今よんでる本 (抜粋)

2009年03月08日 17時46分15秒 | Weblog


〈癒し〉としての差別 ヒト社会の身体と関係の社会学 八木 晃介 著

という本の中で、気になったところをピック・アップしてみます。
感想は、ちょっと、今の自分では書ける技量がないので
本文の引用に留めたいと、思います。

以下、引用。↓


p21
ストレス解消消費源としての差別・被差別 の 章から
ストレスに対抗的な処方箋とせいて(少なくともそのように捉えられて)最近流行して
いるのが、さまざまな分野に見られる〈癒しブーム〉である。
ヒーリング・グッズ、ヒーリング・アート、ヒーリング・ミュージック等等が巷間に
あふれ、それらへの接触と参画をつうじて人々は一時の安心感を確保できるのかのごとき
幻想にとらわれている。構造的無力、疎外、統制の欠如などがすべて社会構造内の個人の
ポジショニングの特性であってみれば、そこから生じるストレスを現今の〈癒しブーム〉
に火をつけた上田紀行自身も、次のように指摘している。
「〈傷ついた私〉を深く探求することもなく、安心できる世界を〈癒し〉のパッケージ
として買ってきて、そこにしがみつくことは実は〈癒し〉とは程遠い。」
上田(紀行)の指摘はそれなりに正当ではあるが、しかし、そもそも〈癒し〉なる言葉の
軽い語幹からも類推しうるように、それは全面的な〈治癒〉というよりは、部分的な
〈寛解〉のニュアンスへの傾きが強いのであって、仮に〈深く傷ついた私〉が主観的には
癒されたとしても、社会的な自己の探求を経由したものではない以上、〈癒し〉が
ストレス解消にリンクする可能性はむしろ少ないとみるべきであろう。
ストレス解消は、実は、ストレッサーの解消でもなければならないのである。


p36

解放とは、一面において、自我の放棄でもある。自我はすでに見たように、社会関係や
人間関係の函数として形成されている。この場合の社会には、もちろん、R・K・マートン
が強調した〈社会的圧力〉も含まれる。そうした社会関係の函数としての自我と、それに
もとづく対他関係との中に自己の存在証明を見出すことをしなければ、人間は、あるいは
本来的な自分を見つけ出せ、解放されるのではないか。
いわば自我やアイデンティティの放棄による、自我やアイデンティティからの解放である。
石川准は、こうしたアイデンティティや存在証明からの自由を「〈癒し〉と呼んでもいい」
と記したものである。


p39

自己嫌悪の場合、憎悪の対象は自分自身であり、他者嫌悪の場合は憎悪の対象が他者で
あることは、ほとんどトートロジーであるが、自明でもある。
自己嫌悪の究極的な実現が自殺であり、他者嫌悪の究極的な実現が他殺であることも
いうまでもない。
しかし、それらの局面においては解決不能の深刻なジレンマが生じる。
なぜなら、自己嫌悪にしても他者嫌悪にしても、嫌悪感が生じるもともとの理由としては、
自己保存ないし自己肯定の要求があげられるにもかかわらず、自殺にしても他殺にしても、
そうした要求を満足させられるものではないからである。
すなわち、自殺にしても他殺にしても、いずれも自己肯定の資源である自分自身ないし他者の
滅却以外のなにものでもないのである。
のみならず、自殺(自分自身に対する報復)も他殺(他者に対する報復)も、社会的逸脱行動と
してカウントされるものであって、社会的に奨励される事柄ではない。
したがって、自己否定論の極端な発言としての自殺または他殺以外の方法が必要であり、
実際、社会は嫌悪感を昇華するいくつかの装置を準備しないではいないのである。

嫌悪感の昇華装置として、社会学者や心理学者によって一般化されたのが、いわゆる
スケープゴーティングの機制であった。
スケープゴーティングとはまさに「置き換えられた攻撃」の謂である。
自己の存在証明のためのソースである自分自身と他者を滅却することなく、嫌悪感を昇華
または解除していく装置としてのスケープゴーティングは、換言すれば、他のターゲットへの
安全弁(ガス抜き)的攻撃なのである。
この装置によって、人間はさしたるコストをかけることもなく、思考エネルギーの節約材と
してのステレオタイプを容易に駆使することができるし、スティグマを捏造することさえ
可能なのである。

p41
ドージアJrが列挙した八項目は、したがって、すべて〈癒し〉に関連している。
自らのアイデンティティや他者との関係を〈攻撃〉によって、あるいは〈攻撃〉によらずに
うまく切り抜ける時、人々はある種のくつろぎを感得することができるからである。
前記八項目の中で、本稿の趣意ともっとも関係のありそうな根源は「無力」だろう。
無力とは、自分自身の意味付与の首尾一貫性を確信しえない心的な情況をいう。
無力は〈攻撃〉意欲を無化するのではなく、逆に増幅する。
自己評価がズタズタになった時、人間は無力感に苛まれるのであるが、その無力感は何かに
よって補填されねばならず、いかに主観的ないし倒錯的な領域であっても、それで代償とか
補填をある程度まで実感できるならば、人間は〈癒し〉を感得できるのかもしれない。


