ、今の世の中、情報が寸断されているわけでもないのである。物価も金銭感覚も教育の問題も、10人の子どもを育てあげるには、いかなる困難が伴うことか、考えてみれば分かることだ。上原美優は心強き母親像として、自分の母を語りつつ、その一方で、たとえそれが<売り>であっても、母にもっと愛されたかった、愛が足りないという叫びというかたちを、見え隠れしながらの本音として語ってもいたのだろうと僕は思う。その意味で、彼女は、「大家族貧乏アイドル」という、自らの本質とは相容れない虚像を演じ切れずに、そしてその虚像ゆえに、自己を葬らざるを得なかったのだ。僕はそう思うのである。オマエに上原美優の何が分かる?と問われれば、何も分からないと答えざるを得ない。が、上原美優という若き女性が、自らに課せられた時代錯誤の虚像の重さに自己の存在を瓦解させられたことは理解出来る、とは言いたいのである。今日の観想として書き遺す。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム    長野安晃

○オサマ・ビンラディンについて、もう少しだけ。

2011-05-08 11:25:10 | Weblog
○オサマ・ビンラディンについて、もう少しだけ。

 パキスタンの政府要人たちが住む高級住宅地に身を隠していたとされるビンラディンが、アメリカのCIAの情報によって、アメリカ兵に射殺され、死体を海に投げ捨てられた事件。おかしなことばかりである。ネット上に流されたビンラディンの射殺死体は、ぼやけていて、さらに頭を二発(たぶん)撃ち抜かれ、おそらく左目も打ち抜かれているようには見える。しかし、不謹慎なのかも知れないが、好むと好まざるに関わらず、あの端正な顔立ちのビンラディンが、いくら何発も銃弾を食らったとしても、あのあまりに破壊的な顔相の映像はどうにも現実感がないのである。ビンラディンが暗殺されたというアルカイダの声明が流されたのは承知しているし、その後継者にアルカイダのNO.2が据わることも報道ではまことしやかに書かれてはいる。また、報復を匂わせる声明文もあるが、それにしても今回の惨劇には、かなりの裏があるように思う。僕の、憶測と言われても仕方がないことをツラツラと書き綴るつもりはないが、少なくとも、ビンラディン暗殺劇たるもの、僕自身の感性には、そぐわない現象的な側面があることはどうしても否定できないのである。
 
 まずは、アルカイダの組織そのものに亀裂があったとしか考えられない。イスラム教のパキスタン政府の要人がかくまっていたのだろう?パキスタン政府の裏切りとして認識されない方がどうかしているが、それにしても、パキスタン政府からアメリカ政府に情報が流されたと考えない限り、ビンラディンの日常の行動をあれほど微細なまでにアメリカ政府が知り得たとは思えない。今回の暗殺劇がアルカイダそのものの関与なしに、ビンラディンをかくまっていたという人間とパキスタン政府との裏切り行為だとするなら、そしてそれだけのことなら、彼らはまさしく枕を高くしては眠れないのではないだろうか?また、アメリカの攻撃もイギリス皇室の結婚の儀が終わるのを待っていたフシがあるし、何年もビンラディンを発見できなかったアメリカ政府にそれだけの余裕があったのは、ビンラディン暗殺のストーリーが幾通りにも描かれていたとしか思えない。よほどの確信と周到な準備をしても、ビンラディンに悟られなかったことは、そもそもアルカイダという組織の内部分裂が深く絡んでいることを抜きにしては考え得ないことではないのだろうか。

 パキスタン政府は、ビンラディンが暗殺された豪邸を取り壊すのだという。そこがビンラディンが聖戦士として死したメッカになることを怖れたからだというが、どうも手際が良すぎるし、パキスタン政府が関与していない、という報道にもあまりにも大きな不自然さを感じる。パキスタン政府内部に情報提供者がいたとして、それをもとにビンラデでィンが潜んでいたとする邸宅の、アメリカ軍の監視体制そのものが、パキスタン政府の関与しないところでなし通せたと考える方が牧歌的に過ぎる発想ではなかろうか。もしも、報道どおりにビンラディンの暗殺が事実だとして、それが実行されたのは、アフガニスタンの二の舞にならぬような、アメリカ政府とパキスタン政府との暗殺に関わる密約なしに、どうしてこの作戦が成功したというのだろうか?

