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秋田市 佐竹藩久保田城跡 安東氏湊城跡 ポートタワー

2023年10月09日 13時41分13秒 | 秋田県

秋田市ポートタワーからの風景。秋田市土崎港西1丁目。道の駅「あきた港」。

2023年6月3日(土)。

16時30分ごろ。秋田市南東部にある国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡の見学を終え、西に進んで新屋地区を見学しようとしたが目ぼしい建物が見当たらなかったため通過して、17時ごろに秋田市街地の北西にある道の駅「あきた港」へ着いた。

道の駅に隣接している秋田市ポートタワーは全高143m、無料展望室の高さは100m。エレベーターで展望室に登ると、日本海や寒風山をはじめとする男鹿半島の山並みのほか、秋田市街や太平山、鳥海の山々を望むことができる。日本海に沈む夕日も一望できる。

土崎(つちざき)神明社。出羽湊城跡。秋田市土崎港中央3丁目。

2023年6月4日(日)。

道の駅「あきた港」で起床。本日の見学ルートを検討すると、土崎神明社が近いことに驚いた。

土崎神明社の主祭神は天照大神である。土崎神明社はもともと、慶長7年(1602年)に常陸から佐竹義宣とともに秋田にやってきた常陸国人川口惣治郎の氏神であった。破却された出羽湊城址に、元和6年(1620年)川口惣治郎が建立した。以来土崎神明社は、土崎湊町の総鎮守として崇められてきた。

土崎湊湊安東氏(上国家)の本拠地であり、土崎神明社は戦国時代末期に本家の檜山安東氏(下国家)により統合された戦国大名・安東氏(のちの三春藩大名家秋田氏)の居城であった湊城の跡とされる。

土崎は雄物川の河口に位置する港町で、土崎湊は歴史的には、古代・中世における出羽国の中心的地位が長かった。平安時代の蝦夷討伐軍が拠点として築いた秋田城への物資の補給などに利用された港であった。昔から海運で栄え、室町時代には海の豪族とも言われる安東氏が湊城を築き三津七湊の1つに数えられ、江戸時代には佐竹氏久保田藩の藩港であり、北前船の寄港地でもあった。

湊城の築城時期についての詳細は不明であるが、少なくとも、慶長9年(1604年)に佐竹義宣によって破却されたときは現在の土崎神明社の地にあったことは間違いないとされる。

土崎湊の地は、1395年(応永2年)に十三湊の下国家安藤氏の一族である安藤盛季の弟鹿季が、当時このあたりを支配していたとみられる上国家安藤氏にかわって入部し拠点としたとされるが、当時の居城は不明である。鹿季はこの後湊氏と称し、秋田城介を名乗った。以後湊安東氏の累代が支配する一方で、下国安東氏は檜山(秋田県能代市)に土着し、檜山安東氏とよばれた。

天文20年(1551年)湊安東氏は安東尭季が後継者を定めないまま亡くなり、宗家であり尭季の娘婿でもある檜山安東氏の当主愛季が、両家の統合を図るため弟の茂季を送り込んで、両家を支配することに成功したが、それに反発した湊安東家配下の国人の一部が反乱を起こした。この反乱は愛季が鎮圧し、湊城に入ることによって両家を統合したが、このときはまだ安東氏の拠点は檜山城であった。

この後、実季は拠点を檜山城から湊城に移し、慶長4年(1599年)から湊城の大規模な改築を行った。二重の水堀をめぐらした平城であったとされる。慶長6年(1601年)に完成したが、実季はその翌年慶長7年(1602年)に常陸宍戸に転封となり、かわりに秋田転封となった佐竹氏の佐竹義宣が入城した。

しかし、湊城は狭く、また拡張の余地も少なかった。そこで、義宣は慶長9年(1604年)に久保田神明山の地に新たに久保田城を建設してそちらに移り、湊城は破却された。元和6年(1620年)には跡地に土崎神明社が建てられている。

 

久保田城跡。日本100名城。秋田市千秋公園。秋田大学鉱業博物館の駐車場から眺める久保田城跡。

広小路南の民間駐車場に駐車。大手門の堀に出ると濠の水は壮観だった。その先に城山の丘が見えた。

久保田城は、久保田藩20万石佐竹氏の居城である。1871年(明治4年)3月に久保田藩が秋田藩と改称されたため、「秋田藩、秋田城」とよばれることも多いが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城である。

