先日 他界なされました中山社長の息子さんからこのブログに投稿がありました。
全文を転載させてもらいました。ありがたいことです。
田中様 大同マルタ会 OB会の皆様方
(中山尚英) 2015-12-17 21:05:37
はじめまして。私は中山久英の息子です。
このたびは、貴重なブログで御紹介いただき、ありがとうございました。
明るく闘病しておりました本人ですが、残念ながら力尽きてしまいました。
しかし、体の状態には困難な部分があるものの、頭は最後まではっきりしていました。
亡くなりましたのが、連休前日の夜でしたので、親族のみで送ることとしましたが、会社関係・OBの方の御参列もいただき、
大変恐縮に感じ入っております。
御連絡すべき方々に一報をお入れできなかったこともあったかと思います。失礼の段、お許しいただけますとありがたく存じます。
その後もあわただしく過ぎましたが、おかげさまで先日四十九日をすませることができましたことを御報告させていただきます。
御紹介にもあげられている本人の文章を、私は生前にはまともに読むことをしないままでしたが、
改めて読むと、なかなか波乱万丈な人生を全うしたのではないかと愚考しております。
このたびは、お気遣いありがとうございました。今後のOBの皆様方の御健勝を心よりお祈り申し上げます。
ありがとうございました。
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亡き中山社長には、大同マルタの皆があの命を懸けて後退りのできない中で頑張っていた姿を瞼の奥に焼き付いていると思います。
それにもかかわらず中山さんの努力を消し去ってしまったわれわれの努力が足りなかったと大いに反省しております。
中山さんどうか安らかにお眠りください。
この稿 田中 頌でした。
1ヶ月余りの入院生活を終えてやっと我が家へ無事で帰りました。
家内には何から何まで面倒見てもらい、子供たちは遠くから駆けつけてもらい、本当に心配かけました。
2回目の脳梗塞で、今回は梗塞の箇所が数か所あったので身体の麻痺の部分が増えていましたが、
救急病院への駆け込みと処置が早かったのが幸いして大事に至りませんでした。
カテーテル処置か血管の切開処置をしようと病院は計画しましたが、腎臓の機能が低下しているため、
造影剤の注入が反って病状を悪化させ、生涯透析の恐れがあるということで薬餌療養となりました。
三度目の脳梗塞にならないように薬と食餌で進行を抑えるようになりました。
麻痺はリハビリを定期的に受けて治療してゆきます。
これからの病との戦いは今までとは違って、私と家内とで一生戦っていかねばなりません。
座敷童子
小学校3年生の時、元海軍の生き残りの義兄さんからハーモニカを買ってもらいました。
ほかの友人のハーモニカとどうも音が違う。なんとなく音が籠っているような感じがしました。そのうえ吹いてみてもどうも上手くメロディが出ません。
学校に持って行って受け持ちの音楽の先生に聞いてみました。
「ショウちゃん、これはね、オクターブ・ハーモニカって言うのよ。1オクターブ低い音が一緒に付いていてとても良い音が奏でられるのよ。丁度ハモンドオルガンのようなのよ。
(ハモンドオルガンは当時ラジオ番組の「君の名は」でなんとなく知っていました。)
C(ハ)調なのでみんなと一緒に吹いても綺麗に音が合いますよ。良かったら先生一寸吹いて良いですか?」と言って、校歌と讃美歌を吹いてくれました。
僕はその音色を聴いて驚きました。まるで教会の中に居るようでした。荘厳でした。
これで勇気をもらってオクターブのハーモニカの練習をしました。
どうにかオクターブにも慣れて、他の人と合奏できるようになりました。