4-2 アド・ホックな「寛容」

p41
人間は、怒りや敵意とどのように交際すればいいのだろうか。
それらは何かによって引き起こされたストレッサーであって、それを内部に抑圧することは、
どのような意味においても得策ではあるまい。
ストレスの蓄積はまちがいなく過緊張を結果し、高血圧や胃・十二指腸潰瘍などの心身症に
つながる可能性もあるからである。
それよりも何よりも、ストレスの内部抑圧は外在的な精神的困難の非在化を担保しないのである。
したがって、怒りや敵意を何らかの方法で表出することが健康上明らかにベターであるし、
また、外部に表出されることによって、当人のかかえる苦悩や憎悪が社会的に理解される機会
も生まれるというものである。

すてに述べたようなステレオタイプをもちいたスケープコーティングといった「敵意の置き換え」
でさえも、つまり偏見や差別の具現でさえも、抑圧するよりは表出したほうがよい。
誤解をおそれて大急ぎでつけくわえねばならないが、
人間がどこまでも社会的な存在である限り、「偏見や差別のない無関係」よりは「偏見や
差別のある関係」に価値があることは当然だからである。
G・ジンメルの「初期の文化状態においては、戦闘がともかくも未知の集団と接触する唯一の
形式をなす」という、いささか破天候の言明とのアナロジーでいえば、偏見や差別もまた
見知らぬ他者との邂逅と交渉の機会といってもいえなくもないのである。
怒りや敵意も同様であって、それらが関係性の境界の消滅を防止し、自己と他者の位置づけを
鮮明化するという点において、社会学的に生産的なのである。
しかし、敵意、怒り、偏見、差別の外部表出が社会学的に生産的であるにしても、それらがもつ
社会学的副作用にも十分に留意しておく必要がある。
いかにそれらが見知らぬ他者との邂逅と交渉の機会であるといっても、それはどこまでも
「不幸な機会」でしかないのである。
また、そのようなマイナス感情の表出が、当該人物の将来におけるさらなる攻撃性にリンクして
いあないという保障もまったくない。

怒りや敵意、あるいは偏見や差別を〈寛容〉によって置き換える方途はないものであろうか。

しかし、そもそも〈寛容〉という概念自体がどのような解釈をも許してしまう曖昧さをもっている。
心理学の一般的な教科書にもこの点は明確に記述されておらず、せいぜいのところ、〈寛容〉を
「偏見の欠落」や「拒絶の不在」と定義している程度である。
あるいは、「バイアスの不在」または「感情の抑制」と解釈されている場合もある。
だが、〈寛容〉を「偏見の欠落」や「拒絶の不在」、あるいは「バイアスの不在」と見做せば、
そもそもの〈寛容〉を定義することができない。
というのは、偏見・拒絶・バイアスの欠落や不在などという事態が、現実世界において
ありえようはずもないからである。

p46
端的にいって、差別者には差別せずにはいられなかった事情(本稿では、ストレス、ルサンチマン、
カタルシス等の用語によって説明した)がある。
もちろん、被差別の側にとっては理不尽きわまりない事情といわねばならないが、実際問題として、
差別側は偏見や差別の枠組みを利用することによって、たとえ幻想にしかすぎないレベルでも、
それなりの〈癒し〉を感得しているのである以上、それへの理解(是認ではない)は絶対に
不可欠であるだろう。偏見や差別という枠組みおよび被差別者それ自身が〈癒し〉の消費資源
として利用されること、それが偏見や差別のアルファでありオメガであることに対して、
被差別側は不愉快さを押し殺してでも想像力を働かせる必要がある。
そこからしか差別者へのアプローチは始まらないのであるから。

私は〈癒し〉という言葉が大嫌いである。そこには自己主張というものがない。
単なる「寛解」ではなく「治療」を求める自己主張がないのである。自己主張がないかぎり、
自己が他者に受け入れられる可能性もない。
このことは差別側にあっても被差別側にあっても共通している事柄ではあるまいか。
差別によって〈癒し〉を感得する差別者と、〈癒し〉のソースとして消費される被差別者とが、
差別という装置のもとに共犯関係を作り上げてしまっては、まったくもってミもフタもないのである。

