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福島県二本松市 日本100名城・国史跡・二本松城跡 旧二本松藩戒石銘碑

2024年06月29日 16時01分40秒 | 福島県

日本100名城・国史跡・二本松城跡。二本松市郭内。

2024年5月27日(月)。

二本松市智恵子記念館を見学後、二本松城跡へ向かった。ガイダンス施設として「にほんまつ城報館」が城跡に隣接しているが、月曜日休みのため利用できない。「戒石銘碑」「智恵子抄詩碑」「本丸跡」程度を目標としていたため、車での見学ルートが分からずてこずった。まず、城跡東南麓の国史跡・「戒石銘碑」を見学することにして、付近の駐車場に駐車した。イラストでは巨岩の碑文のように描かれていたので、その意外な小ささに拍子抜けした。

旧二本松藩戒石銘碑。

二本松城は、江戸時代・寛永20年(1643年)から明治維新まで220有余年にわたり二本松藩・丹羽氏10万700石の居城であった。城の東手には藩庁があって、藩士達の通用門があった。その藩庁前に露出していた長さ約8.5m、最大幅約5mの自然石(花崗石)の大石に刻まれたのが「戒石銘(かいせきめい)」である。

5代藩主(丹羽家7代)丹羽高寛(たかひろ)が、藩儒学者の岩井田昨非(いわいださくひ)の進言により、藩士の戒めとするため、命じて刻ませたもので、寛延2年(1749年)3月に完成した。銘は、露出面の縦1.03m、横1.82mの間に、4句16字を刻み込んだものである。

戒石銘碑文。

「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」

碑文の意は「お前のいただく俸禄は人民の汗であり脂(あぶら)である。下民は虐げやすいが上天をあざむくことはできない」、「お前(武士)の俸給は、民があぶらして働いたたまものより得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて弱い民達を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」ということで、藩政改革と綱紀粛正の指針を示したものと解釈されている。

昭和10年(1935年)、教育資料として、また行政の規範として価値の高いものであるため、国史跡「旧二本松藩戒石銘碑」として指定された。

戒石銘の原典は、朱子「資治通鑑綱目」第13、陶懋炳著「五代史略」等の記述から、五代時代、後蜀の君主・孟昶(もうちょう)が乾徳3年(965年)に作った24句96字の「戒諭辞」に求められる。

戒石銘碑の起源は、北宋の太宗が大平興国8年(983年)に、この戒諭辞から4句16字を抜出し、戒石銘として州県の官史に示したことにあり、南宋時代の高宗は、その太宗御製の戒石銘を紹興2年(1132年)に、黄庭堅(太宗御製の戒石銘を揮毫した名筆家)の書体で石に刻ませ、州県に頒布して官史の戒めとして用いたという。

二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の三の丸に築かれた居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた本丸などの城郭からなる梯郭式の平山城である。江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城となった。

現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築された。

室町時代初期の興国2年(1341年)、室町幕府より奥州管領に任ぜられた息子、畠山国氏 (奥州管領)の後見人として畠山高国が塩沢・殿地が岡に最初の居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏7代当主・二本松満泰が応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年 - 1443年)にこの地に二本松城を築いた。

以後、陸奥に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。天正13年(1585年)10月、15代当主・二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された(粟之巣の変事)。政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城、城は政宗の猛攻によく耐え、援軍の佐竹義重・相馬義胤らが加勢に駆けつけたこともあり(人取橋の戦い)、政宗の攻撃を撃退した。しかし翌天正14年(1586年)に政宗が再度二本松城へ進軍すると内通者が出たため、7月16日に相馬義胤の口添えにより二本松城は開城、ここに二本松氏は滅亡した

政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代としたが、天正19年(1591年)に政宗が豊臣秀吉の命令により岩出山城に転封されると、二本松城は会津若松城主蒲生氏郷の支城となった。慶長3年(1598年)に氏郷の子秀行が秀吉の命令で転封、代わって上杉景勝が会津に入ると下条忠親が城代となった。

上杉景勝が会津を領有した期間は短く、慶長5年(1600年)、徳川家康に敵対した景勝は関ヶ原の戦いの後に米沢城に移された。会津には蒲生秀行が復帰し、二本松城には城代が置かれた。

寛永4年(1627年)、秀行の嫡男忠郷が跡継ぎの無いまま死亡、次男の忠知が伊予松山城に転封となり、会津に忠知と入れ替わりに加藤嘉明が入ると、二本松城には加藤氏与力の松下重綱が下野烏山城から5万石で入城し、二本松藩が成立した。翌寛永5年(1628年)に重綱が没すると、その子・長綱は三春城に移され二本松城には加藤嘉明の次男・明利が3万石を以て城主となった。

寛永20年(1643年)、嘉明の嫡男明成が改易となり、甥で明利の子・明勝も本家と同様に改易となった。代わって白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城した。光重は二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行った。この際に、本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれた。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、7月29日、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か1日の戦闘において落城した(白河口の戦い・二本松の戦い)。手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。

明治5年(1872年)、廃城令によって箕輪門、附櫓も含む残る建物も全て破却された。

1982年箕輪門と附櫓が復元された。1993年から1995年にかけて本丸の修復工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された。

