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日本のコロナ対策 倉持仁院長に聞く 皆保険制度崩壊 早期治療ないがしろ

2024年06月09日 16時17分12秒 | 社会

金子勝 @masaru_kaneko Oct 13, 2023

【コロナの教訓とは】倉持仁医師は民間医療機関で先頭で新型コロナウィルスに立ち向かってきた。早期発見早期治療の原則をないがしろにし、結果として国民皆保険制度を崩壊させた医療の進歩についていけない厚労省技官たちの犯罪性をきちんと総括すべきだ。

 

日本のコロナ対策 倉持仁院長に聞く(上) 皆保険制度「崩壊させた」 早期治療 ないがしろに

2023年10月12日 東京新聞

「コロナでは医療を受けられずに亡くなった人が大勢いた」と語る倉持院長

 

 「一番問題なのは国民皆保険制度を崩壊させたこと」。地方のクリニックで、3万7千人の新型コロナウイルス感染症の患者を診療してきたインターパーク倉持呼吸器内科(宇都宮市)院長の倉持仁医師(51)政府の新型コロナウイルス対策をそう批判する。皆保険崩壊とは、肝心なときに診てもらえない患者が続出したことを指す。その真意を聞いた。 (杉谷剛)

 

 -日本の新型コロナウイルス感染症対策の問題点を、どう考えますか。

 コロナという新しい感染症に、昔からの体制や制度のみで対応しようとしたことです。重症患者だけを診ればいいという、本来の臨床医療から外れた対策であり、コロナ病床を作らずに、場当たり的な一般病床の転換作戦を変えなかった。

 第1波や第2波の反省をせず、第3波以降、医療にかかれない患者があふれ、自宅で亡くなった方が多数いた。それにもかかわらず、緩んだとか、国民にお願いとか、「あなたたち、何を言っているんだ」という思いだった。医学的に意見を述べるべき専門家も政治的事情に巻き込まれ、妥協の産物を専門家の意見として出してしまった

 

 -新型コロナの治療の基本をどう考えますか。

 当たり前ですが、早期検査・早期治療が大切です。当初、「PCR検査は不正確で不十分」などと、今となっては明らかなデマが、専門家といわれる人々の常識や医学的根拠になっていました

 コロナは早期に治療をすれば治る病気です。感染症治療は、ウイルスが体内で増殖し、いろいろな臓器障害が出る前に治療して進行を防ぐのが原則。それなのに、そんな「医療の当たり前」をないがしろにして、自宅療養やホテル療養が当たり前になった。熱と酸素飽和度だけを測って放置されているのは、医療上はあり得ないです。

 パンデミック(世界的大流行)への備えを怠り、対応できないからといって、軽症者には医療は不要などという愚かな政策を場当たり的に行うのでは、健康被害は防げない。

 特にデルタ株による第5波では、医療機関にたどりつけずに亡くなる人が続出した。重症化リスクは年齢や基礎疾患だけで、形式的に判断できるものではない最初の診断をしっかり行い、そこで重症化する患者を見逃さないことが重要なんです。

バスを利用した新型コロナ接触者外来とインフル検査所=宇都宮市のインターパーク倉持呼吸器内科で

 

 -著書などで、コロナで国民皆保険は崩壊したと指摘しています。

 第6波のオミクロン株の流行後は感染者が爆増し、受診ができない状況が当たり前になりました。政府や自治体では苦肉の策として、症状のある人が自分で抗原検査をして、症状が軽ければ自宅で治るのを待ち、元気になったら活動を再開するという「発熱外来自己検査体制」になった。とんでもないことです。

 軽症なら自宅にいればいいというのは、他の病気も含めて発見に遅れをきたし、治療の遅れは重症化の原因となる。コロナが深刻なのは後遺症がひどいことです。オミクロン株以降、医療から見捨てられた感染者が増えていることが、後遺症を悪化させているのではと心配です。

 もともと国民皆保険制度は、保険料をきちんと払えばだれでも希望時に、速やかに受診できる制度のはずです。しかし、コロナは初期段階から、医療へのフリーアクセスや皆保険制度からはずれていました。医療者側も「軽症は対応していない」とか「重症は対応できない」となっていました。

