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岩手県平泉町 達谷窟 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター③大池伽藍跡 毛越寺

2024年01月11日 13時32分58秒 | 岩手県

岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター。平泉町平泉字伽羅楽。

2023年6月15日(木)。

中尊寺。

中尊寺は、平泉の中心部北側の関山丘陵に位置する寺院である。奥州藤原氏初代清衡は、日本の北方領域における政治・行政上の拠点として平泉を造営するのに当たり、12世紀初頭から四半世紀をかけて、現世における仏国土(浄土)を表す中核の寺院として最初に中尊寺を造営した。

境内は、中尊寺及び支院群が位置する北丘陵と山林に覆われた南丘陵に二分できる。北丘陵には、東麓から尾根沿いに西の丘陵頂部に向かって月見坂と呼ぶ杉並木の表参道が延びる。丘陵頂部に近い開けた平坦地には本堂など一群の建造物が存在するほか、境内の地下には大池及び三重池などの園池跡や建物跡が埋蔵されている。

大池伽藍跡。

12世紀前半に「鎮護国家大伽藍一区」(『供養願文』)が建立されたとみられる区域には、「大池跡」と呼ぶ池の痕跡を示す地形が残されており、これまでの発掘調査によって西に仏堂が建ち、その東側の低地に石を用いて意匠した園池が広がっていることが判明した。特に「大池跡」は長径約120m、短径約70mの不正形円で、中央に中島を擁し、西側に仏堂を配置する浄土庭園の遺跡である。

大池伽藍跡は、清衡が、奥州における多くの戦で落命した全ての霊魂を敵味方の区別なく浄刹(浄土)へと導くとともに、自らの浄土への往生をも祈願し、現世における仏国土(浄土)の表現を目的として造営した浄土庭園の考古学的遺跡であると考えられる。

 

北上市立博物館

毛越寺。

平泉の中心部の南側に位置し、12世紀中頃に奥州藤原氏二代基衡が造営した寺院である。それは、平安京東郊の白河の地に天皇の御願寺として造営された法勝寺を模範とした可能性が高いとされている。また、毛越寺の地割の東端が金鶏山の山頂から南への延長線に合致することから、毛越寺の設計は金鶏山の位置と緊密な関係を持っていたことが知られる。

12世紀末期の毛越寺には、40にも及ぶ堂宇と500にものぼる禅坊が存在したとされている(『吾妻鏡』)。毛越寺の主要伽藍は、二代基衡が建造した円隆寺三代秀衡が建造した嘉勝寺などから成る。壮麗さにおいては国内で並ぶものがないと評された円隆寺は、北側に位置する塔山(標高121m)などの丘陵の区域を背景として建てられ(『吾妻鏡』)、堂内には平安京の仏師に製作を依頼して完成した薬師如来像が本尊として安置された。金堂の両側から東西に向かって回廊が延び、途中で南に折れ、その南端には経楼と鐘楼が建てられた。これらの堂宇の南側には大きな園池が広がり、堂宇の周辺を含めて主に薬師如来の仏国土(浄土)を表す浄土庭園が造成された。

円隆寺の西側には嘉勝寺、後方には講堂、東には常行堂・法華堂などの主要堂宇が建ち並んでいた。さらに、その南側には南大門が建ち、東西の大路に面していた。

1226年に円隆寺金堂が焼失し、1573年には南大門が焼失した。また1597年には常行堂・法華堂が焼失した。17世紀から19世紀半ばにかけては仙台藩主伊達氏の庇護の下に境内の状態が保護され、1732年には現存する常行堂が建立された。

現在の常行堂では、毎年1月に常行三昧の修法とともに重要無形民俗文化財に指定されている「毛越寺の延年」の舞が行われるなど、様々な宗教行事が活発に行われている。

毛越寺庭園。

毛越寺境内の仏堂の前面に設けられた「大泉が池」を中心とする庭園で、主に薬師如来の仏国土(浄土)を表現した独特の造形空間である。「大泉が池」は東西約190m×南北約60mの規模を持ち、洲浜・出島・立石・築山など多様な構成要素から成る。東岸には優美な海岸線の風情を漂わせる緩やかな曲線の洲浜が入江を形成するのをはじめ、南東岸には波が多く岩石の多い海岸である荒磯を表現して高さ約2mの立石を中心とする出島があり、南西岸には荒々しい岩肌が断崖の風情を漂わせる高さ4mの築山がある。北東岸の遣水を経て導き入れられた水は池中を東から西へと流れた後、池尻に当たる西南岸から境内外へと排水される。