学芸会のハーモニカの演奏練習では、一緒の吹いている友人は「ショウちゃん、変な音出すなよ。」と初めのうちは文句を言っておりましたが、そのうち慣れたのか文句を言わなくなりました。
学芸会のハーモニカの演奏会に一丁前に出られました。
その想い出多いオクターブ・ハーモニカを大枚を叩いて60数年ぶりに買いました。
やはり初めて持った時と同じように、感が狂ってなかなか巧く奏でられません。
今は当時と違い、ハーモニカを大きく口に銜え、ベース伴奏を自然に入れようとしているからでしょう。
子供が奏でるように小さく自然に銜えゆっくりと奏でますと、綺麗なオクターブが戻ってきました。
荘厳な音の中に小学校のあの音楽の先生が戻ってきました。
当時日本人離れした、まるでベートーヴェンの様にウエーブの掛かった金髪を肩まで垂らした、当時のままの先生でした。
その音楽の先生はもうこの世にはいません。数年前に天国へ召されました。
今一所懸命C調オクターブ・ハーモニカの練習に励んでいます。
巧くなったら、近いうちにAm調を買い、日本の歌、外国の民謡や演歌調も練習しようと思っています。
僕にハーモニカを奏でるきっかけを与えてくれた方に感謝いたします。
戦後の復興期に入社した当時の想い出
終戦の翌昭和21年10月、私は中途採用により大同染工に入社しました。当時は未だ戦後の混乱からの復興初期で、西大路駅から会社までの西大路~十条通りの両側は戦時中に開墾された芋畑や玉蜀黍、豆畑等家庭菜園が残されていて、その間の地道を右左し乍ら通勤する状態でした。
会社での入社面接は吉岡専務に受け、即入社決定し、社員心得とか配属など説明もそこそこ、翌日出勤すると、人事の向井さんから工場実習へと、工務の中岡さんに引き渡され、そしていきなり捺染機の堀田さんに預けられ、捺染の実習作業をする事になりました。
元来染色とか捺染の予備智識など全く無かった私は、工場へ入った途端、天井に届かん許りの大きな連動した機械が、蒸気を噴出しながら運転が始まると人の声など聞こえない様な轟音を上げて回転し、染上がり布が振落ちから波打って落ちてくる光景に、正直恐怖にも似た驚きを覚えたものでした。
此れが以後私の五十年に及ぶ“染め”との付き合いの初めでした。
振落ち担当を命ぜられて、スフ人絹織物などの矢絣着尺や更紗、友禅染め等の和装物が多く、加工品の種類を色々と覚えました。フルに捺染機が回転している時の騒音に、戦後復興の逞しい活力と息吹を感じておりました。
2ヶ月後、22年の正月から生地倉庫の実習に変り、生地の受け入れと加工工程へ投入する準備作業を手伝い、生地の種類チェック、保管の方法など、責任者の泉さんから教わりました。その当時生地の搬入は日通の馬車や牛車で運ばれて来る事が多く、戦後の運送状況の一端を示すものです。
22年3月になって私の配属は営業部の受渡係と決まりました。営業部は小林部長、松原課長、山田さん、そして私の直接の上司として林田課長が入社着任されました。先輩事務係に山本君子さんがいて総勢6名でした。当時、世話になり指導頂いた先輩上司の方々は、60年過ぎた今日では共に昔を語り合える人も少なくなってしまいました。
この年4月から、GHQと日本政府との間で繊維産業の復興援助の一環として輸入米綿織物の染色加工輸出開始が決定されました。染色工業会が一括受注して各染工場の内情に応じて割り当て発注されると云う形式でした。
丁度私はその時期に合わせて、このGGベース取引の輸出向綿織物加工の受渡事務を最初から担当する事になりました。大阪本町にあった繊維貿易公団での加工注文書受領に始まり、担当輸出商社との打ち合わせ連絡、綿布送付案内の確認、工場への加工指図、仕上がり品の仕立て指図、輸出検査、梱包、神戸大阪港の臨海倉庫への出荷搬入指図までの受渡事務は、繁忙な反面、手順や書類の形式などは新規分野の開拓で、全部任され思い通りに仕事させて貰えた事は、今考えると何より幸いだったと思います。
