盛岡市遺跡の学び館。盛岡市本宮荒屋。
2023年6月8日(木)。
縄文時代晩期〔約3000~2300年前〕になると、「大洞式(おおぼらしき)」と呼ばれる土器が東北全域でつくられ、遠く関西地方にまで影響を及ぼすようになる。
精緻な文様をていねいにレリーフ状にしたり、漆や朱・ベンガラなどで赤彩するものもある。これらは日常の煮炊きではなく、まつりやまじないの時に用いられたと考えられている。太田地区猪去の上平(うわだいら)遺跡や玉山区川又地区の宇登1(うど1)遺跡、玉山区渋民地区の田の沢D遺跡からは、さまざまな器種の美しい土器が多数出土している。
注ぎ口のついた注口土器ものそのひとつで、三叉文や雲形文といった精緻なレリーフ文様が丁寧に表面を飾っている。まつりの際にお酒などを入れて使用したと考えられている。
土偶も、晩期になると多くなり、都南地区の手代森(てしろもり)遺跡では、岩手県埋蔵文化財センターの発掘調査で大型の遮光器土偶がほぼ完形で出土し、国指定重要文化財となっている。土偶は、その形態から女性を表現していると考えられ、また壊された状態で出土することが多く、縄文人の風習や信仰をうかがうことのできる貴重な資料である。
また、玉山区川又地区の宇登1(うど1)遺跡からは土面(どめん)も出土している。
弥生・古墳時代(約2300年~1400年前)
弥生時代になると、日本列島の多くの地域に稲作農耕が広まる。しかし、東北北部から北海道にかけては、縄文時代の文化や生活が色濃く残った。東北南部以西の地方には有力な豪族が現れ、畿内の大和朝廷を中心に前方後円墳など巨大な古墳が築かれる時代になっても、東北北部の生活や文化はあまり変わらず、在地化した弥生文化、北海道を中心とした続縄文文化、東北南部からの古墳文化が混在した状況にあった。
弥生文化のはじまり
西日本で稲作農耕が広まり弥生文化が成立すると同時に、その影響は東北北部にまで急速に及んだ。青森県では、弥生時代前期・中期の水田跡が発見されるとともに、西日本に特徴的な「遠賀川式」と呼ばれる大形の壺形土器が出土している。
盛岡では弥生時代の遺跡の発見が少なく、水田跡もみつかっていないが、中津川地区の向田(むかいだ)遺跡からは弥生時代前期(約2300年前)の「砂沢式」とよばれる高坏(たかつき)形土器が完形で出土していて、弥生文化が早くから伝えられていたことを知ることができる。同じ時期の土器は、都南地区の手代森(てしろもり)遺跡からも出土している。
繋(つなぎ)遺跡からは、ひとつの穴にほぼ完形の壺形土器と甕形土器が埋納された状態で発見されていて、弥生時代中期の東北南部以南に特徴的な「再葬墓(さいそうぼ)」と考えられ、人や文化の交流をうかがうことができる。
北と南の接点。
弥生時代後期になっても発見されている遺跡数は少なく、人々は痕跡をあまり残さない移動性・交易性の高い生活をしていたと考えられる。在地の弥生土器も「天王山式(てんのうやましき)」・「赤穴式(あかあなしき)」と呼ばれる、縄文土器に似た甕形土器の破片や、「アメリカ式石鏃」と呼ばれる特徴的な形の石器が出土するのみである。
東北南部で地方豪族により大形古墳が築かれ、「古墳文化」が広まるようになっても、東北北部までその影響はほとんど及ばなかった。一方、北海道では縄文時代からの生活や伝統を強く残した「続縄文文化」と呼ばれる独自の文化が広まった。
中津川地区の永福寺山(えいふくじやま)遺跡では、1965年の発掘調査で、続縄文文化に特徴的な墓穴(土坑墓)が7基発見され、その中から北の続縄文土器「後北C2-D式」と南の古墳時代土師器「塩釜式」が一緒に出土している。
また、近隣にある薬師社脇(やくししゃわき)遺跡からは、永福寺山遺跡と似た形の墓穴に、古墳時代土師器と多くの鉄製品、ガラス小玉や管玉の装飾品が副葬されて発見された。
盛岡はこの時代、まさに北と南の文化の接点だったことが分かる。
古代(飛鳥・奈良・平安時代、約1400年~800年前)。
7世紀になると、畿内に朝廷の都がつくられ、中国を手本に律令制度により地方を統治しようとした。東北北部の人々は稲作を中心とした生活を営みながらも、独自の習俗により「蝦夷(エミシ)」と呼ばれ、その有力者は「末期古墳」と呼ばれる墳墓に埋葬された。
8世紀になり奈良の平城京が都となると、陸奥国・出羽国に、エミシ達を治めるための特別な役所として「城柵(じょうさく)」が各地に築かれ、平安時代となる9世紀はじめには盛岡以南までが朝廷の直接統治下となった。