久保田城は、雄物川の支流である旭川の左岸にある神明山(しんめいやま、標高40m)に築かれた平山城である。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており、天守も持たず塁上に「出し御書院」(だしおしょいん)とよばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた。山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭などの様式も採り入れられている。

神明山の最高所を均して本丸とし、ここに藩主の居館である本丸御殿と政務所を置いた。周囲を多聞長屋と板塀で取り囲み、表門・裏門・帯曲輪門・埋門・切戸口という5箇所の出入口を設けた。表門は一ノ門ともいい、そこから二の丸へ通じる手前に長坂門(二ノ門)があった。南西隅で岬のように突出した最高所の土地を「出し」と呼び、「出し御書院」「御出書院」という櫓座敷を設けた。

本丸東側の一段低い土地を二の丸とし、勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などを置いた。外部からの出入りは全て二の丸に集まるようになっており、4箇所の出入口を設けた。現在は松下門跡が千秋公園の正面入口になっているが、藩政期の正式な登城の道は黒門を経由するものだった。

久保田城表門。

久保田城本丸の正門で、一ノ門ともよばれていた。

本丸の玄関口として警備上から重要な地点とされており、南側には門の警備と管理をする「御番頭局(ごばんがしらべや)」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)」を置いて厳重な守りを固めていた。

この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門で、20万石久保田藩の正門にふさわしい壮大なものとなっている。

御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)。

久保田城表門礎石。表門の再建に当たっては現存していた本来の礎石を内側にずらして展示保存している。

本丸跡。

久保田城御隅櫓。

市政100周年を記念して復原された御隅櫓は本丸の北西隅に位置し、史料に記されている2階造りを基本とした設計で、最上階には展望台が設けられている。本来は2層2階の櫓であったが、望楼風の展望台を追加した3層4階建ての模擬櫓として再建されている。

久保田城御隅櫓から本丸跡。

 

二の丸の北・東・南を取り囲むように三の丸があり、重臣屋敷を置いた。本丸西側で内外堀に挟まれ島状になった西曲輪(捨曲輪)には、兵具蔵を置いた。

本丸・二の丸を内堀で囲み、三の丸を外堀で囲んだ。その他も北の丸の周囲、中通廓と亀の町廓・長野下の間(大堀)、亀の町廓と築地の間(上堀)、亀の町廓と楢山の間(下堀)などに堀を設けた。堀の多くは、旭川の旧河道である。

現在ではほとんど埋め立てられ、現存するものは南堀の一部、東堀の一部、西兵具蔵外堀の一部(穴門の堀)、南外堀の一部(大手門の堀)のみになっている。

1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失した。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸にはあきた芸術劇場ミルハスや秋田市立中央図書館明徳館、秋田市文化創造館、平野政吉美術館などが整備されている。

城郭に関する建造物としては、前述の大火を逃れ、かつ解体も移築もされなかった御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)が現存する。

このあと、久保田城跡北東の高台に位置する秋田大学鉱業博物館へ向かった。

秋田市 国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡②遠賀川系土器


秋田市 国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡②遠賀川系土器

2023年10月08日 08時36分03秒 | 秋田県

国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡。秋田市御所野地蔵田三丁目。

2023年6月3日(土)。

地蔵田遺跡出土品展示施設。

居住区の北西出入り口の西側と北東側には、多量の土器、石器とともに多量の自然礫を集積した一画がある。不用品がこの一画に廃棄されたものと考えられる。

出土遺物には甕形土器、鉢形土器、高坏形土器、壺形土器、蓋形土器で構成される弥生土器の他に、石斧、石鏃、石錐、石匙、石棒、磨石、敲石、環状石斧、玉類などの石器類や石製品、有孔土製品、土偶、紡錘車などの土製品がある。

このうち土器棺に使用された壺形の土器は、西日本の前期弥生土器の制作技法、器形、文様に共通する諸特徴を備える遠賀川系土器であり、この集落が前3世紀の弥生時代前期に成立し、初期の稲作農耕文化を受容したことを明確に示している。これらの遠賀川系土器には他所から搬入したと考えられるものと地元で制作されたと考えられるものがあり、このことは集落の成立過程を考えるうえで興味深い。

