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秋田県小坂町 康楽館 旧小坂鉱山事務所 鹿角市 尾去沢鉱山 

2023年10月22日 11時39分31秒 | 秋田県

重文・康楽館。秋田県小坂町小坂鉱山松ノ下。

2023年6月5日(月)。

大館市の北鹿ハリストス正教会聖堂を見学後、小坂(こさか)町の康楽館へ向かった。このあたりは、2022年秋に「世界遺産・北海道・北東北の縄文遺跡」見学の最終盤として、大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡を見学したときに周辺を通過した地域である。

康楽館へは1990年代前半に芝居小屋を活用する町造り運動が全国各地で盛り上がったときに、関係者として招待され、康楽館の桟敷で芝居を観たことがある。2階ロビー周辺の豪華な洋風空間は記憶に残っており、小坂鉱山の繁栄ぶりを象徴していた。

事前の予習の結果、現在は隣接して建っているが、90年代前半には移築されていなかった小坂鉱山事務所を今回は見学する予定としていた。共通の駐車場に着いて、まず康楽館に向かった。入場料を見ると、チェックしていた通り高い。「明治百年通り」を歩いていると、遠足の生徒たちがバスから吐き出されてきた。

康楽館は、木造2階建、正面入母屋造、背面切妻造、妻入、正面両突出部寄棟造切妻造妻入りで、屋根は銅板葺(当初は杉板葺)とする。平面規模は正面約28.2m、奥行約38.2m。

明治43年(1910年)、小坂鉱山を経営していた合名会社藤田組によって厚生施設として建てられた。設計者は小坂鉱山工作課営繕掛長の山本辰之助とされる。

下見板張りの白塗り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾りが並び洋館風の外観を持つ。内部は,玄関ホール,客席部,舞台,楽屋からなり,正面の装飾的な棟飾と妻飾,破風板を縁取る装飾,客席部の洋風の格縁天井など,要所に洋風意匠が見られる一方、舞台中央の廻り舞台、桟敷、花道、切穴など典型的な和風芝居小屋の内装で、和洋折衷の造りが特徴である。

康楽館は,明治後期から大正初期にかけて全盛期を迎えた小坂鉱山と鉱山町の繁栄を物語り、近代の芝居小屋では,伝統的な形式を踏襲しつつ,優れた洋風意匠を取り入れた現存最古のものとして歴史的価値が高い。移築や復元を行わず、現在も利用されている和洋折衷の木造芝居小屋として最古である。

1910年開業時の杮落としは大阪歌舞伎の尾上松鶴一座の公演であった。1970年、建物の老朽化やカラーテレビが普及したことにより、舞台演劇が衰退し、いったん一般興行が休止となった。1986年7月再開館。初の常設公演は大江戸つるぎ太鼓。以後、現在まで舞台として活用されている。

重文・小坂鉱山事務所。小坂町小坂鉱山字古館。

1905(明治38)年に合名会社藤田組小坂鉱山事務所の本部事務所として建設され、ルネサンス様式の華麗な外観を残すこの建物の基調となるものは、屋根の3つのドーマーウィンドー(飾り窓)と、外観に連続する三角形のペディメント(窓飾り)付き窓である。

1997年まで事務所として使われていたが小坂製錬の工場増築に伴い解体され、建物は小坂町に無償譲渡された。2001年、小坂町の明治百年通り構想により、旧所在地から約500m南方の旧小坂鉱山病院跡地に移築復元され、新たに観光施設として生まれ変わった。

旧小坂鉱山事務所の建物は,木造、建築面積753.57㎡、正面三階建、両側面二階建、背面中央部一階建、銅板葺及び厚板葺、正面中央ベランダ付である。設計は,同事務所工作課の北湯口勇太郎と推定されている。

口字型平面の木造3階建で,段差のある敷地に対応するとともに採光を考慮した階層構成と平面形状を持つ。

ルネッサンス風の漆喰壁面に木製のヴェランダポーチをはめ込んだ類例の少ない正面外観を構成している。

旧小坂鉱山事務所は,建築計画や建築意匠上に特徴があり,明治後期における建築技術者の洋風建築設計技術の習得度を測る上で重要である。また,我が国の近代鉱山における本格的鉱山事務所建築の数少ない遺構としても,高い歴史的価値がある。