その当時の大阪は戦後の復興未だ未だで瓦礫の山が其処かしこに見られ「これより心斎橋通り」の看板が瓦礫の上に立っていたのが印象深く残っています。戦災を免れたビルも傷だらけの疲弊した風景でした。
輸出注文第1号はインドネシア向け任斯(ジンス)の縞柄プリントでした。以後アフリカ向ワックスプリント、ブループリント、カンガープリント、インド向サリー、ビルマ、タイ向のパシン、ネシア向バチックサロン等々各国の民族衣装柄の注文が増えていきました。然し一方では内地向け和装商品の正規ルート闇ルートの加工品も混在して受注する時代でした。
会社では受注拡大と新しい加工技術開発に対応して、工場の建て増しや機械設備の新設増強が進み、将に日進月歩の発展でした。
当時日本国内の衣料品は統制品で所謂切符制の配給品でした。従って工場で扱う綿織物は国有綿布であり、工場の周囲には「国有綿処理工場」の立て札が立てられ警戒管理されていました、又生地の入荷や製品の出荷には、必ずGHQ管理による「移動証明書」を添付しなければならず、予定に合わせ前以て管理部へ証明書の発行依頼に日参したものでした。
この様にして始まった輸出向け染色加工も、年々拡大発展し業界挙げて設備の近代化拡充や技術開発が進み、一方国有綿の払い下げ、管理貿易から自由取引への移行、輸出優先政策と相俟って、繊維産業の輸出黄金時代が到来する気運になっていきました。更に朝鮮戦争による特需景気が経済復興と発展を飛躍的に増進させる事になりました。
当時を顧ると、新しい仕事の展開に対して興味と挑戦意欲が沸き、忙しい勤務の疲労感も気にせず、仕事をエンジョイ出来る社内雰囲気にありました。時代背景が上り坂の日本繊維業界の中にあって、青春を謳歌し将来の発展を夢見て働き得た当時の幸運と、今年厳しい努力の甲斐もなく消え去っていった大同マルタの最終を見届ける事になった後輩諸氏の心境とを比較して思う時、時代の流れとは云え、遣る瀬無い空しさと拠り所を失った淋しさを覚えるものです。
野本 明
大同マルタ染工㈱の思い出集(2009.11)に載ったものです。野本さんの原稿を原文のまま転載したものです。
野本さんの人柄と当時の苦労が良く分かります。
ご冥福をお祈りいたします。
長い間このブログもフェイスブックにもご無沙汰していました。
方々からブーイングが起こっているのはわかってました。
終には釣りバカさんからブログ再開のためにアユをいただきました。
浩さんからは三陸の名産品をいただきました。
これじゃあ再開しなければ罰が当たる。
ぼちぼち行きましょうか。
6ヶ月に亘るリハビリを終えて大分私の体と心が長い間の呪縛から解き放されました。
小学校以来の友人であった「シラサン」からの勧めがあって、私のリハビリの様子を初めてフェイス・ブックのノートと私の私的なグループのブログに書き込みを行ってみました。
書いたところ各方面からの反響と言おうか励ましの声が届きました。
それに押されて10回を目途に止めようと思っていましたが、遂にリハビリ最後の日が来てしまいました。
だらだらと自分のことを書いたことで陰気だからこんなこと書くものじゃない、との意見もありました。
しかし私は書き続けて、遂に水泳ができる体になりました。
何年か前の中学校の同期会で泳いだ時よりずっと立派に泳げるようになったので、今度は「シラサン」にお見せしたいと思っています。
本当にみなさん最後までお付き合いありがとうございました。
元気なタナショウ (座敷童子)
6ヶ月にわたるリハビリが今日終わりました。週3回1.5時間ぴっちり励みました。
一日たりとも休まずに病院へ自転車で雪や雨の日にはバスで通い続けました。
初めのうちは名誉院長先生が勧めてくれたので仕方がないと正直思っていました。
セラピストの先生方の指導があまりに信じられないことだったので、
