いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

福島市 戦後最大の冤罪事件 松川事件現場 殉職碑 松川の塔

2024年06月27日 15時23分17秒 | 福島県

松川事件現場・殉職碑・地蔵尊像。福島市松川町美郷美郷4丁目7−12。

2024年5月27日(月)。

福島市民家園の見学を終え、1949年に起きた松川事件の現場へ向かった。

松川事件とは、1949年(昭和24年)8月17日未明に国鉄東北本線で起きた脱線転覆により3人の乗務員が死亡した事故で、何者かが線路を破壊したことによる事件である。

同年7月に起きた下山事件、三鷹事件と並んで戦後「国鉄三大ミステリー事件」のひとつといわれており、容疑者が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となった日本の戦後最大の冤罪事件に挙げられる。真犯人の特定・逮捕には至らず、未解決事件となった。

1949年(昭和24年)8月17日3時9分(当時、日本においては夏時間が導入されており、現在の2時9分に相当する)頃、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)の東北本線松川駅 - 金谷川駅間を走行していた青森発上野行き上り412旅客列車(C51形蒸気機関車133号機牽引)が突如として脱線した。現場はカーブの入口(当時は単線、複線化後の現在では下り線)であり、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両、郵便車1両、客車2両も脱線した。この事故により、機関車の乗務員3人(49歳の機関士、27歳の機関助士、23歳の機関助士)が死亡した。

現場検証の結果、転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトおよびナットが緩められ、継ぎ目板が外されていたことが確認された。さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25m、重さ925kgのレール1本が外され、ほとんどまっすぐなまま13mも移動されていた。周辺を捜索した結果、近くの水田の中からバールとスパナがそれぞれ1本ずつ発見された。

下山事件および三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には当時の増田甲子七内閣官房長官が「(三鷹事件などと)思想底流において同じものである」との談話を発表した。捜査当局は、当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合と国鉄労働組合(国労)組合員の共同謀議による犯行とみて捜査を行った。

事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けた。少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供し、その自供に基づいて共犯者が検挙された。9月22日、国労員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国労員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴された

1950年12月6日の福島地方裁判所による一審判決では、被告人20人全員が有罪(うち死刑5人)となった。1953年12月22日の仙台高等裁判所による二審判決では、17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となった。

第一審・控訴審判決に対し、思想信条・階層を超えて多くの支援者が集結し、1300名を超える「守る会」や大弁護団が結成された。広津和郎、宇野浩二、吉川英治、川端康成、志賀直哉、武者小路実篤、松本清張、佐多稲子、壺井栄ら作家・知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まった。

1959年8月10日、最高裁判所は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した。検察側の隠していた「諏訪メモ」(労使交渉の出席者の発言に関するメモ。被告人達の無実を示すアリバイを証明していたが捜査機関により隠されていた。)の存在と検察が犯行に使われたと主張した「自在スパナ」(松川駅の線路班倉庫に1丁あった)ではボルトを緩められないことが判明したことによる。

1961年8月8日、仙台高裁での差し戻し審で被告人全員に無罪判決

1963年9月12日、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告人全員の無罪が確定した。

1964年8月17日午前0時、汽車転覆等および同致死罪の公訴時効を迎えた。

被告人たちは一連の刑事裁判について国家賠償請求を行い、1970年8月に東京高等裁判所は判決で国に賠償責任を認める判断を下した。

捜査当局は当初から労働組合員の犯行のシナリオを描き、周辺にいた少年を別件逮捕したうえで、脅迫や拷問まがいの取り調べで自白を強要し、それに基づいて20名の被告人を起訴した。また、真犯人に関する目撃証言なども多数あったが、警察署の担当者はむしろ真犯人を安全に逃亡させる協力をしたのではないかと思える動きをしていた。

真犯人が逮捕されないままに事件は時効となり、真相は謎のままになったため、真犯人や事件の真相に関するさまざまな説が論じられている。

有力な説は、「日本共産党支持層であった東芝社員らの労働運動を弾圧するために、GHQや警察が仕組んだ謀略である」というものである。事故直前に現場を通過する予定であった貨物列車の運休、警察があまりにも早く現場に到着した点や、事件後に現場付近で不審人物を目撃したという男性の不審死などの不可解な部分があると言われており、これらを元に謀略の可能性が指摘されている。