秋田市 国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡①弥生時代前期の集落跡


秋田市 国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡①弥生時代前期の集落跡

2023年10月07日 21時52分15秒 | 秋田県

 

国史跡・地蔵田(じぞうでん)遺跡。秋田市御所野地蔵田三丁目。

2023年6月3日(土)。

大仙市大曲の古四王神社を見学後、秋田市南部の御所野総合公園へ急ぎ、公園内駐車場横にある地蔵田遺跡出土品展示施設へ入ると、受付の女性から遺跡現地は16時で閉鎖されるので先に見学するように言われた。

遺跡現地まで数分歩いて台地上の復元集落に入ると、ボランティア風の男性が竪穴住居から顔を出した。

地蔵田遺跡は、周囲を木柵で囲んだ弥生時代前期(BC3世紀)に成立した集落跡で、出土した弥生土器の中には、北九州地方の影響を受けた遠賀川系土器も含まれており、東北日本海沿岸北部に早くから弥生文化が伝わったことが分かる。

地蔵田遺跡は、秋田市南東部にある御所野台地の南端、秋田平野中央部に位置する旧石器時代、縄文時代中期、弥生時代に営まれた遺跡であり、雄物川と岩見川の合流点をのぞむ丘陵が開析を受けてできた標高約30mの段丘上に立地する。

 

集落は、居住区の周囲を木柵で楕円形に囲み、その周辺に墓域および不用品の廃棄場を配しており、弥生時代の西日本の環濠集落の基本的な構造と共通する。ただ、木柵がめぐる集落は東北地方北部はもとより全国的にもあまり類例がなく、この遺跡の特徴となっている。

居住区を画する木柵は、直径20cmから30cmの木材を密に立て並べたもので、一部で二重にめぐり、内側のものが長径61m、短径47m、外側では長径64m、短径50mである。木柵の北西部分で柵列が一部とぎれ、そこから外側へ二列の柱列が延びており、そこが居住区の主要な出入り口となっていた

この他にも、西部、南部、東南部に柵の途切れるところがあり出入り口と考えられる。南東側で最も外側に作られている木柵は、墓域を集落と遮るための目隠し塀と考えられる。

柵内部は三軒の円形竪穴住居が、中央の広場を挟んでほぼ等間隔で並んで向かい合い、広場に向けて出入り口を配置する。住居は、直径8mから9.1mの周溝をめぐらし、中央に炉を据え、炉のまわりに四本の主柱を配する。

周溝の途切れるところが出入り口となる。こうした構造の弥生時代住居跡は、その後類例が増加しており、この地方の当時の一般的な住居構造であることが明らかになりつつある。

時期が下ると住居数は四軒に増加し、元の住居も位置をずらして建て替えており、その規模も直径9mから13mに拡大するが、それとともに木柵は取り払われる。住居の建て替え回数は住居によって異なり2回から6回が認められる。

集落の東側、木柵に接して直径40mほどの範囲に墓域が設定されている。墓は北東群と南東群に分かれ、南東群に密集する。墓には土器棺墓25基、土壙墓51基がある。

土器棺墓には壺形土器を棺とし蓋形土器で覆うもの、壺形土器棺を鉢形土器で覆うもの、壺形土器棺を甕形土器で覆うもの、壺形土器棺を扁平な自然石で蓋をするもの、二個の甕形土器の口を合わせるものの五種類がある。棺の直径および高さは30cmから50cmである。棺内からは人骨や副葬品などは出土していない。

土壙墓は、楕円形、長方形、隅丸長方形を呈するものがあり、楕円形のものが多数を占めるが不整な平面形を呈するものもある。土壙墓の規模は、長軸の長さが約1mから2mにおよび、1mから1.5mのものが多い。人骨の出土はなかったが、224号土壙墓から凝灰岩製の小玉が、258号土壙墓から碧玉製の玉、擬灰岩製の管玉、玉髄製の勾玉が、227号土壙墓からはベンガラがそれぞれ出土した。

地蔵田遺跡は弥生時代前期に、初期の稲作農耕文化を携えた人々が他所から移り住んでできた弥生集落と考えられるが、木柵を居住区の周囲に巡らせるという独特な施設をもつ集落の全体像を良好に伝えている。この遺跡は、東北地方北部における稲作農耕文化の受容、成立過程とその地域的特質を考えるうえで、ひいてはわが国の稲作農耕文化成立の過程を具体的に知るうえで特に重要であり、その歴史的意義はきわめて大きい。

