読書メモ「古代氏族の研究⑨ 吉備氏 桃太郎伝承をもつ地方大族」宝賀寿男 2016年
吉備氏の祖系は、一族の神社・祭祀、吉備の地名や氏人の行動などからみて、大物主神の祭祀が強く、吉備氏(本宗の上道氏・下道氏)の実際の祖系は皇別ではなく、海神族系の磯城県主・三輪氏と同族である。
崇神期の王権拡張過程で、大和王権のもとに吉備地方ついで出雲に侵攻した吉備津彦兄弟に吉備氏と吉備の歴史が始まる。
吉備氏の本宗は、当初は兄の吉備津彦(五十狭芹彦命)の流れである備前地域の上道氏系統であったが、応神即位ごろに本宗格は稚武吉備津彦(彦狭島命)の流れである備中地域の下道氏系統に替わった。
雄略期になって下道氏系統、ついで上道氏系統が大和王権に対して叛意を見せたということで、王権から討伐の対象になり、とくに上道氏系統への打撃が大きかった。
吉備氏一族の勢力は5世紀後半以後、大きく衰えていき、欽明期には白猪屯倉が児島を含む吉備全域の各地に設置されて、中央王権の直轄支配を受け、その重要な屯倉となった。こうした事情のもとで、吉備氏一族から男女が朝廷に出仕したが、天武朝になって八色の姓で朝臣賜姓をうけたのは、下道・笠の両氏にすぎない。
古代の吉備地方中央部にいた吉備の主要豪族については、一系ではなかったが、吉備を氏族連合国家と考えるべきではない。吉備本系では「上道・賀陽」および「下道」の2系統があり、これらと並んで異系の三野臣・笠臣の流れがあり、天孫族・少彦名神後裔・鴨族系の三野前国造の同族とみられる。これら諸系には相互に頻繁な通婚があって、吉備氏統合に向けた動きともなったが、異系のほうではその祖先神崇拝も残った。
吉備侵攻時に吉備津彦兄弟に随従した「犬・猿・雉」(これをトーテムとした部族諸氏)の後裔の諸氏も永く存続して、吉備津宮など関係諸社の祭祀に関与した。桃太郎伝承を無視しては吉備・出雲の上古史解明はできない。「猿・雉」は上古の美濃西部(三野前国造)、「犬」は伊予と関連する。
吉備原住の温羅に関連するとみられるマサキ神社・御崎神社や当初の備前一宮と伝える安仁神社については不明な点が多い。
吉備一族は大化前代にはかなり弱体化していたが、奈良朝後期には右大臣吉備真備・参議泉親子などの上級官人を出した。平安中期ごろまでは下級武官として播磨の宇自可臣一族も見える。笠臣のほか吉備同族で笠朝臣姓を賜った例(印南野臣、宇自可臣、三尾臣)がある。吉備の地元では、平安朝以降は、吉備津彦神社などの神官として賀陽氏などが細々と続いたにすぎない。
吉備一族で国造として残ったものには、上道国造(備前上道郡)下道国造(備中下道郡)、加夜国造(備中賀夜郡)、三野国造(備前御野郡)、笠国造(備中小田郡)のほか、蘆原国造(駿河蘆原郡)、角鹿国造(越前敦賀郡)、伊弥頭国造(越中射水郡)である。
吉備地方の国造は本来、吉備国造一つであったが、数次の反乱などの影響を受けて分割された。蘆原・角鹿・伊弥頭の国造などの一族は、日本武尊の東国遠征に随従した吉備武彦の子弟が遠征路上に置かれたのが起源である。
吉備氏の起源と動向。
大和王権の拡大、4世紀前半の崇神期、吉備津彦兄弟が大和から吉備へ侵攻。
