慈恩寺。本堂。山形県寒河江市慈恩寺。
2024年9月13日(金)。
「本山慈恩寺本堂」(1618年落成)では、2022年10月から2024年11月まで約70年ぶりの保存修理工事が行われていた。
中山町立歴史民俗資料館の岩谷十八夜観音庶民信仰資料室を見学後、岩谷十八夜観音堂へ向かったが、アケセス道路が水害のため閉鎖されていたので、寒河江市の慈恩寺へ向かった。今回の旅の行程は15日(日)の山形市の芋煮会に合わせており、ここまでの行程を急いで消化してしまった結果、半日ほど余裕ができた。
慈恩寺は本堂が修理工事中ということで対象から外していたが、江戸時代には東北最大の御朱印高であったということは覚えていたのでダメモトで見学することにした。実際には、本堂の葺き替え工事はほぼ終了して外観見学は可能であった。慈恩寺は外観のみであれば見学は駐車場を含め無料である。15時30分ごろ駐車場に着いて境内の諸堂を10分ほど見学した。帰りに薬師堂の前を通ると、仏像見学を終えた人たちがガイドの僧と出てくるところであった。
史跡・慈恩寺旧境内。
慈恩寺は山形盆地葉山の山裾の、寒河江川扇状地より一段高い段丘上に位置する。院坊屋敷地と境内地は概ね東西700m、南北200mの範囲に収まる。扇状地辺縁は標高約125mで仁王坂を上ると標高約146m、参道を160m進むと標高156mとなる。参道の階段が比高差約13mあり、山門は標高169mに位置する。山門をくぐると階段があり、本堂が位置する平坦地は概ね標高172mである。
参道付近の院坊屋敷地は東側が標高180mの尾根に囲まれており、西へ行くに従って緩やかに下るが、田沢川によって隔絶される。南は比高差20m以上の崖地、東は標高180mの尾根、西は田沢川、北は葉山の山塊に守られている。さらに、この外側に結界を守る4つの神社があり、西は史跡に含まれる八面大荒神(はちめんだいこうじん)、東は箕輪の折居権現、南は八鍬の鹿島神社、北は白山権現である。この結界は東西2.1km、南北3.6kmに及ぶ。
史跡指定面積の合計は約44万6千㎡で大きく3つのエリアに分かれる。本堂を中心とする「本堂境内地」「院坊屋敷地」と後背の「中世城館群」、西の結界「八面大荒神(はちめんだいこうじん)」、および「慈恩寺修験行場跡(山業)」である。
東北地方を代表する寺院境内地は、江戸時代には3ヵ院48坊からなっており、寺領は18カ村にまたがり、東北最大の御朱印高約2812石を幕府より認められ、勅願寺として又鎮護国家の祈願寺として崇敬されていた。
江戸時代に復興した堂社と、院坊の屋敷地のたたずまいは、その背後を取り巻く城館群や旧境内地の北端近くに存在する慈恩寺修験の行場とともに、旧境内の様相を良好にとどめており、我が国の仏教信仰の在り方を知るうえで、極めて重要である。
本堂境内地は、本堂(国指定重要文化財)を中心に、山門(県指定有形文化財)・薬師堂・阿弥陀堂・釈迦堂・天台大師堂(以上市指定有形文化財)が静寂の中建ち並び、江戸時代の姿がそのまま残る。この堂舎が建ち並ぶ平坦地は、平安期に背後の山を切り崩し造られた。中世の慈恩寺は、堂舎群がさらに東方に広く展開していたが、江戸時代初期に現在の位置に集約された。
慈恩寺は、檀家を持たず、「鎮護国家」「国家安寧」等の勅願寺として、摂関家藤原氏、奥州藤原氏、寒河江荘大江氏、山形城主最上氏、そして江戸幕府と、時の権力者より庇護され、江戸時代には幕府より2800石余の寺領を受け、東北随一の巨刹となった。
宗派は、南都の法相が入り、平安仏教の天台・真言が入るなどし、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院となっている。
境内には、重要文化財の本堂をはじめ三重塔・薬師堂などが建立され厳かに時を刻み、平安・鎌倉時代の仏像群は、我が国の仏教美術の至宝として重要文化財の指定を受けている。また、5月5日に奉奏される慈恩寺舞楽は、重要無形民俗文化財となっている。
重文・本堂(弥勒堂)。
当山の中核施設で、元和2(1616)年、山形城主・最上家親の代に建立が始められ、元和4(1618)年に完成。桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺。桃山時代の様式や重厚な茅葺屋根を今に伝えている。再建当時裏山に群生していたヒメコマツを使った66本の柱は、日本60余州を表したものといわれている。外陣天井には竜や天女が描かれ、本尊弥勒尊ほか秘仏33体が内陣の宮殿に安置されている。
三重塔。(山形県指定文化財)。
慈恩寺の初代三重塔は、慶長13年(1608)に、山形城主最上義光(よしあき)により建立された。文政6年(1823)に隣家の火災により類焼し、同13年(1830)に地元の大工棟梁布川文五郎(ぬのかわぶんごろう)によって現在の塔が再建された。本尊木造大日如来坐像。
山門(仁王門)。(山形県指定文化財)。