「らせん階段」。

玄関ホールを入ると見事な「らせん階段」が1階から3階まで通じている。柱には一本の秋田杉が使用されおり、手摺りは緩やかで美しいで曲線を描いている。

2階正面中央のイスラム風といわれるバルコニー付きポーチ。

イスラム風といわれるレース編みのような繊細な透かし彫りの中に社名がデザインに隠されております。

幾何学模様や植物をモチーフにしたアラベスク文様がちりばめられている。

「所長室」(3階)。

鉱山の幹部のなかでも限られた人しか入室できなかった。

 

小坂鉱山は、1861年(文久元年)に金、銀の鉱山として開発が始まった。1869年(明治2年)、盛岡(南部)藩直営から明治政府の官営施設になる。後に日本鉱業界の父と呼ばれた大島高任や「お雇い外国人」として日本鉱業界を牽引したクルト・アドルフ・ネットーらに支えられ、明治初期の「富国強兵」「殖産興業」政策に貢献した。

1884(明治17)年には藤田組(当時)に払い下げられた。1901年(明治34年)には銀の生産高が日本一の鉱山となる。明治30年代、土鉱とよばれた鉱石が底をつき沈滞期を迎えたが、「黒鉱自溶製錬」の成功により、黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が主体となった。

明治38年(1905)に日本一の大鉱山のシンボルとして、巨費を投じて豪壮華麗な「旧小坂鉱山事務所」が建設された。労働者を集めるために、山の中にアパート、劇場、病院、鉄道等の近代的なインフラ整備も進められた。1908年(明治41)から露天掘りが始まり、明治末期から大正初期にかけて日本最大の銅山となった。

第二次世界大戦直後には資源の枯渇等を理由に採掘が中断されたが、1959年に黒鉱(くろもの)の内ノ岱(うちのたい)鉱床が発見されると、活気を取り戻し1960年代に入り同和鉱業(株)によって採掘が再開された。1990年(平成2年)閉山された後は小坂製錬として稼動している。

大島高任(たかとう) (1826〜1901年)。

盛岡藩の侍医・大島周意の長男として盛岡で生まれた。1842年17歳の時に蘭学(医学)を習得するために上京、江戸で蘭学者箕作阮甫、坪井信道らに学ぶ。長崎に留学して、西洋兵学・砲術、採鉱、精練に興味を持ち、反射炉築造のバイブルであったヒューゲニン著『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳した。その後、水戸藩に招かれ、那珂湊に反射炉の建設に成功した。盛岡藩へ戻り、1857年(安政4年)、甲子村大橋(現岩手県釜石市甲子町大橋)に洋式高炉を建設し、1858年12月1日に、我が国で初めて鉄鉱石精練による出銑操業に成功した。その後、現岩手県釜石市橋野町に世界遺産となった洋式高炉を建設した。

慶応2年小坂銀山が藩営になると製錬所の建設、戊辰戦争後の官営時には鉱山正権として熔鉱炉や英国式分銀炉を設けて洋式製錬を始め、南部家経営を経て、2次官営時にはオーガスチン法を実施して銀の生産を上げ、藤田組経営時には、小坂鉱山局長として指導にあたった。

1890年(明治33年)には日本鉱業会の初代会長に就任し、日本鉱業界の父とよばれた。

クルト・アドルフ・ネットー(1847~1909年)。

ドイツ人。ドイツ東部のフライベルク鉱山学校を優秀な成績で卒業した後、26歳で鉱山兼製鉱師として日本政府に招かれた「お雇い外国人」で、明治6(1873)年12月、小坂村に赴任した。

ネットーの仕事ぶりは勤勉そのもので、彼の力によって小坂鉱山は近代化の道を歩み始め、その業績は高く評価されている。

明治10年(1877)に小坂を去ったネットーは、東京大学理学部採鉱冶金学教師となり、多くの技術者を育てた。1885年(明治18年)ドイツに帰国した。

久原房之助(くはらふさのすけ、1869〜1965年)

