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山形県の離島 飛島②日本の渚百選・荒崎海岸 賽の河原 鶴岡市 大寶館

2025年01月01日 09時36分13秒 | 山形県

日本の渚百選・荒崎海岸。

2024年9月12日(木)。

荒崎海岸は日本の渚百選にも選ばれている飛島西海岸の美しい海岸で、ここからは御積島や烏帽子群島が見え、島の西側で一番のビュースポットである。ここから見る夕日は絶景という。

飛島は日本海が広がってきたころに海底火山から噴き出した噴出物が海底に積み重なり、それが隆起してできた島であるが、荒崎海岸はその噴火の時の軽石や流紋岩の破片を含んだ火山礫凝灰岩でできている。

荒崎周辺ではトビシマカンゾウやスカシユリをはじめとした海浜植物、海岸岩壁植物、草原植物が混生するという珍しい植生が広がっており、「飛島荒崎頸部の植物群落」として酒田市の天然記念物に指定されている。

柏木山展望台から見下ろす舘岩(左側)と小松浜海水浴場。

巨大な岩(舘岩)。

立入禁止になっていた。飛島は海底火山の活動でできた島で、島の南端にそびえる舘岩は火山岩の一種である流紋岩でできた一枚岩で、硬い岩石のため浸食されにくく巨大な姿を今に残している。崖上からはかつて北前船の停泊でにぎわった勝浦港が一望できる。

本州から約30km離れた孤島・飛島は、吹きざらしで風の影響を受けやすいという弱点がありながらも西廻り航路の出発点となり繁栄した酒田港を支えた島である。

巨大な岩(舘岩)と島の本体に囲まれ入り江になっている勝浦港は、波や風を遮ることができるため酒田港の風待ち潮待ち港としての役目を担った。酒田港に年間3,000隻も立ち寄った北前船は、多い年にはそのうちの500隻を超える船が飛島に停泊したという。

賽の河原への遊歩道。

小松浜海水浴場から海岸遊歩道の火山岩(流紋岩)が創りだす荒々しい景観のなかをいやになるほど遠く歩くと、こぶしほどの大きさの丸石が大量に打ち上がった「賽の河原」が現れる。

賽の河原。

海辺の霊場である「賽の河原」には、こぶしほどの大きさの丸石が大量に打ち上がっている。島民は滅多に近寄らない場所で、周辺の海で死んだ人は、ここに打ち上げられ、古くから死者の魂が集まる処と信じられてきた。御積島、明神社、そして亡き人の魂が集まるという賽の河原という島の西方は、聖地、霊地として意識されてきた。

この賽の河原に積まれた石は、崩してもいつの間にか元に戻るといわれ、その理由についても、波の作用か、人の作用かと、様々な考察がされているが、真相は謎とされている。

幾つかの石の山は、人が積んだものではなく、自然の風、海の流れで積み立てられたものである。工事中の人が、ここで変な音を聞き、恐くて逃げ出したという話がある。また、石を持ち帰った人には、不幸な事が起こったり、船のエンジントラブルが起こったりするという言い伝えがある。子供が親の為に積み、鬼が来てそれを壊すという霊場の石には、手を触れないという言い伝えがある。

賽の河原にある玉石には特徴がある。崩れ落ちた材木岩の六角の玄武岩が、海の中で他の石や波に揉まれ角が取れ、きれいな玉石になっている。

 

遠ざかる飛島。

賽の河原の往復には30分ほど要した。必死に海岸遊歩道を戻り、自転車で港へ戻ると、13時30分を過ぎていた。自転車を返して、船に乗ると13時45分に出航した。

15時に酒田港に着いたが、時間が限られているので、水曜日が定休日の鶴ケ岡城跡(鶴岡公園)にある大寶館へ向かった。

大寶館(たいほうかん)。鶴岡市馬場町。鶴岡公園内。鶴岡市指定有形文化財。

大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に建てられた赤いドームと白壁が特徴の洋風建築物。大正初期の洋風建築としてバロック様式を模して造られたもので、ルネッサンス風のドームをのせた赤い尖塔屋根と白亜の殿堂は全国でも稀なデザインである。

開館当初は物産陳列場、戦後は市立図書館として利用され、現在は、明治の文豪・高山樗牛、「文学の神様」と称された横光利一、日本のダ・ヴィンチといわれた松森胤保など、鶴岡が生んだ先人たちの偉業を讃える資料を展示している。

鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏であると伝えられる。大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏を名乗った。

戦国時代に入ると武藤氏は庄内地方の有力な勢力となったが、天文元年(1532年)に大宝寺城は焼亡し、当時の武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城に移し、て大宝寺城はその支城の一つとなった。その後、武藤氏は庄内地方の統一を果たし、武藤義氏の時代に最高潮に達した。しかし、義氏は天正11年(1583年)、最上義光と結んだ家臣の謀反により自害に追い込まれた。その後、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり機に乗じた上杉景勝によって、天正16年(1588年)併呑された。

江戸時代になると、庄内地方には信濃国松代城より譜代大名の酒井忠勝が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代忠義の時であり54年の歳月が費やされた。本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。

 

道の駅「みかわ」に戻り、翌朝は黒川能の村から見学を始めた。