(以上、抜粋)

kyupinの日記 気が向けば更新 (精神科医のブログ)からの引用。

2009年03月07日 11時13分19秒 | Weblog


ワタシの病気について
またもや、統合失調症のはなしです。
引用します。

kyupinの日記 気が向けば更新 (精神科医のブログ)

統合失調症の寛解、就労、予後の謎 2009-03-02 19:41:27


統合失調症と広汎性発達障害の違いだけど、統合失調症は無治療だと、水深2000mの深海1000mくらいに沈んでいる感じ。しかし、広汎性発達障害の人で、しかも施設に入っておらず見かけの障害が軽い人は、水深10mであがいているような感じだ。

統合失調症は初期に良い治療を行えば、水深1mまでは来られる。だから、顔が出せて息が出来るのである。(稀に10cmまで来ることもある)

しかし、広汎性発達障害の場合、深さはたいしたことがないが、実際、1000mも10mも当事者にとっては、息が出来ない点では変わりがないと思う。

広汎性発達障害は浮上には、種々の治療的なテクニックが必要で、10mしか深さがないわりに脱出が容易ではない。しかし、元々浅い所にいるだけに何らかのうまい方法があれば、ほぼ完全に脱出も可能だ。水深30cmくらいに来られる。

ただ、30cmに来られたとしても、社会的に、あるいは個性的にそういう色が残るのはやむを得ない。脳までは取り替えられないからだ。

広汎性発達障害の場合、まずいのは、だんだん悪い方向に行った場合、更に100mの深さとか、逆に行ってしまう事もあることだと思う。

疾患的に、どちらが治療が容易かは、現代の薬物療法や社会状況を見れば明らかであろう。

参考
プレコックス感はなくなるのか?
アスペルガーと前頭前野
社会的な目線での統合失調症とアスペルガーの共通点
発達障害は統合失調症の免罪符ではない
アスペルガーと正常の間の人々(←この人は完治している)
待合室の若い女性患者
デパス0.5mgの謎

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脳の萎縮

2009年03月04日 21時21分25秒 | Weblog


私は統合失調症という病気なのですが
統合失調症の脳の萎縮について
ミクシィmixiにて
トピックが立っておりましたので
ご紹介します。(↓以下、引用です。)

神経科学 トピック


「統合失調症における脳萎縮について」


***慧遠(EON)さんのコメント***

全くの素人ですが、私が知り得た範囲で述べます。

統合失調症患者では、うつう脳室(脳脊髄液で満たされた空間)が大きくなっていますが、この特徴はアルツハイマー病でも起きることがあるそうです。
児童期に発病した珍しい型の統合失調症の場合、大脳灰白質の平均減少率が同年齢の健常者よりもかなり大きいと言う研究もあり、それによると病気の進行とともない灰白質の減少が大きくなって連想記憶や感覚知覚、筋肉運動などを司るいくつもの皮質領野に広がっていたとの研究結果だそうです。
また、脳の皮質の厚さや海馬などの部位の大きさは統合失調症の影響を受けることは判っているらしいです。
詳しいことは、『日経サイエンス 2003年12月号 特集:脳力増強の科学』誌の中のS・E・ハイマン著"心の病を見わめる"(pp.92--99)を見て頂きたいが、p.97にMRIによるある青年患者の統合失調症での大脳皮質の(13歳から18歳までの)減少パターンの3次元地図写真図が載っています。同記事末には<もっと知るには…>として資料とその入手先が記されています。

なお、統合失調症では前頭葉に於けるワーキングメモリーの障害が特徴だとされています。
統合失調に見られる現実感を失ったように見える病状も、身体的感覚情報への注意的な(運動性)コントロールがワーキングメモリーとして機能していないと思われます。
この統合失調症でのワーキングメモリー障害は前頭葉の前帯状回という部位(注意の制御と、前頭葉・側頭葉間の連絡回路を通しての統合形成のプロセス関与)でのドーパミン欠乏が関係しているとされていて、統合失調の思考障害はドーパミン作動系による前頭葉の賦活が減弱することによって生じているとする研究結果が支持されています。
貯蔵された単語の意味情報へのアクセス精度はドーパミンによって調節されているされていますので、ドーパミン不足はそのアクセスを不正確にし、そしてその活性化の焦点が広く曖昧になって、意味へのノイズの侵入をたやすく許して弛緩した連想(連合障害)や間接的連想が認められるようになり、統合失調症の形式的思考障害(注意;これはドーパミン過剰的な急性妄想----興奮、発動性亢進、不安の増大、強い感情、過覚醒及び猜疑的態度等を伴うとされている過剰な解釈や根拠ない意味づけの思考内容的障害----と明確に区別されるべきもの)が起こるとされています。