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秋田市 続日本100名城 国史跡・秋田城跡③漆紙文書

2023年10月14日 10時16分07秒 | 秋田県

国史跡・秋田城跡。続日本100名城。秋田市寺内大畑。

2023年6月4日(日)。

秋田城跡歴史資料館(秋田市寺内焼山)の展示と解説文

 

全国屈指の出土数を誇る秋田城の漆紙文書から、古代地方行政の実体が解明されてきました。

秋田城からは役人などが書いた木簡がたくさん出土しています。紙に書かれた書類などは、漆職人が蓋紙として使用して、漆が付着し捨てられた場合に漆紙文書として残されます。

10号漆紙文書(書状)

竹田継□が秋田城に宛てた書状(手紙)。内容は、「(竹田さんは)南大室(現在の山形県)へ鍋を一つ取りに出張に行ったが、出張先で何か他に用事があったような気がするので教えて欲しい。この手紙は5月6日の早朝に蚶形(きさかた、現在の秋田県旧象潟町)の駅家(うまや)から秋田城へ手紙を出した」というもの。

蚶形(きさかた)の駅家(うまや)」は延喜式に記される駅家の一つ。「蚶形の駅家」の遺跡は見つかっていませんが、そこから出した手紙があるので、きっとどこかにあるはずです。

秋田城を象徴する遺物は瓦です。これは、当時ごく限られた施設の建物にしか葺かれませんでした。当時、瓦葺きの建物は律令国家の威厳を示すもので、秋田城創建期には全長約2.2kmの外郭築地塀に葺かれていたと考えられます。

秋田城は、当時、日本最北の瓦葺き施設だったのです。

役人の道具は硯と刀子と筆です。筆は出土していませんが、硯と刀子は秋田城から出土しています。刀子は今で言えば小刀のような使い方をしました。当時、紙は貴重で木の札(木簡)に文書を書いており、間違って修正する時は、木を削って消して書き直していました。

陰陽師などが使った「ケガレ」を払うまじないの道具

胞衣壺(えなつぼ)と萬年通宝。

子どもの成長を祈るために胞衣(胎盤)とお金を一緒に埋めたもの。血液鑑定の結果、B型男子と推定されました。秋田城には、男性だけでなく、女性もいたことがわかります。

朝鮮半島由来の盤上遊戯。

秋田城で発見された古代水洗トイレは、掘立柱建物、便槽、木樋、沈殿槽、目隠し塀で構成されています。建物の中には3基の便槽が配置され、それぞれの便槽から沼地側となる北側の斜面方向に木樋が埋設されており、傾斜角は約6度となっています。その先端の沼地部分に沈殿槽(浄化槽)が掘られています。

古代水洗トイレは、8世紀中頃につくられ、8世紀末・9世紀初めまで機能していたと考えられる奈良時代のものです。平安時代になると使われなくなりました。

上屋構造をもち、かつ建物内部の構造、それに水洗施設が機能的に整備された遺構は現在のところ、秋田城だけです。

このトイレの沈殿槽内の土からは、ブタ食を食習慣としていないと感染しない寄生虫の卵(有鉤条虫卵)が発見されました。このことから、当時の日本にはブタを常食する習慣のある人はおらず、トイレの使用者は大陸からの外来者で、ブタの飼育が盛んな渤海の人たちである可能性が高いと考えられます。

このように古代水洗トイレは、秋田城は大陸との外交窓口でもあり、重要な施設だったことを裏付けるものです。

 

史跡・秋田城跡を見学後、台地南下にある菅江真澄の墓と古四王神社を見学した。

秋田市 続日本100名城 国史跡・秋田城跡②元慶の乱


秋田市 続日本100名城 国史跡・秋田城跡②元慶の乱

2023年10月13日 12時28分44秒 | 秋田県

国史跡・秋田城跡。続日本100名城。秋田市寺内大畑。

2023年6月4日(日)。

秋田城跡歴史資料館(秋田市寺内焼山)。

元慶の乱(がんぎょうのらん)は、平安時代の元慶2年(878)3月に起きた夷俘(蝦夷)の反乱である。出羽国の夷俘が朝廷の苛政に対して蜂起して秋田城を襲ったもので、官軍は苦戦し鎮圧は難航した。摂政・藤原基経は、能吏で知られた藤原保則、武人の小野春風らを起用し、藤原保則の鎮撫により終息した。