山口県萩市の生まれ、慶應義塾本科卒。明治24年藤田組に入社して小坂鉱山に赴任、明治30年29歳で事務所長心得となった。

当時の小坂は土鉱が減少し、閉山の運命にあったものの、銀山から銅山として復興させるため、多くの人材を集めて黒鉱製錬に打ち込み、33年遂に黒鉱の自熔製錬に成功、今日の基礎を築いた。

38年藤田組を退社して日立鉱山を経営、久原鉱業(後の日本鉱業、日産グループ)、日本汽船等を創設、また、政界に入って政友会総裁、逓信大臣を務めた。

史跡・尾去沢鉱山。秋田県鹿角市尾去沢獅子沢。

史跡・尾去沢鉱山を見学する前に、道の駅「かづの」に立ち寄り、「きりたんぽ」を食べた。無料施設の鉱山歴史館のみ見学した。

尾去沢(おさりざわ)鉱山では銅や金が採掘された。近代鉱山施設の遺構は土木学会選奨土木遺産や、近代化産業遺産に認定されている。

708年(和銅元年)に銅山が発見され、産金が東大寺の大仏や、中尊寺で用いられたとの伝説が残る。1598年(慶長3年)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見し、金山の一つとして開発が行われた。金が枯渇してきた1695年(元禄8年)には銅鉱が発見され、別子銅山、阿仁銅山とならび、日本の主力銅山の一つとなる。

1889年(明治22年)に岩崎家、1893年(明治26年)に三菱合資会社の経営することとなり、近代化が図られた。明治29年(1896年)には水力発電所の建設により住宅を含む全山に電気が通った。日本の近代化、戦後復興の礎となった尾去沢鉱山だが、不採算と銅鉱石の枯渇から、1966年(昭和41年)に精錬が中止され、1978年(昭和53年)に閉山した。

跡地はテーマパーク・史跡 尾去沢鉱山として開業している。坑道内では約900万年前の地殻が露出して、直接触れることができ、かつて国内最大級を誇っていた銅鉱脈郡採掘跡を間近で体感できる。

 

秋田県北東部は、北鹿(ほくろく)地域とよばれ、日本最大の鉱山地帯として知られている。この地域には尾去沢鉱山をはじめとして、小坂、花岡、松峰、花輪、古遠部など数十の著名な鉱山が分布している。これらの鉱山からは金、銀、銅、鉛、亜鉛等が産出されたが、それら鉱石の賦存状態は二つのタイプに分けられる。

一つはマグマが地下の亀裂に入り固まってできた、細い脈状の鉱脈型鉱床と呼ばれるもので、尾去沢鉱山がその典型である。

もう一つは熱水の活動により形成されたもので、熱水が冷やされる際に広範囲に沈殿した硫化物が塊状(イモ状)に形成された、塊状鉱床とばよれるものである。塊状鉱床は外見の黒い鉱石、いわゆる黒鉱(英語でもそのまま「kuroko」として使われている)が濃縮していることから、黒鉱鉱床ともよばれている。

黒い鉱石の正体は、閃亜鉛鉱(ZnS)、方鉛鉱(PbS)、及び黄銅鉱(CuFeS2)などであり、それぞれ亜鉛、鉛、銅などの鉱石として広く採掘された。

尾去沢銅山事件

江戸末期、南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなした。藩所有の尾去沢鉱山は村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていた。1869年(明治元年)、採掘権は南部藩から村井に移された。

長州藩出身の井上馨は、明治新政府で大蔵大輔の職にあった1871年(明治4年)、この証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、村井は破産に至った。井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを無利息で払い下げた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。

村井は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わったため真相は解明されなかった。これを尾去沢銅山事件(尾去沢疑獄事件、尾去沢汚職事件)という。

政界を離れた井上は、鉱山を手に入れた岡田とともに明治6年秋に「東京鉱山会社」を設立、翌年1月には鉱山経営に米の売買・軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を益田孝らと設立、岡田の急死(銀座煉瓦街で死体となって発見)により鉱山事業を切り離し、同年3月に益田らと先収会社を設立、これが三井物産へと発展した。

 

見学後、道の駅「かづの」で車中泊。翌朝は八幡平頂上のドラゴンアイ見学から始まった。

秋田県大館市 秋田犬 忠犬ハチ公の生家 安藤昌益の墓 北鹿ハリストス正教会聖堂



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