 

 -コロナ2年目以降もコロナ患者を診ない医療機関が多く、医療逼迫(ひっぱく)や崩壊の要因にもなりました。

 厚労省はコロナ1年目の2020年3月、感染が疑われる患者の診療拒否は医師法上は認められないとしながら、「診療が困難である場合は、少なくとも帰国者・接触者外来や診療可能な医療機関への受診を勧奨すること」という玉虫色の通知を出し、コロナ疑いの患者は診なくてもよいという流れができました。

 たとえ診療しても、かかりつけ患者に限定している医療機関も多かった。当初はマスクや防護服が不足していたが、その後は足りているし、換気や一般外来との区分けなどの感染対策も分かってきたのだから、本来はインフルエンザのように、一般外来で患者を診るようにすべきです。 (続きは10月19日に掲載)

日本のコロナ対策 倉持仁院長に聞く(下) 検査・診療 受ける権利を保障せよ

2023年10月19日 東京新聞

 《前回は、政府の新型コロナウイルス感染症対策や、コロナ患者の診療拒否の問題点を指摘した》

「検査や診療を受ける権利を保障せよ」と訴える倉持院長

 -日本医師会のコロナ対応に問題点はなかったでしょうか。

 医師会にはコロナ診療を広く担うべき民間のクリニックをまとめる責任がありますが、当初からコロナ患者の受け入れに消極的でした。医師会は本来、患者サイドからの意見を積極的に発するべきでしたが、結果として風見鶏的な動きに終始してしまった感じです。存在意義が問われる面もあるかと思います。

 

 -なぜ、診療拒否が多かったのでしょうか。

 医師側は「自分はコロナが分からないから、責任を持って患者を診られない」という感覚が強いのでしょう。コストをかけて院内をつくり直すこともできず、今かかっている患者だけを診ればよいと思っていたのでしょう。新型コロナが一般的な感染症になってきた現状もあり、今後は変わらざるを得ないと思います。

 国も感染対策が間に合わないなら診療しなくてもいいという診療拒否を認めたり、患者が多いから受診するな、軽症なら病院にくるな、という医療制限をすべきではありません。罰則も含めて原則診療を義務化することが必要でしょう。永続的な診療報酬や、公的な場所を使った臨時の医療供給体制簡単に安く検査ができることなども必要です。

 

 -政府の「診療の手引き」の問題点は。

 わかりやすい手引きがあれば医療現場では助かる面もあるのですが、基本的に海外の論文を基に「これがエビデンス(根拠)だ」として作ったものだと思います。国なり関係する組織なりが力を集結して、データを集めて検証し、対策を取るという仕組みになっていない。オミクロン株になっても診療の手引きの重症度分類は変わりませんでした。それまでの基準で、軽症と判断されたら、体調が急変して亡くなる方を見逃してしまう。手引きは現場感覚とずれていました。

 

 -第5波の最中、旧ツイッター(X)で「ここに至ってなお保身のみ執着するならば厚労省 医師会 存在意義ない」などと激しい批判をした真意を聞かせてください。

 医師も厚生労働省も国民の健康と生命を守るために、ずっとやってきたという自負があると思います。それが本来の目的を忘れ、できないことの言い訳に終始しているように感じたので、強い発言をしました。良い方向へ変えていく努力と工夫が必要ですが、正しい現状認識ができていない状態を継続することは、とてもリスクがあります。

 まず国が守るべき医療の最低ラインを法律で定めるべきです。感染したら検査を受けて医師の診療を受ける権利を保障する。そこから逆算して医療提供体制をつくればよいのです。 (聞き手・杉谷剛)

 

くらもち・じん> 1972年宇都宮市生まれ。東京医科歯科大医学部卒。同大大学院、同大医学部付属病院を経て2015年にインターパーク倉持呼吸器内科院長。東京医科歯科大客員教授。コロナ問題の専門家としてテレビ出演多数。22年から佐藤佳・東京大医科学研究所教授らと共同で、科学雑誌「Nature」「Cell」「The Lancet」などにコロナの研究論文を複数発表。著書に「倉持仁のコロナ戦記」「日常を取り戻すために必要なこと コロナ戦記2」など。