嫌気がさして来たこともあったのです。
セラピストの先生方はは本当に失礼だったと感じています。
親身になっていろいろ指導して下さいましたのに。
そのうちいろいろと僕の体や神経に変化が表れ始めました。
と言うより、忘れかけていた何かが呼び起されて来たのです。
自分の意識下に今までなかった神経や筋肉や骨が目を覚ましたのです。
僕の脳が恰も僕が命令したかのように健常な頃のように動き出したのです。
驚きでした。初めはぎこちない動きで、頼りなさを感じる動きでした。
そのうちに力強い動きに変わって行きました。
健常な部位の動きを見て麻痺した部位を動かそうと、自分の脳に自然に働き掛けました。
口で号令をかけ、時にはセラピストさんに手伝われ、慣れるまで、覚えるまでやりました。
病院でだけなく家に帰ってからも辛抱強く続けるようにしました。
病院での嚥下訓練は何度も何度も口の中に球体や立方体や三角錐の固形物を入れました。
そして口腔内での感覚を研ぎ澄ませました。
舌の動き、頬の動き歯茎の動き等が麻痺以前の動きに戻りつつありました。
その結果ある日突然、長かった失語症に近いと思われる口から流暢な言葉が出てきました。
その陰にはセラピストさんと僕との会話、心の会話が影響しているのではないでしょうか。
二人のセラピストさんは親身になって僕の世話をしてくれました。
僕の話もよく聞いてくれました。それに応えるように指導も必死でなされました。
そうやっているうちに、お互いのうちに相互信頼関係が出来たと思います。
そういう中での心の会話は、自然と僕の心と体を解きほぐしていったと思います。
病気してからの僕は他人の話を聞くときは、聞いた話を一度に理解することができません。
そのためゆっくりと脳の中で咀嚼してから自分の考えを述べておりました。
ところが、自分が口から言葉を発する前に相手から次の言葉が出てくると脳の中は混乱してしまいます。
僕はもう面倒だから話すのは止めようという気持ちになり、口を閉じてしまいます。
恰も失語症になったのと同じ現象です。決して失語症ではないのです。
そう見えるだけなのです。
このリハビリで二人のセラピストさんは話を僕のペースに合わして話して下さいました。
次第に僕の口の動きは滑らかになったのです。嚥下が上手くゆくのと同時期です。
リハビリを続けて行くに従って僕の体は健常人のように変わっていくのが分かりました。
こうなると僕自身欲が出てきました。セラピストさんと励めばどうにかなると。
歩行練習には随分苦労しましたが、長時間かけてやり遂げました。
歩くことは勿論、走ることも、サッカーの真似事のジグザグ走りも難なく出来ました。
リハビリの期限が来たので、水泳が出来るようになりませんかと無理を言ってみました。
ここのセラピストさんは水泳が出来なかったのですが、ビデオ撮影を駆使してやりました。
苦労の甲斐あってどうやら泳げるようになりました。
スイミングプールには安全に運転できるようになった自転車で通っています。
これからの人生益々楽しみが増えました。
このように二人のセラピストさんには本当にお世話になり、心から喜んでいます。
家内も僕の体と心が元気になって行くのを見て感激しております。
家の中も会話も増えて、明るくなりました。
一人で寝起き出来るようになり、介護ベッドを用意するのが早かったと冗談言っています。
最後に守山市民病院の先生方やお世話して頂いた方々皆さんに心よりお礼申し上げます。
セラピストさんと2回目のビデオ撮影を見ました。
セラピストさんも僕も本当にびっくりしました。
足のブイ無しで25mを泳ぎ切って、折り返しも泳ぎ切ったことばかりではありません。
麻痺している右手も右足も想像していたよりはるかによく動いていたのです。
それまでは手と足はリズムが取れずバラバラでしたのに、リズミカルに動いていたのです。
