昨晩、仮称:田中さんから頂いた江原さんの番組を録画したDVDを見ていました。
そこで、ふと思ったことがありまして。。。
それは「死者がモノを欲しがる行為」と「未成仏霊を迎えに来る霊」について
です。
江原啓之氏は、
現界→ 幽現界→ 幽界→ 霊界→ そして、神界という領域に大分別されておら
れます。
そして、この世に未練や執着を残して離れられない霊=未浄化霊(未成仏霊)は、
幽現界に留まっていると言われています。
我々が、まず死後に迷わず行く(向かう)べきところは、幽界でも明るい世界(上
層部)のサマーランドと江原氏が呼ぶところです。
・・・
そして、この特番の天国の手紙でよく出てくるのはいわゆる「成仏できていない」
という話です。江原氏流に言うところの「幽現界」に留まっているというところで
しょうか。
確かに、あの大阪の姉妹殺害事件(犯人は16歳の時に母親を殺害)など、それは
そうアッサリとは成仏できないと思われるケースばかりでしたので、どのケースも
未浄化霊を成仏させてあげるといった流れになってくるのは分かります。
その中で・・・
まず、子どもの霊の場合は、「死んだことが分かっていない」「お菓子が欲しい」
などと江原氏は霊視の中で言っておられました。
これを聴いて、「なるほど・・・そう言えば、故:宜保愛子氏も、真言宗 長江寺
住職の荻原玄明氏も『あれが食べたい』『これを供えて欲しい』という霊の言葉を
書籍で語っていたな。」と思いました。
飯田先生の場合は、食べ物に関しては、あまりそのような俗世的なことを霊が言っ
てくるというのは言われておりませんよね。
坂本政道氏は、死後、現世→「囚われの世界」で何かしらに執着して囚われている
者がいる領域があると語っていました。
そこから、救い出すのがヘルパーなる存在だとも。
・・・
ケガや病気などで不本意なカタチで亡くなった方は、この世に遺した家族のことを
思い、なかなか逝くべきところへいけていないケースや、殺害され無念の気持ちを
遺してこの世から去らなければならなかった方は、その無念な気持ちを引きずって
いるなど、何らかの「未練」「執着」によって、この世を離れられないケースを、
この特番では取り上げていました。
江原啓之氏によって故人と遺族が会話を交わして、ようやく成仏するに至るケース
が数件収録されていましたが、その時に江原氏は、
「お母さんのお父様が、今息子さんを迎えに来てくれましたよ。」
「ボールを蹴りながら、逝くべきところへ向かって逝きました。」
など、未浄化霊→諭されて納得すると→逝くべきところへ逝く。その時「身内など
の『お迎え』がある」ということがよく分かりました。
また、江原氏や遺族が説得しても、今すぐには未浄化の魂はまだ納得が出来ず、T
Vの撮影中には成仏させてあげられない魂などに対しては、その魂の守護霊にお願
いしたり、またその守護霊も一生懸命諦めさせて、逝くべきところへ連れて行こう
としている姿(状況)が、江原氏と遺族との会話の中でよく分かりました。
「死んでも、守護霊さまは憑いていてくれるのだな」ということがよく分かった番
組内容でした。
・・・
何例かの未成仏の霊を逝くべきところへ送り出す際に、このような話がありました。
江原氏は、お父さん(またはお母さん)のお父様(またはお母様)が迎えに来てい
ますよと言われ、
ある例では、
「あの、大福が好きだったんじゃないですか?」
「お父様の霊がいうには、『最近、大福を供えてくれていない』と言っています
よ。」「お供えしてあげてください。」
なんて会話もありました。
!!!
これは、私にとっては大きな発見です!
