昨日の写真です。
毎年一度だけ見に行くこの桜、私は「青山墓地の主」と呼んでいます。
今年もご健在でした。
こちらは六本木のミッドタウンの裏手の桜です。
こちらも見事でした。
今日のブログです.
こんな事をツイートしたので、続きを書いてみることにしました。
親が「とりあえず大学」という視野の狭さだと、まぁ、寄りつかないわな。
— おおしたさん (@taketakeyosi) March 22, 2023
八百万の神に守られてるんじゃなくて、八百万の目に監視されてるこの国で、一人一人の生きやすさは血が繋がってても違うんで、、
八百万の目に見張られて
自然の恵みにその猛威に、日本人は自然を八百万の神として崇拝し、祀るようになった(1)。
地震や台風といった、強大な自然災害が日常茶飯事である日本において、とにかくこの激しい自然とどう共存するか。良いも悪いも自然に委ねるしかない生活の中で、その崇拝は多神教へと導かれていった。実際神社が自然界を模写したものであるように、信仰の対象は自然への畏敬と感謝から始まった(2)。
だから其処此処に神が宿ると考えるようになっていくのだが、その対象は生きとし生けるものだけでなく、石や材木等、無生物にも及ぶ。つまり八百万の神が至る所にいるわけだ。
そんな日本人だから、一神教の扱いはお手のもの。キリストも自然神の中の一人として捉えれば良いだけなのだから。しかしそのシステムに組み込まれる事をキリスト教は拒んだので、先の大戦の敗戦後ですら、キリスト教が日本で普及することはなかった。
八百万の神への信仰、それが高じて人目を気にする文化が生まれることとなった。キリスト教は神と自分の契約だけなので、神にさえ許されれば、他人の目を気にせず自分の道を進む事ができる。しかし日本での信仰は八百万の神がベースだ、だから周囲の目を気にすることも信仰の一部となる。エレベーターでの歩行やマスクを外す外さないといった問題は、それが良いとか悪いとかではなく、他人にどう思われるかを常に重んじる日本人の特性として捉えたら、非常にわかりやすい。
他人の、八百万の目に監視される日本で、普通を当たり前にできないと途端に息苦しくなる(3)。個性云々大切にしろ、というのも大切だが、それが過ぎれば日本での生活は途端に生きにくくなる。極端に秀いでた人や一神教の信仰を持つのならともかく、他人への迎合と個性とのバランス、その良い塩梅を心に落とし込む事無くして日本で生きるのは容易ではない。そんな、今だに世知辛い日本だから、大人の伴走で大切になるのがポピュラリティを植え付けること。それを踏まえて子どもの生きやすい場所を探さないと、日本での生活は本当に大変だ。
ところで日本の生活環境はとにかく厳しい。夏は暑く冬は寒く、地震や台風等天変地異がとても多い。とにかく生きていることすなわち「苦」を嫌というほど体現できる場所なのである(1)。だから祈祷や占いが腐るほど生まれてきたのもよくわかる。しかし浄土真宗は祈祷や日にち、方位で運命が決まるのではなく「行い」で決まると言っている。自らの「行い」が全てなので、占い等への「他力」は全否定される(他力はあくまでも阿弥陀様だけのものである)。
この「普通」がわからないと人は生き辛さを感じてしまう。「そういうものだから」をいちいち分解して考えていては、辛くなるのも当然だ。本来ならその「普通」は家族というコミュニティーで教わるべきなのだが、家族という単位が崩壊しつつある今、そのポピュラリティの維持は容易ではない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます