国史跡・稲荷森古墳。山形県南陽市長岡稲荷森。
2024年9月15日(日)。
山形市の芋煮会で芋煮を食べたあと、時々激しくなる雨の中、南へ進んで南陽市の赤湯温泉へ向かった。赤湯温泉の公衆浴場は烏帽子湯が120円、赤湯元湯が240円で、赤湯元湯に行くことにした。温泉街の目抜き通りは工事中で、場所が分からなくなり、付近を探して道路沿いの駐車場に駐車した。道路から50mほど入った場所になるので目立たない。受付で料金を払おうとすると、祭りの日なので無料だった。浴場は2階にある変わった温泉だった。湯質はとりたてて普通である。
その後、南へ進み、人家が少ない地区に入ると、稲荷森古墳が整備された状態で現れた。
稲荷森古墳は、墳丘長約96mの大型前方後円墳で、山形県では最大、東北地方では第7位の規模の古墳で、大型古墳としては日本海側内陸部で最北に位置する。4世紀末(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定されている。
最上川を遡った内陸部に米沢盆地がある。この地域は、古くは置賜郡として陸奥国に属し、出羽国の成立とともに出羽国に属したもので、福島県・宮城県方面との文化的交流も深く、弥生時代中期以降の農耕文化を示す遺跡や横穴式石室をもつ古墳群の存在も知られていた。この盆地の東北方に当たる平野部にある低丘陵を利用して営まれた前方後円墳が稲荷森古墳である。
この古墳は、西南方に向かって連なる小さな低丘陵の一つを利用し、前方部を南々西・米沢盆地中央の方角に向ける。後円部の東北方には丘陵が遺存する。この付近は古墳時代中期ころ(南小泉式期等)の集落跡となっている。
墳丘は半ばは丘陵を利用し、その上に盛土したものである。後円部の3段のうち、1段目はかなり高くほぼ地山から成り、2段目・3段目は版築から成る。
墳丘は後円部が3段築成、前方部が1段築成で、旧状を良好に遺存する。墳丘長は約96mを測る。墳丘外表で葺石・埴輪は検出されていないが、墳丘内部から土師器が出土している。また周濠も存在していないが、墳丘の周囲一定範囲にテラス帯が認められている。埋葬施設は未確認で明らかでないが、一説には石室を持たない木棺直葬と推測される。
墳形および出土土師器を基に4世紀末頃(古墳時代中期初頭)の築造と推定されている。本古墳の築造以前には米沢市域・川西町域・南陽市域の3地域で前方後方墳を主とする古墳(天神森古墳・宝領塚古墳など)が営まれていたが、稲荷森古墳によってそれら3地域が統合された様相を示すため、稲荷森古墳はそれらを統合した首長(置賜地方の王)により記念碑(象徴)的に築造されたものと考えられている。しかし稲荷森古墳に続く首長墓はなく、置賜地方の中心地は米沢市域に移ったとされる。
墳丘長は約96m。後円部は3段築成で、直径約62m、高さ約9.6m。前方部は1段築成で、長さ約34m。高さ約5m。墳丘は、後円部に比べて前方部が低く短い「銚子式(銚子形)」という古相の形状を示す。
調査により葺石の一部や後円部築成前に破砕された土師器の脚部が検出されている。
強い雨が続いていたので、水溜まりも多く、墳丘には登らなかった。
このあと、北西にある長井市の小桜館(旧西置賜郡役所)へ向かった。