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秋田県男鹿市 続日本100名城 国史跡・脇本城跡

2023年10月19日 10時14分56秒 | 秋田県

続日本100名城。国史跡・脇本城跡。左下が内館地区。秋田県男鹿市脇本脇本七沢外。

2023年6月4日(日)。

寒風山回転展望台見学後、南の海岸沿いへ降りて、国史跡・脇本城跡の内館地区主郭部を30分ほど見学した。国道の北側線から道標に従い、狭い山道を上ると中腹に案内所と数台分の駐車スペースがある。案内所内部には展示写真とリーフレットが置いてある。

脇本城跡は秋田県中部、日本海に突き出た男鹿半島付け根南岸の丘陵上に展開する大規模な山城で、中世末の安東氏の居城である。安東氏は津軽地方の豪族であり、鎌倉時代に北条得宗家に仕えた代官で蝦夷管領を勤めた。その勢力は十三湊(青森県五所川原市)を本拠として、津軽地方から北海道南部に及び、秋田地方にはその一族である檜山安東氏(下国家)、湊安東氏(上国家)がそれぞれ北部の檜山城、中部の秋田湊城に拠点を置いた。

安東氏は蝦夷島を含む日本海北部に勢力を伸ばして活躍したが、脇本城は日本海交通の要衝の地に位置し、直下に港を備えており、安東氏の活動拠点としてふさわしい大規模な山城である。城跡に関係する寺院群や城下の集落を含めて広大な城域が環境・景観とともによく保存されている。

明確な築城時期は不明だが、元弘4年(1334年)頃に鎌倉北条方の武士が築いたとされる。康正2年(1456年)、安東政季(下国家、檜山城主)は小鹿嶋(現在の男鹿)に入り、この城を拠点としたと推測される。元亀元年(1570)頃に、檜山城主安東愛季(ちかすえ)は檜山、湊の両安東氏を統一した。天正5年(1577年)安東愛季は、嫡子の安東業季に家督を譲り、自らは既存の脇本城を居城として、大規模な改修を行った。1580年二男の安東実季が湊城主となる。1582年、業季が病死し、実季が家督を継いだ。1591年、豊臣秀吉から大名として認められた実季は安東姓から秋田姓を名乗った。

慶長7年(1602年)の佐竹氏による久保田城築城の間に、廃城になったと思われる。

脇本城跡は日本海に面した標高100m前後の丘陵上に展開する。その規模は生鼻崎から本明寺の上の馬乗り場を経て、脇本第一小学校上の兜ヶ崎までを含む、総面積約150ヘクタールに及び、東北最大級といわれている。

男鹿市教育委員会による調査の結果、内館地区、馬乗場(古館)地区、兜ヶ崎地区の3地区に主な遺構が分布することが確認された。

海に直角に突き出た生鼻崎の斜面は白い崖面を見せて象徴的であり、ここから連続する丘陵は南北約2km、東西約1.5kmの範囲をもつ。城跡からは南に日本海、遠くは鳥海山、東から北にかけては八郎潟から檜山地方、西には男鹿半島の山々が見渡せる。城跡直下の海岸には脇本港がある。

内館の中心部は連郭式の山城が二つ合わさった形にも見える。

内館地区は日本海に最も近く、分布する遺構は大規模であり、城郭の中枢をなす。谷を囲む丘陵尾根を大規模に階段状に造成して、一辺が数十m規模の方形を呈する郭が連続して配置される。郭には高い土塁が囲み今も窪みとして残る井戸も見られる。

馬乗場地区は丘陵中央に位置する。広く整地を行い、T字状に直線道路を敷設してこれに面して方形の屋敷が配置される。兜ヶ崎地区は東側の独立した丘陵に立地し、方形を呈する主郭の周囲に階段状に郭が造成されている。

丘陵東側の裾には前身の法蔵寺に愛季が葬られたと伝えられる萬境寺、愛李の兄弟が開いたとされる本明寺などが存在する。また、日本海に沿った平地には、直線道路に短冊形地割が連続する脇本の集落があり、城下集落として機能していた可能性がある。