 ビンラディン暗殺の当日、オバマ大統領は趣味のゴルフを早めに切り上げて「危機管理室」とやらに籠ったというけれど、なんで、その当日にゴルフなんだろうか?こういう感覚がよく僕にはわからないのである。さらに言うなら、ヘリコプターでの侵入だったらしいが、当のヘリコプターの1機が機械の故障で墜落したという。予備のヘリで作戦実行がなされたというが、これもおかしいだろう。大袈裟な爆裂音がするし、これにパキスタン政府が気づかないはずがないではないか?

 最後に実にムカつくことを書いておくと、ビンラディンの作戦上の標的名が「ジェロニモ」なのだという。ジェロニモは、君たちアメリカ政府が豊かな大地から、ネィティブ・アメリカンを追い払う過程で、圧倒的優位のアメリカ軍と勇壮に闘ったネイティブ・アメリカンの有名な酋長名ではないか!なんでビンラディンの標的名がジェロニモなのだろうか?ふざけているにも程があるとはこういうことだ。今回の惨事は国家的テロだ。テロにはテロの報復が待っている。何度も言うが、こういうことに終わりはないのである。アメリカ国民の一部だろうが、ホワイトハウス前で、歓びに興じている場合ではないのである。あまりにバカに見えて仕方がないではないか!

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム     長野安晃

○人間の歴史なんてねえ・・・・・

2011-05-05 23:07:01 | Weblog
○人間の歴史なんてねえ・・・・・

 ビン・ラディンは、殺害されるのではなくて、あくまで身柄を拘束し、それがたとえ茶番劇であれ、裁判の場で裁かれるというシナリオが描かれるべきだったと思う。ブッシュがはじめたテロとの闘いという、国家レベルのテロの政治的合理化と世界各国への恫喝の根源に在るものこそが、ビン・ラディンという、大国が恐怖する象徴的存在を生み出したのである。アメリカは何故そのことに気づかないのか?あるいは西欧諸国もアメリカに媚びへつらう日本政府も、あのような蛮行がテロリズムの根絶につながるなどという妄想を、なぜかくもたやすく信じようとするのか?

 そもそも、ビン・ラディンの側にも、オバマの側にも、テロリズムを寄りどことするような政治的行為になど、なんらの合理的根拠はない。人間の歴史が、大いなる矛盾と限界性を内包しつつも、手間暇のかかる民主主義に辿り着いた裏面には、たくさんの血塗られた暗黒を抱えている。しかし、それでも人間は民主主義という政治的システムにしがみついているべきなのだ。今回のビン・ラディン暗殺劇に、「正義」などない。あれこそが、虐げられてきた民族の、体を張ったテロリズムを、圧倒的な力でねじ伏せたテロリズムそのものである。そうであれば、テロリズムに、「正義」も「聖戦」という論理もないのは自明の理である。

 かつての帝国主義列国が、いかに強圧的で、人種弾圧・政治的経済的なる一方的支配体制を当然のことのように、飽きることなく、被支配国に強要してきたことか!そのことに想いを馳せれば、大国に対する抗いの方法論としてのテロリズムの横行を、少なくとも現代の政治力学では止める手段を持ち得ない。
抑圧され、国の富を蹂躙された民族が、ジハード(聖戦)を大義名分にして、大国に立ち向かう手段とは、闘争のコストから云ってもテロリズムしかない。現代の西欧列強もかつては、キリスト教という大義を背負って、十字軍という名の聖戦をやったではないか!こういう視点からいまの現象を捉え返してみれば、人間の限界性ばかりが目立つ。

