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山形県鶴岡市田麦俣 「旧遠藤家住宅」①「兜造り」の多層民家

2025年01月28日 09時06分38秒 | 山形県

多層民家「旧遠藤家住宅」。山形県有形文化財。山形県鶴岡市田麦俣字七ツ滝。

2024年9月13日(金)。

 

月山北西山麓にある黒川能の里を見学後、南東に進んで湯殿山に近い脇道から田麦俣に入った。標識にしたがい「旧遠藤家住宅」の駐車場に駐車すると、下に「兜造り(かぶとづくり)」の茅葺屋根の民家が見えた。

これは、民宿「かやぶき屋」で、「旧遠藤家住宅」見学の入場券を販売していた。管理人の男性によると、現在修理工事中だが、内部は自由に見学できるという。見学後、坂道を登って裏側へ行って眺めた。

田麦俣地区は、外見的には一層に見えながら、内部は三階にもなっている「兜造」といわれる独特の形を持った四層構造の多層民家の里として知られている。

田麦俣集落は、日本海に面した庄内地方と内陸部の村山地方を結ぶ六十里越街道の要所であり、湯殿山信仰が盛んであったときは宿場的性格を帯びていた。明治時代になると、養蚕に適した環境の中に、この地方独特の建築様式を誇る茅葺屋根の民家がたくさん建てられるようになった。かつてはこの集落のほとんどがこの多層民家だったが、現存するのは県指定有形文化財の「遠藤家住宅」他二軒と、鶴岡市の致道博物館内に移築された「渋谷家住宅」(国指定重要文化財)のみとなっている。

「旧遠藤家住宅」は、かつて田麦俣集落に数多く見られた、この地方独特の建築方式である兜造り多層民家の代表的なもので、江戸時代後期の文化・文政年間(1804~1830年)に建てられた

当初は寄棟造であったが、明治に入り、養蚕が盛んになると、屋根側面は「高はっぽう(高破風)」という輪郭と、反りが美しい「兜造り」に改造され、正面側にも採光と煙出しの窓が造られた。

土地が狭い上に積雪が多く、建物の増築が困難だったので、毎日の暮らしと作業・養蚕のための部屋が一つの建物の中にまとめられて多層の形になったと言われている。

現在の建物は、昭和52年8月から同53年10月にかけて半解体復元工事を行い、明治10年代の姿に復元したものである。

日本遺産「自然と信仰が息づく『生まれかわりの旅』」と「サムライゆかりのシルク」の構成文化財に認定されている。

江戸時代、六十里越街道の宿場町・田麦俣には内陸から入ってくる者と、庄内から入ってくる者に対する番所が二か所、置かれていた。田麦川に架かる田麦橋は、庄内藩主酒井氏が参勤交代の通路として使用され、藩主の管理下におかれ、十三年ごとにかけ替えられた。

この土地は田畑の生産高が少ないところで生計は主に鶴岡城下で使う薪の伐り出し行者の宿泊の賄いや道案内・背負子で立てられていた。背負子とは、決められた区間をリレー方式で荷渡しする仕事で、庄内からの海産物を内陸に運んだ。田麦俣の背負子は志津までの六里を担当し、五貫匁の荷を一日三十八銭で、吹雪の中であろうとも運んだ。

江戸時代には、田麦俣集落の家数はおよそ三十軒あり、その中に永楽屋を始め、七、八軒の旅籠屋があった。元来庄内藩の山守の定住地として発生した集落として伝えられる。田麦俣は大日坊の出張所であったが、明治八年神道となり一時は三山社務所の出張所ができて入山許可証を発行したときもあった。しかし、行者が減ってからはもっぱら養蚕に励むことになった。

水車小屋。

内部は、一階が主に家族の居住用として使用されている。

山形県鶴岡市 黒川能の里 王祗会館 春日神社 王祗祭



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