初代宮内庁長官田島道治が昭和天皇との対話を書き残した『拝謁記』では、「一寸法務大臣ニきいたが松川事件ハアメリカがやつて共産党の所為ニしたとかいふ事だが」「これら過失ハあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党ニ謝罪ニいつてる」との昭和天皇の発言が記述されており、謀略説を裏付ける初めての史料と目されている。

事件当時の東北本線は単線であったが、1964年(昭和39年)9月、従来線からやや離れた場所に線路を追加する形で複線化が行われている複線化後の従来線は下り線として利用されているため、事件に巻き込まれたのは上り列車であるが、現場は現在の下り線に存在することになる。

現在の下り線。福島駅方面から上野駅方向。奥に羽山陸橋。中央付近に現場。左に「松川の塔」。

列車が脱線転覆した現場は松川駅から金谷川駅に向かっておよそ1.7km、松川駅を出発してすぐにカーブし北西へ進んでいた下り線が福島市道市ノ沢・明内線の「羽山陸橋」を潜って曲がり、上り線と離れていく左カーブ(事件に巻き込まれた上り列車から見れば右カーブ)の地点である。東北本線下り線の「石合踏切」付近から線路沿いに伸びる農道を北西方向に進めば訪れることができる

右が、福島駅・仙台駅方向。

松川事件現場・殉職碑・地蔵尊像。福島市松川町美郷美郷4丁目7−12。

脱線転覆現場近くの線路脇には国鉄関係者によって「殉難碑」と観音像が建立されているほか、事件から50年後の1999年(平成11年)12月に東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)が建立した石碑「謀略 忘れまじ松川事件」がある。

「松川の塔」。

一方、脱線転覆現場から東へ200mほど離れた上り線線路脇には1964年(昭和39年)9月に建てられた記念塔「松川の塔」がそびえ、塔の周辺はあずまややベンチ、テーブルを備えた「松川記念塔公園」が整備されている。「松川の塔」はその高さとオベリスク型の形状からよく目立つが、実際の脱線転覆現場ではなく、塔の傍を走る上り線は事件当時には存在していなかったことに注意が必要である。

 

13時過ぎに、現場近くの橋(羽山陸橋)に到着。現場を確認しようとした。しかし、橋に駐車はできない。美郷の住宅街に駐車できる場所はなかったので、反対方向に戻って、橋から少し離れた介護関係施設「ライフ・タイム・福島」反対側の路肩に駐車した。すると、富山ナンバーの車が来て、「松川事件の現場はどこですか」と尋ねてきたので、今から橋に行って探すところだと答えた。焦っているので、東西南北も分からない。

歩いて橋から見下ろすと、右側に「松川の塔」(松川記念塔公園)、左側に「殉難碑」が見えた。

先ほどの、富山ナンバーが来たので、「あそこだ」と教えると、美郷方面へ進んで行った。事前にネットで読んで覚えていたのは、「東北本線下り線の石合踏切付近から線路沿いに伸びる農道を進む」ということだった。ナビで見ると、介護関係施設「ライフ・タイム・福島」横からアクセスすることになる。

近くに行くと、職員数人がいたので尋ねると、二つ目の踏切手前の一方通行の未舗装道路を進めばいい、ということだった。

その通りに進んで、狭い未舗装道路を進んで陸橋の下を通り抜けると、右側に「松川の塔」、少し進むと線路脇左側に「殉難碑」があったが、車を停めるスペースはないと感じ、そのまま進むと、「松川の塔」へ向かう畦道程度の細い農道が土手まで続き、土手下に富山ナンバーの車が駐車していた。60代ぐらいの男性3人が帰ってきて、車を出せるように移動するよう依頼されたので、土手下突き当りから右の「松川の塔」方向へ車を移動、富山ナンバーは突き当りから左に移動した。「松川の塔」が事件現場でないことは覚えていたので、そのことを話すと知らないという。東に本当の現場がある、と教えたら、土手の上を探しに行った。東西南北や福島駅・東京駅がどの方向か混乱していたので、間違っていたのだが。

「松川の塔」へ行き、見学しかけていると、もう1台土手方向に車が走ってきた。今日はやけに混雑する日だなと苦笑していると、富山ナンバーが細い農道から帰っていった。

車が邪魔になっていないかと、土手下へ戻ると、70代ほどの男性2人が大きなメガホンを携えて左側のスペースに置いた福島ナンバーの車から下りてきた。聞くと地元の人だった。事件現場は、土手の上かと尋ねると、反対側線路脇の「殉難碑」があった場所だと、断言した。「松川の塔」横に駐車スペースが以前あったというが、そこまでの路肩は信用できない状態だった。「松川の塔」へ戻ると封筒を呉れて陸橋と反対の方向が福島駅・仙台駅方向だと、資料をもとに教えてくれた。事件に巻き込まれた上り列車から見れば右カーブになった地点である。ややこしいのは、当時は単線だったが、現在は、下り線線路になっているからだ。