平取町立二風谷アイヌ文化博物館⑤食生活 住生活

2024年06月09日 13時25分53秒 | 北海道

平取町立二風谷アイヌ文化博物館。平取町二風谷。

2022年6月9日(木)。

食生活

 アイヌの人々の調理法は、「煮る」「焼く」「炊く」であり、季節によっては「生」で食べます。日常の食事には、オハウ・ルル(汁もの)、サヨ(粥)、ラタシケプ(煮物)、チマチェプ(焼魚)などがあります。オハウ・ルルは、山菜や鳥獣肉、魚肉を一緒に煮て、魚脂・獣油、海水などで味付けをしたもので、汁気が多い食べ物です。具の材料によっていろいろな種類・名称があります。

サヨは副食的な料理で、穀物を水気を多くして煮たものです。

ラタシケプは山菜や蔬菜、豆類を汁気がなくなるまで煮込み、魚脂・獣油、海水などで味付けをしたもので、鳥獣肉、魚肉は入れません。

これらの料理に加えて、時々にサケやマス、イトウなどの焼き魚が添えられました。

生で食べるものには、新鮮なサケやシカ肉がありました。

特別な食事として、イオマンテなどの大きな儀礼のときには普段の料理に加えて、特別な料理がつくられました。雑穀類を焚いたチサッスイェプ、雑穀類を焚いて、焦がしたスウケプ、シト(団子)などで、これらの料理は、人間だけでなく祖先や神々もともに食べ、ともに楽しむものでした。

イタ(盆)。重要有形民俗文化財。

二風谷イタは、沙流川流域に古くから伝わる木製の浅く平たい形状の盆である。モレウノカ(うずまき・形を模したもの)などのアイヌ文様、ラムラムノカ(ウロコ・形を模したもの)とよばれるウロコ彫りが特徴である。

住生活。

 アイヌの人々は、河川の流域で食料や飲み水が得やすく、災害に遭いにくい場所を選んで家を建て、集落を形成しました。家はアイヌ語で「チセ」、集落は「コタン」といいます。コタンは数軒から十数軒のチセで成り立っていました。

チセの大きさは様々ですが、小さいもので約33㎡(10坪程度)、大きなもので100㎡(30坪程度)でした。チセは掘立式で、釘は使用せず、柱などはブドウヅルやコクワのツル、シナ縄などで縛りつけました。屋根や壁を葺く材料には地域差が見られ、その土地で手に入りやすい素材が使われました。

カヤやヨシは北海道のほぼ全域で使われましたが、道央部の上川地方ではササ、道東部では木の皮も使われました。材質や住み方にもよりますが、20~30年は住むことができたといわれています。一軒のチセには一家族が住み、結婚すると独立して別の家を建てます。

チセの内部は長方形の一間で、入り口寄りに炉があり、この炉を中心にして主人夫婦、子供たち、客の座る場所に厳格に決められていました。炉で燃えている火は、アペフチカムイ─火の姥神と呼ばれ、人間の日々の生活を見守る重要な神といわれ、儀礼を行うときや狩猟に出かけるときなど、まず最初にこの神に祈りました。また、屋内には、チセコロカムイ─家を守護する神が祀られ、アペフチカムイとともに、家族の日々の生活を見守っています。

 

炉の先の壁に1ヵ所、その右側の壁1ないし2ヵ所に窓が設けられていますが、前者の窓はロルンプヤラ(ロルンプライ、カムイプヤラともいいます)とよばれ、神々が出入りする窓として、普段使われることはありません。

床は枯れ草を敷き詰め、その上にカヤやヨシで編んだ敷物を敷き、さらにガマやスゲで編んだござを敷きました。

チセの周りには、プ(食料庫)、アシンル(便所)、クマ(物干し)などの生活に必要な建物や、クマを飼育するへぺレセッ(檻)、イオマンテなどの儀礼を行うヌササン(祭壇)が建てられていました。ヌササンにはイナウ(木幣)が立てられ、特に神聖な場所とされました。

 

