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福島県二本松市 智恵子の生家・二本松市智恵子記念館

2024年06月28日 13時42分26秒 | 福島県

智恵子の生家・二本松市智恵子記念館。福島県二本松市油井漆原町。

2024年5月27日(月)。

福島市松川駅北の松川事件現場を見学後、二本松市の「智恵子の生家・二本松市智恵子記念館」へ向かった。専用の駐車場に駐車して、古い街道の名残りを残す表通りに戻り、生家の外観を眺めて受付を通った。

智恵子の生家。明治の初期に建てられた生家には、造り酒屋として新酒の醸成を伝える杉玉が下がる。屋号は「米屋」、酒銘「花霞」。

高村智恵子や高村光太郎は、現代ではどのくらい知られているのだろう。1970年代までは、よくメディアでも語られてきたのだが、と思っていたら、10数人ほどの20代男女の団体が入館してきた。

詩人で彫刻家である高村光太郎の代表的な詩の一節は、「僕の前に道はない僕の後ろに道は出來る」(道程)「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。」(あどけない話)だ。

高村智恵子は洋画家で、高村光太郎の妻である。

智恵子の生家。庭と内部。

生家の裏庭には、当時の酒蔵をイメージした「智恵子記念館」があり、病に侵された智恵子の美しい紙絵や当時の女性としては珍しい油絵の作品、2人の手紙等が展示してある。写真撮影は禁止である。

高村智恵子(1886年・明治19年~1938年・昭和13年)は、明治時代末期から大正時代にかけての、当時としては珍しい女流洋画家であった。また、「世の慣習を無視しても、たった一度しかない自分の生涯を自分で選びとろう」と決意し行動した〝新しい女性〟でもあった。そして、智恵子の名を広く世に知らしめたのは、精神病を患う中で奇跡的によみがえった画家魂が生み出した紙絵と、没後に夫高村光太郎が妻智恵子との純愛を綴った不朽の名詩集『智恵子抄』である。

智恵子は1886(明治19)年、安達郡油井村字漆原(現二本松市油井)の酒造業斎藤今朝吉、センの長女として出生。後に今朝吉が長沼次助の養子として入籍し、智恵子も長沼姓となる。清酒「花霞」を醸造する長沼家は酒蔵が何棟も並び、使用人の男衆、女中などが大勢働き活況を呈していた。

少女時代の智恵子は何不自由のない生活を送り、油井小学校高等科4年を卒業する。当時の学籍簿(智恵子記念館に展示)にはほとんど満点の成績で常に首席。高等科を卒業後、町立福島高等女学校3年に編入する。高等女学校卒業時には、卒業生総代として答辞を読んだ。

智恵子は、日本女子大学に入学し、寮生活に入る。寮生活をともにした秋広あさは「智恵子さんの印象」で「落着いて口数少なく物事に熱中する一面、決して真面目一方ではなく、ユーモアに富み不意にみんなをあっと言わせる智恵子であった」と記している。

智恵子は家政学部に進んだ。先輩の柳八重が、「智恵子さんは家政学部に籍をおきながら、自由選択科目である洋画の教室にばかり出ていました」(「智恵子さんのこと」)と回想するように、洋画に興味を持つようになる。

日本女子大学を1907(明治40)年に卒業後も帰郷せず、両親を説得して当時としては珍しい女流洋画家として太平洋画会研究所に通い、油絵を学び、人々の注目をひき始める。

1911(明治44)年創刊の平塚らいてう等の婦人運動の雑誌『青鞜』の表紙絵を描く。キリッとした横顔を見せ、まっすぐに立つ女性像の絵は婦人解放の意図を的確にとらえていて強い印象を与える。田村俊子ら青鞜社の人々との交流も深く、智恵子は『女の生きていく道』の中で「男にも自由があるように女にも自由がある。是れが男女を通じてその生活の根本である。どう考えてみてもこの根本は動かない」と述べているように女性問題にも関心を持つ、新しい女性として迎えられた。

光太郎との出会いは柳八重の紹介による。智恵子にとって光太郎との出会いは大きな刺激となり、絵の制作活動が旺盛となる。光太郎にとっても智恵子の出現は強い印象となり、智恵子に贈る詩が次々と世に現れるようになる。こうして二人は1914(大正3)年に結婚。駒込のアトリエで光太郎は彫刻、智恵子は油絵に熱中した。しかし、親の保護を離れた二人が生活を支える苦労は並大抵ではなかった。その上、智恵子は生活の雑事等で光太郎の芸術活動に支障をきたさないように気を使う日々であった。