元慶2年(878)3月、平安時代最大の蝦夷の反乱ともいうべき元慶の乱が、出羽国で勃発した。乱の原因は、前年の不作にもかかわらず、出羽国司・秋田城司たちが農民から収奪を繰り返し、なかには私腹を肥やす者すらいた。時の秋田城介は良岑近(よしみねのちかし)で、『藤原保則伝』によれば、彼は「税を徴収することはいっさい厭わない」「広い谷も填めきれないほど貪欲である」「もし少しでもその求めにかなわざるときは、苦しみをたちどころに施す」といった人物であったという。

また、中央の権門子弟らも、東北の善馬・良鷹を求めて相当悪どいことをやっていた。馬や鷹は、東北(あるいは北海道方面)の名産品として都でも需要が高く、安価に脅し取ることができれば、都でかなりの利益を上げることができたのである。

こうした国司らの苛政に抵抗して、多数の俘囚(ふしゅう)(蝦夷のうち律令国家に服属した者)が組織的に立ち上がり、秋田城や秋田郡家、周辺の民家に火がかけられるまでに至った。しかもその後も出羽国の官軍は苦戦の連続で、もはや現地では進退窮まった観すら呈していた。時の出羽守藤原興世(おきよ)は、まず600人の兵を派遣して能代営(のしろえい)(能代市檜山付近)を守らせようとしているが、これは反乱軍の真っただ中でのまったく無謀な作戦であって、これは見事に失敗した。命からがら逃げ帰ったものはわずかに50人であったという。

正史『日本三代実録』には「秋田河以北を己が地に為さんと請う」という記事もあって、俘囚たちは、雄物川以北の律令国家からの独立希望すら明言していた。「秋田河以北」は蝦夷側の拠点一二村が点在する現在の能代から比内・鹿角(かづの)に至る秋田県の北半分を含むものであった。新編弘前市史

元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給が実施された。直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。

この乱の背景に、長く軍事的緊張から遠ざかっていた秋田城では制度上常備すべきとされていた軍が実際には配備されておらず、少数の健児が守るのみで警備が手薄になっていたことが挙げられる。

また、出羽国統治が安定していた反面、それに乗じて国司による苛烈な収奪が横行しており、秋田城司の良岑近(よしみねのちかし)は、民が大凶作で難渋している現実から眼をそらして、不当な交易によって得た利潤を独占し、重税を課して私腹を肥やしていた。その結果、出羽国内の三分の一ほどの人々が奥地へと逃げ出す有様となった。年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達していたのである。

元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司・良岑近は防戦しかねて逃亡した。夷俘は周辺に火を放ち、出羽守藤原興世も逃亡してしまう。

4月、出羽守よりの急使を受けた朝廷は、下野国と上野国にそれぞれ1000ずつの徴兵を命じた。19日には最上郡郡司擬大領の伴貞道が戦死する。

5月、朝廷は藤原梶長を押領使に任じて陸奥国より騎兵1000、歩兵2000を派遣して鎮圧に向かわせた。出羽掾藤原統行、文室有房、小野春泉の出羽兵2000もこれに合流する。6月、夷俘の軍勢が大挙して再度秋田城を襲い、官軍は大敗を喫して、藤原梶長も陸奥国へ逃げ帰ってしまう。

城中の甲冑300領、米700石、衾(寝具)100条、馬1500匹が夷俘の有に帰した。反乱は拡大して秋田城下の12村(上津野、火内、榲淵、野代、河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡)が夷俘の支配に落ち、出羽北部ではわずか3村(添河、覇別、助川)の俘囚だけが出羽国に属していた。さらに津軽・渡嶋(北海道)の蝦夷も蜂起した蝦夷を支援する。

5月、朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせることとした。保則は備中国、備前国の国司として善政をしいた人物であった。保則は小野春風の起用を願い、6月、春風は鎮守府将軍に任命される。陸奥介坂上好蔭(坂上田村麻呂の曾孫)とともに出羽国へ向かった。この時点で俘囚3人が陣営に来て、秋田河以北を朝廷の直接支配が及ばない「己地」となすことを要求した。

保則は文室有房、上野国押領使南淵秋郷に命じて上野国兵600人と俘囚300人をもって夷俘に備えさせた。これら軍事的措置をすませたうえで、朝廷の不動穀を賑給して懐柔にあたった。保則の寛大な施策の一環である。また、保則の手持ちの兵力が寡兵であるため常陸国、武蔵国の兵2000を動員する許可を朝廷に求めている。