 もし、現代においてテロリズムが避けられないものであるとするなら、テロの作法くらいはなければならないだろう。僕なりの言葉で言えば、こうなる。テロを正当化してはいかん。無差別テロはいかん。あれは下劣なだけだ。テロ撲滅と称して、圧倒的軍事力を使った欺瞞的テロは、さらに下劣だ。テロリズムなどという蛮行は克服されるべきだが、現代がその途上にあるとするなら、政治的要人に限ったそれであるべきだ。さらに云うなら、あくまで一人一殺。無差別テロなど比べようもないほど困難な行為になるだろう。しかし、僕たちが、いまだ人間の原初的な政治的枠組みの中にいるとするなら、テロに作法があってしかるべきだろう。

 報復無差別テロは起こるか?当然起こる。僕たちのごとき力なき庶民こそが泣きをみるのだ。致し方なし。今日の観想とする。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム    長野安晃

○「ひとつ」について「すべて」を語ることの意味。-僕なりの観想。

2011-05-01 10:43:02 | Weblog
○「ひとつ」について「すべて」を語ることの意味。-僕なりの観想。

「ひとつ」の物事を語ることで、「すべて」を語り尽くしたいと思うのは、何もめずらしいことではない。それは、「すべて」について「すべて」を語り尽くしたいという欲動をある意味、洗練させた考え方だろう、と思う。洗練と云えば聞こえはいいけれど、底にあるのは、かなり単純でいかがわしい思念が実在するとも思うのである。何故なら、こういう考え方の本質は、すべからく終末論を想起させるからである。

人はどうあがいても、どうせ死ぬのだから、それならば、いっそのこと「今」死にたい、と夢想する。同じことならば、自分だけが死ぬのは嫌だ。他の人間はみんな楽しそうに生きているではないか。そうであれば、世界全体を巻き添えにしてみんな一緒に死にたい、という思考のありかたは、すぐ目の前に広がっている。オウム真理教という、あんな単純でアホらしい教義?にたくさんのインテリたちがカモにされ、洗脳されたのは、「救済」という名の「死」「絶滅」という迷宮の中で、どうせ死ぬのなら、何かをしなくてはならない、という裏返った使命感を煽られたからである。麻原彰晃は、「死の恐怖」を煽って絶滅への実践を駆り立てる物語を紡ぎ出したわけである。そもそもこの世界に終わりがあると考えること自体が、「終末論」と直結した発想であるわけで、その意味では、この世界には、「終末論」がはびこっていると言っても過言ではない。意地の悪い言い方をすれば、自分が生きているうちには、終末は訪れないと考えること自体が「終末論」者である証左だ。福島原発事故の悲惨な現状に対して、裡なる「終末論」が疼く人々は数多いのではなかろうか。

話をもとにもどすが、「ひとつ」のことで「すべて」を語る、あるいは、そのような思想を追い求めるのは、病んだ精神性である。なぜなら、「ひとつ」の自己の死が「すべて」の世界の死と直結していることであり、「すべて」の人が「ひとつ」の終末における死として実現することを意味するからである。ジャック・ラカンならば、これを「絶対的享楽」と呼ぶだろう。宗教的意味合いで語ったから、そういう観点でものを言うならば、僕なりの思考で定義でいうと、前世はある。しかし、それは、単純に僕たちが生きていなかった世界という意味で存在するのであり、また、来世もある。当然のことながら、それは、僕たちが死した後の世界である。自分が死んだ後も世界は続く。自分とはまったく無関係に存在し続ける。単純にこれだけのことにどうしても耐えられない人々もいるのは笑止だが、現代思想という範疇で語れる人々の中にも、この種の病をともなった言説に終始するバカげた連中もいるわけである。彼ら曰く、「歴史の終わり」あるいは「われわれは潜在的にアウシュヴィツにいる」云々。

自分が生きている間に、歴史は決定的瞬間を迎えており、自分は、決定的な終わりやはじまりを生きている、という稚拙な言説をポストモダンだと思い違いしている人が多いとは思うが、フランス現代思想にはじまったポストモダンという思想の潮流とは、むしろ、前記したような幼稚な言説を強く否定するものだった、と僕は理解している。
 
