智恵子の生家・二本松市智恵子記念館。福島県二本松市油井漆原町。
2024年5月27日(月)。
福島市松川駅北の松川事件現場を見学後、二本松市の「智恵子の生家・二本松市智恵子記念館」へ向かった。専用の駐車場に駐車して、古い街道の名残りを残す表通りに戻り、生家の外観を眺めて受付を通った。
智恵子の生家。明治の初期に建てられた生家には、造り酒屋として新酒の醸成を伝える杉玉が下がる。屋号は「米屋」、酒銘「花霞」。
高村智恵子や高村光太郎は、現代ではどのくらい知られているのだろう。1970年代までは、よくメディアでも語られてきたのだが、と思っていたら、10数人ほどの20代男女の団体が入館してきた。
詩人で彫刻家である高村光太郎の代表的な詩の一節は、「僕の前に道はない僕の後ろに道は出來る」(道程)「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。」(あどけない話)だ。
高村智恵子は洋画家で、高村光太郎の妻である。
智恵子の生家。庭と内部。
生家の裏庭には、当時の酒蔵をイメージした「智恵子記念館」があり、病に侵された智恵子の美しい紙絵や当時の女性としては珍しい油絵の作品、2人の手紙等が展示してある。写真撮影は禁止である。
高村智恵子(1886年・明治19年~1938年・昭和13年)は、明治時代末期から大正時代にかけての、当時としては珍しい女流洋画家であった。また、「世の慣習を無視しても、たった一度しかない自分の生涯を自分で選びとろう」と決意し行動した〝新しい女性〟でもあった。そして、智恵子の名を広く世に知らしめたのは、精神病を患う中で奇跡的によみがえった画家魂が生み出した紙絵と、没後に夫高村光太郎が妻智恵子との純愛を綴った不朽の名詩集『智恵子抄』である。
智恵子は1886(明治19)年、安達郡油井村字漆原(現二本松市油井)の酒造業斎藤今朝吉、センの長女として出生。後に今朝吉が長沼次助の養子として入籍し、智恵子も長沼姓となる。清酒「花霞」を醸造する長沼家は酒蔵が何棟も並び、使用人の男衆、女中などが大勢働き活況を呈していた。
少女時代の智恵子は何不自由のない生活を送り、油井小学校高等科4年を卒業する。当時の学籍簿(智恵子記念館に展示)にはほとんど満点の成績で常に首席。高等科を卒業後、町立福島高等女学校3年に編入する。高等女学校卒業時には、卒業生総代として答辞を読んだ。
智恵子は、日本女子大学に入学し、寮生活に入る。寮生活をともにした秋広あさは「智恵子さんの印象」で「落着いて口数少なく物事に熱中する一面、決して真面目一方ではなく、ユーモアに富み不意にみんなをあっと言わせる智恵子であった」と記している。
智恵子は家政学部に進んだ。先輩の柳八重が、「智恵子さんは家政学部に籍をおきながら、自由選択科目である洋画の教室にばかり出ていました」(「智恵子さんのこと」)と回想するように、洋画に興味を持つようになる。
日本女子大学を1907(明治40)年に卒業後も帰郷せず、両親を説得して当時としては珍しい女流洋画家として太平洋画会研究所に通い、油絵を学び、人々の注目をひき始める。
1911(明治44)年創刊の平塚らいてう等の婦人運動の雑誌『青鞜』の表紙絵を描く。キリッとした横顔を見せ、まっすぐに立つ女性像の絵は婦人解放の意図を的確にとらえていて強い印象を与える。田村俊子ら青鞜社の人々との交流も深く、智恵子は『女の生きていく道』の中で「男にも自由があるように女にも自由がある。是れが男女を通じてその生活の根本である。どう考えてみてもこの根本は動かない」と述べているように女性問題にも関心を持つ、新しい女性として迎えられた。
光太郎との出会いは柳八重の紹介による。智恵子にとって光太郎との出会いは大きな刺激となり、絵の制作活動が旺盛となる。光太郎にとっても智恵子の出現は強い印象となり、智恵子に贈る詩が次々と世に現れるようになる。こうして二人は1914(大正3)年に結婚。駒込のアトリエで光太郎は彫刻、智恵子は油絵に熱中した。しかし、親の保護を離れた二人が生活を支える苦労は並大抵ではなかった。その上、智恵子は生活の雑事等で光太郎の芸術活動に支障をきたさないように気を使う日々であった。
智恵子の父今朝吉が1918年57歳で没する。父の死後、事業の不振や家庭のいざこざから実家が倒産し、一家が離散した。故郷の喪失は智恵子にとり大きな痛みとなったことであろう。