8月、夷俘の集団が次々と秋田城下に来て降伏した。寛政の噂が広まり、夷俘の敵意が和らいだためである。保則は来降を許したが、元慶3年(879年)1月、朝廷は討伐の強行を命じた。これに対して保則は出羽国の現状を報告し、寛大な政策をおこなって苛政によって逃亡した夷俘の還住を促すことこそ上策であると意見した。朝廷はこの意見を容れ、3月、征夷の軍を解いた。

藤原保則は武力によらず寛政によって反乱の鎮撫に成功したが、朝廷の力が低下して坂上田村麻呂の時代のように武力によって夷俘を制圧できなくなっていたことも意味していた。夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。

乱後、秋田城は保則の手により再建された。出羽国司次官である介が受領官に格上げされると共に、秋田城常駐となり軍事機能も強化された。これは後に秋田城介と呼ばれる。

非鉄製小札甲。非鉄製の素材で作られた甲、一領分が鍛冶工房の床面から出土し、そのまま切り取って展示してあります。鉄製ではないので普通は残りませんが漆が塗られていたので、腐らずに出土しました。製作年代は9世紀前半です。宝亀11年(780)には鉄製の甲冑の代わりに革製の甲冑を作るよう指示があり、また、延暦9年(790)には蝦夷討伐のために諸国に革製の甲冑二千領作るよう指示している記録があります。秋田城出土の非鉄製小札甲は、まさにこのような平安時代の最新鋭の甲で、貴重な出土品です。

秋田城は海上交流の拠点であり、秋田城が渤海使や北方民族との外交施設としての役割を担った。

8世紀には、沿海州付近にあった渤海国からの使節がたびたび出羽国へ来着した。8世紀の渤海使は、日本の使節船に同乗している場合を除いてほとんどが出羽に来着しており、渤海使は沿海州・サハリン・北海道の沿岸部伝いに航行して本州日本海側に達する北回り航路を取っていたとされる。

城外南東側の鵜ノ木地区において規則的に配置された大規模な掘立柱建物群の遺構と、水洗トイレの遺構などが検出されており、これら施設群は外交使節を饗応する迎賓館だったのではないかとの推測も示されている。9世紀以降渤海使の出羽来航は途絶えており、鵜ノ木地区の遺構も、9世紀以降のものは木柵に囲われた寺院風の構成となっていく。

秋田市 続日本100名城 国史跡・秋田城跡①


秋田市 続日本100名城 国史跡・秋田城跡①

2023年10月12日 12時21分08秒 | 秋田県

国史跡・秋田城跡。外郭東門・築地塀(復元)。続日本100名城。秋田市寺内大畑。

2023年6月4日(日)。

佐竹氏菩提寺の天徳寺から秋田市街地北西にある古代城柵遺跡の国史跡・秋田城跡へ向かった。自衛隊や護国神社などの表示を見ながら、丘陵地の道路から脇道を上ると、秋田城跡歴史資料館(秋田市寺内焼山)の駐車場に着いた。

秋田城跡歴史資料館はガイダンス施設であり、秋田城跡で発掘された資料の展示、史跡の保護管理、調査研究にあたる総合拠点施設として2016年4月に開館した。

秋田城跡と同じ台地上に設置されているので、台地下の秋田城跡見学者用駐車場から階段を昇ることなく、資料館から市道の上に架けられた歩行者用連絡橋を渡れば容易に秋田城跡政庁地区へ至ることができる。

連絡橋から眺める秋田城跡政庁地区。

秋田城(あきたじょう、あきたのき)は、古代日本最北の古代城柵である。

ジオラマ。秋田城跡。雄物川。男鹿半島。

秋田城は、秋田平野の西部、雄物川(秋田運河)右岸河口近くにある標高40mほどの丘陵地上に造営された城である。城柵の基本構造は、築地塀などで囲われた外郭と、政庁を囲う内郭との二重構造からなり、外郭の東西南北に城門が配置されていた。

政庁の配置は、正殿の南面に広場を設け左右に脇殿を配する「コ」の字型の施設配置となっており、これは都城にみられるような大極殿正面に朝庭を設け左右に朝堂を配する様式と共通する。

