
川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館。旭川市北門町。
記念館の外観は,アイヌの彫刻家故・砂沢ビッキによるもの。
2022年6月21日(火)。
苫前町郷土資料館を11時30分頃に出て、旭川市の川村カ子トアイヌ記念館へ向かった。
ナビに従い、日本海沿いに南進し、留萌市から一般国道の無料自動車専用道路「深川・留萌自動車道」を旭川市街地近くまで利用し、神居古潭付近のトンネルを通過して市街地に入り、13時45分頃に到着した。旭川市へは1970年代以来4回目ぐらいの訪問になる。旭川ラーメン村や日本百名山・300名山の登山ベースとして訪れた。
川村カ子トアイヌ記念館の駐車場は臨時的なものだったが、23年7月に新館をオープンさせるために工事中だということだ。
クマザサを豊富に用いた道内でも珍しい「チセ」。
2006年アイヌの伝統家屋であるチセを忠実に再現した。
川村カ子トアイヌ記念館を知ったのは、2021年11月頃にNHK ETV「奄美・アイヌ 北と南の唄が出会うとき」を見たときだ。2015年ごろにコンサートを観た奄美の伝説的な唄者・朝崎郁恵たちが出演し、川村カ子トアイヌ記念館を訪れて、アイヌ家屋の庭で踊っている光景が印象的だった。
川村カ子トアイヌ記念館は、アイヌ文化の資料館としては日本最古。大正5年(1916年)、上川アイヌの首長であった川村イタキシロマにより開設された私設資料館が前身である。
アイヌ民族が使った生活用具や衣装など、二代目館長の川村カ子トが多数収集したのも含め、約500点が展示されている。
川村イタキシロマ(? - 1943年)は、アイヌの首長。松浦武四郎を案内したという上川アイヌの総首長クーチンコロクーチンコロと共に上川アイヌの石狩浜移住命令を断念させるべく石狩に出向いた中の一人で、コタンのリーダーを継承したのが川村モノクテである。かれのあとを継いだのが川村イタキシロマだった。
川村イタキシロマは、美幌から旭川近郊・忠別川のコタンに移り住んだアイヌの一族の7代目である。アイヌ名・イタキシロマは、アイヌ語で「言葉に重みがある=嘘をつかない」の意。
コタンの指導者であるコタンコㇿクㇽ(村おさ)となり、1876年(明治9年)に石狩川の河畔に住むことから「川村」の日本苗字を名乗った。
妻はアベナンカ(タネモンコロ)。1887年(明治20年)に、開拓使による強制移住により、旭川西方の近文(ちかぶに)コタンに移り住んだ。息子が、川村カ子トである。
川村カ子ト(カネト 1893~1977年)は、川村カ子トアイヌ記念館の館長で、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。1893年、旭川永山町(現旭川市永山)キンクシベツに生まれる。父は7代目イタキシロマ、母はアベナンカ(タネモンコロ)。
鉄道に憧れ、小学校を卒業すると鉄道人夫として測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、やがて測量技手試験に合格し、鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わり、宗谷本線や根室本線をはじめとする鉄道施設の測量の先頭に立ち、北海道に敷設された鉄道の測量の大半は、カ子トをリーダーとするチームによって成し遂げられた。
アイヌならではの身体能力の高さを評価した三信鉄道に請われ、難しすぎて引き受け手のなかった天竜峡 - 三河川合間の測量をアイヌ測量隊を率いて敢行し、現場監督も務めて難工事を完成させた。
三河川合 - 天竜峡間は三信鉄道によって開通した。建設は天竜峡側、三河川合側の双方から進められ、最後の大嵐 - 小和田間開業でこの区間が全通したのは1937年である。急峻な山岳地帯を通過するルートで、非常な難工事であったが、アイヌ出身の測量師で山地での測量技術に長けた川村カ子ト等が招聘されて建設にあたり、ようやく完成した。これをもって、現在の飯田線である吉田(現在の豊橋) - 辰野間は全通を見たのである。
三信鉄道開通後は、樺太や朝鮮半島での測量にも従事するが、1944年に引き揚げる。太平洋戦争後は、視力の衰えで測量の仕事を離れ、父である川村イタキシロマアイヌが自費でアイヌ民具を買い集め開設したアイヌ博物館を「川村カ子トアイヌ記念館」と改めて館長を務め、測量の仕事で得た私財を投じて展示を充実させた。
測量技師時代の測量機材や資料も展示しており、川村カ子ト氏が測量技師として多くの業績を残したことを垣間見ることができる。
近文(チカプニ)コタンは、明治期にアイヌ保護のモデル地区として現旭川市緑町15丁目付近に設置されたアイヌの集落、部落である。
明治20年(1887年)、北海道庁初代長官の岩村通俊がアイヌの保護をうたい、旭川村と鷹栖村の間に位置した近文の地に、永山、当麻、比布などに点在していたコタンをまとめるという政策を打ち出し、これを受けて、タナシ(現当麻町)在住のペニウンクㇽ(上川アイヌ、川上に住む人)や他の各地のアイヌ約50戸が自主的に近文へ移住、一帯は「チカプニコタン」と呼ばれるようになった。
近文コタンゆかりの有名人として、知里幸恵(『アイヌ神謡集』の作者。6歳から晩年まで居住)、砂澤ビッキ(彫刻家)がいる。