
〈癒し〉としての差別 ヒト社会の身体と関係の社会学 八木 晃介 著
という本の中で、気になったところをピック・アップしてみます。
感想は、ちょっと、今の自分では書ける技量がないので
本文の引用に留めたいと、思います。
以下、引用。↓
p21
ストレス解消消費源としての差別・被差別 の 章から
ストレスに対抗的な処方箋とせいて(少なくともそのように捉えられて)最近流行して
いるのが、さまざまな分野に見られる〈癒しブーム〉である。
ヒーリング・グッズ、ヒーリング・アート、ヒーリング・ミュージック等等が巷間に
あふれ、それらへの接触と参画をつうじて人々は一時の安心感を確保できるのかのごとき
幻想にとらわれている。構造的無力、疎外、統制の欠如などがすべて社会構造内の個人の
ポジショニングの特性であってみれば、そこから生じるストレスを現今の〈癒しブーム〉
に火をつけた上田紀行自身も、次のように指摘している。
「〈傷ついた私〉を深く探求することもなく、安心できる世界を〈癒し〉のパッケージ
として買ってきて、そこにしがみつくことは実は〈癒し〉とは程遠い。」
上田(紀行)の指摘はそれなりに正当ではあるが、しかし、そもそも〈癒し〉なる言葉の
軽い語幹からも類推しうるように、それは全面的な〈治癒〉というよりは、部分的な
〈寛解〉のニュアンスへの傾きが強いのであって、仮に〈深く傷ついた私〉が主観的には
癒されたとしても、社会的な自己の探求を経由したものではない以上、〈癒し〉が
ストレス解消にリンクする可能性はむしろ少ないとみるべきであろう。
ストレス解消は、実は、ストレッサーの解消でもなければならないのである。
p36
解放とは、一面において、自我の放棄でもある。自我はすでに見たように、社会関係や
人間関係の函数として形成されている。この場合の社会には、もちろん、R・K・マートン
が強調した〈社会的圧力〉も含まれる。そうした社会関係の函数としての自我と、それに
もとづく対他関係との中に自己の存在証明を見出すことをしなければ、人間は、あるいは
本来的な自分を見つけ出せ、解放されるのではないか。
いわば自我やアイデンティティの放棄による、自我やアイデンティティからの解放である。
石川准は、こうしたアイデンティティや存在証明からの自由を「〈癒し〉と呼んでもいい」
と記したものである。
p39
自己嫌悪の場合、憎悪の対象は自分自身であり、他者嫌悪の場合は憎悪の対象が他者で
あることは、ほとんどトートロジーであるが、自明でもある。
自己嫌悪の究極的な実現が自殺であり、他者嫌悪の究極的な実現が他殺であることも
いうまでもない。
しかし、それらの局面においては解決不能の深刻なジレンマが生じる。
なぜなら、自己嫌悪にしても他者嫌悪にしても、嫌悪感が生じるもともとの理由としては、
自己保存ないし自己肯定の要求があげられるにもかかわらず、自殺にしても他殺にしても、
そうした要求を満足させられるものではないからである。
すなわち、自殺にしても他殺にしても、いずれも自己肯定の資源である自分自身ないし他者の
滅却以外のなにものでもないのである。
のみならず、自殺(自分自身に対する報復)も他殺(他者に対する報復)も、社会的逸脱行動と
してカウントされるものであって、社会的に奨励される事柄ではない。
したがって、自己否定論の極端な発言としての自殺または他殺以外の方法が必要であり、
実際、社会は嫌悪感を昇華するいくつかの装置を準備しないではいないのである。
嫌悪感の昇華装置として、社会学者や心理学者によって一般化されたのが、いわゆる
スケープゴーティングの機制であった。
スケープゴーティングとはまさに「置き換えられた攻撃」の謂である。
自己の存在証明のためのソースである自分自身と他者を滅却することなく、嫌悪感を昇華
または解除していく装置としてのスケープゴーティングは、換言すれば、他のターゲットへの
安全弁(ガス抜き)的攻撃なのである。
この装置によって、人間はさしたるコストをかけることもなく、思考エネルギーの節約材と
してのステレオタイプを容易に駆使することができるし、スティグマを捏造することさえ
可能なのである。
p41
ドージアJrが列挙した八項目は、したがって、すべて〈癒し〉に関連している。
自らのアイデンティティや他者との関係を〈攻撃〉によって、あるいは〈攻撃〉によらずに
うまく切り抜ける時、人々はある種のくつろぎを感得することができるからである。
前記八項目の中で、本稿の趣意ともっとも関係のありそうな根源は「無力」だろう。
無力とは、自分自身の意味付与の首尾一貫性を確信しえない心的な情況をいう。
