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秋田市 菅江真澄の墓 古四王神社

2023年10月15日 11時03分36秒 | 秋田県

菅江真澄の墓。入口。秋田市寺内大小路。

2023年6月4日(日)。

秋田城跡歴史資料館(秋田市寺内焼山)の駐車場を出て、菅江真澄の墓を目指して、台地西側から南に回り込むと寺内共同墓地という広大な墓地群に出た。墓参者用駐車場に停めて捜したが見つからず、道路を東へ歩くと史跡標を見つけた。階段を昇った丘上に菅江真澄の墓はあった。

菅江真澄(すがえますみ、1754~1829年)は、江戸時代後期の紀行家である。80年代から名前は知っていたが、詳しくは知らなかった。北海道の民族誌に欠かせない人物であるが、秋田と縁があるとは知らなかった。

菅江真澄は1811(文化8)年から秋田久保田城下に住み、秋田藩の地誌の編纂をした。秋田県を中心に旅をして、見たもの、感じた事、様々な行事を絵に書き留めた。その旅日記「菅江真澄遊覧記」は国の重要文化財になっている。

菅江は、取材途中梅沢(田沢湖町)で病に倒れ、角館に運ばれて没したとも、梅沢で亡くなったとも伝えられている。

文政12年(1829年)7月19日、76歳のことという。翁の遺骸は友人鎌田正家(秋田市の古四王神社の摂社田村堂の神官)の墓域に葬られ、天保3年(1832年)、3回忌をもって墓碑が建立された。

墓碑 高107cm、幅42cm、厚30cm.

墓碑名は翁の弟子鳥屋長秋が書き、長文の挽歌が刻まれている。

墓碑正面中央に「菅江真澄翁」と陰刻され、その周囲に真澄と親交が深かった国学者・鳥屋長秋による万葉調の挽歌が彫られている。右側面には没年月日と享年が「文政十二己丑七月七月十九日卒年七十六七」とある。

墓石は、当初は南向きであったが、隣接する墓所を通って参拝することになるため、1909年(明治42年)に西向きに変えられた。1962年(昭和37年)に秋田市史跡第一号に指定され、2014年(平成26年)3月25日には、秋田県指定史跡に指定された。

古四王神社(こしおうじんじゃ)。秋田市寺内児桜。

菅江真澄の墓の東の旧国道沿いにある。

大毘古命(大彦命)は、第8代孝元天皇の第1皇子で、第10代崇神天皇の時に四道将軍の一人として高志道(こしのみち、北陸道)に派遣されたとされる。阿倍臣(安倍氏)らの祖とされる。

社伝では、崇神天皇の時代、四道将軍大彦命が蝦夷を平定するため北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀り、次いで斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に来た折、自らの祖である大彦命を合祀し、越王神社(古四王神社)として創建したとされている

「齶田浦神」の名は日本書紀に見え、一説では蝦夷が信仰した地主神または海洋神と推定し、「齶田」を「秋田」の古名とする。当神社は延喜式神名帳には記載がないが、『日本三代実録卷第十』貞観7年2月27日(865年3月28日)条に「出羽国正六位上城輪神。高泉神並従五位下」との記述があり、このうち「高泉神」について菅江真澄は古四王神社のことであると書いている

高泉神である明確な証拠は他に存在しないが、新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北地方の各地に胡四王、古四王、巨四王、小四王、高志王、越王、腰王、小姓 等という標記の神社が多数分布することから、越の国を中心に北方に広がった阿倍氏の祖神と蝦夷の土着の神が同一視されたものとして、かなり古くから信仰された神であろうと推察する意見がある。なお、伝説の域を出ないが、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)の蝦夷討伐に際し、戦勝祈願をしたと伝えられている田村神社が境内に存在する。

同地は移転後の出羽柵(後に秋田城)の跡地に近く、城の守りとして創建されたと見られる四天王寺と習合し、中世を通じて古四王大権現として崇敬され、安東氏の寄進も受けている。江戸時代に入り、佐竹氏が秋田地方に入部した後も社領を寄進され、最終的には60石となった。

 

このあと、秋田県立博物館へ急いだ。

秋田市 続日本100名城 国史跡・秋田城跡③漆紙文書



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