Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/宇都宮・松が峰教会

2021-05-07 18:04:54 | 旅行

2020年の記録

 

日本では数少ない双塔を持った教会建築であるとともに、大谷石建築としては現存最大級の建築物である。

 

群馬県、栃木県、茨城県の位置関係がわからないと言われることが少なくない。御覧の通りです。栃木県の今の県庁所在地は宇都宮市、廃藩置県の直後は、栃木市に県庁があった。

 

「宇都宮のイメージは、やはり餃子かな?」

確かに栃木県民は餃子をよく食べると思う。「なぜ、餃子なのか?」 「栃木県は満州からの引揚者が多いため」と言われている。確かに餃子を作ってくれる親戚のお婆ちゃんは、満州生まれの満州育ちで、使用人の中国人から習ったと話していた。初っ端から脱線するが、中国(満州)の餃子は、主食で皮が厚い茹餃子だ。焼餃子もあるが、焼餃子は前夜の食べ残しを翌朝に温めるのために焼いたもので、ご馳走ではない。ご存知のように日本の餃子は、おかずで、皮も薄く、焼餃子が一般的だが、栃木県内の餃子屋には、茹餃子や揚餃子を売っている店も少なくないし、おやつに餃子を食べる高校生も多い。

 

餃子ほど有名ではないが、宇都宮は“雷都”の異名を持つほど雷が多い。僕が栃木県に住むようになって1、2年間で、それまでの20数年間で経験したのと同じ数の雷を経験した。(雷被害で電気製品が破損するので、家財保険は必須。)

 

3番目にやっと紹介するのが、本題の大谷石。宇都宮市の大谷地区で産出する凝灰岩(火山灰が堆積してできた岩石)を大谷石と呼んでいる。大谷石は、軽く、耐火性があり、軟らかく加工し易いため、工芸品、塀、外壁、土蔵などに広く使われる。(大谷石採掘坑跡の陥没事故で、有名になってしまった。)

 

カソリック松が峰教会は、鉄筋コンクリート造・大谷石張りの近代ロマネスク様式の聖堂として1932年に竣工された。とても美しい教会である。コロナ禍が終息したら、是非、訪問されることをお薦めします。松が峰教会、一見の価値ある大谷資料館を見たあとの夕方、雷様(らいさま)の中、市街地へ戻って、宇都宮餃子とビールをご賞味ください。

 

大谷資料館 - 大谷石の歴史と巨大地下空間 (oya909.co.jp)

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/川口・旧田中家住宅

2021-05-05 16:56:22 | 旅行

2020年の記録

 

建築当初は倉庫に囲まれていたが、今は高層マンションに囲まれている。

 

関東在住の人には、川口市の位置説明は不要だろうが、それ以外の人は、どれほど知っているのだろうか?と思って、あえて地図を掲載した。「そげん、知る訳なかとです。」といった類のコメントを頂けると幸甚です。

 

和洋折衷・大正浪漫の田中家住宅の施主、四代目田中徳兵衛さん(田中家は家督を相続すると徳兵衛を襲名することになっている。) は、みそ屋のオヤジ(埼玉味噌醸造組合理事長、材木商も兼業) で、成した材で建築したといった説明を受けた。

 

「川口×味噌」と言われても、ピンとこない。川口といったら鋳物、キューポラだろう。実際、僕も青二才のハナタレ小僧の頃、川口の鋳物屋には足繁く通い、鋳物のイロハを教わった。川口は、荒川を挟んで東京の対岸に位置する。東京からすると、川向こうの僻地だったので、煙を吐く鋳物工場の建設が容易だったのだろう。

 

蛇足ながらキューポラを大雑把に説明すると、銑鉄とコークスを交互に積み重ね、コークスを燃やした熱で銑鉄を溶かす溶解炉である。煙突からは真っ黒な煙が、バンバン排出されるので、今の川口で稼働しているキューポラはないと思う。(現在の川口市内の鋳物工場は電気炉で操業)

 

田中家住宅は、材木屋が造っただけあり最高級の資材を使っている木造3階建てである。どことなく、僕の生家(田中家住宅の何分の一かの規模、父親が値切りに値切って底値で買ったと聞いている)と、どことなく似た雰囲気がある。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部

2021-05-01 21:27:35 | 旅行

2020年の記録

 

“東洋一美しいモスク”東京ジャーミイ。クリスチャンの僕でも、なぜか、ここに来ると、心がサラーム(平安)になれる。

 

井の頭線駒場東大前~旧前田侯爵邸(目黒区)~東大駒場キャンパス(目黒区)~渋谷区循環バス~東京ジャーミイ(渋谷区)~東京メトロ千代田線~ニコライ堂(千代田区)~旧岩崎邸(台東区)~不忍池(台東区)~JR上野 (記載なき移動は徒歩)

 

