2019年の記録
毎日の食事でお世話になったカフェレストラン“かにふ”の門柱
綺麗な砂浜を求めて、島を一周、といっても小さな島なので、小一時間もあれば十分。(もちろん、徒歩でなく自転車) 結論を書くと、残念ながら目の覚めるような美しい砂浜は見つからなかった。
竹富島の集落は、ゴツゴツとしたままの石を積みあげた石垣、カラフルな花の咲く木々、屋根にあるシーサー、そして白い砂の道が、縦横に貫く。
カイジ浜の木陰で、ボーっとしていたときのことだ、突然、散歩に来ていた老人に声を掛けられた。70歳前後なのかもしれないが、よぼよぼ感はなく、しかもなまりのない綺麗な標準語を話す。どちらかと言うと一方的に自身の略歴を話してくれた。
中学を卒業した後、沖縄本島の米軍基地に就職した。仕事は、厨房の雑役。米兵から真っ当に扱われない、名前で呼ばれることさえないことが悔しくて、独学で英語を覚えた。(占領軍が占領されたところの少年の名前を覚えないなど、あたりまえと考えれば、その通りだが) 英語を覚えたことで、何でも自分に話がくるようになり、厨房でも一目置かれるようになった。しばらくすると、横須賀に行かないかと言われた。横須賀に行けば、正職員になれ、定時制高校にも通えると聞いて、二つ返事で横須賀に行った。その後は、トントン拍子で、大学の夜間部を卒業し、公務員になった。人脈にも恵まれ、順風満帆だったのだが、宝石の貿易が、儲かることを知り、貿易会社を始めた。会社経営は、色々と苦労もあったが、家族を養い、息子も大学を卒業させることができた。それまで、竹富のことなど、何とも思わなかったが、急に恋しくなってしまった。まだ、50代だったが、ヨボヨボになってからでは遅いと思い、会社を処分して、その金で竹富に土地を買い、家を建てて、見様見真似で自給自足の農業を始めた。竹富に戻って10年以上、毎日3時間ほど散歩をしているとか。
ひと通り話すと、老人は近くにいたフランス人男性カップル(いわゆるLGBT、2人ともフレディーマーキュリー似で、男の僕から見ても格好良い)に臆することなく話しかけていた。弟と言っていた方は、片言の日本語ができたが、老人は流暢な英語で話をしていた。話の詳細まで聞き取れなかったが、僕に話したのと似た内容のことを話していた。
南国の象徴である紺碧の空と白い積乱雲
フレディーマーキュリー’sと英語ドリーム老人、不思議な竹富島の午後だった。
昨日のゴーヤチャンプルに続き、今日は、ふーチャンプル定食。
旅は続く