林檎日記

日々の事、考えた事など
無責任に書いてます

『さよなら妖精』米澤穂信

2025-01-25 23:04:00 | 
『満願』のひとの。
こっちを先に読んでたら、他の本を読もうとは思わなかったな。
面白くなかった。青春の1ページ的なことが延々と書いてあって、これがどう回収されるのかワクワクしながら読んだけど、なんてことはなかった。

ただ、ユーゴスラビアとか、ボスニアヘルツェゴビナとか、
あー、そういう世界のこと、分かれてよかった。
知らなかった。なんで、私がボスニアヘルツェゴビナという地名を知ってるのか。知ってるだけで、何が起きたのかとか知らなかった。気にしてなかった。
いまでも、そんなことはたくさんあるだろうね。

そういうところに、意識を飛ばせてくれて、それは良かったな。

娯楽小説としては、面白くなかった。
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『ふたつの時間、ふたりの自分』 柚月裕子

2025-01-19 22:57:00 | 

 試験期間にさしかかりそうだったし、コンサートもあったし、短編集を求めてたら、いき合ったエッセイ。


 普段はエッセイはほぼ読まない。興味ないんだな、人のことに。

 ただ、岩手の人だし、って思って手に取って、裏表紙かな?読んだら、震災の話題もあるって書いてあって、読む気になったのね。


 でも、なんてことはなかったな。

 震災以外の話題には興味はなかったし、震災に関しても、大したことは書いてなかった。

……って書いたら、著者からしたら不満だろうなぁ。きっと。震災の事を書くのって、当事者にとったらきっとすごくパワーがいる事だと思うんだ。だから、あれはきっと、精一杯なんだろうとは思うけど。でもね。

いち読者としては、ね。

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『満願』

2025-01-10 09:59:00 | 

面白かった!

短編集だけど、どれもこれも、こんなに短いのに、こんなに読ませてくれるなんて!


すっきりさっばり終わる物語ではなくて、後味が残るタイプ。

好きなタイプー😊

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『更級日記』 平塚武二

2025-01-01 12:51:00 | 
こども向けの。
楽しかったです。

コミックエッセイの方には書かれていない文もあった。

でも、こどもの頃は、これを読んでも楽しいと思わなかったかもなー、って思う。

なんていうか、日記だもんね。
こどもの頃には分からなかったんじゃないかなー。

でも、楽しい。気持ちが素直に書いてあっめ楽しい。面白い。

かわいい。
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『土佐日記』 堀江敏幸訳

2024-12-27 17:30:00 | 
「おのこもすなるにっきというものを おんなもせんとてすなり」
という文章を、学生時代に習った覚えはあって、なるほど、平安時代にかな文字ができて、女性も文章を書くようになった転換点として、大事だから習ったんだな。
って、思ってた。

『土佐日記』の冒頭だった。土佐日記の著者、紀貫之じゃーーん!!男じゃーん!!
ってのが、最初の衝撃。

続いて、本編に入る前に、紀貫之による序文がある。私が理解したのはこんな感じ。

世の中は漢語ができる男が重宝されている。私も漢語ができなくはないけど、漢語ができる男は溢れかえっているから、得意としているやまとことばや和歌を磨いてきた。でも、やまとことばの地位はあがらない。和歌に親しんでくれる天皇や、和歌に親しむ自分を盛り立ててくれる友達もいたけど、亡くなってしまった。ちなみに、土佐に赴任になったのは、おそらくその友達のおかげだろう。任官されるだけでありがたいことだ。
私は漢詩を書くことももちろんできるけれども、普段使っていることばではないから、どうしても、気持ちの全てを漢詩で表す事ができない。そこで、仮名文字で、気持ちを表すことを考えた。仮名文字で書くのは女性である。だから、女性の身になって、土佐からの船旅を、日記として書こうと思う。
船には沢山の人が乗っていた。色々な人の事を書くけれど、それは、「だれ」ということはない。また、書いている「わたし」も誰かに固定しているわけではない。だから、女性として書くと言ったけれど、その時その時で、男性として書いていることもあるかもしれない。

ほうほう、自分の気持ちをあらわすのに、しっくりくる言語があるとかないとか、この時代の人でもこんな事を考えていたんだなぁ。  と、感心した。

さて、本編にはいると、
「船の長(である私)がこう詠んだ。」
「男の人なら漢語がわかるからこういう時漢語で書くのでしょうが、わたしは漢語が分からないから、きいた音をひろって書いている(しかし、書いている私は男であるから、本当は漢語で書けるけれども、おんなの設定で書いてるから、かなでかくのだ)」
「ある人(じつは私だ)がこう詠んだ」
「嫗女がこう詠んだ(じつは私だ)ので、歳をとっていても上手に読むものだと、みんなでほめそやした」
「この船の長は風流など解さない人だが(そんなこともないのだが、文章の中で自分のことを貶めておくのも必要だろう)」
とか、()書きで本人による注釈が入りまくるので、ツッコミどころ満載である。
序文で書いてるんだから、本編では書かなくていーじゃーん。

こんな設定がしっかりしていない文章でも、読み継がれる名作なのか。最古の日記小説だから?いや、当時はこういう手法が浸透していなかったから、本文中でも、こういう設定ですよと、伝える必要があったのか?
と、いうか、「これは他者が詠んだ歌ではないですよ。私が詠んだ歌ですよ」と、念をおしておきたいようにしか見えない。この素敵な歌の手柄を手放したくないように感じる。
でも、そうか。土佐の任を解かれて都に戻っても、自分の才能をわかってくれる天皇も友達ももういない。これからの、自分の人生を考えると、自分の才能を誇示せずにはいられなかったのか。

なんて、色々考えながら読んだんですけどね。

訳者後書きまで読んだらですね、

序文も、本編中の()書きも、訳者が作ったっていうじゃありませんか。

ナーーーーヌーーーー????
やっちまったなぁ!!!

やめてよー、そういうの。
なら、訳者の注としてつけてよー。

いろいろむだに考えちゃったじゃーーーーん!
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