出土遺物は中国産の白磁、青磁、染付、褐釉、国産では瀬戸美濃焼、能登珠洲焼、越前焼など15、16世紀のものが確認される。

古来から男鹿半島への道であった「天下道」を登って主郭に近づく。右が主郭で、左が「家臣屋敷」である。

屋敷地区下部から主郭部への近道を右に登る。

主郭部への中ほどから主郭部頂上方面。

主郭部上部の曲輪跡から東の会所・城主館・案内所・旧城下町・日本海方向。

主郭部上部の曲輪跡にある井戸跡。

会所上の空堀。

会所の曲輪跡。

東端の曲輪(城主館)跡の東端から会所曲輪跡方向。大土塁。

東端の曲輪跡東端から東の旧城下町方向。

東端の曲輪跡。大土塁下の井戸跡。

東端の曲輪跡から上部方向。

東端の曲輪跡から屋敷地区・日本海方向。

会所曲輪跡と上部曲輪の間の大空堀。

 

見学を終えたのち、男鹿半島北西端の入道埼灯台へ向かった。

秋田県男鹿市 寒風山回転展望台 入道埼灯台


秋田県男鹿市 寒風山回転展望台 入道埼灯台

2023年10月18日 10時16分14秒 | 秋田県

寒風山回転展望台。秋田県男鹿市脇本富永寒風山。

2023年6月4日(日)。

秋田市北郊金足の重文・旧奈良家住宅の見学を終え、本日の最終行程として男鹿半島の寒風山回転展望台と国史跡・脇本城跡を見学してしまおうと考えた。この時点で16時頃。寒風山回転展望台の開館時間は17時まで、最終入場は16時40分となっている。

丘陵地帯へ登って行くと高原道路のようなって丘の上に展望台が見えてきた。進入道路横に駐車場があるが、展望台まで登っていくと入口前のロータリー周辺に数台分の駐車スペースがあったので駐車したのが16時40分ごろであった。ほとんど観光客はいなかった。障害者無料。

エレベーターはないので、4階部分にある展望階まで自力で昇らねばならない。

約13分間で一回転する回転展望台は人気のスポットで、大潟村、鳥海山、入道崎と360度の大パノラマを満喫できる。男鹿を訪れた江戸時代の紀行家・菅江真澄は「三千世界まなこのうちにつきなん」と絶賛した。

寒風山展望台4階の回転展望室からの景色。階段正面「南側」秋田市から男鹿半島へ続く海岸線で奥には鳥海山。

「西側」男鹿半島で最も高い本山、ナマハゲ発祥の真山、入道崎。「北側」能代港から世界自然遺産の白神山地。

男鹿半島全体は、おおむね第三紀層からなる隆起陸塊で、13段ほどの海岸段丘が最低10mから最高300mにも 及んでおり、その上に本山(標高716m)、真山(571m)、寒風山(355m)の三つの死火山がある。

「東側」八郎潟を干拓した大潟村とぐるっと360度の大パノラマである。

 

寒風山回転展望台見学後、南の海岸沿いへ降りて、国史跡・脇本城跡を見学した。

 

入道埼灯台。秋田県男鹿市北浦入道崎昆布浦。

2023年6月4日(日)。

国史跡・脇本城跡の見学を終えたのが、17時50分頃であったので、一応予定していた入道埼灯台へ行くことにした。入道埼灯台は参観灯台(大人300円)なので上まで登ることができるが、基本的に9時から16時までだから、この時間では灯台の外観しか見ることができない。丘陵地や海岸沿いを走ると18時20分ごろに着いた。

 

入道埼灯台は、秋田県男鹿市の男鹿半島北西端に位置する入道崎の突端に立つ白と黒の二色の大型灯台である。

北緯40度線上の灯台として太平洋側の岩手県普代村にある陸中黒埼灯台と対をなす。

男鹿国定公園内にあり、日本海を臨む景勝地で、海に沈む夕日の美しいことでも知られ、日本の灯台50選にも選ばれている。

入道埼灯台の初点は、明治31年11月8日。当時山形、秋田、青森(日本海側)には、 酒田灯台と船川灯台の2基の木造灯台があるだけで、白色塗六角形鉄造、高さ24.4m、石油四重芯灯、 2万2干燭光、光達距離20海里の性能を持つ灯台は、世人の目を驚かせるに十分であった。 