それは、
「お迎えに来られるほどの霊(成仏している霊)でも、まだこの世のものに多少な
りとも未練がある。(例でいうと「大福」)」
「まだ、そのようなこの世的な感覚が残っている。(生きている人間らしさがある)」
「幽界?霊界?神界?どこから孫を迎えに来たのか分かりませんが、成仏していて
囚われの世界にいるわけでもないのに、それでも『大福』なんてことを言うことが
できるとは・・・」
と思った次第です。
これは3つのあの世のでの状況を物語っています。
1)いつまでそう思っていられるのかは分からないが、この世のことを「成仏」
「悟りを開いた」としても、まだ思うことができる。=肉体を持った魂(人
間)
と変わらない。
2)「『大福を供えていない』『供えて欲しい』と語れる」ということは、考えら
れるということ。死後、肉体の脳が無くなっても、考えられるし、語れるし、まし
てや「成仏してても、色々この世に関することに対して、思いを馳せることができ
る」ということを表している。
3)無意識のうちに、「大福を・・・」と思ったのかどうかは分かりませんが、少
なくとも思う(意識する)ようなところまで、あの世で成仏しててもできる。
無意識ではなく、あの世でも十分意識的に考えられるのではないか。
と、いうことです。
そして、これらの感覚や感情、意識を持ったままでも「成仏」できるということを
表しているように思います。
ですから、逝くべきときの第一条件は、
「死んだことを自覚する」ということであり、あまりにも未練・執着しないという
ことで、その未練・執着の度合いは、
この世でいうところの「死んでも、離さないっ!」とか「何が何でもやってやる!」
「今すぐ欲しい。どうにかして欲しい。」
くらいの強い思いでなかったら、逝くべきところへいけるのではないかと思った
のです。
死んでいるのは分かってて・・・化けて出るほどのことではないけれど・・・大福
置いて欲しいなぁ・・・というくらいの執着なら、十分成仏は出来るということで
はないでしょうか。
そりゃそうですよね。
「死んでしまったのだから仕方が無い・・・でも、○○のことが気になるなぁ」の
程度くらいで、逝くべきところへいけないようでは、みんな数十年位は現界と幽界
の間にある幽現界(たまに幽霊として発見される境界)に引っかかったままになっ
ちゃいますよね。
多少の融通(ハンドルでいうなら、「多少の遊び」)くらいは、効くないしは認め
てくれているということでしょうか。
・・・
しかし、やはり「誰かが」迎えに来るのですね。
江原氏のTVでの話を聞いていて、あらためてそう思いました。
A・ファーニス氏の「死後世界地図」でも、また坂本政道氏の「死後体験」でも、
お迎えがあってはじめて逝くべきところに逝ける(連れて行ってくれる)と書いて
いましたので、私は逝くべき時は「先立った彼女に」お願いしたいです。
寝る前には語りかけて、リクエストしておこうと思います。
もちろん、お爺ちゃんやお婆ちゃんにも逢いたいです。
でも、まずは亡き彼女ですね。でないと、あの世へ逝っても安心できませんから。
そこで、ふと思ったことがありまして。。。
それは「死者がモノを欲しがる行為」と「未成仏霊を迎えに来る霊」について
です。
江原啓之氏は、
現界→ 幽現界→ 幽界→ 霊界→ そして、神界という領域に大分別されておら
れます。
そして、この世に未練や執着を残して離れられない霊=未浄化霊(未成仏霊)は、
幽現界に留まっていると言われています。
我々が、まず死後に迷わず行く(向かう)べきところは、幽界でも明るい世界(上
層部)のサマーランドと江原氏が呼ぶところです。
・・・
そして、この特番の天国の手紙でよく出てくるのはいわゆる「成仏できていない」
という話です。江原氏流に言うところの「幽現界」に留まっているというところで
しょうか。
確かに、あの大阪の姉妹殺害事件(犯人は16歳の時に母親を殺害)など、それは
そうアッサリとは成仏できないと思われるケースばかりでしたので、どのケースも
未浄化霊を成仏させてあげるといった流れになってくるのは分かります。
その中で・・・
まず、子どもの霊の場合は、「死んだことが分かっていない」「お菓子が欲しい」
などと江原氏は霊視の中で言っておられました。
これを聴いて、「なるほど・・・そう言えば、故:宜保愛子氏も、真言宗 長江寺
住職の荻原玄明氏も『あれが食べたい』『これを供えて欲しい』という霊の言葉を
書籍で語っていたな。」と思いました。
飯田先生の場合は、食べ物に関しては、あまりそのような俗世的なことを霊が言っ
てくるというのは言われておりませんよね。
坂本政道氏は、死後、現世→「囚われの世界」で何かしらに執着して囚われている
者がいる領域があると語っていました。
そこから、救い出すのがヘルパーなる存在だとも。
・・・
ケガや病気などで不本意なカタチで亡くなった方は、この世に遺した家族のことを
