幕末の動乱を経て近代国家として歩み始めた明治という時代とはいったいどのような時代だったのか?今NHKの日曜深夜に再放送されている「坂の上の雲」というドラマを観ていてふっと思った。令和という世になって昭和という時代が見直されつつあるように感じています。「フテホド」という言葉が昨年の新語流行語大賞に選ばれているのがその証左のように考えています。
昭和という時代は前後半で大きく異なる特殊な時代でした。前半はまさに戦争の時代といっていいでしょう。暗黒の時代でした。戦後復興の時代を経て高度経済成長、その結果としてのバブル崩壊。明と暗がこれほどくっきりとしている時代もないはずです。
江戸時代は武士の世でありながら260年にもわたる戦のない時代でした。平安時代も戦の無い時代でしたが、そもそも公家の時代で大規模な戦をするほどの武力が無かったというのが実態でしょう。江戸時代とは社会状況が全く違うのです。戦国の大乱を生き抜いた徳川家康が晩年に築き上げたまぎれも無い武士の世なのです。
そんな長い武士の世も僅か4隻の黒船来航で大きく揺さぶられることになるのです。1953年のことでした。この年から大政奉還に至る時代が幕末と呼ばれています。徳川幕府崩壊の始まりでした。マシュー・ペリーの来航によって鎖国が解かれた後、日米修好通商条約締結反対を主張する反幕勢力の思想的支柱となり、鎖国を維持しようとする諸藩の下級志士や公卿たちによって支持されたのが「攘夷論」でした。
ところが、その攘夷を実行した長州藩による下関戦争は大敗北に終わり、外国艦隊との間の圧倒的な軍事力の差に直面したことによって、鎖国政策の維持に固執した攘夷論に対する批判が生じることになるのです。孤立を深めて行った長州藩が金門の変を引き起こし、逆賊となります。最初に調停に弓を引いた長州藩が後に錦の御旗を手に倒幕に動くという矛盾。一方、幕府に最後まで忠誠を尽くした会津藩が朝敵になり、明治新政府の蚊帳の外に置かれてしまう悲運。
会津藩主松平容保は新選組を配下に置いたことで一部悪評もあるようですが、28歳で京都守護職に就いた有能な人物なのです。桜田門外の変が起こると老中久世広周・安藤信正は尾張と紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたのですが、容保はこれに反対。徳川御三家同士の争いは絶対に避けなければならないと説き、幕府と水戸藩との調停に努めているのです。孝明天皇の信任も厚く、御宸翰(ごしんかん)と御製(ぎょせい)を下賜されているほどなのです。宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のことです。
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