 

このあと、大潟村の道の駅へ向かった。翌朝、白神山地の二ツ森へ登山する気持ちもあったので、一晩寝て検討するためであったが、結局登山はせずに、能代市の檜山城跡から始めることにした。

秋田市 重文・旧奈良家住宅 司馬遼太郎、ブルーノ・タウト、菅江真澄


秋田市 重文・旧奈良家住宅 司馬遼太郎、ブルーノ・タウト、菅江真澄

2023年10月17日 10時59分44秒 | 秋田県

重文・旧奈良家住宅(秋田県立博物館分館)。秋田市金足大字小泉字上前。

2023年6月4日(日)。

金足といえば、高校野球での県立金足農業高校の活躍で知られる。

秋田県立博物館を見学後、北西近くにある分館の重文・旧奈良家住宅へ向かった。近づくと交差点近くに専用の駐車場が用意されており、数分ほど歩くと入口に着いた。

事前に読んだ司馬遼太郎の「街道をゆく(秋田県散歩)」には、旧奈良家住宅が印象的に取り上げられていた。住宅近くの男潟という池とともに映し出した映像も心そそるものがあった。この住宅には、司馬遼太郎、ブルーノ・タウト、菅江真澄が歴史を刻んでいる。

司馬遼太郎は、1986年に江戸時代の豪農の住宅だった旧奈良家住宅を見学した。司馬は、菅江真澄(1754〜1829年)の足跡をたどって旧奈良家住宅を訪れた。菅江真澄は、東北各地、北海道を47年かけて旅行し、滞在した土地に関して文章と絵で膨大な記録を残し、地誌・民俗に関し貴重な貢献をすることになった。

菅江真澄は1811(文化8)年3月24日に金足を訪れ、各家が軒にヤマブキの花を飾っているのを見た。母屋だけでなく、蔵や小屋など軒のある建物の全てに飾り、とても美しくて風流だと記している。

菅江真澄は、「小泉という村の長(おさ)奈良某のもとに、茂木知利がきていると手紙で知らせてきた。近いところなので、すぐでかけた。雌沼(女潟)雄沼(男潟)というふたつの大池がある。この水辺をつたって、奈良氏の家を訪れた。(中略)近所にある奈良氏の親族の家は湖水に臨んだ屋上の眺めがたいそうよいというので、みなといっしょにでかけた。(中略)灯をともすころ、また本宅にもどってきて(中略)夜更けまで語りあい、この夜は多くの人たちとここに泊まって・・・」と、文化8年5月12日の日記に書いている。

奈良家当主の喜右衛門は真澄のために、奥の六畳間を書斎として提供し、菅江は奈良家に滞在中、秋田藩校明徳館の学者、那珂通博(1748-1817年)と出会った。その縁で、藩主の佐竹義和から地誌作成の意向を受け、以後、秋田に居続けることとなったのである。

桂離宮を激賞したドイツ人建築家ブルーノ・タウト(1880-1938年)も1935年に訪れている。

旧奈良家住宅は、秋田県中央海岸部の大型農家建築物として、よく初期の形態をとどめ、また建築年代が明らかな点でも貴重な民家であり、昭和40年に国の重要文化財に指定された。

旧奈良家住宅は、江戸時代中期の宝暦年間(1751~1763)に奈良家9代善政(喜兵衛)によって建てられた。このときの棟梁は土崎の間杉五郎八で、3年の歳月と銀70貫を費やしたといわれている。

建物の両端が前面に突き出す形は両中門造りとよばれ、秋田県中央海岸部の代表的な農家建築である。奈良家の場合は、正面左側が上手の中門(座敷中門)、右が下手の中門(厩中門)になっている。

茅葺き屋根や板壁、鉋仕上げ・チョウナ仕上げによる部材などから、いかにも古風な民家をうかがうことができる。それとともに、入母屋に構えた厩中門の屋根や、書院造り風の座敷などからは、県内屈指の豪農としての格式の高さを知ることができる。

 