二本松城は、安達太良山系の裾野に位置する標高345mの通称・白旗ヶ峯を中心として、南・西・北が丘陵で囲まれ、東方がやや開口するという自然の要害地形を利用して営まれた中世及び近世の城郭からなる梯郭式の平山城である。

城跡は白幡ヶ峯頂上部の本丸を中心に、東側にそれぞれ二の丸、三の丸を縄張りする構造で、東西約560m、南北約640mの規模で、本丸と平地の比高は約120mである。本丸から北西・東・南にそれぞれ尾根が伸びており、東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれている。唯一他の山につながっている北西の尾根は堀切で遮断されており、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐ形となっている。

天正19年に蒲生氏郷が入部すると、城域は拡大され、梯郭式の城へと変貌した。また、本丸直下に穴太積みによる大石垣が組まれ、織豊城郭としての形が整えられた。これと同時に城下も整備されている。加藤嘉明が会津に入部し、加藤領となったときに山麓部分の高石垣が築かれている。

寛永20年、丹羽光重が二本松に入部すると、城下の大規模な改修を行った。まず、奥州街道を付け替えて直接城下を通らないようにし、城の南に東西につながる観音丘陵を城域に取り込んでいる。城と丘陵で囲まれた地域は武家地となり、社寺・町家屋敷とを観音丘陵を境に分離移設し、前者を郭内、後者を郭外とする城下町整備を行った。丘陵には切通しが開かれた。切通しには門が設けられ、城の外部の警戒線として機能させた。丘陵も含めた広大な城域は、東に口をあけた馬蹄のような形になっており、外部から城に侵入するには一旦丘陵と切通しを越えなければならないようになっている。この点は鎌倉と作りが似ている。また、城域外から本丸を除いた城の様子がまったくわからないという防御に有利な縄張りを持っている。

東側の開口部には水堀と門が築かれ、守りを固める形になっている。丘陵のうち北東方面はなだらかだが、その北を流れる鯉川の段丘崖があったと考えられ、相応の防御力を持っている。

寺社は観音丘陵の南面と城の開口部で水堀より東に続く谷の両側に集中して配置されている。特に沢地形の奥に寺社が築かれることが多く、外敵が進入したときに兵の駐屯場所と出撃拠点をかねるような形になっている。城下最大の寺社は二本松神社であるが、観音丘陵南面の尾根上に築かれており、独立した曲輪として機能するようになっている。

また、地形的な弱点である西側の搦手には、大隣寺・龍泉寺が配置され、防御力を補う形になっている。

丹羽氏が入部してから本丸はほとんど機能していなかった。これは城の中心が山麓に移ったことを示している。しかし、室町期から城として活用されてきただけあり、本丸周辺には年代が特定できないものを含めて無数の平場がそのまま残されている。

中世城館を近世城郭に改変している痕跡は城内各所でみつかっている。井楼櫓の取り付いた掘立柱塀から屏風折の礎石建ち塀への改修、搦手門の掘立柱冠木門から礎石建ち棟門への改造、切岸を石垣で補修・化粧していること、本丸石垣を拡張して積み直したこと、急峻な地形を削平・盛土して高石垣を積み上げ三の丸空間を造成したこと等、寛永4年(1627)〜20年の加藤氏時代に大規模に改変されたことが判明した。

また、城跡の南東約750mに位置する大手門跡は、天保3年(1832)に幕府の許しを得て造営した櫓門で、奥州街道から郭内に入る城門の一つであり、現在、門台石垣と枡形及び前面の堀に伴う石垣が残されている。

復元された箕輪門方向。

箕輪門近くには「二本松少年隊群像」がある。戊辰戦争における大壇口の戦いがテーマである。

三の丸高石垣と箕輪門。

「智恵子抄詩碑」「牛石」。

安達太良山が望める平場の露頭花崗岩に、高村光太郎の詩「樹下の二人」と「あどけない話」の一節の銅板レリーフが設置されている。詩人草野心平らの有志により昭和35年建立された。この花崗岩には、二本松城築城にともなう“牛石”の伝説が伝えられている。

三の丸西駐車場から智恵子抄詩碑経由で山頂本丸側へ向かう車道を見つけることに苦労した。見晴台付近の路肩に駐車して、智恵子抄詩碑へ歩いたが、登り坂がきつかった。三の丸から本丸跡まで城内遊歩道はあるが、高低差がある。車道は頂上北まで通じており、付近の駐車場に駐車して本丸天守台下の乙森まで歩いたが、そのまでは自動車進入可で広い駐車スペースがあった。

本丸下の乙森までの途中には堀切などの遺構が案内表示されている。

土塁と空堀。

本丸下の乙森。

本丸跡石垣。

本丸跡は、当初西側半分のみが現存しているものと思われたが、調査の結果、根石が全周残されていることが判明し、本丸の形状が明らかとなった。さらに加藤氏時代に本丸が拡張された痕跡が確認された。城跡最古期の穴太積石垣も現存しており、これらの調査結果を受け、平成5~7年にかけて石垣の修築・復原工事が実施された。

天守台。

天守台からの眺望。西の安達太良山方向。

天守台からの眺望。西の安達太良山方向。

天守台からの眺望。南の市街地方向。

天守台からの眺望。東方向。

東櫓台。

東櫓台から乙森、南東方向。

このあと、安達ヶ原・黒塚へ向かった。

福島県二本松市 智恵子の生家・二本松市智恵子記念館



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