吉備には部族はあっても王国はなかった。造山・作山などの古墳は河内と共通の要素をもつ。勢力的に大和の十分の一程度。吉備津彦兄弟は、まず播磨西部まで押さえた。加古川下流左岸。日岡神社。祭神は兄弟の父か。稚武吉備津彦の娘は景行天皇の皇后で陵墓は日岡山古墳群の日岡陵古墳。
備中倉敷北部の楯築墳丘墓と周辺の弥生墳丘墓は在地勢力が数世代続いたことを示す。
足守川流域に温羅(うら)という渡来伝承をもつ鍛冶部族がおり、吉備津彦が吉備各地で戦い、桃太郎伝承として残る。
美作一宮の中山神社(津山市)。社家に美土路(みどろ)、中山、中島。裏山に猿神社。二宮の高野神社(津山市)。犬狼祭祀。鍛冶部族は伽耶・新羅あたりから渡来し先住者になったか。伽耶の安羅あたりから神武前代に渡来した鍛冶集団「天日矛集団」が吉備を通過したことはありうる。吉備の製鉄遺跡は全国的に最古である。総社市には姫社神社があり、天日矛の后神を祀る。南西に正木山(麻佐岐山)があり、山頂に霊石がある神体山である。式内社に麻佐岐神社がある。ハタの地名は日矛族がもたらしたものか。5世紀前半に渡来した山城の秦氏より渡来は古い。吉備の鉄生産は弥生時代後期まで遡るとみられている。岡山市北区・津寺遺跡。鉄滓が出土。
吉備氏祖系。三輪氏・彦坐命同族。海神族。宮山古墳。総社市三輪。式内社神(みわ)神社。笠臣・三野臣は鴨県主同族の美濃も三野前国造一族。吉備平定に随行。
吉備津彦命兄弟の母はハヘイロドで、その同母姉ハヘイロネが崇神天皇・百襲姫を生んだ。
上道氏系統。浦間茶臼山古墳(吉備津彦命)、湊茶臼山古墳(日子刺肩別命)、金蔵山古墳(吉備武彦)、神宮寺山古墳、玉井丸山古墳。下道氏系統。中山茶臼山古墳(稚武吉備津彦命)、佐古田堂山古墳、造山古墳、作山古墳、小造山古墳、宿寺山古墳。
下道氏から応神天皇の妃として吉備の兄媛を出して、応神を支え、妃の兄・御友別の子孫が吉備氏族のなかで優位に立った。造山・作山古墳時代。
足守は賀陽臣氏の本拠。岡山各地に竜王山。大和の竜王山。大和(おおやまと)神社は倭国造家が奉斎。竜蛇信仰。海神族の阿曇連・尾張連と同族。
大和王権の出雲侵攻と吉備氏
崇神期後期。吉備津彦と阿倍氏の武淳河別。西の出雲郡に振根、東の意宇郡に飯入根の勢力が対立。330年ごろ、振根による飯入根殺害事件を契機に大和王権が出雲郡を討伐の対象にして出雲全域を平定し、意宇郡勢力を出雲国造に任じた。意宇川が平野部にかかる大庭の地に国造が居住し。上流山間地に熊野大社を奉斎した。
吉備勢力の浸透。出雲西部の出雲・神門郡に吉備部姓(出雲国造一族)が多く分布する。吉備部君が管掌。崇神末期の纏向遺跡に鼓形器台など山陰系土器が急速に増加。
出雲制圧時の吉備氏配下部族。「犬」(山祇族)は久米部族。「雉」(天孫族)は天若日子(倭文連・鳥取連の祖)後裔の伯耆国造族。「猿」(天孫族、鉱山師・鍛冶氏族)は少彦名神後裔氏族・物部氏族・鏡作氏族。
久米部族は吉備と出雲の中間の美作(中央に久米郷)で繁衍した。伯耆西部・日野郡の楽々福(ささふく)社の伝承。祭神は孝霊天皇・吉備津彦命兄弟。製鉄遺跡。金持(かもち)の地名と中世豪族金持氏。伯耆守護。出雲の漆部(ぬりべ)氏族は久米氏族。石見国那賀郡の郡領家は久米氏。石見郷、石見国造の本拠。出雲の監視役。
出雲平定時に、在地の意宇郡勢力から鵜濡渟(うかづくぬ)命を出雲国造に登用。鵜という鳥トーテムは天孫族のもの。