何度も何度もビデオを再生して見ました。
泳いでいる間はこんなに上手くいっていると想像できませんでした。
陸の上の認知運動が効いたのでしょうか。それとも僕のやる気が効いたのでしょうか。
とにかく、ひらひらと泳げたことには間違いありません。
あとは不自然な動きを健常者のような動きに変えることです。
リハビリは来週4日だけしか残されていません。特別に4日間受けます。
今日、3回目のビデオ撮影を来週月曜日撮ろうと決めました。これが最後です。
来週で6ヶ月励んできたリハビリも終了します。来週頑張ろう。
セラピストさんとビデオを見てからの2回目の水泳をします。
陸の上で右手・右腕の動かし方を左手の動きをイメージして、声に出して、
しっかり僕の脳に叩き込みました。とにかく肩甲骨をしっかり動かすことです。
リズムを合わせ、意識をしながら右の手腕を右の手に負けないようにきっちり動かしました。
いつもより時間をかけて手腕の練習を1時間余り必死で頑張りました。
フラフラになり今日の練習を終えました。
努力の成果を見るためにスクールの方に来週の月曜日ビデオ撮影を頼みました。
いよいよ本格的にリハビリも水泳の分野まで進みました。
これが上手くできれば画期的な出来事です。是が非でも成功させたいものです。
スイミング・スクールの許可を貰ってインストラクターにビデオ撮影をお願いしました。
撮影内容はセラピストさんと次のように決めました。
バタ足だけで推進力と左右の足の動きはどうか。
普通にクロールの動きで足・手・息継ぎ全体が上手くいっているか。
ブイ(浮き)を股に挟んでクロールで泳ぐ。全体のバランスはどうか。
進行方向前から見て、手と腕の動きはどうか。
その結果をビデオでインストラクターに見てもらい、
その後病院に帰ってからセラピストさん・水泳のエキスパートに見てもらいました。
その結果、足の動きは全然成ってない。大腿骨の動きが悪いとしか言いようがない。
右足首が伸びきっていない。従ってひらひらと言う感じがない。推進力ゼロ。
右手の動きは肩甲骨を大きく動かしていない。左手の様に思い切って動かせ。
僕は右手は左手以上に大きく動かしていると思ったのに、ショックでした。
僕の脳は右手を動かしていると思っていたのに、左手の様にはいかなかったのです。
セラピストさんと右手の訓練をやって右手に教え込みました。
病院の帰りにスイミング・スクールに寄って、病院の訓練のように右手を動かした。
どこまで左手に追いついたかは分からなかったが、脳に叩き込むことはできた積もり。
明日からは右足の訓練が待っています。
頑張ります。ブイ(浮き)なしで泳げるまで。
今日も水泳の特訓を陸の上でやっています。
ベッドの上で手を動かして左右の手足がリズムよく上手く動くかの練習と観察です。
クロールでゆっくり泳ぐ時、足の動きはバタバタとは決して動きません。
水中で揺ら揺らかヒラヒラと言った感じです。両手もその速度に合わせてゆっくり動かしました。
まるでお魚がゆっくりと海の中を泳いでいると言った感じに似ています。
確かに水族館に行ったとき見る風景です。
息継ぎも交えてベッドの上でやってみました。様子が少しおかしいぞ、セラピストが叫びました。
その場でビデオに撮ってよく見ると新しい発見がありました。
ビデオを見ると健常なはずの左の足が一瞬止まったり、または遅れたりしてリズムを乱しているのです。
セラピストも僕も初めは全く気付ききませんでした。
僕の脳は両手と両足を規則正しくリズミカルに動かす能力に欠けているとしか言いようがありません。
そこに息継ぎの動作が加わると更に困難になったに違いありません。
早速、来週にもスイミング・スクールに行って実際の水泳をしている場面の撮影をすることにしました。
そしてそれを検討することにしました。
