動物の本ばかり読んでいる訳では無いのだが…
この本を読んだことで、新しく考えた事がいくつかあるので書き留めよう。
この本で、一番衝撃を受けたのは、日本人の人口の変遷。動物観の変遷についての前説明みたいに書かれているこの内容が、一番印象に残るとはね!
縄文時代の日本人は20万人前後。(なんと!1万年以上もそれほど増えることなく続いたとは!)弥生時代で60万人、鎌倉時代に500万人、江戸時代に3000万人、太平洋戦争の頃に8000万人、戦後1億人を超えて今1億2千万人。
20万人で暮らしていた土地に、今は1億2千万人住んでるのか。そりゃあ、土地が足りないわな。
なんだ、人口減少っていったって、江戸時代と比べてもまだまだ多いじゃないか。5000万人位まで減ったって、いいんじゃないかねぇ。
とか考えたんですよ。
そりゃ、暮らしの豊かさとか、年齢構成とか、人口だけではかれないものがあるんでしょうけどね。かつて1万年以上も20万人程度で暮らしてきたんだから、それでもいいんでしょうねぇ。
と、その衝撃から、新しい考えが一つ芽生えたのだった。
「実験で動物を殺す事になった際に、高等な動物ほど罪悪感を感じた」という例を持ち出して、たしかにそうには違いないが、「高等」「下等」と感じているソレは、本当にそうなのか?という問いがあった。
これはね〜、「高等・下等」ではないと、私は思っているよ。系統樹の見方は、「進化の先っちょの方が高等だ」とは、私は今はそうは思ってなかった。きちんと言語化して考えたことは無かったけど、この本を読んで、それに気づいた。系統樹の見方は、「進化の進み具合、DNA的に近いもの同士が近くになるように並べてある」と、思っていて、なので、DNA的に自分に近い生物であるほど罪悪感が大きい。昆虫に比べて、哺乳類を殺しにくいのは、なんと!DNAの仕業であった。
私はこれが真実だと思うな〜。
今、ムーミンの本を読んでいる。その感想はあとでまとめて書きたいと思っているんだけど、こんなステキなおはなしが国民の根幹にあるのならば、北欧の国の福祉レベルが高いのも頷けるなぁ。って思ってたの。
私がその「いいなぁ」と思った風土が、かつて日本にもありましたよ、って書いてあった。
農耕をしていた時代。害獣も全て悪と見なさずに、害獣は害獣としながらも、「共にこの風土を生きている」「害獣は害獣なりに、頑張って生きている」としてその存在を認め、連帯感を持っていた。なので、害獣に対しても寛容さがあった。
現在のように、全滅させようなんて思ってなかった。(今は害獣は身近じゃないから、例に出てたのはゴキブリとか、蚊とか、ダニとか、菌とかね〜)
あぁ、日本にもあったのかー。もしかして、北欧も、ムーミンの頃にはあっても、今は無くなってるものだったりするのかもしれない。ムーミンが土台にあるから、福祉が発展したってのはまた別の話かも。って、思ったのが一つ。
「自然を守る」とはいうが、本当にそう?毎年自然災害に苦しめられて一年が過ぎて行くのに?「自然を守る」ってのも、人間が自然を支配できていると思っているから出てくる考えじゃない?少し前まで、日本人は「自然を畏れた」ものですよ。
みたいな問いかけもあった。
なるほど〜。そうかも〜。確かに、自然の脅威には太刀打ちできない。そんな人間が「守る」なんておこがましい。
「畏れる」が正しいのかも。もちろん、今は昔ではないから、自然を畏れて、生贄なんかを捧げる必要は無いんだけれども。自然を畏れずにヒトの好き勝手やった結果が、環境破壊につながって温暖化を引き起こしたり、原発事故を起こしたり、この星を、住みにくい星に変えたわけだ。
「ヒトは自然を畏れなければならない」これは、新しい考えだった。
そして、このおそろしい自然の中、一生懸命生きている生物同士、認め合いましょうと、いう、先の考えに結びつく。
この本を図書館に返した帰り道、こんな田舎でも、視界に入る一面がアスファルトで舗装されていて、視線を上げれば電線があって、山の上まで鉄塔があって、全く人間の世界。農耕時代は、狩猟時代は、ヒトが猿だった時代は、そしてもし、急にここからヒトがいなくなったら、ここにはどんな風景がひろがっていたんだろう、広がるんだろう、と想像しながら帰ってきた。面白かった。
どこか、文明の進んだ、宇宙の星では、宇宙人が、自然との共生を本当にうまくやっているかも知れない。
その星の風景は一体どんなだろうか。