マヤ中門からまっすぐに続く土間は、通路のほか、農作業や家事作業の場として使われた。

土間の入口近くでは馬が飼われていた。その理由は、寒さの厳しい地域では、馬が家の中で暖がとれるようにしたことと、家族の者がいつでも馬の様子を見ることができるようにしたためである。

土間の中央には奈良家の大黒柱である八角形の柱と、ニワイロリと呼ばれる大きな囲炉裏がある。ニワイロリは履き物を履いたまま腰掛けて利用できるよう、地面が掘り下げられている。

土間からあがったすぐ上の部屋は「オエ」と呼ばれ、家族の団欒の場であり、来客を迎える場でもあった。オエの囲炉裏は家族が使用するもので、座席が厳しく決められていた。主人の席は「ヨコザ」と呼ばれ、奈良家では土間や入口など、家全体を見渡せる場所がその席であった。

オエの隣には、納戸と台所とがあり、納戸は家族の寝室に、台所は主人夫婦が食事をする場として使われた。

家屋の南側には上座敷と中座敷と呼ばれる部屋があり、上座敷は書院造り風になっていて格式の高い造りになっている。座敷は客を迎えたり、結婚式や葬式などの儀式を行うために使われた。

座敷のまわりには、雨戸の内側に、縁と土間とを取り込んだ空間があり、外気が直接屋内へ入り込まないようになっている。こうした造りは土縁(どえん)といわれ、北陸地方や東北地方の日本海側の住居でよく見られる。

男潟のほとりに奈良家住宅は建てられた。

5分ほど滞在しただけで、奈良家住宅を去った。本日の最終行程として男鹿半島の寒風山回転展望台と国史跡・脇本城跡を見学してしまおうと考えたからだ。この時点で16時頃。寒風山回転展望台の開館時間は17時まで、最終入場は16時40分となっている。

秋田市 秋田県立博物館 重文・人面付き環状注口土器、大型磨製石斧


秋田市 秋田県立博物館 重文・人面付き環状注口土器、大型磨製石斧

2023年10月16日 14時18分19秒 | 秋田県

秋田県立博物館。秋田市金足鳰崎後山。

2023年6月4日(日)。

菅江真澄の墓、古四王神社を見学後、北へ進み秋田県立博物館に着いた。

秋田県立博物館は、考古・歴史・民俗・工芸・生物・地質の6部門と、「菅江真澄資料センター」・「秋田の先覚記念室」からなる総合博物館である。

人文展示室では、旧石器時代から、近現代までの秋田の歴史を紹介。ユニークな形の人面付き環状注口土器や、日本最大級の大型磨製石斧を初めとした貴重な実物資料が多数展示されている。

菅江真澄資料センター」は充実した展示室であるが、内部撮影禁止。広報誌「真澄」を配布。

企画展「秋田藩の絵図 描かれた城と城下町」。2023年4月29日~6月11日から。

江戸時代、幕府や全国の諸藩は様々な種類の絵図を作成しました。その一例が、大名の居城や城下町を描いた城絵図です。都市として発展を遂げた城下町の様子や、軍事拠点としての工夫が凝らされた城郭の構造などを読み解く上で、城絵図は大変貴重な資料となっています。

秋田藩では、居城の久保田に加えて横手・大館の支城の存続が許されたため、それぞれの城絵図が作成され、現在に至るまで大切に保管されてきました。また、江戸時代初期に城郭が破却された角館や湯沢においても、城下町に類似した町並みが残り、その様子が絵図に描かれています。

今回の企画展では、秋田藩の城絵図や関連資料を一堂に集め、秋田の城郭の特色や城下町の変遷などを皆様にご紹介いたします。

秋田久保田城絵図 。文政4 (1821)年。県公文書館蔵。

幕府の国目付(諸藩を監察するために派遣された役人)への提出用に作成された久保田城の城郭絵図。本丸や二ノ丸などの曲輪の大きさ、櫓・井戸などの数、堀の長さや幅など、実に詳細な情報が掲載されている。

