家人の母親が3日未明亡くなった。
市内十二所の老人ホームで夜中の1~2時の間に息を引き取った。
義母は婦人科系の末期がんであった。
義父は7年前に亡くなっているので、家人は親なしになったと嘆いた。
2時過ぎに連絡をもらい、車で家人と10分ほどで十二所のホームに着く。
葬儀社にも連絡を入れるが、医師の死亡診断が終わってから連絡をと
いうことで、医師を待つことに。0時に寝たところだったので、あまり
寝ていないが、不思議と眠くはないものだ。
医師が来るのは朝になるとのことで、場合によって昼間になるとホームの
他の入居者への影響もあり、夜までホームから移動できないかもしれない
という事であったが、6時半ごろには医師が到着し死亡診断ができた。
葬儀社がすぐに霊柩車を回してきて、家の前を通って葬儀社の霊安室に
安置し季節がら大量のドライアイスで保管してもらう。
葬儀社との打ち合わせで、火葬は数日後となったが、故人の遺言で葬儀は
行わず、火葬の日に自宅で家族と近しい人だけのお別れの会を行う事に
して、親戚にも声はかけないし、お香典もご遠慮することになった。
昔小学校の教員をしていた義母は、今でも当時受け持ったクラスの生徒
たちと付き合っており、ホームに入ってからも幾度となく彼ら彼女らと
食事に行ったりしていたので、その人たちを主体にしたお別れの会になった。
派手な祭壇も作らず、近所の花屋と葬儀社によりベッド周りに花と遺影と
生前に貰っていた戒名を貼った位牌、線香とろうそく、そして故人が読んで
いた本と眼鏡を並べた。
故人が好きで鎌倉で一番美味しいと言っていた“登茂ゑ寿司”本店から
取った寿司と本人が亡くなる直前まで呑んでいた日本酒の献杯でお別れの
会が始まった。
司会進行はずっと看病をしてきた家人がして、義母の教え子全員に一言
づつしゃべってもらった。教え子と言っても、もう80歳を超えた方々である。
義母は90歳を超えた年齢でもあり、はじめはしんみりとした雰囲気では
なかったが、一言づつ別れの言葉を頂くうちに、誰ともなく涙を流して
故人を偲ぶ会に。
家人が義母の残した帳面等から、自分の死と葬儀にあたってという文書と
和歌を見つけていたので、それと遺影をカードにPCで印刷したものを
帰りに参列者へお渡しした。
お別れの会の最後に、全員で「故郷」を合唱、その伴奏は私のウクレレで
あった。私にも出番を作ってくれていた。
これらの手作りの進行は全て、気丈にも家人が作り、そして仕切った。
いいお別れの会になったと思う。義母は幸せだったはずだ。
市内十二所の老人ホームで夜中の1~2時の間に息を引き取った。
義母は婦人科系の末期がんであった。
義父は7年前に亡くなっているので、家人は親なしになったと嘆いた。
2時過ぎに連絡をもらい、車で家人と10分ほどで十二所のホームに着く。
葬儀社にも連絡を入れるが、医師の死亡診断が終わってから連絡をと
いうことで、医師を待つことに。0時に寝たところだったので、あまり
寝ていないが、不思議と眠くはないものだ。
医師が来るのは朝になるとのことで、場合によって昼間になるとホームの
他の入居者への影響もあり、夜までホームから移動できないかもしれない
という事であったが、6時半ごろには医師が到着し死亡診断ができた。
葬儀社がすぐに霊柩車を回してきて、家の前を通って葬儀社の霊安室に
安置し季節がら大量のドライアイスで保管してもらう。
葬儀社との打ち合わせで、火葬は数日後となったが、故人の遺言で葬儀は
行わず、火葬の日に自宅で家族と近しい人だけのお別れの会を行う事に
して、親戚にも声はかけないし、お香典もご遠慮することになった。
昔小学校の教員をしていた義母は、今でも当時受け持ったクラスの生徒
たちと付き合っており、ホームに入ってからも幾度となく彼ら彼女らと
食事に行ったりしていたので、その人たちを主体にしたお別れの会になった。
派手な祭壇も作らず、近所の花屋と葬儀社によりベッド周りに花と遺影と
生前に貰っていた戒名を貼った位牌、線香とろうそく、そして故人が読んで
いた本と眼鏡を並べた。
故人が好きで鎌倉で一番美味しいと言っていた“登茂ゑ寿司”本店から
取った寿司と本人が亡くなる直前まで呑んでいた日本酒の献杯でお別れの
会が始まった。
司会進行はずっと看病をしてきた家人がして、義母の教え子全員に一言
づつしゃべってもらった。教え子と言っても、もう80歳を超えた方々である。
義母は90歳を超えた年齢でもあり、はじめはしんみりとした雰囲気では
なかったが、一言づつ別れの言葉を頂くうちに、誰ともなく涙を流して
故人を偲ぶ会に。
家人が義母の残した帳面等から、自分の死と葬儀にあたってという文書と
和歌を見つけていたので、それと遺影をカードにPCで印刷したものを
帰りに参列者へお渡しした。
お別れの会の最後に、全員で「故郷」を合唱、その伴奏は私のウクレレで
あった。私にも出番を作ってくれていた。
これらの手作りの進行は全て、気丈にも家人が作り、そして仕切った。
いいお別れの会になったと思う。義母は幸せだったはずだ。