茂原学習塾・予備校塾長日記(誠心学院予備校)

塾・予備校の出来事や内容紹介。
成績の上げ方、日ごろの心構えを
分かりやすく記事にしています。

田中良和

2009年12月24日 | 人物
SNS大手グリー株式会社の社長。

1977年に東京都三鷹市に生まれる。

1990年にアルビン・トフラーの著書「パワーシフト」を読み、中学生であったが、情報化による社会の変化とそれを生みだしていく情報通信分野に強い興味を持つ。

1995年にこれからは、政治・経済・情報の3分野の統合が進んでいくと考え、日本大学法学部政治経済学科に入学。米国の情報通信分野の産業育成・企業支援の政策を卒論とする。

1996年に米国に短期留学した際に、その大学で初めてインターネットに触れ、インターネットの普及によって劇的に社会の情報化が進んでいくことを確信。その後、ネットスケープやヤフー等の新興インターネット企業群によって、新たにインターネット産業が米国に誕生するのを見る中で、日本でも同様にインターネット産業が誕生すると考え、自らの将来の方向性を決める。

1999年に大学を卒業後、ソニーコミュニケーションネットワーク(現ソネットエンタテインメント)に、同社の新卒第一期生として入社。経営戦略やサービス企画の担当部署で、海外事業の支援や通信キャリアとの交渉などを行う。

2000年2月に当時、約50人程度のベンチャーであった楽天に入社。その後、個人間オークション、ブログ、アドネットワーク(アフィリエイトプログラム)、プロダクトレビューを始め、さまざまな新規コンシューマ向けインターネットサービスの企画・開発を行う。

2003年冬に、個人的な趣味の一環としてソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)GREEの開発を開始。

2004年2月にGREEを一般公開し、個人サイトとしてサービスを開始。その後、利用者の増加によって、個人での運営が困難な規模になったため、同年12月に、GREEの運営母体として、グリー株式会社を設立し、代表取締役に就任する。

2008年12月に、グリー株式会社が東京証券取引所マザーズへ上場。初値が公開価格の1.5倍となり、終値ベースの時価総額でマザーズの1位となる。

2009年2月に、米経済誌「フォーブス」(アジア版)が発表した「日本の富豪」40人の24位になる。2005年に40位に入ったライブドアの堀江貴文元社長、2008年に37位に入ったミクシィの笠原健治社長と同じ最年少の32歳でランク入り。総資産は8億5千万ドル(推定)。
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茂木 健一郎

2009年12月22日 | 人物
茂木 健一郎(もぎ けんいちろう、 1962年10月20日 - )は、
株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所上級研究員、
東京工業大学大学院連携教授。学位は博士(理学)(東京大学・1992年)

「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係
(心脳問題)についての研究を行っている。また、脳と神経に関す
る一般読者向けの解説書を多く執筆し、テレビ番組や雑誌、週刊誌
などマスメディアで積極的に活動している。

一般に名が広く知られる一方、後述するように、自称「脳科学者」
としてのマスメディアでの活動内容には著名人からの批判意見もある。
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川田龍平

2009年12月20日 | 人物
川田龍平(かわだ りゅうへい、1976年1月12日 - )は、
日本の人権活動家、参議院議員。東京HIV訴訟(薬害エイズ事件)
原告、川田龍平と人権アクティビストの会代表。龍平学校-PEEK主
宰。母は元衆議院議員の川田悦子、妻はジャーナリストの堤未果
(放送ジャーナリストばばこういちの娘)。2007年7月29日投票の
参議院選挙に東京都選挙区より出馬し初当選した。

生後6ヶ月、遺伝性疾患である血友病との診断を受ける。同病の
治療に用いられた非加熱輸入血液製剤によりHIV(ヒト免疫不全
ウィルス)に感染、その事実は10歳当時に母親から知らされた。
1993年、東京HIV訴訟の原告(薬害エイズ事件を参照)のひとり
となる。1995年、19歳で実名を公表。エイズパニックの中実名を
出して戦う姿を知った青年たちが「何か出来ることはないか」と
集まり、厚生省を包囲する「人間の鎖」を成功させる。それをき
っかけに世論の高揚が厚生行政を揺るがし、日本の薬害裁判史上
初めて刑事裁判への道を切り開いた歴史的なイベントとなった。
人権問題の欄でガンジーの隣に川田龍平を載せている歴史の教科
書も多い。1996年、訴訟は和解で終決したものの、以後も変わら
ない国と大企業の癒着体質を追及し続けている。

大学在籍中にドイツへの語学留学経験があり、高校社会科教師を
志向していた。2003年4月から松本大学非常勤講師。担当科目は
「生命倫理」「社会活動」「ユニバーサルデザインと地域」。

2007年、世界経済フォーラムが選ぶ「Young Global Leaders」に
選ばれる。

血友病の治療経過中にC型肝炎ウィルスにも感染したが治療を経て
治癒。2007年11月現在、HIV感染に伴うAIDS(エイズ)は未検出。
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中田 英寿

2009年12月19日 | 人物
中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - )は、
山梨県甲府市出身の元サッカー選手。元日本代表。愛称
はヒデ。FIFA親善大使。株式会社東ハト執行役員。一般
財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」代表理事。観光庁
「アドバイザリー・ボード」メンバー。