久保田城図 。明治18( 1885)年。 渡辺昌一筆。当館蔵。

三ノ丸の南に面した広小路の方角から眺めた久保田城の様子を、明治時代に回想して描いた作品。三階建ての隅櫓など、江戸時代の実態とは異なる描写が見られる。一方で、多少の誇張はあるが、右手の大手門と中央の中土橋の高低差が明瞭に描かれている点は興味深い。

御城中略図(御作事所御備)。 安政6 (1859)年。秋田市 佐竹史料館蔵。

本丸内部の建物群の配置を示しており、特に本丸御殿の構成が詳しく描かれている。加えて、天水桶や用水桶の配置場所や井戸の所在なども細かく書き込まれている。この絵図は藩の火消方の調査により作成され、作事所(建築を担当した役所)に備え置かれた「防災マップ」であった。

阿桜城(あさくらじょう、横手城)全景。 大正時代。 柴田楳渓 筆。横手市蔵。

作者の柴田楳渓(ばいけい)は横手出身の日本画家。横手城は戊辰戦争で焼失しているため、大正時代には建物は残っておらず、かつての横手城を楳渓が回想して描いたものである。丘陵上に本丸と二ノ丸が並立し、曲輪の外縁に簡素な柵を張り巡らせていた、横手城の外観をしのぶことができる。

羽後国秋田郡秋田城絵図 。明治6 (1873)年頃。県指定文化財。 県公文書館蔵。

当時久保田城跡地を管轄していた陸軍省によって作成されたものと考えられる。赤い点線で囲まれた区域(三ノ丸を除く区域)が、陸軍省管轄地であった。三ノ丸には旧藩士の屋敷(士族屋敷)が残っているが、この後まもなく城外への移転を命じられることとなる。

常設展示 人文

重要文化財。大型磨製石斧。

縄文時代前期。秋田県東成瀬村田子内・上掵(うわはば)遺跡出土。緑色岩製。

数量 4本。法量。2435 長さ49.8cm 厚さ4.5cm 重量3.2kg、2433 長さ60.2cm 厚さ4.6cm 重量4.4kg、2436 長さ32.0cm 厚さ4.7cm 重量2.3kg、2434 長さ59.3cm 厚さ2.2cm 重量1.4kg。

これは「石」で作った「斧」(おの・木を切り倒す道具)です。斧の表面が滑らかに磨かれているので「磨製石斧(ませいせきふ)」といいます。秋田県東成瀬村にある上掵遺跡で出土しました。この斧は実際に使うには大きく重たいので、儀式など特別な使い方があったと考えられています。写真左から2番目のものは国内最大の磨製石斧です。

これらの石斧は北海道が産地として知られている緑色岩(アオトラ石)で作られていました。当時の人々は他地域との交流によって、有益な産物を入手していたのです。これらの磨製石斧はその一例です。

4本のうちの最長のものは、これまで日本で出土した磨製石斧の中では最大。とびぬけて大形であることと、他の遺物を伴わず、4本まとまった状態で出て来たことが特徴的で、他にあまり類例がない。

緑色凝灰岩製で、いずれも縄文時代前期に特徴的な技法である擦切技法によってきわめて丁寧に磨き上げられており、光沢がある。使用痕はない

石斧の大きさや出土状態からみて、実用されたものではなく、当時の祭祀にかかわって使用されたものと考えられる。

大形の石斧を特殊な用途に使用する例は、韓国新石器時代に墳墓の副葬品として埋納するケースがある。厚浦里遺跡では副葬品として大小さまざまな石斧130点余りが多くの人骨とともに埋葬されていた。この遺跡から出土した磨製石斧で最大のものは54cmもあったが、上掵遺跡出土のものはそれよりさらに大きいことになる。

ヒスイ製大珠。

縄文時代中期。秋田県八郎潟町沢田出土。

法量 長さ7.0cm 幅6.0cm 厚さ4.0cm

これは縄文時代にヒスイという宝石で作った大珠(たいしゅ・大きな玉という意味)です。秋田県八郎潟町の沢田遺跡で出土しました。穴にひもを通して首飾りのような装身具として使用したようです。ヒスイの産地は新潟県糸魚川市周辺で、そこから全国にもたらされました。