崇神期に波久岐県造、成務期に伯岐国造、伯耆国造に。倭文連一族は三野前国造・山城鴨県主と同族で、三野前国造の始祖神骨(かむほね)命の近親から出た。長幡部も同族。
吉備津神社社家。犬、雉、猿後裔。犬飼建命。犬養木堂。美濃池田郡春日郷に犬甘部。美濃・伊勢から吉備へ。若犬養氏。伊勢の安濃県造一族の県犬養連。中田名命は鳥飼部。雉の子孫は鳥越氏、鳥飼氏。天孫族少彦名神後裔には賀陽郡の弓削連も。有力社家の藤井氏。猿の子孫。百田大兄命は久米氏族か。河本氏は吉備・弓削連の後裔か。
物部氏族。備前赤坂郡の式内社・石上布都之魂神社(赤磐市)。
前期古墳では、伯耆が出雲・美作をしのぐ。湯梨浜町東郷池周辺が伯耆国造の中心域。橋津(馬ノ山)古墳群。美作では勝田郡勝央町の植月寺山古墳、苫田郡(津山市)の胴塚古墳。前者は吉備弓削連、後者は漆部(法然を出した漆間氏)の墳墓。
美濃。三野後国造は岐阜・稲葉山を本拠とし、因幡の伊福部臣氏と同系。彦坐王の子の八瓜(やつり)命が三野前国造に。彦坐王の後裔に東濃賀茂郡の鴨県主一族。神大根命は神別鴨族の出。伯耆国造、三野前国造、倭文連は山城の鴨県主氏と同族。先祖は神武期の功臣八咫烏(ヤタガラス)、天羽槌雄命。山城の鴨本系から神骨(神大根)命の世代で美濃に分かれ、その近親に吉備・出雲で活動した留玉臣命が桃太郎の雉にあたる。吉備の三野臣、笠臣の祖。
吉備武彦の倭建東征随行と吉備氏一族の分布。
毛野地方。4世紀中頃までの東海・畿内勢力により開発された。崇神期、建沼河別命が会津(大塚山古墳)へ達す。4世紀後半には東北地方南部(仙台・遠見塚古墳)におよぶ。
吉備臣らの祖の御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ・吉備武彦)が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされたと古事記に見える。倭建命の母・針間伊那毘(いなび)大郎女は稚吉備津彦の娘。吉備武彦は吉備津彦の孫。父は日子刺肩別命。吉備武彦の妹・吉備建比売(穴戸武媛)は倭建命妃。兄弟近親も従軍して、駿河蘆原国造の祖(意加部彦命)、越前角鹿国造の祖(建功狭日命)となる。
倭建東征に三角縁神獣鏡を持参し配布。先の景行征西にも。
尾張氏。三角縁神獣鏡出土の墳墓。建稲種命は東之宮古墳。邇波県君祖・大荒田の娘・玉姫の婿。奥津神社古墳。愛西市。宗像三女神を祀る。尾張国造一族の女性か。兜山古墳。東海市。宮簀媛。
吉備に尾張氏の痕跡が残る。備前邑久郡尾張郷。
角鹿国造同族。砺波臣志留志。779年伊賀守。越中石黒系図所載。飛騨、三尾臣氏。
越中の遊部君氏。後裔、赤祖父氏。鉱山。
吉備武彦の系譜。吉備津彦の孫。父は利波臣、角鹿海直の祖・日子刺肩別命。上道系統。
備前車塚古墳。三角縁神獣鏡。近隣に大神神社。吉備氏は磯城県主・大神氏の一族。金蔵山古墳が吉備武彦の墳墓。倭建命の津堂城山古墳と類似。
御友別と吉備氏一族の分封伝承。
大和王権は4世紀後半、播磨・摂津辺りにあった大王家姻戚のホムチワケ(応神天皇)により簒奪された。即位390年頃。上道氏から本宗の地位についた下道氏も支持基盤となる。下道系統から応神妃の兄媛が出る。兄が御友別。
吉備海部直の黒日売。仁徳天皇の妃。海神族・倭国造の一族。牛窓古墳群。