その中で集落は急増していき、10世紀以降になるとエミシ系の在地有力者が地域を実質的に治めるようになる。
その中で、安倍氏が「奥六郡(おくろくぐん)」と呼ばれた北上盆地一帯を一族で支配するようになり、独自の柵が築かれました。
エミシのムラ
盛岡では、7世紀~8世紀(飛鳥時代~奈良時代)にかけて稲作農耕に適した河川沿いの平野部に、各地区の中心となるムラが営まれるようになる。本宮地区の本宮熊堂 (もとみやくまどう) B遺跡・野古 (のっこ) A遺跡・飯岡沢田(いいおかさわだ)遺跡・台太郎(だいたろう)遺跡、三本柳地区の百目木(どめき)遺跡・西鹿渡(にしかど)遺跡、都南永井地区の高櫓 (たかやぐら) A遺跡でまとまった調査が行われていて、その様子を知ることができる。
住いとなる竪穴住居は平面形が方形で、その北辺または西辺に煮炊きのためのカマドと煙出しがつくられる。一辺7m~8mの大型住居と一辺4m~5mの小型住居複数がセットとなっていくつかのグループをつくることが多く、エミシ達の家父長を頂点とする血縁集団の様相を示すものと考えられる。
生活用具としては素焼きの土師器が使われ、煮炊きする甕(かめ)と、盛りつけ皿の坏(つき)がセットとなる。坏は厚手で底が丸く、内面が黒色処理されているのが特徴である。
衝角付冑(しょうかくつきかぶと) 。上田蝦夷森古墳群1号墳(黒石野)。
岩手県指定有形文化財。飛鳥時代〔7世紀〕。
蝦夷(エミシ)と呼ばれた北東北の人々の首長の墓「末期古墳(まっきこふん)」の主体部から、副葬品として土師器甕・刀子、錫(すず)製の耳輪などとともに出土した。首を保護する錣(しころ)は失われている。古代の鉄冑としては国内最北の出土例で、東北地方で現存する唯一のものである。
エミシの古墳。
エミシ集団の首長は、「末期古墳」とよばれる溝をめぐらせた小型の円形古墳に葬られた。
上田地区の上田蝦夷森古墳群1号墳は7世紀の古墳で、遺体を葬る主体部は木棺を納めていたと考えられ、鉄製の衝角付冑など〔県指定有形文化財〕が副葬されていた。
勾玉(まがたま)。太田蝦夷森(おおたえぞもり)古墳群2号墳(上太田)。
奈良時代(8世紀)。1970年に岩手県教育委員会が調査した際に、積石の主体部から出土した。メノウ製がほとんどだが、ヒスイ製も1点ある。この他の副葬品としては、青色のガラス小玉や「和同開珎(わどうかいちん)」、金メッキされた帯金具など多種多様なものがあり、地元で強い力を持つをエミシの被葬者と、中央政権であった都の朝廷側とのつながりを知ることができる貴重な資料である。
太田地区の太田蝦夷森古墳群2号墳は8世紀の古墳で、主体部は川原石を積んでつくられ、和同開珎、帯金具、勾玉、ガラス小玉、刀など多くの副葬品が出土した。
どちらの古墳も、地域の部族社会をまとめる家父長的な武力を持った有力エミシ首長の墓と考えられ、地元でつくることのできない貴重な副葬品は、エミシ集団と朝廷側との接触をうかがうことができる。このほか、市内では都南飯岡地区の高舘古墳(たかだてこふん)〔市指定史跡〕、玉山区永井地区の永井古墳群、津志田の下永林遺跡(大道西古墳群)でも末期古墳が確認されている。
蕨手刀。下永林(しもながばやし)遺跡(大道西古墳群)。盛岡市津志田・三本柳。
百目木(どめき)、高櫓A遺跡など近くの村の首長層が葬られたと考えられる。
文献によると、8世紀後半に現在の盛岡周辺を指す「志波村」(しわむら)の地名がみられ、西の出羽国の朝廷軍と戦闘となり、朝廷軍が敗れるとの記述があることから、太田・本宮地区を中心とした雫石川流域に強大なエミシ勢力が存在していたと考えられる。
城柵と律令支配。
774年に現在の宮城県北地域からはじまるエミシ勢力と朝廷軍との争いは、781年に桓武天皇が即位すると、現在の岩手県南地域に及び、胆沢(いさわ)地方を中心に大きな戦いがあった。
797年に征夷大将軍となった坂上田村麻呂は朝廷軍を勝利に導き、802年に胆沢城(いさわじょう)〔奥州市水沢〕を造営、その翌803年に志波城(しわじょう)〔太田・本宮地区〕を造営した。文献には、「志波村」のエミシ首長が792年に朝廷への帰属を願い出るとの記事があり、志波エミシが親朝廷側としてその勢力を温存したまま城柵の設置を受け入れたと考えられる。
