2016年(平成28年)7月26日、相模原の障害者施設『やまゆり園』で起きた大量殺人事件をモチーフにした小説。
映画の存在を先に知って、でも、映画は見れなかったんだ。原作がある事を知って、読んだ次第です。
事件のことは、覚えてはいたけど、詳しくは覚えてなかったし、そもそも、当時、熱心に情報を集めたわけでもなかった。
小説は、障害者きーちゃんの視点から語られる。きーちゃんは、幼い頃からこの施設にいて、目も見えないし、体も動かせないし、話せないし、この小説で書かれているような色々な事を知っていて、また、考えられるとは思えないんだけどさ。まー、でもそれはそれで!って感じで読める。
また、きーちゃんの分身のあかぎあかえという人物が、犯人のさとくんと交流したりして、全部きーちゃんの頭の中のことなのか、(小説の中の)現実と入り混じっているのか、まあ、入り混じっているような感じで描かれていく。
うーん、整合性を考えながら読むと分かりにくいかも知れないけど。それはそれで!って感じで読める。
というか、その、整合性の取れなさが、きーちゃんらしさのようなものを感じさせてくれて、良いような気がする。
いろいろ、ドキっとさせられたり、考えさせられる小説。きーちゃんはさ、さとくんのことが好きなの。そして、さとくんに「終わりにしてもらう」のを、待ってたりする。でも、きーちゃんの分身のあかぎあかえは、さとくんを止めようとするんだけどね。
内心では「気持ち悪い」と思いながらも、そんな気持ちは表に出さずに、自分に接する多くの人たちよりも、
「まったくね……あんたはなんなんだい?いったい、なにから生まれてきたんだい?なんのために?ひとからかい?まさか……」「しんじらんない。あんた、なにしに生まれてきたんだよ……なくてもよかったろうに……」と、話しかけてくれるさとくんを、きーちゃんは好きなの。
考えちゃった。そーだよね。誰も彼も本心で接してくれていないって、どうだろう?それはつらいかも。でも、本心が「きもちわるい」とかで、それで接されても嫌だし。そもそも、本心がそんな事を思わない人ならいいんだけど、どうでしょう?そういう人はどのくらいいるんでしょう?
ちなみに、私はきもちわるいと思っちゃうタイプ。間違えているのは分かってる。でも思っちゃう。でも間違えてるのは分かってるから、表には出さないよ。そう。でも、できれば目を背けたい。
どっちのタイプが多いのかなぁ?
今の日本は、障害者が健常者のすぐそばにいる環境ではないから(障害者も介護が必要な高齢者も隔離されてるよね)、馴れない人は多いだろうなぁ。
子どもの頃から近くにいれば、それほどでもないのかも知れない。
今の日本の社会の、もしくは、そもそも人間の、歪みとか、矛盾とか、そういうのを突きつけられるような内容かなぁ。
さて、途中でチラと映画の情報を見る。宮沢りえは、きーちゃんではなかった。職員だった。職員の目線からのものがたり。また、違うものになりそうだ。
あとね、気になったのは、映画のあらすじの『ほかの職員による入所者への冷淡な扱いや暴力〜』のくだり。小説でも、他の職員による暴力の話がなかったわけではないけれども、それはあまりフィーチャーされていなかったように感じた。実際のやまゆり園がどうだったのかは分からないけれども、きっと多くの職員が、善意の気持ちで接していたんだと思うよ。そして、この小説のお話の中では、きーちゃんの中では、そういう善意で接してくれる人よりも「なくてもよかったろうに…」って言ってくれるさとくんの方が好きだったんだ。映画をみてはいないけど、他の職員の暴力などがフィーチャーされているのならば、映画と小説は、だいぶ違うものになってるんじゃないかと思っちゃう。どうだったんだろうか。
さて、小説を読み終わった後には、ウィキペディアにて、事件の詳細を調べてみる。
あ、犯人、名前、さとくんだな。
ウィキペディアで読む植松 聖は、小説で読むさとくんと、印象が全然違う。小説のさとくんには共感できる部分があるのに、ウィキペディアの植松は、わたしは全く受け入れられない。生い立ちの、かなり序盤の段階から、私は拒否する。事件を起こしても「さもありなん」という感じ。
これは、作者がさとくんを別もんに作り上げたかな、と最初は思ったけど、違うかもね〜。
きーちゃんから見るさとくんは、さとくんなのかも。施設で働いている場面しか見ていなければ、想像するさとくんの背景も変わってきて、さとくんはさとくんになるのかも。
逆もありで、植松の、表面的な生い立ちしか知らない私は拒否反応を起こすけれど、小説のように、内面などを細かく知ることができれば、植松にもさとくんのように、共感できる部分があるのかも。
そういうのも含めて考えると、この著者すごいなー。この小説すごいなー。