秋田県大仙市 重文・古四王神社本殿 越(こし)の国 飛騨の匠


秋田県大仙市 重文・古四王神社本殿 越(こし)の国 飛騨の匠

2023年09月21日 13時08分25秒 | 秋田県

古四王神社。大仙市大曲字古四王際30。

2023年6月3日(土)。

国史跡・払田柵跡の見学を終え、北西の大曲にある古四王(こしおう)神社へ向かった。幹線道路近くにあるが、一帯は平野の農村地帯である。

境内の主要な建物として本殿、幣殿、拝殿があり、本殿が重要文化財に指定されている。

古四王(こしおう)は、越(こし)の国の王という意味で、縄文時代の北陸系土器の存在が示すように人的な交流があり、祭神の大彦命(おおひこのみこと)は皇子出身で、のちの安倍氏の祖であり、その系統は伊賀・近江を経て北陸へ進出した形跡がある。阿倍比羅夫の北海道進出と合わせ、安倍氏の名は蝦夷出身とみられる奥州安倍氏につながっている。

古四王神社の祭神は、大彦命(おおひこのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)、建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、水波女神(みずはのめのかみ)。

主祭神は『古事記』・『日本書紀』で北陸を平定したとされる大彦命(オオビコノミコト)。コシオウという神社は、中部以北の日本海側に多く見られ、「胡四王」、「腰王」、「故将」などと書く社の例もあり、その由来については以下の説がある。

祭神である大彦命が高志(越)国(現在の北陸地方)の王であったからという高志王説。秋田城を鎮護する四天王寺が神仏習合して鎮守となった四王堂の四王が、古四王に転訛したという四天王寺説などがある。

本社の由来は高志王説に基づく。

秋田県内では本社の他に、秋田市寺内、にかほ市象潟町、鹿角市八幡平に鎮座する。古代史研究家の新野直吉によると、『日本書紀』斉明天皇条にみえる秋田浦の神が北方遠征を行った阿倍比羅夫と接触し,北陸の神高志(越)王と結合したと推測している。また、祭神の一つである大彦命の北陸平定神話から、本社には勝負事の利益を求めて参詣する人もいる。

通常神社は南か東を向いているものが多いが、古四王神社は北を向いている場合が多。古四王神社崇敬については、武神との関わりから、古代の蝦夷支配との関係を指摘する声もある。

重文・古四王神社本殿。

建築年代:1570年(元亀元年)。構造形式:一間社入母屋造、妻入、向拝一間、唐破風造、こけら葺。

規模:桁行2.545m、梁行2.545m。

室町時代末期の作で、材質は杉・松・桧・栗などが適所に使用されている。和様・禅宗様(唐様)・大仏様(天竺様)などの各様式を採り入れた折衷様で、地方色も採り入れているのが特徴である。

古四王神社本殿は、氏子総代の冨樫家の古文書によると、1570年(元亀元年) に領主戸沢氏が、孔雀城主である冨樫氏(冨樫左衛門太郎勝家)を奉行として建立したと伝えられる。1930年(昭和5年)に行われた文部省(現文部科学省)による解体修理の際に、軒の組物の中に「古川村 大工 甚兵衛」という墨書が発見され、現在の岐阜県飛騨市出身の大工・甚兵衛の作であることが判明した。

古四王神社本殿は1908年(明治41年)に当時の古社寺保存法に基づく「特別保護建造物」(文化財保護法下の「重要文化財」に相当)に指定された。秋田県では初の文化財指定建造物である。

当時、美術建築の権威であった伊東忠太(東京帝国大学教授)は「奇中の奇、珍中の珍」と感嘆し、後に建築史家の天沼俊一(京都帝国大学教授)も「和(日本)・唐(中国)・天(インド)を超越した天下一品の建物」と絶賛した。

向拝の側面上にある藤唐草の彫刻や、木目を利用した一木造りの擬宝珠など、細部に様々な手法が施されている。

建物には細部まで優美な彫刻が施される反面、荒削りな太い材木の堅牢な土台など、繊細さと豪快さをあわせ持つ建築手法が最大の特徴といわれている。組物や、随所に施された流麗な彫刻の数々、深くせり出す「軒の出」と反りの美しさが評価されている。