小説や戯曲においても同じことが語られている。トーマス・マンは、オウム真理教よりも、もっと巨大な虚構の物語を紡ぎ出したナチスの本質を、戦争のための戦争、自らの死と滅亡のための戦争だ、と断言している。ナチスが究極的に目指していたものとは、それは自殺の論理に過ぎないことが、これで分かるのではなかろうか。敷衍するならば、ナチスとは、あるいは小粒のオウム真理教とは、自らの死と滅亡のための戦争そのものであり、自分と世界を同時に、一撃のもとに滅ぼすことと同義語である。つまりは、終末の「絶対的享楽」の瞬間の到来を招き寄せることである。サミュエル・ベケットの「ゴド―を待ちながら」という戯曲を終末論的なものと錯誤している人は多いと思うが、そうではない。これは、「他の日々と同じようなある日」「また新たな夜が来る。前へ!」ということを伝えるための戯曲だ。自分が生きている「今」が決定的な時代であることを拒絶している勇敢なる作品である。この難解で、不条理的だと評されている戯曲に関するインタビューで、ベケット自身が軽く答えている。この作品のコア―は「共生だよ」と。まことに至言。脱帽である。

文学が、偉大なるモダニズムの文学が、現代のかくも病んだ思考回路に対するいかに粘り強い抵抗だったのかが分かる。このような文学的抗いを「革命」と呼ばずして何と称するのか、僕には他の表現が思い浮かばないのである。屁理屈はもう飽き飽きですか?そうでしょう、そうでしょう。これくらいにしておきます。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃  

○こんな時期だからこそ、核開発に関して、ちょっと復習しておこう、自分のために。

2011-04-26 16:27:29 | Weblog
○こんな時期だからこそ、核開発に関して、ちょっと復習しておこう、自分のために。
 日本は、核兵器の最たる負の遺産としての原爆を二発もアメリカ政府に落とされた。戦争終結のためだと素朴に信じているアメリカ国民もいまだに多いと聞く。しかし、だ。それなら何も、広島・長崎に二発も落とすことはなかっただろう、という、これまた素朴な疑問が湧く。だって、東京・大阪へのB29爆撃機による非戦闘員への無差別爆弾投下で、日本の敗戦は決まっていたはずだ。日本が、アメリカの戦後政策のための、原爆の人体実験場にされたことの理由。そんなことは、広島へ投下された原爆がウラン濃縮型原爆。長崎へのそれは、プルトニウムを凝縮させた原爆だったことを想起すれば、誰にでも分かることだろう。日本への原爆投下とは、当時の原子力兵器の威力を人体実験で行うことと、アメリカ以外の国々に対する圧倒的な政治的優位を勝ち取るための試みだったのは、火を見るより明らかではないか。実際、戦後世界におけるアメリカ政府の優位性は、その他の国々が原爆開発をするまでの期間、崩れることがなかったわけだから。
「核拡散防止条約」なんて、子どもにでもアホな条約内容だと云うことが分かるはずだ。戦後のアメリカの一人勝ちなんかに屈している方がどうかしているので、世界各国が核開発と核兵器の開発に躍起になるのは必然だ。そうなると、核を持った国は、これ以上、核保有国を増やさないでおこうなんて勝手なことを言い出す。それが、この不平等条約だ。核保有出来る国を、この条約以前に核開発と核兵器開発をしていた5カ国(アメリカ、旧ソ連、イギリス、フランス、中国)に絞り、その他の国が核開発をするのを禁止したという恥知らずな条約だ。条約に加盟した国は核開発をしてはいけないし、核保有している国は、その技術を他国に教えてはならん、というもの。子ども騙し。いや、子どもだって騙せない。この条約に加盟した核兵器を保有しない国々は、政治的・経済的圧力に屈したのである。原爆投下を受けた日本の平和主義ゆえだと考えられなくもないが、そのことだけを念頭におくだけでは、核保有国の身勝手さの説明がつかない。
まあ、それでも核兵器は開発しないが、原子力発電所はつくりたい、という要請は当然出てきたわけで、いくらIAEAの「査察」を徹底的に行っても、条約自体に問題があるわけだから、当然、イランのように虎視眈々と核兵器開発を狙う国が出てきて当然だろう。アホウなブッシュが起こしたイラク侵攻だったけど、そうなったのは、とりもなおさず、イラクが核兵器を持っていなかったとするのが、イラクの言い分。妥当だろうな。大統領がオバマになったからと云って、戦争で儲けようとする輩がオバマを支えている現状からすると、イラクだって、黙ってはいないよ。原子力発電所というのは、そういう意味でもアブナイ存在。核兵器を所持しない国でも、原子力発電所は持ちたい。IAEAの「査察」が条件でも、広島型原爆のためのウラン濃縮も出来れば、原子力発電所からは使用済み核燃料も出るわけで、このプルトニウムを使えば、長崎型原発も出来るわけだ。当然日本も核兵器をつくれるにしろ、やはり、ここは世界唯一の被爆国の意地を持たないとね。日本は絶対に核兵器などを持ったらアカンのです。
アホらしくて思い出すのをためらうほどだが、この「核拡散防止条約」を批准しない国に対しては、IAEAも「査察」など出来ないのである。インドもパキスタンもイスラエルも加盟していない。それぞれが、国力をつけてきているわけで、そんなことを考えると暗澹たる気持ちになる。日本は、いま、福島原発に振り回されているけれど、世界の情勢は、これまでも、また、これからもずっと危険だ。まるで綱渡り状態。これが、世界のあり方だから、日本に住む僕たちは、しっかりと政治の行方を見定めないといけませんね。最後に。民主党の菅直人はダメだが、自民党は戦後の長期政権の過程で、アメリカの言いなりになってきたことを忘れないことだね。民主党がダメだからと云って、自民党政権下における政治を肯定的には見れないね。そんなことを考えました、今日、僕は。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム     長野安晃