智恵子の父今朝吉が1918年57歳で没する。父の死後、事業の不振や家庭のいざこざから実家が倒産し、一家が離散した。故郷の喪失は智恵子にとり大きな痛みとなったことであろう。

智恵子に精神分裂症の徴候が現れたのは、46歳の頃からであった。生家長沼家の破産や家族の問題等に加え、智恵子自身の絵画制作の行き詰まりなどが重なったことによると言われている。その後、睡眠薬による自殺未遂を引き起こす。光太郎は智恵子を伴い、故郷福島の温泉や九十九里浜への転地療養をするが症状は良くならず、やむなく南品川ゼームス坂病院に入院させる。症状が一進一退する中で画家の才能が奇蹟のようによみがえり、紙絵によって開花させた。

智恵子に付き添う姪の宮崎春子の『紙絵のおもいで』に制作の姿が描かれている。「目に触れるものを作らずに置かなかったこれらの作品は、こんなきれいな花、こんな見事な蟹、こんなおいしそうな果物とすべて光太郎に語りかける愛のうた、日々の報告でした。下描きもなしにいきなり切り込んでゆくマニキュアの鋏の線条は光太郎の木彫りの刀痕を思わせ、重ねられた微妙な色調は見事な諧調を保ち、切り貼る技法は見る者を驚嘆させます。」しかも狂躁の季節を除けばおそらく一年に満たない月日に千数百の紙絵となった。

思えば、智恵子はひたすら芸術精進を願いながらも、光太郎への純真な愛に基づいて日常生活との間に起こる諸問題のために、抑圧されていた芸術への才能が、精神病を患いその生涯の終わりが近づく中で、もろもろの苦しみから解き放たれた時、奇蹟のように才能を紙絵によって開花させたのであろう。紙絵には見る者の心を打つ輝きがある。

智恵子は夏頃から病状が悪化し、紙絵制作も休みがちとなり、1938(昭和13)年粟粒性肺結核のため、光太郎に見守られながら52歳の生涯を閉じた。

『智恵子抄』。

 1941(昭和16)年に光太郎が今は亡き智恵子への鎮魂の想いをこめて、詩や散文をも含む詩集『智恵子抄』を出版した。『智恵子抄』は戦時下の暗い世情の中で人々の感動を呼び、智恵子の純愛が人々の心に浸み通った。

智恵子の半生 高村光太郎 昭和十五年九月 (『智恵子抄』所載)

妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性(ぞくりゅうせい)肺結核で死んでから旬日で満二年になる。(略)

私との此の生活では外に往く道はなかったように見える。どうしてそうかと考える前に、もっと別な生活を想像してみると、例えば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のような美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事しているような者であった場合にはどうであったろうと考えられる。或はもっと天然の寿を全うし得たかも知れない。そう思われるほど彼女にとっては肉体的に既に東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしていた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗ったり、テニスに熱中したりして頗(すこ)ぶる元気溌剌(はつらつ)たる娘時代を過したようであるが、卒業後は概してあまり頑健という方ではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸って来なければ身体が保たないのであった。彼女はよく東京には空が無いといって歎いた。私の「あどけない話」という小詩がある。

智恵子は東京に空が無いといふ、

ほんとの空が見たいといふ。

私は驚いて空を見る。

桜若葉の間に在るのは、

切つても切れない

むかしなじみのきれいな空だ。

どんよりけむる地平のぼかしは

うすもも色の朝のしめりだ。

智恵子は遠くを見ながらいふ。

阿多多羅山の山の上に

毎日出てゐる青い空が

智恵子のほんとの空だといふ。

あどけない空の話である。(*昭和三年五月十日詩作)

 私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だろうと思っていたが、彼女の斯かかる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。(略)

最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑う表情をした。すっかり安心した顔であった。私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。

(*青空文庫 底本「智恵子抄」新潮文庫1956年。初刊『智恵子抄』1941年 龍星閣刊)

 

このあと、二本松城跡へ向かった。

福島市 戦後最大の冤罪事件 松川事件現場 殉職碑 松川の塔


帯広市 帯広畜産大学生協食堂 寄宿舎 逍遥舎

2024年06月28日 09時45分54秒 | 北海道

帯広畜産大学生協食堂。内部。帯広市稲田町。

2022年6月11日(土)。

帯広百年記念館を10時50分過ぎに出て、予定通り帯広畜産大学の学生食堂へ向かった。14時に「十勝ばんえい」が始まるが、その前のミッションとして、ここと帯広百年記念館埋蔵文化財センター見学の2つが残っていた。

