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明治という時代を考える(2)

2025-02-01 14:39:43 | その他
 明治天皇の父である孝明天皇が徳川に近く、公武合体に傾いていたのですが、35歳という若さで亡くなってしまったのです。これで公武合体は消滅し、鳥羽・伏見の戦いが始まってしまうのです。既に大政を奉還していた徳川慶喜は夜陰に紛れ大阪から逃げ出します。それにむりやり付き合わされたのが松平容保だったのです。鳥羽・伏見で戦うことになる藩士を見捨てて逃亡した慶喜に対し、江戸城が無血開城された後も会津戦争を強いられた容保は会津の悲運の象徴のような存在に思えてしまいます。

 孝明天皇が考えていた公武合体による新政府樹立は間違いだったのでしょうか?そもそも大政奉還で徳川幕府は終焉を迎えていたのです。「勝てば官軍」とも揶揄された薩長軍。特に金門の変で調停に弓を引いた長州が錦の御旗を掲げられた理由が私には未だに理解できないのです。

 幕府の残党が憤った理由が私には理解できます。松平容保を筆頭に時代の荒波に飲み込まれてしまった忠義の人々を時代遅れと断じてしまうのは簡単です。戊辰戦争や会津戦争は大儀の戦ではなく怨嗟の戦でしかなかったと考えているのです。且つて天敵同士だった薩長に手を結ばせた坂本龍馬が生きていたらこんな戦は起きてはいなかったのではないかと思ってしまいます。

 江戸城を無血開城に導いた西郷隆盛も政府を飛び出し、西南戦争で没して行きます。藩という収入減を失った不平浪士たちの受け皿となって散っていった西郷の犠牲も空しく、明治政府は日清・日露と戦争を繰り返すことになるのです。黒船来航からわずか半世紀しかたっていないのです。近代国家としてスタートしたばかりの小国が大国ロシアに挑む姿は、太平洋戦争でアメリカに挑んだ昭和の日本に重なります。
 




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