海外協力隊への応援歌

青年海外協力隊はじめJICAボランティアを心から応援しています。
2010年1月帰国、イエメン、青少年活動隊員より

年の瀬

2014-12-28 | Weblog

きのう、年賀状を書き終わり、今朝最後のひとかたまりを投函した。
あと数名、引っ越し後の住所がわからない分は、年賀状がきたらそれを見て出すか、旧住所で出して転送してもらうか。忙しい新年に郵便やさんにこの手間をかけさせるのもちょっとなあ・・・。

(追記:この場をお借りして。住所録の後ろから順番に書いていて、「か」行まで書き終わった時に年賀状が足りないことが明らかになり、残っていた年賀状で「あ」行のかたへ書きはじめてからやっぱり年賀状を買い足すことにした。投函してから買い足したので、どの人に書いたかが今一つはっきりせず。しるしのつけ方が中途半端だったため、苗字が「あ」行のかた、重複して2枚届いたらごめんなさい。)

旧住所で出して転送してくれるとは、日本の郵便はありがたい。
海外でもしてくれるのかもしれないが、途上国だとまず自宅への郵便システム自体がなかったりする。住所もない。

もう10年以上も前になると思う。日本のクーリエ会社にグアムへの荷物発送を依頼したところ、POボックスではだめだと言われて住所をきいたが、POボックス以外に届け先を限定できるものがなかったことがあった。私もそのときは、住所がないということはぴんとこなかった。ましてグアムだったし。そのとき結局どうしたかは忘れてしまった。

協力隊に行ってJICAの人と話をしたとき、彼女が行った国々や地域では住所はないほうがふつうだったと言っていた。イエメンも、住所はあるようなないような。首都でもこれだ。郵便はPOボックス宛だった。

2010年1月帰国から間もなく5年たとうとしている。記憶が本当にうすれてきていて、イエメンの経験がほとんど夢だったような気がしてくる。住所がなかった、ということぐらいは手始めで、爆竹を人に向かって投げておもしろがっている子供(まったく悪いことと思っていない。それが危ないからよくないことだと教える大人がいない。大人もそれを知らない。また投げられたほうがどう思うか、というような教育もされていないため、そういう発想で考えることがない)、路上で写真をとってはいけなかったこと(ほんとはいけなかったようだ。撮ってたが。夜、月がきれいだったのでデジカメで撮っていたら通りがかった軍のトラックに呼び止められて生きた心地がしなかった。「アナアーシフ。カマル・ジャミーラ・ジッダン(ごめんなさい。月があんまりきれいで)」と言ったら若い兵士は笑って許してくれた。まさか撃たれることはなかっただろうが、今思えばかなり不注意だったなあ。)、よく行ったトルコ料理店で自爆テロがあってあとかたもなくなってしまったらしいこと、男女がいっしょにいる機会があまりに少ないので、恋してしまったらこういう行動に出てしまうかもしれないから気をつけよう、という前例も知識もなく、日本語講座に通っていた男の子がどうやら女の子を好きになってしまったようで、恋に落ちていることが一目瞭然の行動、つまりその女の子から目が離せないとか、その子が教室から出ていくときには講座の途中でも思わず立ってついていってしまうとか、それを本人は気づかないため抑えることもなかったこと、まわりのアラブ人たちも特にそれが恋愛による行動と気づくこともなかった不思議さ、などなど、自分で思い出しても「これ、ほんとに本当だったっけ」と疑わしくなってくる。

そう、だから、ときどき協力隊経験者、あるいは途上国で庶民の生活をしていた人たちと話すことが必要だ。おかしなことに思えてきてしまっていること、夢かな、と思いはじめてしまっているようなことが、協力隊の活動先では現実だったのだ。時間通りに来ない、毎回遅れる、1時間おくれはふつう、3時間遅れでもふつう、くるかこないかだって怪しい、というようなことは、日本にいると、本当にそんなことが有り得るのかさえ自信がなくなってくる。有り得るどころか、日常だった。(これはイエメンの私の配属先でのことではないが。)そして、協力隊の経験者たちと話してほかの任国での日本から見たらぶっとんだ話をきくと、やっぱりそうだよね、そういうことってあり得るよね、現実だったよね、それってふつうだったよね、ともう一度、自分の中で記憶がすりかわっているのではなく、ほんとに現実だったけど夢だったかと思えてしまうほど今の日常がそれとは遠いところにあるだけなことを確認するのだ。自分が夢と現実の区別がつかない病気になったわけじゃなかったと。

年賀状からずいぶん話がとびましたが。
みなさまよいお年を。

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