新潟県糸魚川市を流れる姫川などの流域にヒスイの原石があります。人々は川岸や海岸でヒスイを拾い、穴をあけるなど加工して装身具にしたようです。約6,000年前から加工が行われ、日本各地に伝えられました。

土偶。

縄文時代晩期中葉。秋田県男鹿市脇本浦田字坂の上出土。

法量 高さ25.0cm 幅16.0cm 厚さ11.5cm

およそ3,000年前、男鹿半島に住んでいた人たちが使った土人形です。粘土で作り、火で焼いて固くしたもので「土偶」といいます。縄文時代には表面に縄を押し付けたような模様をつけた土器や土偶が作られました。

土偶の目の部分に横線が入っています。これが北極圏で生活している人々が雪原で行動する時に、眩しさを抑えるために使った遮光器(動物の骨などに線状の穴を開けたゴーグル)に似ていることから遮光器土偶と呼ばれています。

体には縄文時代晩期中葉の土器の文様と共通する雲形文が描かれています。首には粘土の紐を貼り付け首飾りを表現しているようです。土偶は縄文人たちのファッションを想像する手がかりになるかも知れません。

人面付環状注口土器。重要文化財。

縄文時代後期。秋田県潟上市(旧南秋田郡昭和町)出土。館蔵。

高さ8.5cm 径15.3cm。

これはドーナツのように(環状・かんじょう)なっている珍しい形の土器です。液体を注ぐ口がついているため「環状注口土器(かんじょうちゅうこうどき)」といいます。土器の表面は黒光りしているため、遺跡の近くで産出する天然アスファルトを塗ったのではないかという指摘もあります。

この土器は秋田県潟上市大久保の狐森遺跡(きつねもりいせき)で1843年(天保14)年に出土しました。 環状である形に加えて人の顔がついているところに特徴があります。このような土器は珍しいため 普段使いではなく儀式などで特別な使い方がされていたのかも知れません。

発見以来多くの人々が関心を寄せ、石川理紀之助(1845年~1915年 秋田県出身の農業指導者)や蓑虫山人(1836年~1900年 岐阜県出身の絵師)らがスケッチを残しています。

大湯環状列石。

蕨手刀。

奈良時代。秋田県男鹿市脇本脇本飯ノ町出土。

長さ60cm。鉄(刀身)、銅(刀装具)。

この「刀」は持ち「手」の部分が「ワラビ」の芽のように丸くなっていることから、「蕨手刀」といいます。秋田県男鹿市で発掘されました。今から1,300年ほど前のものと考えられます。

蕨手刀」の多くが北海道・東北地方で発見されるので、その頃住んでいた人たちにちなんで「蝦夷(えみし)の刀」と呼ばれることもあります。

この蕨手刀は1933年(昭和8年)に道路工事の現場で発見されました。後に脇本村長となった天野源一(1895年~1959年 郷土史家)が大切に保管し、その後当館に収蔵されました。発見されたのは小高い丘で、付近の人は古墓と呼んでおり、歴史的な伝承があった場所のようです。

後三年合戦絵巻・模本。

1823年(文政6年)。作者不詳。紙本着色。

巻子 3巻。縦41.0cm(全巻)、横 1,304.0cm(上巻)、1,030.0cm(中巻)、1,284.0cm(下巻)

この絵巻には平安時代後期の1083年(永保(えいほ)3年)から1087年(寛治(かんじ)元年)までの間、横手盆地でくり広げられた後三年合戦の様子が描かれています。きっかけは横手盆地の豪族であった清原氏内部のもめ事でした。これに源義家がかかわることで争いが拡大しました。義家の助けを得て勝利を収めた清原清衡はその後平泉(岩手県平泉町)へ移り、「奥州藤原氏」となります。

この絵巻の原本は1347年(貞和3年(南北朝時代))に飛騨守惟久が描いた「後三年合戦絵詞」(重要文化財・東京国立博物館蔵)です。原本かその複写を模写したと考えられています。