志波城跡〔国指定史跡〕は840m四方を築地塀(ついじベい)で囲み、二層の外郭南門と林立する櫓を持つ、古代陸奥国府多賀城に匹敵する最大規模の城柵であった。城内には150m四方を築地塀で囲む広大な政庁が置かれ、その周囲には多数の役人と兵士が勤めていた。
出土する土器はロクロを使い窯で焼かれた須恵器が多く、鉄製の武具や工具も数多く出土する。城には朝廷から貴族が長官や補佐官として派遣され、在地有力者の一族も位を与えられて下級役人として勤めていたと考えられる。志波城の南方に位置する飯岡林崎 (いいおかはやしざき) 2遺跡からは須恵器の硯が発見されていて、読み書きのできる現地採用のエミシ系役人が、城柵周囲のムラに住んでいたことがうかがえる。
文献には811年に「斯波郡」(しわぐん)を置くとの記事がみられるものの、翌812年頃には水害を理由に志波城は廃止され、南の徳丹城(とくたんじょう)〔矢巾町〕に建物ともども移転してしまい、その存続はわずか10年と短いものであった。
台太郎(だいたろう)遺跡(向中野)は盛南開発地域内から発見された古代の大集落である。奈良時代(8世紀)の土師器(はじき)が出土した。朝廷の直接支配が及ばなかった8世紀は、土器づくりにまだロクロが使われず、「坏(つき)」という盛り付け皿の底が丸いのが特徴である。また、胴部がふくらむ「球胴甕(きゅうどうがめ)」が出土することも多く、中には赤く文様をつけたものが発見されていて、エミシの風習を示すものと考えられている。
平安時代のムラ。
中央政権である朝廷により出先機関である志波城がつくられ、それを通じて新しい技術がもたらされることにより、9世紀からムラの数が急増するようになった。前代のエミシのムラも、住居の配置をより川に近い場所に移しながら継続する一方、志波城と強い関係を持つムラが新たに営まれるようになった。
太田地区の館・松ノ木(たて・まつのき)遺跡では武具である鉄鏃が多量に出土し、また本宮地区の小幅(こはば)遺跡や中津川地区の堰根(せきね)遺跡では役所的な大型掘立柱建物が発見されている。
住居の構造は大きな変化がないものの、カマドは前代とは逆の住居の東辺または南辺につくられるものが多いのが特徴である。また、飯岡地区の飯岡才川(いいおかさいかわ)遺跡では高床倉庫群が発見され、飯岡林崎2遺跡では大型竪穴住居から多量の炭化米が出土するなど、稲作の生産力が高かったことがうかがえる。
生活用具は、ロクロを使ってつくった坏や甕へと変化し、鉄製の農具・工具も普及した。墨で文字を書いた「墨書土器」が出土することもあり、地名や施設名、人名、縁起のいい言葉といった、当時の様子を知ることができる。
安倍氏・清原氏の時代。
9世紀中頃には徳丹城も廃止され、鎮守府胆沢城が唯一の朝廷の拠点となった。
10世紀になると、廃止となった志波城跡地の東に隣接する林崎遺跡で、かつての志波城政庁建物に匹敵する規模の大型掘立柱建物がつくられ、「寺」と書かれた墨書土器や、灯明皿として使われたと考えられるあかやき土器の坏が出土する。
また羽場地区の大島遺跡では、大型竪穴住居と高床倉庫群とともに、役人の革帯飾りである石帯具が出土している。これらの遺跡は胆沢城に仕える斯波郡の在地有力者の拠点であったと考えられ、文献にもそれら有力者を示す「物部斯波連(もののべのしわのむらじ)」の姓をもらう人物の記事がみられる。
11世紀には、鎮守府胆沢城の在庁官人であった安倍頼時が実質的に奥六郡(おくろくぐん=北上盆地一帯)の統率者となって、本拠地鳥海柵(とのみのさく)〔金ヶ崎町〕をはじめ各地に独自の柵を築き、子の安倍貞任が最北の厨川柵(くりやがわのさく)を拠点とした。現在その遺跡を確定することはできないが、厨川地区の安倍館町から天昌寺町、大館町にかけての一帯が想定される〔安倍館(あべたて)遺跡・里館(さたて)遺跡・大館町(おおだてちょう)遺跡など〕。
1051年(永承6年)から始まる前九年合戦により、安倍氏一族は厨川柵に滅び、山本三郡(やまもとさんぐん)を拠点としていた清原氏が北東北一帯を支配するようになる。
しかし、清原氏も、一族の内紛に始まる後三年合戦により清原清衡(きよひら)が東北全域を領地とすることとなり、姓を藤原に改め、平泉を拠点とする奥州藤原氏による支配の時代が始まる。
このあと、矢巾町の歴史民俗資料館および隣接する国史跡・徳丹城跡を見学するために、国道4号線を南下した。