朝10時、ニケとみかんを洗濯ネットに入れて病院に行ってきました。術後の経過を見てもらうためで、ニケは全然問題なし。傷口をササッと消毒して終わりです。
みかんは傷を覆っていたガーゼを取って薬をつけました。煮干以外食べない事を伝えると、栄養剤を注射してくれました。経過は順調だそうで、一週間後に抜糸をすることになりました。今日の料金は・・・タダでした!今日の注射や来週の抜糸も全て、手術代金に含まれているそうで・・・いやー助かりますね。
さて、昨日書こうと思っていた「自由」について今日は書こうと思います。
「自由」、改めて言葉の意味を確認するのに広辞苑を引いてみると・・・私的には「何物にも束縛されない事・・・」みたいな感じで出ていると思ったのですが・・・勿論その意も載っていましたが、今日私が書こうと思っていた意味もしっかり載っていて、「さすが広辞苑!」という感じです。
それは・・・「無条件的な、絶対な自由は人間にはない」という一文です。
「自由」を声高に主張する人たちは、全ての事を自由意志で決めて、それを行動に移せる権利があると思っているようです。
表現や報道・信教などの自由でも、全てが自分の意思のままに決定できると思っているようです。ですが、自分に自由があるように、他の人にも自由はあるのです。つまり自分の自由を行使するということは、少なからず、他の人の自由を侵すということなのです。
全てにおいて自由だということになれば、人を殺しても、人の物を盗んでも何をしても良いということで、無法状態と同じで、力の強いものが全てを支配するということになりかねません。とすると、K-1のチャンピオンが支配するのか?いえいえ、権力を持っている(つまり強力な戦力の持ち主)者が全てを支配するということになりそうです。でも、これっておかしくありませんか?だって、最高権力者だけは好き勝手できそうですが、その他の人は当然全てに自由というわけにはいきませんよね。
自然界、弱肉強食が支配する動物の世界に目を転じてみれば・・・、百獣の王ライオンが、自由に闊歩しているでしょうか?狩をしたっていつも成功するわけでもなく、どちらかといえばいつもお腹をすかしているようです。食べきれないほど獲物を取る事もなく、ゾウやカバなんかにはどちらかというと遠慮気味に接しています。自由一杯そうな自然界だって、実は自然界のルールの中で動いているんじゃないでしょうかね。
私が食堂を自営していた時よく言われたのが「好きな時に働いて、好きな時に休めるから良いよね」的なことでした。なにアホな事を言っているんだろう、と思いました。自営でやっているから営業を自由に出来るなんてものじゃないんです。営業時間や定休日などは、特定であろうが不特定であろうがお客様との契約なのです。何度も契約を破ればそれはお客様から見放され、結局は閉店せざる負えなくなるでしょう。
自由とはいっても、必ずある一定のルールの上にあるということを、認識しなければならないと思っています。私の自分で決める(自由)判断の基準は、「他の人に迷惑をかけないか?、かけたとして、それは私の中でしょうがないと自己弁明できるか?」
ということでしょうか。自由の権利を主張するのもいいですが、それに伴って義務や責任も生じてくるということも忘れないでほしいと思います。
何物にも束縛されない「自由」というのは、精神面にしかないと思っています。つまり、「無」の世界です。座禅とかがいいんでしょうね。私は煩悩が多くて到底「無」にはなれそうもありません。