○おかしなことが議論されているなあ。

2011-04-24 12:04:58 | Weblog
○おかしなことが議論されているなあ。
 菅直人の諮問機関が「復興構想会議」なのだそうな。被災地の知事たちの提言が、また例のごとくに、新聞ではコンテキスト抜きの発言の切りぬきのように書かれていたので、留保つきで、僕の考えを書き綴ることにする。いろいろ言いたきことはあるが、これはおかしいということに絞って書く。
 大きな疑問符をつけて読んだのは、宮城県知事の村井さんの提言。インフラの復興と整備については、当然のことなのでいいけれど、あれー?と思ったのは、村井さんが提言している財源の問題。村井さんは、「災害対策税」というものを提案したのである。問題は、その内容である。災害対策税とは何か?「恒久的で?全国民、全地域が対象となる災害対策のための間接税?」(疑問符は、長野がつけた)とある。これと合わせて復興国債の発行と県ごとの災害復興基金の創設。後者は当然のことだろう。でも前者に関しては、危険極まりないと僕は思う。まずひっかかったのは、間接税だということ。これはおかしい。村井さん、あなたは、被災者の立場に立っているのか?と言いたい。被災して明日の見通しも立たない人にもこれでは負担がのしかかる。菅直人が消費税引き上げを福祉税という位置づけを外して、復興のために引き上げるなどと云っているのことに拍車がかかる。そもそも菅直人という人には、信念も思想もない。一旦間接税を引き上げたら、あとは無目的に国家財政が苦しいというだけの理由で、間接税をどんどん引き上げるだろう。
 災害対策にかかる費用は、恒久的であってはならないのである。あくまで限定的、臨時的措置が望ましい。税金に関わることだ。こういう税制のあり方が定着すると、際限がなくなるのは目に見えている。村井さんはたぶん、資産をたくさんお持ちの豊かな人なんだろう、と思う。
 災害に遭った人々にとって、最も重要なのは、現状復帰である。とりあえずはもとの状態にもどしてあげることだ。無利子・無担保で現状復帰できるだけの資金を貸し付けること。被災者がすべて善人であるとは限らない。借りた金を持ち逃げすることだってあるだろう。しかし、そういうことは織り込み済みでなすべき措置だ。まずは金余りの銀行や金融機関に対して、政府として臨時の法的措置を講じて、貯め込んだ金を吐き出させればよい。その上で、不足した財源確保には、あくまで期限を切った、直接税の増税によって乗り切るべきだ、と思う。
 間接税の最高税率の国は、デンマークの30%だ。しかし、この30%は、医療費はすべて無料。教育費は幼稚園から大学まで無料。福祉に関わるものもすべて無料。だから、デンマークの国民は、老後のことなど心配する必要もなく、無理な貯蓄も必要ない。いまの日本の国政を握る人々に、こういうことを可能にする意思があるか?絶対にない。だから、それが災害復旧のための、という文言がついていたにしても、恒久的というのは、いつしか、災害復旧の、という前提がとれて、間接税率が高いのがあたりまえになる。当然のことだが、デンマークのような福祉・教育に対する保障などは見込めない。泣きを見るのは国民だ。村井さん、そういうことに責任をもって、「復興構想会議」に臨んでほしい。いま、あなた方被災地の指導者の発言にはみんなが耳をかす精神的土壌があるだけに、くれぐれも軽はずみな発言だけは控えてもらいたいものだ。シロウトの提言として書き遺す。