 

見学後、秋田市の南東部にある弥生時代の遺跡「地蔵田遺跡」へ急いだ。

秋田県大仙市 秋田県埋蔵文化財センター 縄文土器 蝦夷の社会


秋田県大仙市 秋田県埋蔵文化財センター 縄文土器 蝦夷の社会

2023年09月20日 16時09分24秒 | 秋田県

秋田県埋蔵文化財センター。秋田県大仙市払田牛嶋。

2023年6月3日(土)。

旧石器時代。能代市縄手下遺跡。

後期旧石器時代の「台形石器」と呼ばれる石器です。能代市縄手下(なわてした)遺跡から出土しました。年代は今から約33,000年前と推定されます。

形が台形を呈するから「台形石器」と名付けられるという、きわめて単純な命名の仕方ですが、実に謎の多い石器です。とくに、どのように使われたのかが分かっていません。狩猟民であった旧石器人の作った石器ですから、槍の先端部ではないかと考えられていますが、最近の研究成果では弓の矢であった可能性も指摘されています。一般的に弓矢は縄文時代(新石器時代)以降の発明というのが定説ですから、もし旧石器時代の弓矢となると狩猟具の歴史を塗り替えることになります。

この石器は後期旧石器時代の前半期(今から約38,000~30,000年前)のみ製作されます。なぜ消えたのかも分かっていません。(あきた埋文ミニ・コラム№138 2020年4月17日)

払田柵跡出土。

上ノ山Ⅱ遺跡(大仙市)。

堀量遺跡(湯沢市関口字堀量、中期終末)。

雄物川右岸の段丘上にある遺跡で、雄物川は遺跡の西側200mほどを南から北に流れます。高速道建設に伴い平成13年に発掘調査されました。縄文時代中期終わり頃の集落跡で、竪穴建物跡23棟、土坑100基などが見つかりました。竪穴建物は深鉢形土器を埋め込んだ上で、馬蹄形に石を組んだ特殊な形態(「複式炉」と呼びます)の炉を備えています。建物跡群で囲まれたなかに広場があり、その広場中央に集まるよう各建物跡の炉の方向は放射状にそろっています。たくさんの土器や石器が出土しましたが、土器では縄文時代に共通の深鉢形のほか、注ぎ口の付いた浅鉢形が多いのが特徴です。

ヲフキ遺跡(にかほ市)。

旧Ill利郡象潟町大砂川字カクチタ32外にある。遺跡は日本海汀線から東約1kmほどの鳥海山北西山裾部の丘陵緩斜面上にあり,縄文時代前期から中I'期,後期,晩期,弥生時代,中世等にわたっての遺物が検出された複合遺跡で遺跡の面積は3万㎡を超す。

新保式(しんぼしき)土器。縄文時代中期前葉。北陸系土器。主に福井県北部から新潟県北部に分布。山形県や、秋田県でも出土する。

和田Ⅲ遺跡(山本郡三種町)。

小勝田館跡(おがただてあと)。北秋田市脇神字館野22ほか。

縄文土器は、縄文時代前期(約5,500年前)から中期、後期のものがあり、最も多いのは後期前半(約4,000~3,500年前)頃の土器。当遺跡は、国指定史跡である伊勢堂岱遺跡から300m、平田篤胤、黒沢道形、菅江真澄らが記録した「小勝田埋没家屋」の発見地点から500mと近距離にある。

真壁地遺跡(能代市)。

3つの突起を持つ石器で、縄文時代後期に作られた。アスファルトが付着している例がよくある。用途は不明。

東飛塚舘遺跡(山本郡三種町)。

ムサ岱遺跡(能代市)。

米代川流域やその周辺地域の古代遺跡の多くは、日本書紀を始めとした当時の史書に「蝦夷」、「俘囚」などと記されている人たちが残したものと考えられる。

現在、米代川流域の古代遺跡は約570か所見つかっている。そのうち、奈良時代以前の遺跡はほんの数例で、ほとんどは平安時代、それも9世紀後半以降の遺跡である。

集落は住居を中心として構成される人々の生活の拠点である。住居や作業小屋と考えられる半地下式の竪穴建物に加えて、掘立柱建物、墓、溝や板塀などの区画施設のほか、鍛冶炉、製鉄炉といった生産施設が伴う場合もある。