智恵子に精神分裂症の徴候が現れたのは、46歳の頃からであった。生家長沼家の破産や家族の問題等に加え、智恵子自身の絵画制作の行き詰まりなどが重なったことによると言われている。その後、睡眠薬による自殺未遂を引き起こす。光太郎は智恵子を伴い、故郷福島の温泉や九十九里浜への転地療養をするが症状は良くならず、やむなく南品川ゼームス坂病院に入院させる。症状が一進一退する中で画家の才能が奇蹟のようによみがえり、紙絵によって開花させた。
智恵子に付き添う姪の宮崎春子の『紙絵のおもいで』に制作の姿が描かれている。「目に触れるものを作らずに置かなかったこれらの作品は、こんなきれいな花、こんな見事な蟹、こんなおいしそうな果物とすべて光太郎に語りかける愛のうた、日々の報告でした。下描きもなしにいきなり切り込んでゆくマニキュアの鋏の線条は光太郎の木彫りの刀痕を思わせ、重ねられた微妙な色調は見事な諧調を保ち、切り貼る技法は見る者を驚嘆させます。」しかも狂躁の季節を除けばおそらく一年に満たない月日に千数百の紙絵となった。
思えば、智恵子はひたすら芸術精進を願いながらも、光太郎への純真な愛に基づいて日常生活との間に起こる諸問題のために、抑圧されていた芸術への才能が、精神病を患いその生涯の終わりが近づく中で、もろもろの苦しみから解き放たれた時、奇蹟のように才能を紙絵によって開花させたのであろう。紙絵には見る者の心を打つ輝きがある。
智恵子は夏頃から病状が悪化し、紙絵制作も休みがちとなり、1938(昭和13)年粟粒性肺結核のため、光太郎に見守られながら52歳の生涯を閉じた。
『智恵子抄』。
1941(昭和16)年に光太郎が今は亡き智恵子への鎮魂の想いをこめて、詩や散文をも含む詩集『智恵子抄』を出版した。『智恵子抄』は戦時下の暗い世情の中で人々の感動を呼び、智恵子の純愛が人々の心に浸み通った。
智恵子の半生 高村光太郎 昭和十五年九月 (『智恵子抄』所載)
妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性(ぞくりゅうせい)肺結核で死んでから旬日で満二年になる。(略)
私との此の生活では外に往く道はなかったように見える。どうしてそうかと考える前に、もっと別な生活を想像してみると、例えば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のような美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事しているような者であった場合にはどうであったろうと考えられる。或はもっと天然の寿を全うし得たかも知れない。そう思われるほど彼女にとっては肉体的に既に東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしていた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗ったり、テニスに熱中したりして頗(すこ)ぶる元気溌剌(はつらつ)たる娘時代を過したようであるが、卒業後は概してあまり頑健という方ではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸って来なければ身体が保たないのであった。彼女はよく東京には空が無いといって歎いた。私の「あどけない話」という小詩がある。
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。(*昭和三年五月十日詩作)
私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だろうと思っていたが、彼女の斯かかる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。(略)
最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑う表情をした。すっかり安心した顔であった。私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。
(*青空文庫 底本「智恵子抄」新潮文庫1956年。初刊『智恵子抄』1941年 龍星閣刊)
このあと、二本松城跡へ向かった。