土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

小説と映画

2008-06-12 02:14:51 | 本・映画
やっと昨日「時をかける少女」読了。
5/18 に手に入れてから何日経っているのか;
映画の方は 5/20 に DVD を買って来て、一昨々日 BS2 で見て…。

(再三書いてますが、この話題)
小説が届いた日、例の言葉( → 5/23 記事等)や気になる所をチェック。
巻末の「解説」と…部分的に拾い読みして、止まってました;
その間、DVD で久しぶりに見返して、新たに気付いた事。
放送を見て、本を(通しで)読んで納得(合点)した事。


映画で引っ掛かっていた部分。
『僕の記憶さえも…』と告げながら、再びやって来た時、深町は和子を振り返る。
小説とは結末が違っているので、何故?か、が解らない部分。

『時間はやって来るもの…(又この時代にやって来る)』と言い、彼は和子に <希望> を与えた。
『僕の記憶さえも…(小説にこの設定は無い)』当初私は、彼は免れたのか…と考えたが。
今は、彼は嘘を言ったのではないか、と思う。
深町は(大林監督は)たぶん、和子に『共感」という <支え> をも与えた。(疑似体験してる観客にも)
『君だけが忘れてしまうんじゃないよ。』
(この場合『他のクラスメートも』というのは和子にとって意味が無い)
『僕も同じ、君と一緒なんだ。』という絆だ。
恋しい相手との突然の別れ、に対する和子の気持ち、へのいたわりと愛情。

…そんな気がする。(今頃;)

映画は小説(中学三年?)よりも、年齢が上の設定である。その為(?)小説とは違って、こちらは、より踏み込んで「恋愛」が軸になっている。
吾朗と深町の間で、恋・愛を、物思う形になっている。


(ハルキ文庫)巻末の大林監督による「解説」インタビュー記事引用部分、でも書かれていますが、
大林『僕の見る筒井康隆像、というのは、本格派の、正統的な文学者です。十九世紀的な魂についての、人間の尊厳の問題を、常に文学上の主題としている。』(中略)
『筒井さんも、異端の振りのまことに見事な正統派作家。』( →「今日の言葉」5/22)


小説は、SF・ファンタジーという道具立てを使いながら、とても古典的な浪漫な作品。
恋愛の手前の、思春期の目覚め・憧れを描写している。
(レースのカ-テンと日差しの関係、手を洗う吾朗の科白、等の描写・表現の違いも丁寧です)
「手前」であるから、一人称の、和子の物思いで、余韻で締められる。
(対象は偶像で良い。王子様が未来人になっている。「ロマンチシズム」)
映画は「より踏み込んでいる」から、より「感情(コミュニケーション)」に寄り添っている。
画という姿(生身)を持ったから、生きる姿(その後)で締めている。
(観客に不完全燃焼させない、も)
そんな風に、やっと?合点(?)が行きました。


小説を読まないと、気付かなかったかもしれない。
映画化された(見た)作品は、やっぱ本も読んでみた方が…
今回読んでみて、新たな視点が増えて良いなあ、と思いました。
(今頃;;)

あと映像について。ラスト近く、和子がいぶかし気に振り返るシーン。
「時間」が流れて行く、過ぎて行く「時間」をカメラで表現したシーンが秀逸です。和子の目線なのが意味を持つ。(と同時に、和子の背なめのカメラで、一緒に観客もフィクションの時間から戻す)
前述した(5/23)廊下のシーンと共に、素晴らしいカットだと思います。


これで、「時かけ」の話題はやっと;「締め」になります。たぶん;
再三;長々;と、おつきあい下さって、有難うございました。



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