 チセを建てる前と後にそれぞれ儀礼が行われます。チセを建てる場所が決まると、チセの中で炉になる位置に火を焚き、神々に対して建築の安全と加護を祈ります。その後約7日間のうちにチセの建て主が不吉な夢を見なければ、その場所が正式に決定されます。不吉な夢を見た場合は場所を変更したり、土地を清めたりしました。

 

 集落の人々総出でチセの新築にとりかかり、完成すると「チセノミ」という新築祝いを行います。チセノミは新しいチセでの生活の安全を祈る儀式で、集落の人々や親族を招いて行われます。

 チセノミでは、まず長老が炉に初めて火を入れます。そして「チセコロカムイ」という、家を守護する神をつくり、安置します。参会者全員が神々への祈りを終えると、家主が天井に向けてよもぎでつくった矢を放ちます。家の中の悪霊を払い清めるためです。チセノミが終わると、チセはようやく人が住める場所になります。

 

コタンは、その初源は血縁集団ですが、徐々に地縁集団ともなり、江戸時代の場所請負制下では強制的に集合させられた集団─強制コタンの発生を見ますが、明治以降、本州からの大量の開拓民の移入により、それまでのコタンのすべてが和人との混住となり、コタンは崩壊しました。

平取町立二風谷アイヌ文化博物館④装う タマサイ(首飾り)ニンカリ(耳飾り)


福島県 いわき市考古資料館②弥生時代以降 

2024年06月09日 11時24分33秒 | 福島県

いわき市考古資料館。福島県いわき市常磐藤原町手這。

2024年5月24日(金)。

【弥生時代の遺跡】

○遺跡

前期(BC200 年):作B(=三和町下市萱)

中期(紀元前後):龍門寺(=平下荒川)、番匠地 (=内郷御厩町)、戸田条里(=四倉町戸田)

後期(AD200 年~):伊勢林前(=勿来町四沢)、輪山(=岩間町)、八幡台(=植田町)、朝日長者・夕日長者(=泉町下川)

○遺物

土器:弥生式土器(壺・甕・深鉢・台付き鉢等)

漁具:鹿角製結合式釣針、尖頭具、回転銛、有孔尖頭具工具その他:石斧、石錐、石鏃、調理用具、装身具、土製紡錐車(糸に撚りをかける布織道具)

作B遺跡 いわき市三和町下永井 作

阿武隈高地の小丘陵間に形成された一支谷内に位置し、標高350mを測る。昭和58年(1983)二地点の発掘調査が行われた。第I地点からは、縄文時代後期後半を主体とする竪穴住居跡八棟・埋設土器八基などが検出されている。また扁平な花崗岩を不整に敷並べ、綱取II式の深鉢を二個埋設した、いわき市内初見の敷石遺構も検出されている。第II地点からは縄文時代直後の土器を主体に、敲石・凹石・磨製石斧などとともにトチの実などの自然遺物を廃棄した甕の埋設施設が検出されており、遺物の出土状況から祭祀場の性格ももっていたと推測される。

古墳時代(紀元 300 年~紀元 600 年)

弥生時代に出現したクニが連携を深め、統一国家を形成する時期。死者を葬るため土を高く盛り上げた古墳や斜面を穿った横穴が造られた。墳丘の周りには埴輪が配置され、墓の内部には土師器、須恵器、武具、馬具、装身具等の副葬品が収められた。

菊多の柵が設置されたのは、835 年(承和 2 年)太政官符に「剗(せき)を置いて以来今に四百余歳なり」との表記があることから、5 世紀中葉であり、当時の大和政権の陸奥蝦夷に対する防衛拠点であったと推定される。

【古墳・横穴】

○古墳

前期(AD300 年~):愛谷(=好間町愛谷)

中期(AD400 年~):玉山 1 号(=四倉町玉山)、久保ノ作(=平下高久)

後期(AD500 年~):神谷作 106 号、101 号(=平神谷作)、竹ノ下(=平南白土)、横山古墳群(=平上平窪)

○横穴

鮫川流域 :関田(=勿来町)、館山 (=植田町)、館崎(=植田町)

藤原川流域:大畑(=泉町下川)、中畑 (=常磐下船尾町)、ホウノ木作(=常磐関船町)、九反田(=鹿島町御代)