城の外郭の範囲は、北西部を切り欠いたような不整方形である。外郭の範囲は、東西・南北ともおよそ550m、約30haの広さを持つ。

外郭の位置も全期を通じて大きな変化は見られないが、塀の構造にはI - V期までの5期に渡る変遷が見られた。このような構造の変更は出羽側の城柵にみられる特徴で、それに対し陸奥側では多賀城が拡張した際も築地塀の基本構造を維持している。秋田城では9世紀初頭に築地塀から材木塀に変更され、官衙としての荘重さが後退したことから、この時期に秋田城の性質が大きく変化したことが示唆されている。

外郭の構造は奈良時代のI期では瓦葺きの築地塀、同じく奈良時代のII期では非瓦葺きの築地塀、平安時代に入ってからのIII期は柱列による材木塀、IV期は材木列による材木塀、V期は明確でなく、堀による区画がなされたと考えられている。III期以降は外郭に附設して櫓が設けられており、およそ80 - 90m間隔で外郭に櫓が並んでいたと考えられている。

外郭の城門はこれまで東門が確認されていたが、2008年以降西門南門がそれぞれ発見されている。

秋田城の創建は、733年(天平5年)出羽柵が山形県庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後760年(天平宝字4年)に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持し、出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。

7世紀の中葉から9世紀の初頭にかけて、当時の朝廷は東北地方の蝦夷を軍事的に制圧し服属させ、柵戸移民を扶植して積極的な支配域の拡大を図っており、日本海側では708年(和銅元年)に現在の山形県庄内地方を越後国出羽郡として建郡、712年(和銅5年)には越後国から分離して出羽国に昇格させ、陸奥国から移管された置賜郡・最上郡とあわせて初期の出羽国を形成した。前後して出羽郡内に出羽柵を設置したものと考えられている。

秋田城は朝廷の支配域の北上にともない出羽柵を移転したものと捉えられるのであるが、8世紀当時の秋田地方では大規模な集落の跡が確認されておらず、後城遺跡のような城柵の進出にともなって形成された集落が城柵の近傍に存在する程度であった。すなわち当時の秋田地方は人口が希薄で、移転当初の出羽柵は朝廷の支配域の北辺に突出しており、出羽柵(秋田城)の設置にともなって城柵周辺に蝦夷や柵戸移民が混在する集落が形成されたものと推測されている。

804年(延暦23年)、秋田城が停廃されて秋田郡が設置され、秋田城が担っていた機能は河辺府へ移されたとされる。先の802年(延暦21年)に朝廷はアテルイとの軍事的抗争に勝利し、これを受けて陸奥に胆沢城・紫波城を造営、出羽でも同時期に払田柵(第II期雄勝城)が造営されたとみられるなど、9世紀初は朝廷と蝦夷との関係が大転換した時期にあたる。陸奥方面での朝廷の軍事的勝利を受けて、秋田城を取り巻く環境が孤立した状態から解消されたことにともなう、支配体制再編の一環として行われたものと考えられる。

830年(天長7年)には天長地震により城廓および官舎のことごとくが損傷する被害を受けた事が記されている。この時の被害報告から城に附属して四天王寺・四王堂といった宗教施設が存在した事実が示されている。

878年(元慶2年)に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)では、俘囚側が秋田城を一時占拠するに至り、発掘調査からも乱によって城が焼かれたことを裏付ける焼土炭化物層が検出されている。

元慶の乱は、出羽権守として派遣された右中弁藤原保則が、主に上野国・下野国の兵で編成された軍を率いて乱の鎮圧にあたり、また鎮守将軍として派遣された小野春風による懐柔策も受けて、硬軟織り交ぜた対応により終結に向かい、秋田城は回復されて復興整備に向かっている。

その後939年(天慶2年)の天慶の乱の際にも、秋田城は攻撃を受けている。10世紀後半には秋田城の基本構造と機能が失われたと考えられている。

平安時代後期から中世にかけて、史料上はなおも秋田城の文字が継続して確認されており、鎌倉時代には秋田城介の官職は武門にとって名誉あるものであったとされるが、中世の秋田城として比定される有力な遺構は確認されておらず、古代の秋田城跡周辺が有力な擬定地として推測されるにとどまっている。

内郭にあたる政庁跡は城域の中心からやや南西寄りに位置しており、その規模は創建期のもので東西約94m、南北約77mと、東西方向の差渡しの方がやや長い、横長の長方形となっている点が特徴である。秋田城は多賀城等より一回り小さい規模の地域中核拠点であるとされる。

