東洋紡の「リアル・ワックス」続き (東洋紡100年史より)
西アフリカへ輸出されるワックスプリントは「アクラ」に陸揚げされる。ガーナ―の首都で、一帯の黄金海岸は人口も多く、教育も普及し、衣服に対する眼も肥えており、ワックスプリントは男女とも日常着用している。
1953年の捺染綿布の輸入量は6.500万碼。オランダが2.100万碼、スイスが100万碼、
全部リアルワックス。英国品は400万碼、リアルワックスと 1/3はファンシィプリント。
日本品は200万碼、イミテーションワックス と ファンシィプリントである。
大同の資料によれば、大同染工はこの時期 年間生産数量は 4,000万碼
西アフリカへ(イミテーション・ワックス) 440万碼、 東アフリカへ ( カ ン ガ) 560万碼
ベルギー領コンゴ( 〃 )1.000万碼、
大同の「イミテーション・ワックス」もアクラに陸揚げされ、アフリカ奥地コンゴ周辺へ流れていたようだ。
オランダ製品は UAC社(英国系西アフリカの総合商社)の専売品となっており、スイス品と英国品は FAO社(仏国系西アフ(オランリカの総合商社)が扱っている。当時、西アフリカ市場では、ブリシンゲン社(オランダ)、CPA社(イギリス)の両メーカーが、ワックスプリントについて強固な地盤を形成していた。特にブリシンゲン社は100年以上の歴史を有し、アフリカファッションのリーダーとも言うべき地位を確立していた。
東洋紡は、FAO社から謂われて、加工方法、柄、見本について協力を受けて、1954年の秋「リアルワックスプリント」開発に着手、1956年本格生産を開始した。東洋紡はこの商品を極秘扱いとし「イズラグ」と呼んだ。FAO社支配人GALZYを逆に読んだ命名である。
東洋紡リアルワックスはギニア湾一帯、象牙海岸(コートジボワール)、黄金海岸(ガーナ―)、奴隷海岸(ナイジェリア)向け商品だった。その市場の変化は激しく、1960年に独立した国はナイジェリア,コンゴを含めて、18ヵ国。この政治経済の急激な変化は生産に大きく影響した。
ココアの価格暴落による市況の悪化と外貨不足、現地生産の進展と、1965年ガーナ―政府の大量契約で最高の加工高を記録したが、1966年以降は月30万米弱に低下した。1967年ナイジェリアで内戦が起こり、1970年まで続いた。1969年以降は、各国の輸入規制措置或は関税引き上げなどが逐年強化され、FAO社の発注が不安定なものになった。
1972年6月守口工場はリアルワックスの加工を停止した。
(大同マルタ染工は、1965年グリーンワックスを開発、イミテーションワックスは全部これに置き換わったが、
わずか十余年で染料製造中止で生産がストップ、遂に1980年 アフリカ市場から完全撤退した。)
東山十条86