二人は、NPO松川運動記念会の人たちで、これから弁護士30人ぐらいが、ここに来るので説明をするために来たという。バスは一方通行の道路を通れないので、弁護士たちは歩いてくるという。NPOのHPによると、弁護士たちは、二本松市岳温泉で「5月研究討論集会」を開催(5月25~27日)した自由法曹団の一行であった。

 

最近、NHKで「下山事件」特番が再放送されたので見ていたら、松川事件も取り上げられ、実行犯たちが米軍横田基地から仙台空港まで行ったのち車で現場へ行き犯行を行ったという証言映像や昭和天皇が「アメリカがやって共産党のせいにした」と語ったことが紹介されていた。

 

このあと、二本松市の「智恵子記念館」へ向かった。

福島市民家園 会津の曲がり家・旧馬場家住宅(馬屋中門造り)


帯広市 帯広百年記念館⑥アイヌ文化 仕掛け弓 板綴り舟 「リウカ」サケ皮靴

2024年06月27日 09時27分02秒 | 北海道

帯広百年記念館。帯広市字緑ヶ丘。

2022年6月11日(土)。

 

アイヌ文化のコーナー。

川漁・海漁。

十勝川とその支流にたくさんの村があった十勝では、川漁がさかんに行われていて、サケ・マス・イトウ・アメマス・ウグイなど多くの魚を獲っていた。

漁の方法はいろいろあり、たとえば、十勝川のような大きな川では、丸木舟を使った網漁を、小川では川をせき止めて篭を仕掛ける漁をしていた。また、マレクという棒の先に鉤がついた道具を使った漁もしていた。

海岸近くの村では海漁が盛んで、タラやカレイなどいろいろな魚やアザラシ、オットセイなどの動物も獲っていた。北海道の南の地域では、銛でメカジキをとる漁も行っていた。

山猟。

山猟は秋から春にかけて行われた。この季節であれば草が枯れ、木の葉が落ちて周りがよく見えるためである。また、獲った動物の肉が腐りにくいためでもある。

山猟ではエゾシカ、ヒグマ、エゾユキウサギ、キタキツネ、エゾタヌキ、クロテンなどの動物や、エゾライチョウ、マガモ、カケスなどの鳥を獲っていた。

このような猟には、おもに弓矢を用いた。この矢にはトリカブトから採った毒が塗られていて、その威力は大きなヒグマも簡単に倒すほどであった。

このほか、シカやキツネを獲る仕掛け弓ウサギを獲る輪の形をした罠などいろいろな罠も使われていた。

植物の利用。

アイヌの人々は食用や薬用になる植物を数百種類も知っていて、春から秋にかけて、たくさんの植物をとっていた。

十勝では春から夏にかけて、ニリンソウ・ギョウジャニンニク・フキ・ヨモギ・ヒメザゼンソウなどの葉や茎、カタクリ・エゾエンゴサク・ウバユリなどの根などを集めていた。

夏から秋にかけては、ヤマブドウ・クルミ・キハダ・ヒシ・ヤブマメなどの実やコウライテンナンショウの根、タモギタケやマイタケなどのキノコをとっていた。

こうしてとった植物はすぐに調理するか、冬のための保存食や薬として日光で干してから家の中や食べ物専用の倉庫に保存していた。

イクパスイ(へら状のもの)とトゥキ(杯)。神へ祈るときに使う道具。

チャシ。後代には砦となるが、始まりは祭祀や談合の場であった。

 

帯広百年記念館内のアイヌ民族文化情報センター「リウカ」では、アイヌ民族の伝統的な文化や歴史について、本や映像・音声資料などを使って学ぶことができる。

サケ皮の靴「チェプケㇼ」。

乾かして広げたサケ皮。

 

9時50分から1時間ほど見学し、帯広畜産大学の学生食堂へ向かった。

帯広市 帯広百年記念館⑤縄文時代・続縄文時代・擦文時代 大正3遺跡 八千代A遺跡 暁式土器