政庁の様式は都の朝堂、あるいは各国の国衙に倣うものであり、秋田城は地域一帯の行政の拠点でもあったことから、政庁では一般の政務のほか、在地の蝦夷の饗応、さらには渤海使をはじめとする外交使節に対する送迎の儀式も行われていたものと考えられている。なお、政庁跡を道路(国道7号旧々道)が跨いでいるために南西側が約3分の1に渡って削平・破壊されており、西脇殿・政庁南門の様相は不明である。

第I期の政庁配置を示す模型

政庁内部から外郭に通ずる内郭東門方向。

内郭東門と外郭東門に続く幅員12mの城内東大路。

秋田市 国名勝・如斯亭(じょしてい)庭園 旧佐竹氏別邸 天徳寺


秋田市 国名勝・如斯亭(じょしてい)庭園 旧佐竹氏別邸 天徳寺

2023年10月11日 08時46分00秒 | 秋田県

国名勝・旧秋田藩主佐竹氏別邸如斯亭(じょしてい)庭園。秋田市旭川南町。

2023年6月4日(日)。

秋田大学附属鉱業博物館の見学を終え、北西近くにある旧秋田藩主佐竹氏別邸庭園の国名勝・如斯亭庭園へ向かった。交差点付近の道路横にある駐車場へ駐車し、回り込んで庭園入口に向かった。受付で、無料のボランティアガイドを勧められて了解した。

国名勝・如斯亭庭園は旧秋田藩主(久保田藩主)佐竹氏の別邸およびその庭園で、附属茶屋を含む。通称「如斯亭」の名は本来1棟の建物を指す名称であったが、今では建物をめぐる庭園を指す名称として用いられている。

本庭園は江戸時代中期に田園の景勝地に営まれたもので、周囲の山並みと築山の構成が相応する風土的特色を有し、旧秋田藩主佐竹氏に関連して現存する唯一の事例として東北地方の大名庭園及びその文化を知る上で貴重で、学術上の価値は極めて高い。

如斯亭庭園は、佐竹氏の居城であった旧久保田城の北方約1kmに所在し、秋田市街北東部を流れる旭川の左岸に位置し、久保田城の搦手に近在する田園の景勝地(搦田)に営まれた。

庭園は南に主屋(如斯亭)を置いて北方を正面とし、遠く北方から東方にかけて新城山、太平山系を望む構成としている。北東部に園内最高所となる築山(観耕台)を設けて、そこから南に3つ、西に1つの築山を連ね、敷地中央部に円く平たい長径約3mを測る岩塊から成る中島(巨鼈島)を配した小さく浅い流れの園池(玉鑑池)を設ける。

庭前の巨石は高野石、また、池の中に配置された雪見灯籠は250年ほど前のもので、東北地方における遠州流庭園の名園とされる。

東辺の築山の間の峡谷から発する流路は、伝い落ちの滝(仁源泉)を成して園池に流れ、園池の西端からは再び流路に収束し、水辺に設けられた大きな景石(渇虎石)を北にやり過ごして、石橋(星槎橋)をくぐり、渓流(幽琴澗)を成して一段低い場所に設けられた茶室(清音亭)の露地に至る

茶室(清音亭)

庭園の地割を東から西に向かうこの流路は間断なき水流を成し、「如斯亭」の名の由来となった『論語』の「逝者如斯夫、不舎昼夜」(逝くものは斯くの如きか、昼夜をおかず)を嘆賞する風景として構成されたことを窺わせる。その意味は「水流の間断なき流れを嘆賞しつつ、人間の道も学問もまたかくあるべき」と解される。

主屋正面の緩斜面に設けられた園路は、途中で2つに分岐してそれぞれ巨鼈島と星槎橋を経て流れの対岸に至り、また、東辺に連なる南端の築山(清風嶺)に登る坂(夕陽坡)から北方に延びる園路、西端に位置する清音亭の露地に至る園路ともに、園内全体を巡る回遊路を構成する。園内の随所には、奇岩の景石や燈籠、蹲などを配し、回遊することで様々な風景を楽しむことができる。