上の山Ⅱ遺跡・ムサ岱遺跡(能代市浅内)の両遺跡は米代川下流左岸、標高30m前後の浅内台地の南端に立地する。2つの遺跡の間には沢があるが、大きくは1つの集落ととらえることができる。

集落は9世紀の終わり頃に台地北西側の上の山Ⅱ遺跡で始まる。当初の竪穴建物には床面積が40㎡を超える大形のものが数棟と、床面積が20㎡前後かそれ以下の小形のものが20棟以上ある。10世紀前葉になると大形の建物はなくなり、小形の建物しか見つからない。一方、この頃には南側のムサ岱遺跡にも竪穴建物群が出現する。ここでは大形の竪穴建物と小形の竪穴建物が併存し、上の山Ⅱ遺跡側の集落成立時期の様子と似ている。大形の住居に住むリーダーと共に人々が2度にわたって移住してきたと考えることができる。

米代川流域集落の変遷。

日本書紀を始めとした古代の史書からは、7世紀後半(飛鳥時代)に蝦夷と呼ばれる人たちが狩猟を行いながら下流域に地域社会を形成していたこと、平安時代の9世紀後半には夷俘(蝦夷・俘囚)と呼ばれる人たちが流域に複数の集落を結びつけて「村」を形成し、各集落にはリーダーがいたことなどが推測される。これに対し、実際の発掘調査では、米代川流域で集落がまとまって発見されるのは、平安時代以降、それも9世紀後半以降のものである。

当初は下流域に集落が出現し、その後、しだいに中流域、上流域へと集落が出現・増加していく。これらの集落は基本的に台地上にあるが、近年の発見から、10世紀の初めには水田で稲作を行う集落が低地に出現していたことが明らかとなってきている。低地の集落は、西暦915年の十和田火山の噴火とそれに伴って発生した大洪水(火山泥流)によって埋没してしまいる。この大災害の復興のために、律令国家の主導のもとで下流域から中上流域へ人々の移住や鉄生産技術の導入などが盛んに行われたようである。

10世紀後半から11世紀には、集落を幅数mもあるような堀で区画する、いわゆる防御性集落が出現する。この時期には秋田城などの律令国家の影響力が弱まり、清原氏に代表されるような在地の有力者が各地で出現することと関わりがあるとみられる。

米代川流域では、平安時代以降集落が定着し、水稲耕作や製鉄の技術などが律令国家側から導入され、流域の開発が進む。竪穴建物の形式や土器の構成、少なくとも一部の墓や祭祀なども大きくは律令国家の文化の影響を受けたものである。

これ以前の流域の詳しい状況は不明だが、狩猟を主な生業として住居の痕跡が残り難い生活を営んでいた蝦夷の人たちが、これらの技術や文化を受け入れて流域の開発を進めたとすると、その社会背景や動機などを明らかとすることが重要な課題である。あるいは、流域で生活していた人たちでなく、より南の律令国家支配地域から、これらの技術や文化を携えた人たちが新たに移住し開発の中心となったのかもしれない。住居や墓、土器を始めとする出土品など、関係資料の詳しい検討を進め、開発の主体者や詳細な経過について考えていく必要がある。

岩倉館跡(いわくらだてあと)。由利本荘市福山字岩倉。

岩倉館跡は、由利本荘市に所在し、本荘地区東部の出羽丘陵西端、標高80m前後の急峻な尾根西端部に位置しています。日本海沿岸東北自動車道建設事業に伴い、平成15・16年に当センターが発掘調査しました。

 調査成果によると館跡は14世紀から16世紀まで存続し、自然地形を利用して構築した空堀や土塁、造成された10か所の郭などで構成されていました。

 出土品は多種多様で、中国産の磁器、国産の陶器、和鏡、銭貨、茶臼、鉄製品〈刀子(とうす)・馬具〉・木製品〈箸(はし)・篦(へら)〉などが出土しています。いずれもこの館跡での領主の生活をしのばせるものです。(あきた埋文ミニ・コラム№145)

 

埋文センターの職員に蝦夷の末期古墳の被葬者を尋ねると、話に付き合ってくれた。

国史跡・払田柵跡の見学を終え、近くの重文・古四王神社へ向かった。

秋田県大仙市 国史跡・払田柵跡②木簡 陰陽師 墨書土器