無力は〈攻撃〉意欲を無化するのではなく、逆に増幅する。
自己評価がズタズタになった時、人間は無力感に苛まれるのであるが、その無力感は何かに
よって補填されねばならず、いかに主観的ないし倒錯的な領域であっても、それで代償とか
補填をある程度まで実感できるならば、人間は〈癒し〉を感得できるのかもしれない。
4-2 アド・ホックな「寛容」
p41
人間は、怒りや敵意とどのように交際すればいいのだろうか。
それらは何かによって引き起こされたストレッサーであって、それを内部に抑圧することは、
どのような意味においても得策ではあるまい。
ストレスの蓄積はまちがいなく過緊張を結果し、高血圧や胃・十二指腸潰瘍などの心身症に
つながる可能性もあるからである。
それよりも何よりも、ストレスの内部抑圧は外在的な精神的困難の非在化を担保しないのである。
したがって、怒りや敵意を何らかの方法で表出することが健康上明らかにベターであるし、
また、外部に表出されることによって、当人のかかえる苦悩や憎悪が社会的に理解される機会
も生まれるというものである。
すてに述べたようなステレオタイプをもちいたスケープコーティングといった「敵意の置き換え」
でさえも、つまり偏見や差別の具現でさえも、抑圧するよりは表出したほうがよい。
誤解をおそれて大急ぎでつけくわえねばならないが、
人間がどこまでも社会的な存在である限り、「偏見や差別のない無関係」よりは「偏見や
差別のある関係」に価値があることは当然だからである。
G・ジンメルの「初期の文化状態においては、戦闘がともかくも未知の集団と接触する唯一の
形式をなす」という、いささか破天候の言明とのアナロジーでいえば、偏見や差別もまた
見知らぬ他者との邂逅と交渉の機会といってもいえなくもないのである。
怒りや敵意も同様であって、それらが関係性の境界の消滅を防止し、自己と他者の位置づけを
鮮明化するという点において、社会学的に生産的なのである。
しかし、敵意、怒り、偏見、差別の外部表出が社会学的に生産的であるにしても、それらがもつ
社会学的副作用にも十分に留意しておく必要がある。
いかにそれらが見知らぬ他者との邂逅と交渉の機会であるといっても、それはどこまでも
「不幸な機会」でしかないのである。
また、そのようなマイナス感情の表出が、当該人物の将来におけるさらなる攻撃性にリンクして
いあないという保障もまったくない。
怒りや敵意、あるいは偏見や差別を〈寛容〉によって置き換える方途はないものであろうか。
しかし、そもそも〈寛容〉という概念自体がどのような解釈をも許してしまう曖昧さをもっている。
心理学の一般的な教科書にもこの点は明確に記述されておらず、せいぜいのところ、〈寛容〉を
「偏見の欠落」や「拒絶の不在」と定義している程度である。
あるいは、「バイアスの不在」または「感情の抑制」と解釈されている場合もある。
だが、〈寛容〉を「偏見の欠落」や「拒絶の不在」、あるいは「バイアスの不在」と見做せば、
そもそもの〈寛容〉を定義することができない。
というのは、偏見・拒絶・バイアスの欠落や不在などという事態が、現実世界において
ありえようはずもないからである。
p46
端的にいって、差別者には差別せずにはいられなかった事情(本稿では、ストレス、ルサンチマン、
カタルシス等の用語によって説明した)がある。
もちろん、被差別の側にとっては理不尽きわまりない事情といわねばならないが、実際問題として、
差別側は偏見や差別の枠組みを利用することによって、たとえ幻想にしかすぎないレベルでも、
それなりの〈癒し〉を感得しているのである以上、それへの理解(是認ではない)は絶対に
不可欠であるだろう。偏見や差別という枠組みおよび被差別者それ自身が〈癒し〉の消費資源
として利用されること、それが偏見や差別のアルファでありオメガであることに対して、
被差別側は不愉快さを押し殺してでも想像力を働かせる必要がある。
そこからしか差別者へのアプローチは始まらないのであるから。
私は〈癒し〉という言葉が大嫌いである。そこには自己主張というものがない。
単なる「寛解」ではなく「治療」を求める自己主張がないのである。自己主張がないかぎり、
自己が他者に受け入れられる可能性もない。
このことは差別側にあっても被差別側にあっても共通している事柄ではあるまいか。
差別によって〈癒し〉を感得する差別者と、〈癒し〉のソースとして消費される被差別者とが、
差別という装置のもとに共犯関係を作り上げてしまっては、まったくもってミもフタもないのである。
(以上、抜粋)