如斯亭は、元禄年間(1688〜1704)に第3代藩主佐竹義処(よしずみ、1637〜1703)が下賜した土地に近臣の大嶋小助が整備・管理した別荘を起源とする。

第5代藩主義峰(1690〜1749)のとき藩主が遊猟する際の休憩所として用いられたため、藩に献上され、庭園や建物が整備された。倹約の旨によって一時衰亡したが、第8代藩主義敦(1748〜1785)が安永4年(1775)に再興した。第9代藩主義和(よしまさ、1775〜1815)のときに、庭園を整備して、秋田藩校明徳館の助教兼幹事であった儒者那珂通博に「園内十五景」(紅霞洞、靄然軒、夕陽坡、観耕台、清風嶺、佩玉矼、仁源泉、超雪渓、玉鑑池、弓字径、渇虎石、巨鼈島、星槎橋、幽琴澗、清音亭)を選ばせるとともに、その名を「如斯亭」と改め、賓客をもてなす場として活用され、また、文人墨客の交遊の場としても活用されるようになった。

廃藩置県により佐竹氏が東京へ転居した際、庭園はそれまで藩政によく貢献した那波氏へ譲渡された。以降は民間所有となったが、2010年に秋田市へ無償譲渡された。2014年から庭園の復元や主屋の解体修理などの整備工事に着手し、2017年に開園した。

2017年に復元された如斯亭の主屋

北東の正門。

 

天徳寺。秋田市泉三嶽根。

如斯亭の見学を終え、北西近くの天徳寺へ向かった。山門近くの駐車場に駐車したが、修理工事中であった。

天徳寺は曹洞宗の寺院で、久保田藩主(秋田藩主)佐竹家の菩提寺である。

1462年(寛正3年)、当時の佐竹家当主佐竹義人(義憲)が夫人(佐竹義盛娘)を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建した。1602年(慶長7年)、佐竹家の転封に伴い、出羽国秋田郡楢山村に移る。1624年(寛永元年)、火災により総門を残して全焼したため、翌年に現在地である泉村の泉山に移された。この際、焼失を免れた総門も移築されている。その後1676年(延宝4年)に再び火災が起こり、総門と山門を残して全焼。9年の月日をかけて再建され、現在に至る。

また1672年(寛文12年)には本堂西の墓所に佐竹家の霊屋が建てられ、歴代久保田藩主と夫人の霊が祀られている。1998年東京の総泉寺にあった正室や側室などの墓も移された。

1990年に本堂、書院、山門、総門の4棟と佐竹家霊屋が重要文化財に指定された。

本堂は、1687年(貞享4年)の建立。入母屋造、茅葺き、間口約30メートルの大建築。

山門は、1709年(宝永6年)の建立。三間一戸(柱間が3間で中央1間を通路とする)、瓦葺きの楼門(2階建て門)。

山門・駐車場の横には仮本堂・庫裏的な建物があった。佐竹氏の家紋「扇に月」が鮮やかであった。

 

このあと、古代城柵遺跡の国史跡・秋田城跡へ向かった。

秋田市 秋田大学附属鉱業博物館 玉川温泉北投石 佐藤信淵


秋田市 秋田大学附属鉱業博物館 玉川温泉北投石 佐藤信淵

2023年10月10日 09時35分12秒 | 秋田県

秋田大学附属鉱業博物館。秋田市手形大沢。

2023年6月4日(日)。

久保田城跡を見学後、北東の丘陵地麓に位置する秋田大学附属鉱業博物館へ向かった。

秋田県は鉱産資源に恵まれ,古くから鉱山開発が進められてきた地域である。県内各地には黒鉱鉱床や鉱脈鉱床などの金属鉱床が多数存在する。また,日本海沿岸部は国内有数の油田地帯として知られている。

鉱業博物館の沿革は,鉱山技術者養成のために 1910年(明治43年)に設立された旧制秋田鉱山専門学校の列品室を淵源とする。1941年(昭和16年)に火事により列品室の全資料を焼失するが、その後新制秋田大学設立時に県からの寄付によって鉱山博物館が設立され、資料の復興がなされた。

現在の博物館は鉱山学部設立50周年記念事業として1961年に卒業生を中心とした寄付・協力により建設されたものである。なお、当初は鉱山学部の附属施設であったが、その後秋田大学内の機構再編にともない、1998年(平成10年)には工学資源学部附属に、2014年には国際資源学部が新設されたことにともない、国際資源学部附属となった。

円筒形の建物の1階から3階までが展示室となっており、鉱物・鉱石の展示(1階)と、それを通した地殻活動・地球史(2階)、あるいは人類活動と鉱物資源との関わり、鉱業活動(3階)についての展示と解説を主眼としている。