帯広畜産大学には50年ほど前に訪れており、断片的な記憶が定着している。その回顧のための見学だ。

大学2年生だった1973年夏に、1年上の先輩2人から北海道旅行をした話を聞いたこともあり、国鉄の周遊券を使って一人で名古屋から青函連絡船経由で、まず札幌近郊江別市大麻の兄夫婦住む社宅で過ごした。札幌市内の有名観光地を回ったのち、札幌駅へ向かった。当時、カニ族といわれる学生の北海道旅行が流行していた。カニ族の名の由来は登山用のザックが当時は横長のキスリングが主流で、それを旅行用に転用していたからだ。私の場合はキスリングを持っていなかったので、愛用していたショルダーバッグを使用した。宿泊は駅の建物の横で野宿するのが多かった。そういう風景はテレビでよく放映されており、実際に札幌駅に行くと、多くの学生が野宿していたので、私も新聞紙を上半身を巻き付けて野宿した。

どこに行ったのか覚えている観光地は、一番人気のあった秘境といわれた知床だ。観光ツアーに参加して、知床観光船に乗り、知床五湖を回った。次いで摩周湖に行き、霧の無い摩周湖に感動した。

悲劇はここから始まったのだろう。釧路駅に着くと周遊券がなくなっていた。どこかで落としたのだろう。原因は寒さだ。摩周湖の最寄り駅で野宿したが、少々用意していた薄い上着では標高から考えて放射冷却して10度前後の寒さには耐えられなかった。駅前の電話ボックスに入り、新聞紙を燃やして暖を取ったが追いつかなかった。何とか夜を過ごして、釧路行きの列車に乗ったが、前に座った親子連れに遠慮して窓が閉められず、冷気をまともに浴び続けて、風邪を引きそうになった。列車に乗り込んだあとのどこかで失くしたようだ。

釧路駅で学割証明を使い、名古屋までの片道切符を購入した。途中下車はできるが、北海道周遊は諦めて、自宅へ帰ることにした。

午後遅く帯広駅で下車して、帯広畜産大学学生寮へ泊めてもらうために向かった。私は自宅通学だったが、学生寮に住む知人から国立大学の寮生は全国の国立大学学生寮に宿泊できるという話を聞いていたからだ。公的に認められているわけではないが、学生の自治が認められていた当時では学生同士で認め合っていたのだろう。

バスを使ったのだろうが、帯広畜産大学に着き、学生寮へ向かい、寮生に学生証を見せたのだろう寮の部屋に案内された。部屋の壁は政治的なスローガンの落書きがあった。夕食をご馳走され、畜産大学らしくホルモンの鍋を食べさせてくれた。新鮮な内臓だと自慢していた。数人と話をしながら、酒を飲まされたが下戸の私は少し飲んだ程度だった。記憶はその程度だが、帯広畜産大学がどこあるのか正確な場所は今回事前にチェックするまで知らなかった。帯広百年記念館も市街地南の郊外だったが、さらに南の郊外にあった。

ナビの目的地を帯広畜産大学生協に合わせたが、針葉樹の森沿いの直線道路を進むと、進入路が狭い道路だったのでパスしてしまい、正門らしき敷地に着いて、学内案内図を確認してみた。

すると、やはり学食には先程の狭い道路から進入するほうが良いと分かり、戻って学生食堂前の一般外来者用の駐車場に着いた。食堂開店の11時を少し過ぎた時刻だったが、ほとんど車はいなかった。

建物玄関から入るとホールがあり、右にレストランがあったが学食ではなかったので、左の通路を進むと学食があった。利用客が少ない時間帯を狙うのがセオリーだ。入口のメニューは多くはないが、豚丼と数品をセットにして627円だった。

食べ終わって200mほど学生寮へ向かった。寄宿舎という名前は女子大みたいな名称だ。意図的に変更されたものだろう。外観は現代風で、50年前の建物は取り壊されたものと思う。見るからに管理されているようだったので、内部には入らなかった。

学食の道路対面に洒落た建物があったので、覗いてみると帯広畜産大学創立70周年記念会館「逍遥舎」という建物だった。2011年に、帯広畜産大学同窓会から寄贈された建物で、同窓会員,職員,学生が相互の懇親などの交流の場として使っているという。

11時50分ごろ、次の見学地である帯広百年記念館埋蔵文化財センターへ向かった。

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