「原爆の図」を夫の位里と共同制作し、夫妻でノーベル平和賞の候補になった画家丸木俊(1912~2000年)。
俊自身が封印していた初期作品が近年公開され、油絵や絵本などの幅広い画業の全容が明らかになりつつある。
北海道で生まれた俊は1933年、東京の女子美術専門学校(現女子美術大)を苦学して卒業。
4年間、千葉県の尋常小学校で代用教員として働いた。児童の絵画や作文を熱心に指導。
「原爆の図」を夫の位里と共同制作し、夫妻でノーベル平和賞の候補になった画家丸木俊(1912~2000年)。
俊自身が封印していた初期作品が近年公開され、油絵や絵本などの幅広い画業の全容が明らかになりつつある。
北海道で生まれた俊は1933年、東京の女子美術専門学校(現女子美術大)を苦学して卒業。
4年間、千葉県の尋常小学校で代用教員として働いた。児童の絵画や作文を熱心に指導。
(広島平和記念公園)
最近、建築家の丹下健三に興味を持っている。
彼が設計した有名な建物は、国立代々木競技場や
広島平和記念公園や東京都新庁舎などである。
東京には相当の建物が残っている。
時間があったら、見に行こうと思っている。
『アイヌ神謡集』を遺して19歳で死んだアイヌの少女。1903(明治36)年登別の幌別生まれ。父は知里高吉、母はナミ。
知里幸恵は当時のアイヌ女性としてはめずらしく女学校を卒業していた。そのうえ、当時においても、ほとんど老人しか話せなくなっていたアイヌ語をよどみなく話し、さらにそれ以上に美しい日本語を操った。アイヌの口承叙事詩ユーカラの伝承者であった伯母の金成マツの養女となり、祖母モノアシノウクと生活していた幸恵は、十代の少女であるのにもかかわらず、多くのユーカラを諳んじていた。幸恵は、アイヌ研究者金田一京助にとってみれば、願ってもない存在であった。
幸恵は金田一の熱意に応じて上京し、そのユーカラ研究に身を捧げた。金田一京助のアイヌ語研究が他から抜きん出、やがてアイヌ学の代名詞にまでなるに至るのには、幸恵の存在があってこそであったと言える。金田一をして、「語学の天才」「天が私に遣わしてくれた天使の様な少女」(「『心の小径』をめぐって」)と言わしめた幸恵であったが、もともと病弱であった幸恵は、わずか一冊の本を持病の心臓病を悪化させ、わずか十九歳で亡くなってしまうのである。