京都カウンセリングルーム

アラカルト京都カウンセリングルーム    長野安晃

○リーマン・ショックってなんだったんだ?自分のためにちょっと復習しておきます。

2011-04-20 16:43:36 | Weblog
○リーマン・ショックってなんだったんだ?自分のためにちょっと復習しておきます。
 リーマン・ショックのリーマンとは、言うまでもなく、リーマン・ブラザースというアメリカ第4位の大手証券会社。1850年創業。1984年にクレジットカード会社のアメリカン・エキスプレスの傘下に入り、1995年に分離独立。翌年、ニューヨーク証券取引所に上場した、巨大金融機関だった。
 なぜ、リーマン・ブラザーズが経営危機に陥って、破綻したのか、ということだが、おおもとの理由はアメリカの住宅バブルが崩壊し、リーマン・ブラザーズの保有資産が急激に劣化したこと。また、アメリカの住宅バブルをつくったのが、所謂サブプライム・ローンという、住宅ローンのあり方だった。日本の金融機関でも同じことだが、信用力(あくまで金融機関の観点での)の低い労働者や、低所得の労働者を対象にして、高い金利で貸し付けを行う住宅ローンが、普通の住宅ローンをプライム・ローンと呼ぶのに対して、サブプライム・ローン。要するに格下のローンだ。日本の消費者金融の住宅ローンみたいなものと考えればいい。金がないというのは切ないもので、安い金利では決して融資してくれないので、バカ高い金利でも消費者金融で借りなければならないわけで、金がない人はどこまでも不利に出来ているのが、現代社会。おかしいよ。いや、こういうのは、昔から同じことが起こっているな。
 日本で住宅ローンを借りようとすれば、借り入れ出来るかどうかの基準は担保主義の古臭いもの。それにしても日本の場合は、住宅ローンを貸したら、最後まで自分たちで回収するのに、アメリカのサブプライムローンは、勝手なもので、あまりに高金利で貸し付けを起すものだから、焦げ付きを怖れる。(自分が蒔いた種だろうが!と憤るね、僕は)リスク回避のために、アメリカの住宅ローン会社は、サブプライムローンの債権(ローンで貸した金を返してもらう権利と考えればいい)を一まとめにして証券会社に売り飛ばしてしまうのが通常の姿だ。ここは日本と多いに違う。債券を買った証券会社は、この債権を小口の債券にして、資産担保証券にしてしまう。そうすると、債券を買う側には本来消えないはずのリスクが見えなくなるという、あくどいやり方だ。リーマン・ブラザーズは、こういうことの得意な証券会社。こんなのが、金融商品になって売られる。素人には勿論リスクなど見えるはずがないし、それに、少しでも株をやったことのある人なら知っていると思うが、証券や株券に対して格づけをする会社があって、そいつがAAA(トリプルAという最高に信用出来るもの、という格づけをやったわけ)をつけるものだから、プロであるはずの世界各国の金融機関やヘッジファンドまでがこの証券を大量に購入したわけである。