滑津川流域:中田(=平沼ノ内)、八幡 (=下高久)、白穴横穴群(=平神谷作)

陶棺。後田古墳群出土。

古墳時代(6世紀後半) 全長 170㎝ 高さ 62.5㎝、幅 45㎝

粘土で形成され、乾燥後素焼きで仕上げた埋葬用の棺である。古墳時代の後期から奈良時代初期にかけて、岡山県を中心とした地域で盛んに用いられた。関東以北では数例発見されているが、東北地方ではこの陶棺が唯一の出土例で、形式的にも類例がなくきわめて貴重なものである。

白黄・赤褐色で焼成は土師質(はじしつ)で硬く、全面に櫛目の整形痕がある。胴部に幅3㎝の箍(たが)が巡り、埴輪(はにわ)と同質の製法に共通する特徴がある。底面は船底状となり、2㎝程の小孔があけられている。円筒状の脚が3行7列に21本配列し、平面隅丸長方形の棺身をささえている。

陶棺が出土した後田源道平には、径10数mの円墳が現存し、西に開口する横穴式石室の奥壁が残存している。覆曲した矩側(くがわ)を西に向け、石室内に安置された発見当時の写真が残されている。

副葬品には直刀・鐔・鉄鏃(てつぞく)・土製丸玉・土製小玉・土製環・土製小環があり、一部は東京国立博物館に保管されている。

この陶棺を出土した後田古墳群は、鮫川左岸の低位段丘上に形成され、附近には前方後円墳の可能性のある埴輪をもつ古墳や、裸馬と渦文の陰刻のあった館山横穴墓群は、段丘西面崖に形成されていた。

飛鳥・奈良時代

645 年の大化の改新を契機として律令国家が成立する。全国に国・郡・里(郷)がしかれ、国・郡には役所を置き中央の貴族が国司として派遣されて中央集権体制がとられた。いわき地方の北半分には磐城郡、南半分には菊多郡がおかれ、平下大越の根岸遺跡と勿来町の郡遺跡がそれぞれの役所跡と考えられる。

653(白雉 4 年)  多珂国(たがのくに:日立市から双葉郡大熊町)の北半分を分けて石城評(こおり)の設置-『常陸風土記』

718(養老 2 年)  陸奥国5郡、常陸国1郡を併せ、石城国を設置。-『続日本紀』

【8 世紀頃の遺跡】

磐城郡=根岸官衙遺跡群(根岸遺跡、夏井廃寺跡)

菊多郡=郡遺跡(勿来町窪田の台地東端)

人面墨書土器 荒田目(あっため)条里遺跡 いわき市平字菅波地内出土。

この土器は 8 世紀後期につくられ、奈良時代の川の跡から見つかった。髭のある顔が墨で描かれている。続いて「磐城(いわき)磐城郷(いわきごう)丈部手子麿(はせつかべのてこまろ)召代(めししろ)」という文字が記されていて、厄除けのまじないに使われた器だと考えられている。

平安時代

奈良時代の律令制度が崩壊、開発領主(地方豪族)の台頭とともに郡郷制は再編成される。10世紀始め、菊多、磐城の二郡であったいわき地方は、12 世紀までには菊田荘・好嶋荘・岩崎郡・岩城郡・楢葉郡となる。

磐城郡は、古代において国造系磐城臣氏が開発支配してきたところであり、特に9世紀前半の郡司磐城臣雄公の治世が特筆される。「続日本後紀」(840 年)には、雄公は橋をかけて交通の便を図り、堰を設けて勧農策を推進し、さらに郡衙の官舎や正倉など 190 を改修したとの記事がある。

磐城郡は、11 世紀の終わり頃常陸から侵入した大掾系平氏(岩城氏)と政権を交替し、好嶋荘・岩崎郡・岩城郡・楢葉郡に分割された。国魂文書の「岩城国魂系図」によれば、初代忠衡の肩書には高久三郎とあり、岩城氏の最初の土着地は平高久と推定されている。