思い、なかなか逝くべきところへいけていないケースや、殺害され無念の気持ちを
遺してこの世から去らなければならなかった方は、その無念な気持ちを引きずって
いるなど、何らかの「未練」「執着」によって、この世を離れられないケースを、
この特番では取り上げていました。
江原啓之氏によって故人と遺族が会話を交わして、ようやく成仏するに至るケース
が数件収録されていましたが、その時に江原氏は、
「お母さんのお父様が、今息子さんを迎えに来てくれましたよ。」
「ボールを蹴りながら、逝くべきところへ向かって逝きました。」
など、未浄化霊→諭されて納得すると→逝くべきところへ逝く。その時「身内など
の『お迎え』がある」ということがよく分かりました。
また、江原氏や遺族が説得しても、今すぐには未浄化の魂はまだ納得が出来ず、T
Vの撮影中には成仏させてあげられない魂などに対しては、その魂の守護霊にお願
いしたり、またその守護霊も一生懸命諦めさせて、逝くべきところへ連れて行こう
としている姿(状況)が、江原氏と遺族との会話の中でよく分かりました。
「死んでも、守護霊さまは憑いていてくれるのだな」ということがよく分かった番
組内容でした。
・・・
何例かの未成仏の霊を逝くべきところへ送り出す際に、このような話がありました。
江原氏は、お父さん(またはお母さん)のお父様(またはお母様)が迎えに来てい
ますよと言われ、
ある例では、
「あの、大福が好きだったんじゃないですか?」
「お父様の霊がいうには、『最近、大福を供えてくれていない』と言っています
よ。」「お供えしてあげてください。」
なんて会話もありました。
!!!
これは、私にとっては大きな発見です!
それは、
「お迎えに来られるほどの霊(成仏している霊)でも、まだこの世のものに多少な
りとも未練がある。(例でいうと「大福」)」
「まだ、そのようなこの世的な感覚が残っている。(生きている人間らしさがある)」
「幽界?霊界?神界?どこから孫を迎えに来たのか分かりませんが、成仏していて
囚われの世界にいるわけでもないのに、それでも『大福』なんてことを言うことが
できるとは・・・」
と思った次第です。
これは3つのあの世のでの状況を物語っています。
1)いつまでそう思っていられるのかは分からないが、この世のことを「成仏」
「悟りを開いた」としても、まだ思うことができる。=肉体を持った魂(人
間)
と変わらない。
2)「『大福を供えていない』『供えて欲しい』と語れる」ということは、考えら
れるということ。死後、肉体の脳が無くなっても、考えられるし、語れるし、まし
てや「成仏してても、色々この世に関することに対して、思いを馳せることができ
る」ということを表している。
3)無意識のうちに、「大福を・・・」と思ったのかどうかは分かりませんが、少
なくとも思う(意識する)ようなところまで、あの世で成仏しててもできる。
無意識ではなく、あの世でも十分意識的に考えられるのではないか。
と、いうことです。
そして、これらの感覚や感情、意識を持ったままでも「成仏」できるということを
表しているように思います。
ですから、逝くべきときの第一条件は、
「死んだことを自覚する」ということであり、あまりにも未練・執着しないという
ことで、その未練・執着の度合いは、
この世でいうところの「死んでも、離さないっ!」とか「何が何でもやってやる!」
「今すぐ欲しい。どうにかして欲しい。」
くらいの強い思いでなかったら、逝くべきところへいけるのではないかと思った
のです。
死んでいるのは分かってて・・・化けて出るほどのことではないけれど・・・大福
置いて欲しいなぁ・・・というくらいの執着なら、十分成仏は出来るということで
はないでしょうか。
そりゃそうですよね。
「死んでしまったのだから仕方が無い・・・でも、○○のことが気になるなぁ」の
程度くらいで、逝くべきところへいけないようでは、みんな数十年位は現界と幽界
の間にある幽現界(たまに幽霊として発見される境界)に引っかかったままになっ
ちゃいますよね。
多少の融通(ハンドルでいうなら、「多少の遊び」)くらいは、効くないしは認め
てくれているということでしょうか。
・・・
しかし、やはり「誰かが」迎えに来るのですね。
江原氏のTVでの話を聞いていて、あらためてそう思いました。
A・ファーニス氏の「死後世界地図」でも、また坂本政道氏の「死後体験」でも、
お迎えがあってはじめて逝くべきところに逝ける(連れて行ってくれる)と書いて
いましたので、私は逝くべき時は「先立った彼女に」お願いしたいです。
寝る前には語りかけて、リクエストしておこうと思います。
もちろん、お爺ちゃんやお婆ちゃんにも逢いたいです。
でも、まずは亡き彼女ですね。でないと、あの世へ逝っても安心できませんから。
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