亀田の日
どうなったかな?
最近パソコンににらめっこしてる時間が圧倒的で
思うことは2つ。
ひとつは仕事としてはできるけどメールのやりとりは限界があるということ。ここ
最近時間をけちってというか眠いときはついついメールに頼りがちなんやけど
自分はこう思ってかいたということが適正に理解されてなかったり 本当になんでこの文章で きれたりされないといけないのだという疑問がたくさんあってね。 電話だとやっぱり姿が見えなくてもある程度なら喜怒哀楽ははっきりしたり少なくとも 自分にとってはすごい気持ちは楽だなあって 長文になるとどこかにぼろがでるのかもしれないけど、
でも理解されなければという葛藤です。
そこで2つめにつながるんやけど 例えば丁寧に文章をつくるのは 書き方や 言葉の選び方使い方があるけれども それは本当に難しい。 なんかよく歴史に残る書物や 昔の人々がかいた手紙なんかは本当にきれいであったかみがあって 当時の心情とかが なんとなく推察できる位、きれいな文章であることが多い。 そういった意味でいまは私も使ってしまいますが、丁寧語などの使い方がまちがっていたり
現代言葉をそのまま使っていたり 読み方が本国でつかえない和製英語だったり よく言葉使いがみだれてるような警鐘は あるがまさにこれはあてはまってると思います。
難しいね日本語…
では…
どうなったかな?
最近パソコンににらめっこしてる時間が圧倒的で
思うことは2つ。
ひとつは仕事としてはできるけどメールのやりとりは限界があるということ。ここ
最近時間をけちってというか眠いときはついついメールに頼りがちなんやけど
自分はこう思ってかいたということが適正に理解されてなかったり 本当になんでこの文章で きれたりされないといけないのだという疑問がたくさんあってね。 電話だとやっぱり姿が見えなくてもある程度なら喜怒哀楽ははっきりしたり少なくとも 自分にとってはすごい気持ちは楽だなあって 長文になるとどこかにぼろがでるのかもしれないけど、
でも理解されなければという葛藤です。
そこで2つめにつながるんやけど 例えば丁寧に文章をつくるのは 書き方や 言葉の選び方使い方があるけれども それは本当に難しい。 なんかよく歴史に残る書物や 昔の人々がかいた手紙なんかは本当にきれいであったかみがあって 当時の心情とかが なんとなく推察できる位、きれいな文章であることが多い。 そういった意味でいまは私も使ってしまいますが、丁寧語などの使い方がまちがっていたり
現代言葉をそのまま使っていたり 読み方が本国でつかえない和製英語だったり よく言葉使いがみだれてるような警鐘は あるがまさにこれはあてはまってると思います。
難しいね日本語…
では…