国宝白水阿弥陀堂は、奥州藤原氏藤原清衡の娘・徳姫が、夫岩城則道の供養のために1160年に建立したといわれる平安時代後期の代表的な阿弥陀堂である。

鎌倉・南北朝時代

中世時代、いわきなどの浜通り地方は、福島県中通りの山(せん、仙)道に対比され、東海道または海道と呼称された。鎌倉時代のいわき地域は鮫川流域に菊田荘、藤原川流域に岩崎郡、夏井川流域に岩城郡と好嶋荘があった。

文治 5 年(1189)の奥州合戦の結果、鎌倉幕府は、平泉の藤原氏に代わり奥羽両国の郡・郷・荘を掌握し、源頼朝に呼応し手柄を立てた岩城太郎清隆は、好嶋荘の地頭に任ぜられた。

源氏は石清水八幡宮(京都府)を厚く信仰し、東海道の要衝赤目崎(平旧城跡から八幡小路にかけて東西に伸びる台地一帯)に八幡宮を造営、幕府の1拠点とした。当時、赤目崎一帯が飯野郷といわれていたことから、この神社は後に「飯野八幡宮」と呼ばれようになった。好嶋荘は名目上は石清水八幡宮領とされたが、実質は鎌倉将軍家を領主とする荘園であり、将軍家は、好嶋荘における地頭岩城氏支配権を認めつつ、荘園領主としての年貢を獲得した。

後醍醐天皇は、鎌倉幕府における北条氏一門の専制支配に反感を持つ有力御家人や悪党と呼ばれた新興武士などを動員して鎌倉幕府を倒したが(1333)、その後は、およそ 60 年間に渡る南北朝の動乱が続いた。海道諸郡(現在のいわき地方)では、在地領主が近隣の村々への侵攻を繰返しながら地縁的結合を深め、上遠野、小河、岩城、白土、好間、岩崎、窪田等の諸氏が成長していった。

室町・戦国時代-岩城氏の勢力拡大-

海道諸郡の国人領主(南北朝時代に勢力を伸ばした在地領主)達は、足利持氏が将軍義教に反抗を企てて討伐された永享の乱(1438)、持氏の遺子を奉じて結城氏朝が挙兵した結城合戦(1440)など、室町幕府や関東・奥羽を支配する鎌倉府等の対立抗争の中で地域の支配権を伸ばした。とりわけ岩城下総守隆忠は、海道諸郡の国人領主・土豪・地侍層をもまきこんだ、岩城左馬助一族の内紛(1442)に介入、収拾を図るなかで岩城郡の惣領としての地位を確立し、やがて戦国大名として成長していく地盤を築いていった。

1392(明徳 3 年) 南北朝の合一

1438(永享 10 年) 永享の乱。岩城氏など海道五郡の国人領主は室町幕府に味方。

1440(永享 12 年) 結城合戦。岩城氏は足利義教(将軍)に味方し、軍忠を立てる。

1442(嘉吉 2 年) 岩城左馬助一族の内紛。岩城隆忠は、三坂・飯野・大館・小河・中山・白土・好嶋・上遠野・瀧・窪田の諸氏を味方につけ、左馬助を自害させ内紛を収める

1483(文明 15 年) 海道四郡(菊田・岩崎・岩城・楢葉)の領主となった岩城下総守親隆は、本拠を従来の白土城(平北白土・南白土)から飯野平城(好間町下好間・内郷御台境町・平の高台に係る一帯)に移す。

1534(天文 3 年) 木戸川合戦。相馬氏が岩城成隆の弟重隆の娘・久保姫を伊達稙宗の子息晴宗の嫁に仲介したにもかかわらず、成隆が約束に反し白川氏との縁談を進めたことから、岩城成隆と相馬顕胤が木戸川・金剛川付近(相馬郡楢葉町)でぶつかり合った合戦。

両者の講和の結果、生まれた男子を岩城家の嗣子とする条件で伊達氏と岩城氏の婚姻が整った。

1545(天文 14 年) 天文の乱への参戦。天文の乱は、伊達稙宗と晴宗の父子対立に端を発する諸大名の抗争。晴宗の男子誕生後、岩城家の嗣子として差し出す旨の約束が果たされていなかった等の事情から、岩城重隆は当初中立の態度を示した。その後、晴宗の長子鶴千代の岩城家入嗣が決まったため、天文 14 年、重隆は伊達家側として参戦し、乱の終結に大きな役割を果たす。天文 17 年に将軍足利義晴の勧告で和睦が成立し、稙宗が引退、晴宗が伊達家当主となった。