元文元年(1736年)築造。3間1戸の楼門造で、入母屋造、八脚門で銅板葺(もと茅葺)。
両側には密迹(みっしゃく)金剛・那羅延(ならえん)金剛を安置。
5月5日の慈恩寺舞楽のさいは、本堂に向かって舞台が組まれ、山門から延びる渡り廊下によりつながり二層を楽屋とする。
慈恩寺の本尊は弥勒菩薩で、脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する日本国内でも珍しい五尊形式である。創建当初は八幡大菩薩を鎮守神として祀っていたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院として慈恩宗を称する。
慈恩寺は、伝承によれば、神亀元年(724年)に行基がこの地を選び、天平18年(746年)に聖武天皇の勅により婆羅門僧正菩提僊那が寺院を建立したのに始まるとされる。山号を寒江山とし、大慈恩律寺と称した。慈恩寺は山中に伽藍を構築しており山岳寺院の傾向を持つ。
平安時代の天仁元年(1108年)、鳥羽天皇の勅宣により藤原基衡が阿弥陀堂(常行堂)、釈迦堂(一切経堂)、丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した。このとき山号を雷雲山と改め、鎮守として白山権現を加えた。
仁平年間(1151年 - 1153年)に興福寺の願西上人を本願者、平忠盛を奉行として再興した。興福寺は藤原摂関家の氏寺であり、法相宗の総本山であった。寒河江荘の荘園主である藤原氏の庇護と、公卿への昇進を目前に控えた忠盛の財力をうかがわせる。
保元2年(1157年)に火災で本堂が焼失するも、永暦元年(1160年)に再建された。
文治元年(1185年)、後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、瑞宝山の山号を賜った。この時、高野山(金剛峯寺)の弘俊阿闍梨により真言宗がもたらされ、翌文治2年(1186年)、法皇の院宣により熊野権現社殿が修造された。白山権現は鎮守から外れることになり、天台宗も中心的役割を失っていく。弘俊は修験を導入し、葉山を奥の院とする葉山修験の中心地となった。
文治5年(1189年)に奥州藤原氏が滅び、寒河江荘の地頭に大江広元が補任されると、慈恩寺も次第に大江氏(寒河江氏)の庇護を受けるようになる。
南北朝時代初め、寒河江氏は南朝方陸奥守北畠顕家の配下に付いた。文和3年/正平9年(1354年)、斯波家兼が北朝の奥州管領として下向すると陸奥国は北朝の勢力下となり、延文元年/正平11年(1356年)、子の斯波兼頼が出羽国に進出した。
応安元年/正平23年(1368年)、大江氏と斯波氏は漆川の戦いで激突し、大江氏は壊滅的な打撃を受けて北朝へ降伏。慈恩寺を庇護する寒河江氏の勢力縮小は、寺社経営を宗徒による自活へと舵を切らせる。
永正元年(1504年)、斯波氏の後裔・山形城主最上義定が寒河江領に攻め入り、兵火により一山仏閣、坊舎が悉く焼亡してしまう。これと同時に宝物も散失してしまったが、本堂の諸仏は難を逃れ1躯も焼失しなかった。仮本堂が築造されるが、往時の本堂を再建する余力はなく、再建は江戸時代を待つことになる。
天正12年(1584年)最上氏の攻撃により寒河江高基が自害し寒河江氏が滅亡すると、慈恩寺は最上氏の庇護を受けるようになり、所領は黒印地として安堵された。
慶長5年(1600年)、山形城主最上義光は関ヶ原の戦いに際して、慈恩寺に対して「立願状」を出して戦勝を祈願した。江戸時代に入った慶長11年(1607年)に最上義光が三重塔を築造し、慶長16年(1611年)には慈恩寺領の指出検地を行った。元和4年(1618年)、義光の孫の義俊の時、本堂の再建が完了した。元和8年(1622年)に最上氏が改易になると、慈恩寺領と衆徒所有の土地が一時幕領となってしまう。別当坊(池本坊、後の最上院)は南光坊天海に接近し、慈恩寺を高野山南光坊(天台宗)直末とする請願をして許される。その後、慈恩寺は真言宗・天台宗兼学の寺院として存続することになった。
江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した。修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮して帰農する坊が続出した。現在は3ヵ院17坊を伝える。
昭和27年(1952年)、慈恩寺は天台真言両宗慈恩寺派として独立することになり、昭和47年(1972年)に慈恩宗大本山慈恩寺として独立した。各院坊の住職は、真言方は宝蔵院・華蔵院で修行し位階を取得、天台方は最上院で修行して山寺立石寺で伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受けて僧侶としての位階を取得する。
このあと、河北町の紅花資料館へ向かった。