1階展示室では、「鉱物・鉱石」をテーマとしており、標本の展示は約400種1500点以上に及ぶ。鉱物編ではシュツルンツ分類に沿って半円形の展示コーナーに鉱物標本が展示されており、鉱石・鉱床編ではかつて秋田県の鉱山で広く採掘された黒鉱ほか、大型の鉱石及び石炭、原油などのエネルギー資源の標本を展示している。

玉川温泉の北投石

2階展示室では、「地球の構成と歴史」をテーマに、岩石地質編と化石編の2つの小テーマに沿って「地球の成り立ち」、「岩石」、「地球表層の諸現象」(岩石地質編)、「秋田の生い立ち」、「地球生命史」(化石編)に至る5つの展示コーナーがある。前者では隕石や岩石、地層はぎ取り標本、火山噴出物など、後者では化石等が展示されている。

稲倉石鉱山産菱マンガン鉱鉱石

秋田大学大学院国際資源学研究科教授 渡辺 寧

 鉱業博物館1階の鉱石展示コーナーには巨大な菱マンガン鉱の鉱石が展示されている。菱マンガン鉱はMnCO3の化学組成を持つ炭酸塩鉱物で、北海道古平町にある稲倉石鉱山では規模の大きな鉱脈を形成していた。本鉱石はアルゼンチンのCapillitas鉱山産のものに引けを取らないほど濃紅色で、稲倉石鉱山が閉山後、「積丹ルビー」と銘打って札幌界隈で宝石として販売されていたが、最近はさすがに見られなくなった。このような濃紅色は菱マンガン鉱中のマンガン含有量が高く、不純物が少ないことに起因する。

 稲倉石鉱床は1885年に発見され、1931年から採掘が開始された。開発の初期には金銀の採掘が行われたが、すぐにマンガンが生産の主体となり、断続的に採掘が行われた。1970年に大江鉱山と合併、1984年まで操業が続けられた。総量で100万トン以上の金属マンガンを産出した。

 稲倉石鉱床の南東約5kmにはマンガンのほか銅、鉛、亜鉛を産出した大江鉱床が位置する。どちらの鉱床も北西方向の熱水鉱脈群からなり、両鉱床の鉱脈は一直線状に分布する。両鉱床の間には地表では天狗岳安山岩が、地下では貫入岩である石英閃緑岩が分布しており、両鉱山の鉱脈は直接、連結していない。大江鉱山の鉱脈は石英閃緑岩、特にその岩体上部に発達しており、母岩の中新世の火山岩類中に入ると消滅する。稲倉石鉱山では、鉱脈は火山岩類にのみ認められているが、その下部には石英閃緑岩の存在が確認されている。両鉱床とも、鉱脈には、菱マンガン鉱のほか、黄鉄鉱、黄銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱などの硫化鉱物を伴っている。

 稲倉石鉱床の鉱脈に伴うセリサイトは310万年前の年代を示し、鉱床を覆う天狗岳安山岩の年代(330万年前)とほぼ同じである。このことから、天狗岳安山岩を噴出したマグマ活動が鉱化作用に関連したと推定されている。

 このような炭酸塩鉱物に富む鉱脈は一般に熱水系の縁辺部に形成されることが多く、熱水系の高温部に向かうに従い鉛・亜鉛、さらには銅鉱化作用に移行する。閉山した今となっては知る由もないが、稲倉石鉱床の下部にベースメタル鉱化作用が存在するのか興味の持たれるところである。

(鉱業博物館だより2023年早春 第22号 コラム

3階展示室では、「資源開発」をテーマに資源探査から採掘、選鉱、製錬に至るまでの各過程を模型とともに展示している。

申川油田、八橋油田

かつて秋田県は院内銀山、阿仁鉱山、小坂鉱山、尾去沢鉱山、花岡鉱山、荒川鉱山等の各鉱山ほか、申川油田、八橋油田等の地下資源を広く採掘していたため、秋田県の鉱山史についても展示しており、大正期の石油掘削機の模型や、久保田藩による坑内の絵図等も展示している。

このあと、北西近くにある旧秋田藩主佐竹氏別邸庭園の国名勝・如斯亭庭園へ向かった。

秋田市 佐竹藩久保田城跡 安東氏湊城跡 ポートタワー