久保姫と岩城親隆

 戦国時代、いわき地方を支配した岩城重隆の娘、久保姫は伊達晴宗と結婚したが、これに当たっては、久保姫と晴宗との間に生まれた長男は岩城重隆の養子となり、岩城家の家督を継ぐとの約束が交わされていた。

 約束どおり久保姫の子、鶴千代丸(後に親隆と名乗る)が、いわきにやって来ると、祖父、重隆は大喜び、飯野八幡宮に自分の名と鶴千代の名を刻んだ大梵鐘を奉納した。

 鶴千代丸は武人として素晴らしい才能を発揮し、岩城家に繁栄をもたらすが、ある時、戦場で敵の残党に襲われ、九死に一生を得て、いわきに戻った。しかし、その後、どうも様子がおかしい。「不例」(病気)の身となってしまったのだ。

 鶴千代丸(親隆)以後、岩城家は常隆、貞隆と続くが、小田原参陣、関が原の戦いと続く歴史の大きな奔流のなかで、その勢いを徐々に失っていった。

1573(天正 1 年) 室町幕府の滅亡

1590(天正 18 年) 奥羽仕置。豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした後、会津に入り、奥羽の検地と刀

狩を断行、奥羽地方に対する支配権を確立した。この渦中にあって、岩城常隆が 24歳で病死、岩城氏と伊達政宗の接近を警戒した秀吉側近らの画策により、岩城家は佐竹義重3男の能化(のうげ)丸を嗣子に迎え、所領安堵を得た。

江戸時代

慶長2年(1597)能化丸は元服して貞隆と名を改め、後見人に代わって親政を開始するが、慶長 5 年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康に協力しなかったことを理由に所領12万石を召し上げられ、岩城家数百年にわたる当地支配は幕を閉じた。以後、徳川家による幕藩体制の下、いわき地方の支配体制は変転の時代に入る。

【幕末のいわき地方】

幕領 ·········· (代官=森 孫三郎) 米野村(小名浜)など 47 ケ村

平藩 ·········· (安藤対馬守信勇=3 万石) 北目村など 58 ケ村

湯長谷藩 ······ (内藤政養=1 万 5 千石) 上湯長谷村など 32 ケ村

泉藩 ·········· (本多能登守忠紀=2 万石) 泉村など 37 ケ村

笠間藩 ········ (牧野越中守貞直=8 万石分領) 鎌田村など 42 ケ村

棚倉藩 ········ (阿部美作守正静=10 万石分領) 窪田村など 28 ケ村

多古藩 ········ (久松豊後守勝行=1 万 2 千石分領) 小久村

寺社領 ········ (飯野八幡宮、龍門寺、長源寺、専称寺など 45 寺社領 1,159 石)小谷作村、久保村

磐城平城跡。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの結果、それまで飯野平城を居城としていた岩城氏が追放され、1602年(慶長7年)に徳川幕府譜代の鳥居忠政が飯野平に転入した。鳥居忠政は、都市名を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて磐城平藩を樹立し、飯野八幡宮を現在地である八幡小路に移設し、その飯野八幡宮の跡地に磐城平城の建設を命じた。城は1603年(慶長8年)に着工し、12年の歳月を費やして1615年(慶長20年/元和元年)に梯郭式平城を完成させた。

1868年(明治元年)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に与した当時の磐城平藩家老・上坂助太夫は、磐城平攻防戦で明治政府軍に敗れ、自ら城を焼き払って逃走した。

城内には御三階櫓・隅図櫓・塗師櫓・八ッ棟櫓・追手門櫓・中門櫓・六間門櫓などがあった。天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。

城跡の大半は、個人所有の住宅地として払い下げられており、石碑の立つ城跡への立ち入りはできない。

民有地から市有地化(公有地化)を進め城跡の整備、櫓の復元を計画している。

 

考古資料館を見学後、国宝白水阿弥陀堂へ向かった。

福島県 いわき市考古資料館①縄文土器 釣針 縄文犬