病院の帰りスイミング・スクールに寄って許可をもらってきました。来週のブログはその様子です。
歩行練習は相変わらず続いています。足の裏の肉球を意識しての訓練です。
足の裏で平衡感覚も正確につかめるようになり、遂にはサッカーでのドリブルを想定したジグザグ走りもできました。
さて今度は最大の難関である自由形水泳に挑戦しました。
脳梗塞で倒れる前は一番好きな水泳です。毎日会社が引けてから1,500mほど泳いでいました。
ところが後遺症が残ってからは足のリズムと手の動きのリズムが合いません。
右足が全く体のリズムについてこないのです。仕方がないのでフロート(浮き)を両足で挟んで泳いでいました。
それを克服すればもう後遺症がすっかりなくなるぞと頑張って水泳リハビリに励んでいます。
その様子をこれからのブログに載せようとしています。
時間限られています。3月いっぱいです。週3回のリハビリです。セラピストの先生も必死です。
右足のリハビリがだんだん複雑になってきました。
今度は拇・小指の肉球と踵で創る三角形を三次元で考えなさいと先生は言います。
この3点が床から高低があるかをそれぞれで認知しなさいと言うことです。
健常側の左足と非健常側の右足でそれぞれの肉球と床との間に板を挟んで、高さがどれだけあるかの認知の練習を行いました。
右足での認知はなかなか出来なかったのですが、左足の感覚を覚えておいて右足の方へ教え込みました。何度か練習を重ねました。
左足の感覚を覚える、それを真似る、想像する、言葉に出す、で少しずつ右足でも分かるようになって行きました。
最後に歩行確認です。右足底の重心移動を以前とは違って、圧力を感じながら行いました。
踵から2つの肉球にスムーズに重心が移る様に右足を床に触れました。
その様子が僕の脳の中に鮮明に映し出され、重心の移動が恰も感圧紙に映し出される様でした。
何度か歩行確認をしました。そのうちに右足を意識しないでも歩ける事が出来ました。
後にビデオで見ると心なしかリズミカルな足の動きになっておりました。
右足の練習中あまりに足の動きが良いので、何かしたのですかと尋ねられました。
昨日歩いて梅の蕾を見に行ったのをセラピストの本田先生に話しました。
やはり毎日適度の運動が欠かせないようです。炬燵の中でひっくり返っているのは・・・・・
今日は高校の幾何の復習でした。以下が本田先生の幾何と運動力学の講義です。
A-B-Cの3点が決まれば平面が生まれます。2点だけでは駄目ですね。わかりますか?
それを右足で考えてみましょう。僕は言われるまま、右足を先生の手の中へ預けました。
今までは拇の肉球と踵だけを考えていました。今度は小指の肉球を加えて3つにします。
そうすると、この3点で平面が創られますね。目を閉じて頭の中に想像するのです。
先ず右足の小指の肉球の存在を感じ取れますか?左足ではどうですか?
何回か繰り返した結果、ようやく右足の小指の肉球を認知してきました。
そう小指も拇の様にあります。左足と同じく右足にも新たに肉球をはっきり認知しました。
はっきり認知したことを脳に叩き込んで歩行練習をしました。
前に出す足の重心を、踵⇒小指肉球⇒拇肉球の順番にスムーズに移動させました。
足の底に3点で安定した平面を創ることが出来て、脳で認知して安定した歩きでした。
何度も何度も歩きましたが、足の底と地面がぴったりついて安定した歩きでした。
階段の上り下りも3点を認知すればふらつくことも無く、安定して足を運べました。
足の底の重心の移動は健常側では意識しないで出来ましたが、
非健常側ではいちいち脳で認知しなければ難しいことが分かりました。
でも床を3回ほど往復しているうちに重心の移動は気にしなくても出来たのでした。
また遠くへ散歩して、家内と梅を見に行こう。
今日も喜んで水泳に行き、身体全体のバランス感覚を研ぎ澄まそう。