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これは、今日の夕陽じゃないですよ。
今日は曇りだったのかな、夕陽は見えたのでしょうか。会社にいると全く分かりません。
「さくら貝の詩」の生まれたエピソードも涙を誘うものがありますが、この唄を
倍賞千恵子さんや鮫島有美子さんが唄うのを、YouTubeで聴くと(リアルタイムで
聴く機会がなかった)これほど哀調の効いた曲もない、と思う。
18歳の若さで亡くなった恋人を思って、由比ヶ浜でさくら貝を拾い続ける作曲家の卵
八洲秀章の姿が目に浮かぶようです。
胸を締め付けられるようなメロディ、目頭が熱くなります。歳をとったかな。
さらに、いろいろ調べて、かなりこの曲の背景が見えてきました。
八洲秀章は北海道出身で21歳で上京、作曲家を目指すが、23歳で肺結核を発病し
療養生活する。
丁度その頃、故郷の初恋の人、横山八重子も同様に結核で療養生活を送る。その彼女に
八洲は告白の手紙を送るが、それを読まずに八重子は亡くなる。失意のうちに鎌倉で
療養する彼が、短歌に八重子への想いを歌う。
わが恋の如く 悲しやさくら貝 かたひらのみの さみしくありて
これに友人の逗子役場の 土屋花情が詩をつけ、八洲が曲をつけたのが、昭和14年。
八洲24歳のことだったようだ。
今でこそ名曲だが、当時は軍国主義、帝国主義の時代。この唄が陽の目を見るのは
その後10年もの歳月を待たねばなりません。
美わしきさくら貝ひとつ
去りゆけるきみに捧げん
この貝は去年(こぞ)の浜辺に
われひとりひろいし貝よ
ほのぼのとうす紅染むるは
わが燃ゆるさみし血潮よ
はろばろと通う香りは
きみ恋うる胸のさざなみ
ああ なれど わが思いははかなく
うつし世の渚に果てぬ
さくら貝の詩
作詞 土屋花情
作曲 八洲秀章
八洲秀章は昭和60年に70歳で亡くなったそうです。今生きていれば90近い
年齢だったでしょう。
今は天国で、八重子と会っているのでしょうか…