見学後、北西近くにある分館の重文・旧奈良家住宅へ急いだ。

秋田市 菅江真澄の墓 古四王神社


秋田市 菅江真澄の墓 古四王神社

2023年10月15日 11時03分36秒 | 秋田県

菅江真澄の墓。入口。秋田市寺内大小路。

2023年6月4日(日)。

秋田城跡歴史資料館(秋田市寺内焼山)の駐車場を出て、菅江真澄の墓を目指して、台地西側から南に回り込むと寺内共同墓地という広大な墓地群に出た。墓参者用駐車場に停めて捜したが見つからず、道路を東へ歩くと史跡標を見つけた。階段を昇った丘上に菅江真澄の墓はあった。

菅江真澄(すがえますみ、1754~1829年)は、江戸時代後期の紀行家である。80年代から名前は知っていたが、詳しくは知らなかった。北海道の民族誌に欠かせない人物であるが、秋田と縁があるとは知らなかった。

菅江真澄は1811(文化8)年から秋田久保田城下に住み、秋田藩の地誌の編纂をした。秋田県を中心に旅をして、見たもの、感じた事、様々な行事を絵に書き留めた。その旅日記「菅江真澄遊覧記」は国の重要文化財になっている。

菅江は、取材途中梅沢(田沢湖町)で病に倒れ、角館に運ばれて没したとも、梅沢で亡くなったとも伝えられている。

文政12年(1829年)7月19日、76歳のことという。翁の遺骸は友人鎌田正家(秋田市の古四王神社の摂社田村堂の神官)の墓域に葬られ、天保3年(1832年)、3回忌をもって墓碑が建立された。

墓碑 高107cm、幅42cm、厚30cm.

墓碑名は翁の弟子鳥屋長秋が書き、長文の挽歌が刻まれている。

墓碑正面中央に「菅江真澄翁」と陰刻され、その周囲に真澄と親交が深かった国学者・鳥屋長秋による万葉調の挽歌が彫られている。右側面には没年月日と享年が「文政十二己丑七月七月十九日卒年七十六七」とある。

墓石は、当初は南向きであったが、隣接する墓所を通って参拝することになるため、1909年(明治42年)に西向きに変えられた。1962年(昭和37年)に秋田市史跡第一号に指定され、2014年(平成26年)3月25日には、秋田県指定史跡に指定された。

古四王神社(こしおうじんじゃ)。秋田市寺内児桜。

菅江真澄の墓の東の旧国道沿いにある。

大毘古命(大彦命)は、第8代孝元天皇の第1皇子で、第10代崇神天皇の時に四道将軍の一人として高志道(こしのみち、北陸道)に派遣されたとされる。阿倍臣(安倍氏)らの祖とされる。

社伝では、崇神天皇の時代、四道将軍大彦命が蝦夷を平定するため北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀り、次いで斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、自らの祖である大彦命を合祀し、越王神社(古四王神社)として創建したとされている

「齶田浦神」の名は日本書紀に見え、一説では蝦夷が信仰した地主神または海洋神と推定し、「齶田」を「秋田」の古名とする。当神社は延喜式神名帳には記載がないが、『日本三代実録卷第十』貞観7年2月27日(865年3月28日)条に「出羽国正六位上城輪神。高泉神並従五位下」との記述があり、このうち「高泉神」について菅江真澄は古四王神社のことであると書いている

高泉神である明確な証拠は他に存在しないが、新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北地方の各地に胡四王、古四王、巨四王、小四王、高志王、越王、腰王、小姓 等という標記の神社が多数分布することから、越の国を中心に北方に広がった阿倍氏の祖神と蝦夷の土着の神が同一視されたものとして、かなり古くから信仰された神であろうと推察する意見がある。なお、伝説の域を出ないが、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)の蝦夷討伐に際し、戦勝祈願をしたと伝えられている田村神社が境内に存在する。

同地は移転後の出羽柵(後に秋田城)の跡地に近く、城の守りとして創建されたと見られる四天王寺と習合し、中世を通じて古四王大権現として崇敬され、安東氏の寄進も受けている。江戸時代に入り、佐竹氏が秋田地方に入部した後も社領を寄進され、最終的には60石となった。

 

このあと、秋田県立博物館へ急いだ。

秋田市 続日本100名城 国史跡・秋田城跡③漆紙文書