Before Covidの穏やかな休日、東京南部の目黒区から北東に進み台東区まで、バス、地下鉄、そして徒歩で散策した。昨年末の群馬大学が、最後の大学訪問だと勘違いしていたが、今回の東京大学が、ほんとうに最後の訪問になった。大学敷地内には、近代建築も多く、早くコロナが終息し、キャンパスへの立ち入りが許される日が来ることを祈る。

 

目黒区立駒場公園内に建つ旧前田侯爵邸洋館は、昭和4年に竣工の近代建築。重要文化財指定は、意外に遅く2013年である。冒頭に「・・・・公園内に建つ」と記述したが、厳密に書くと旧前田侯爵邸とその周囲が、公園になったのである。なお、隣接して1年遅れで竣工された和館もある。前田侯爵というとピンと来ない人も少なくないだろうが、加賀百万石大名前田家といえば知名度はグッと上昇すると思う。華族令発布により侯爵の爵位を授与されたのである。

 

駒場公園周辺は、それなりのお宅がならぶ、外車も少なくない、「23区内で、クルマは要らないだろ!」と思うのは、余計なお世話だ。安心した気持ちで散策できる反面、猥雑な下町や繁華街の好奇心を駆り立てる面白さはない。まぁ、住宅地なのだから、それで良いのだ。

 

東大駒場キャンパス正門を入ると、真正面に1号館(時計台)があり、左手に講堂がある。休日のためか、人影がなく、落葉した銀杏並木は清々しい。「香港反政府闘争支持!」の立て看板、今時の日本の大学生は、どれだけ政治に関心を持ち、権力の横暴と理不尽に怒りを覚えているのだろうか?僕が大学生だった頃には、立て看板はあっても、大学のオブジェになっていたような気がする。

 

冒頭にも記したように東京ジャーミイは、イスラームの美しいモスクだ。駐日トルコ大使館所属の宗教法人が運営しているので、“トルコの飛び地”と呼ぶ人もいる。礼拝堂そのものは、2000年竣工(設計はトルコの建築会社代表のハッレム・ヒリミ・シェナルプ、躯体建築は鹿島建設、内外装資材はトルコから輸入、トルコ人職人100名により施行された。

 

東京ジャーミイは、日本に在住、滞在のムスリムの礼拝の場であるとともにイスラームの正しい理解と普及に尽力している施設だ。例えば、「イスラームは、豚肉をなぜ食べてはいけないのか?」「日本も江戸時代までは、4本足の動物を食べることを禁止していましたよね。禁止していたのは、為政者、つまり人です。イスラームで豚肉食を禁止したのは、アッラー(神様)です。人の言葉は、人が訂正することもできますが、神様の言葉を人が訂正することはできないでしょ。」 厳密な解ではないが、とても理解しやすい解だと感心している。

多くの宗教施設が、礼拝堂の中での撮影を禁止しているが、東京ジャーミイは、商業目的のケースを除いてフリーです。ただし、イスラームの最低限のマナーとして、女性が肌や髪を露出させることと、礼拝者の前を横切らない(礼拝者はアッラーと対話しているので、前を横切ることは、アッラーとの間に割って入ることになる)こと。礼拝堂には、2階があり、女性のためのスペース。僕は2階からも礼拝堂を見てみたいと思うが、そればかりは、生涯叶わないだろう。

 

代々木上原から東京メトロ千代田線に乗り向かったのは、東京復活大聖堂(ニコライ堂)。日本ハリストス正教会の大聖堂なので、僕自身の節操のなさを感じなくもないが、キリスト教やイスラームの宗教施設に行くと、穏やかな気持ちになれるのである。(神社仏閣を造形的に美しいと思うことはある) なぜ? と言われでも、そう感じるからそうなのであるとしか答えられない。

 

正教会の教えを日本にもたらしたロシア人修道司祭(のちの大主教)聖ニコライに由来するニコライ堂は、1891年に竣工したビザンティン様式の教会建築、1962年重要文化財に指定された。

 

ニコライ堂のあるお茶の水から上野の旧岩崎邸へ、テクテク歩いて向かう。旧岩崎邸の入り口から見えたブロックのようなオフィスビル。昭和時代の熱血サラリーマンが24時間戦っていたオフィスだろうか。

 

旧岩崎邸は、三菱財閥の創業家の迎賓館として、1896年竣工の木造2階建ての洋館。1961年重要文化財指定。南面のベランダは、コロニアル様式、内部はイスラーム風のデザイン、さらにはペンシルべニアのカントリーハウスのイメージまで取り込まれているという。お雇いイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計である。同時期に和館も竣工されていたが、こちらは解体されて現存しない。外観はスイスの山小屋風の木造ゴシック様式のビリヤード室が併設されている。全体として僕好みであるとともに通勤途中にあるので、緊急事態宣言が解除になったら平日にサクッと、寄ってみたい。

 

上野恩賜公園にある不忍池は、意外にも天然の池で、ハスに覆われている。皇居も含め、東京は緑の多い都市だと思う。

 

 

旅は続く