岡山市造山古墳は御友別、作山古墳は子の稲速別の墳墓。小盛山古墳は応神妃の兄媛の墳墓。両宮山古墳は上道田狭。
笠臣氏。先祖の鴨別が応神朝に波区芸県に任じられた。現在の笠岡市。三野臣氏。
備前の三野臣氏。本拠は岡山市北区三野本町。御野、天孫族の故地・高天原(筑後の山本郡・御井郡)を意味する。都月坂1号墳。三野臣氏初祖・楽々森彦命の墳墓か。大森氏、大守氏。吉備津彦神社神主・大藤内家。
播磨に残る吉備氏同族。飾磨郡の下道系・宇自可(牛鹿)臣氏。印南郡の上道系・印南野臣氏。
東国の毛野氏。三輪氏族に類似。毛野の祖が和泉のチヌ(珍努)に関係。磯城県主支流。彦坐王の同族出身。祖先に下道氏の祖彦狭島命。稚武吉備津彦命の別名。上野国東部の上毛野氏本宗と西部の物部君の2系統並立。従兄弟・再従兄弟関係であった毛野氏荒田別・鹿我別のうち鹿我別は物部君の祖・夏花命の子孫。その後裔は浮田国造(南相馬市)や東北の吉弥侯部氏。栃木市に大神神社。
太田天神山古墳は5世紀前半の造山古墳と同時期で相似形。
吉備氏一族の反乱。雄略天皇の時代。下道臣前津屋、上道臣田狭・弟君の反乱を鎮圧。星川皇子の乱を鎮圧。5世紀後半の両宮山古墳が大古墳の最後。
韓地での活動。白村江の戦では、一族の蘆原君氏が水軍として参加。
一族の祭祀。吉備津彦神社、吉備津神社。摂社・岩山宮の祭神は三輪氏の祖・櫛御方命。
祖系。磯城県主家からの中継ぎの大王・孝安天皇(懿徳の皇后の弟)の後裔。血沼別(ちぬのわけ)は和泉の茅渟に起こって、吉備氏・毛野氏を分出した。彦坐王の後裔は但馬国造、丹波国造、日下部君、日下部連。ほかに、但馬の竹野君。これら一族から四道将軍や皇族将軍を出した。
敏達・推古あたりから朝廷へ出仕。舒明の采女の蚊屋采女は賀陽皇子を生む。笠一族。大化期。笠臣垂(したる)。笠朝臣御室。大伴旅人の副将。平安中期まで中下級官人。万葉歌人。笠麻呂。
笠金村。笠郎女。
吉備真備。下道氏。母の楊貴氏(やぎし)墓誌の出土。奈良県五條市。天平11(739)年。
同時代に上道臣斐太都(ひたつ)、のち正道。宮内大輔。平安時代初期の貴族・文人に賀陽朝臣豊年。
中世の吉備氏系の武家。妹尾氏と陶山氏。備中小田郡の小田氏は笠臣と同族。陶山氏も同族。真鍋氏も同じ。臨済宗開祖栄西禅師は賀陽氏。雪舟は小田氏。
吉備真備の子・吉備泉(743~814年)。正四位上・参議。桓武朝に入ると、天応2年(782年)に伊予守として地方官に転じる。しかし、下僚と協調できずにしばしば告訴されたため、延暦3年(784年)朝廷から詔使が派遣され訊問を受ける。泉は詔使に対して不敬な対応をした上で、承伏しなかったことから、官司が法に則って処罰を求める騒ぎとなった。遂には桓武天皇の詔により、功臣(吉備真備)の子であることをもって罪は許されたものの、伊予守の官職は解任される。その後さらに譴責を受けて、延暦4年(785年)には佐渡権守に左遷された。延暦14年(795年)には父祖の出身地である備中国に移されるが、桓武朝末の延暦24年(805年)に赦免されて帰京するまで、桓武朝では不遇を託った。延暦25年(806年)桓武天皇崩御の際に山作司を務める。
幼い頃より学才があると評判が高かったが、生来の偏屈で短気な性格で、非協調的なことが多かった。短所は老いても変わらず、六国史の卒伝でも述べられるから、それが後々まで子孫にたたったのかもしれない。