日本代表のFIFAワールドカップ(以下W杯)3大会連続出場
に貢献。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリ
ア政府より爵位(カバリエーレ)受章。バロンドール候補
に3回選出、FIFA最優秀選手賞候補に4回選出されたのは、
アジア人選手で最多。U-17世界選手権(現在のU-17W杯)、
ワールドユース(現在のU-20W杯)、U-23オリンピック、
コンフェデレーションズカップ、W杯、以上のナショナル
チーム主要世界大会すべてでゴールをあげた唯一のアジア
人選手である。

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乙武 洋匡

2009年12月18日 | 人物
乙武 洋匡(おとたけ ひろただ、1976年4月6日 - )は、東京都出身の教諭、スポーツライター。左利き。

東京都新宿区出身。先天性四肢切断(生まれつき両腕両脚がない)という障害があり、移動の際には電動車椅子を使用している。東京都立戸山高等学校卒業。1浪を経て早稲田大学政治経済学部卒業。

大学時代に早稲田のまちづくり活動に参加。このまちづくり活動を取材したNHKの番組出演がきっかけで、障害者としての生活体験をつづった『五体不満足』を執筆し、出版。屈託のない個性と「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」と言い切る新鮮なメッセージがあいまって大ベストセラーとなった。この『五体不満足』は一般書籍の部数記録としては2007年現在で日本第三位の記録を持っている(出版科学研究所調べ)。また学生時代から報道番組にサブキャスターとして出演。2000年2月に都民文化栄誉章を受賞。

大学卒業後は、スポーツライターとしてジャーナリズムの世界に手を広げ活躍しつつ、2005年、新宿区の非常勤職員として「子どもの生き方パートナー」に就任。また同年より小学校教諭免許状を取得するために、明星大学通信教育課程人文学部へ学士入学し、教員の道への足がかりとした。教員免許状取得を思い立ったのは、以前からの教育への関心に加え、長崎男児誘拐殺人事件などをきっかけに、子どもの人格形成に大人がどのような責任を負っているか問題意識を抱いたためという。2007年2月に小学校教諭二種免許状を取得。同年4月より杉並区任期つき教員として杉並区立杉並第四小学校に勤務。
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西郷 隆盛

2009年12月17日 | 人物
西郷 隆盛(さいごう たかもり、本名: 隆永(たかなが)、
文政10年12月7日(1828年1月23日) - 明治10年(1877年)
9月24日)は、日本の武士(薩摩藩)、軍人、政治家。

薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)
と並び、「維新の三傑」と称される。

鹿児島生まれ。明治維新の指導者、政治家。鹿児島藩主
島津斉彬に取り立てられる。安政の大獄と斉彬の死を契機
に入水自殺を図る。その後、公武合体を目指す島津久光の
もとで活躍するも、久光と衝突し、配流。召還後、第1次
長州征討では幕府側の参謀として活躍。以後、討幕へと
方向転換をはかり、坂本竜馬の仲介で長州の木戸孝允と
薩長連合を結ぶ。勝海舟とともに江戸城無血開城を実現し、
王政復古のクーデターを成功させた。新政府内でも参議と
して維新の改革を断行。明治6年(1873)征韓論に敗れ下野。
10年(1877)郷里の私学校生徒に促されて挙兵(西南戦争)す
るが、政府軍に敗北した。
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三浦綾子

2009年12月14日 | 人物
1939年、旭川市立高等女学校(現・旭川市立北都中学校・立地)卒業。その後7年間小学校教員を勤めたが、終戦によりそれまでの国家のあり方や、自らも関わった軍国主義教育に疑問を抱き、1946年に退職。この頃肺結核を発病する。1948年、北大医学部を結核で休学中の幼なじみ、前川正に再会し、文通を開始。前川は敬虔なクリスチャンであり、三浦に多大な影響を与えた。1952年に結核の闘病中に洗礼を受ける。1954年前川死去。1959年に旭川営林局勤務の三浦光世と結婚。光世は後に、綾子の創作の口述筆記に専念する。

結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、クリスチャン(プロテスタント)としての信仰に根ざした著作を次々と発表。クリスチャン作家、音楽家の多くが彼女の影響を受けている。

1961年、『主婦の友』募集の第一回「婦人の書いた実話」に「林田律子」名義で『太陽は再び没せず』を投稿し入選。翌年、『主婦の友』新年号に「愛の記録」入選作として掲載される。

1963年、朝日新聞社による大阪本社創刊85年・東京本社75周年記念の一千万円(当時の一千万円は莫大な金額であった)懸賞小説公募に、小説『氷点』を投稿。これに入選し、1964年12月より朝日新聞朝刊に『氷点』の連載を開始する。

この『氷点』は、1966年に朝日新聞社より出版され、71万部の売り上げを記録。大ベストセラーとなり、1966年には映画化された(監督:山本薩夫、出演:若尾文子)。 また数度にわたりラジオドラマ・テレビドラマ化されている。 ちなみに、日本テレビ系番組「笑点」は、このころベストセラーであった「氷点」から題名を取ったと言われる。
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