 バブルは所詮はじけるわけで、当然のことのようにアメリカの住宅ブームは終焉を迎える。そうすると、住宅価格は下落し、ローンの焦げつきが増大する。この証券(これが証券と言えるものなのか?)を大量に保有していた、特に欧米の金融機関やヘッジファンドが多額の損失を出す。世界同時株安が起こるのは必然だったわけである。アメリカではじけた住宅バブルは、日本にも大きな影響を及ぼした。これで、財産を失くした方々も大勢おられるだろう。それにしてもブッシュ政権の功罪は大きいと僕は思う。公的資金を投入して救済したところ、そうでなく倒産させたところ、その基準がバラバラだ。とりわけ、リーマン・ブラザーズという150年に及ぶ歴史を持つ謂わば老舗の証券会社は、公的資金投入を拒否されて、あえなく倒産。6000臆ドルを超える負債総額は、アメリカ史上最大の倒産劇だったし、「100年に一度」といわれる金融恐慌の幕をこじ開けてしまったのである。恐ろしいことが、次々に起こることになる。ここには、敢えて書かない。書くと、しんどくなるから。
 そもそもブッシュは共和党の大統領である。ご存じのように共和党は、「小さな政府」を標榜している政党であり、政府は、市場経済には出来る限り介入しない。たとえ不況になっても、景気は自然の循環に任せておけば、立ち直るという発想だ。でも、「小さな政府」を目指したときに、庶民の生活が豊かになったことはないな。これは歴史上証明されていることだろう。経済を自然淘汰に任せるわけだから、弱肉強食の世界だ。景気が悪くなれば労働者である庶民などは、まず最初に犠牲になるのは必定だろう。ブッシュ大統領の負の遺産は、リーマン・ショックを惹き起したことと同時に、何と言っても、アフガン侵攻であり、大量破壊兵器があるとの証拠もないのに、強引にイラクに攻め入ったことでもある。泥沼である。長引く戦争で、経済は疲弊してしまった。ひどいことが起こる。<パパ・ブッシュ>も共和党の大統領で、この人は湾岸戦争で、経済をダメにしている。親子そろってなんという人たちなんだろうな。敢えてバカというが、このバカなブッシュの「小さな政府」に共鳴したのが、当時の自民党政権下の首相だった、小泉純一郎とそれを支える経済学者の竹中平蔵。日本人は小泉の郵政民営化に踊らされたが、小泉は竹中の箴言を受けて、福祉や教育などの庶民の生活を支える法律を次々に改悪していった。その法案は100本以上。すべてが自民党圧倒的優位の国会で、通過してしまっている。国民生活が豊かになるはずがない!
 日本政府の考え方は、自民党に限らず、民主党政権になっても、いまだに敗戦後の戦後政策の延長線上にあるようで、リーマン・ショック以降のアメリカの金融危機は、単なる経済問題だけではなくて、アメリカの覇権の終わりを意味するのだが、アメリカ以後を見据えた政治・経済政策が果たして、政党の如何を問わずこの日本にあるのだろうか?大いなる疑問符がつく。むしろ日本政府よりも、アメリカの経済界の連中の方が、自国を飛び越えて、今後の経済・社会的覇権を握る国をよく見定めているような気がする。残念ながら、僕には勝手な解釈でリーマン・ショックに関する観想を書き綴ることしか出来ない。どこかのシンク・タンクのような膨大な情報を持っているわけでもなく、世界経済という観点からみれば、経済という大津波にさらわれるだけのか弱き一庶民に過ぎないわけだし。だけど、憤ってこれくらいのことは整理しておく必要はあるかとは思っているのである。ただ、それだけのことだ。退屈だったでしょう?読み流してください。そういうものに過ぎませんので。今日の観想として書き遺しておきます。

京都カウンセリングルーム   
アラカルト京都カウンセリングルーム     長野安晃