緩やかに蛇行する遣水は長さ約80m、幅約1.5mあり、庭園における遣水の意匠・技術の全容を知る上で極めて貴重な遺構である。

この庭園の構成及び細部の意匠・技術は、11世紀後半の作庭技術書である『作庭記』に「自然を尊重し、自然に習う」と記された当時の作庭の理念、意匠・技術に正確に基づくものである。

「大泉が池」の中央には中島があり、その南と北には2基の木橋の遺構が発見された。また、園池の北岸では、儀式の際に幡などを立てたと推定される特殊な柱穴跡も5基並んで発見された。

南大門跡、中島、2基の橋の橋脚、幡などを立てたと推定される一群の柱穴跡、円隆寺金堂跡を結ぶ伽藍の中軸線は正しく南北方向に一致し、さらにその北側に当たる伽藍の背後には塔山が控えている。園池のみならず、仏堂の周囲を含め、伽藍全域の地表面が小さな礫で覆われ、朱塗柱に輝く仏堂や緑成す背後の塔山と小礫で覆われた園池との色彩的対比は、本尊である薬師如来の仏国土(浄瑠璃浄土)を想起させるのに十分であったに相違ない。

このように、毛越寺庭園は、左右対称形の翼廊を伴う仏堂の南側に園池を設け、仏堂背後の塔山と一体となって、主に薬師如来の仏国土(浄土)の表現を意図して造られた浄土庭園であり、12世紀の様相を完全な形で現在に伝える。

 

国史跡。達谷窟(たっこくのいわや)。岩手県平泉町平泉字北沢。

平泉の南西約6kmに位置する。延暦20年(801年)9世紀初頭に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐の戦勝と仏の加護への祈願を込めて、京都の鞍馬寺から多聞天(毘沙門天)を勧請し、毘沙門堂を建立したのが始まりと伝えられている。1189年には、源頼朝が文治五年奥州合戦の帰路に参詣している(『吾妻鏡』)。

北上川の支流太田川を西にさかのぼると丘陵尾根があり、その先端部に現在の天台宗達谷西光寺がある。達谷西光寺境内の西側に、東西の長さ約150m、最大標高差およそ35mにおよぶ岩壁があり、その下方の岩屋に昭和36年(1961年)に再建された懸造の毘沙門堂がある。別当は達谷西光寺であるが、境内入口には鳥居が建てられており、神仏混淆の社寺となっている。

達谷窟付近の現在の道路は、太田川と丘陵とが接する地形的な制約により大きく屈曲しており、12世紀の日本の北方領域における南北幹線道であった「奥大道」と重なっているものと推測される。

達谷窟は、政治・行政上の拠点である平泉と周辺の地域とを結ぶ奥大道の沿線に位置し、交通の要衝を成す重要な寺院であった。

発掘調査の結果、達谷窟は12世紀後半に繁栄していたことが判明している。毘沙門堂の南側に位置する現在の蝦蟇が池は、往時には池中の中央に中島を擁し、玉石護岸を伴う園池であったことが判明しており、仏堂の前面に設けられた浄土庭園としての空間を構成していた。

窟に設けられた毘沙門堂は、12世紀以降、何度かの火災に遭いながらも再建を繰り返し、別当西光寺の管理の下に現在まで存続している。江戸時代以降の境内の様相については、現在に残る文書や絵図・木版画等によって知ることができる。

毘沙門堂の西方には、凝灰岩の岩壁に刻まれた大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏があり、現在もなお人々の厚い信仰を集めている。

 

このあと、道の駅「厳美渓」に隣接する一関市博物館へ向かった。

岩手県平泉町 岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンター②柳之御所遺跡出土品



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