「おおしたさん」のブログです

2005年6月に始めたこのブログ、鍼灸院をやってた頃のことを含め、今も気ままに書いています。

南無阿弥陀仏に生かされる??

2023年06月25日 | 宗教、哲学
おはようございます。
最近は毎日ちょこっと外ランしてます。

高尾山を裸足で走ってたおじさんや、間宮林蔵の裸足話に何故だか興味を持ってしまい、今週は1日置きに裸足ラン。

やわやわで弱っちい足の裏、紆余曲折ありましたが、今朝どうにか東宮御所を裸足で一周する事ができました(^。^)



若い頃から自己中で幼稚、誰かに褒められれば良い気になって、けなされたらすぐに落ち込む。平常心でいたくても、そうは問屋がおろさない。自分の愚かさをさらけだした方が良いと言われても、恥ずかしいのが先に立ち、思うようには行動できない。

そんな自分を母はしっかりと愛してくれたていたように思う。浪人に留年、バブル期最後にもかかわらず、大学を卒業しても就職しない私だったが、全く何も言われることはなかった。それどころか、何かあったらなんでも言ってね、とそんな感じの母だった。その母が80代の半ばで突然亡くなり、途方にくれると思いきや、特に涙が流れる事もなく、普段通りの日常をこなす自分。とりあえず位牌でも家に置かなくてはいけないと思い、自分の宗教を改めて調べてみた。そうしたら浄土真宗が我が家の宗教、ゆかりのあるお寺さんは築地本願寺だというのがわかった。何年も東京にいるが、築地本願寺に行くのは初めてで、なんでも毎朝7時からお勤めがあると言う。早速その晨朝勤行なるお勤めに参加した。正信偈と御和讃から始まり、それから5分程度の講話、蓮如上人の御文章までだいたい45分くらい。そのお晨朝がなんだか心地よく、結局毎朝そのお勤めに参加するようになり、そこで始めて母の死に触れたような気になった。あのお坊さんが唱えるお経の安心感、なんだか心に溜まっていたものが吐き出されていく感じ。朝のお勤めに使われる本までも購入し、お坊さんと一緒に唱えるようになってしまった。

ところでこのお晨朝、毎朝かわるがわるお坊さんがお話をしてくださる。5分程度の短い話だが、それがなかなか心に沁みる。毎朝のように通うと、南無阿弥陀仏だけで生きていける、そんな気持ちになっていく。そんな中、あるお坊さんが南無阿弥陀仏を「必ず救う、私に任せなさい」という阿弥陀様の力強い宣言だと講釈された。またある先生は「正しい道を精一杯歩きなさい」と解説し、他の先生は「気づきなさい」という意味が根底にあるんですよ、と話をしてくれた。

阿弥陀様が存在するということ、すなわち法蔵菩薩が48の願い全てを叶えたという事。そうなのだ、実際に願いを叶えたから阿弥陀様が存在するのだ。全ての人はすでに救われているのだ。「救ってくださりありがとうございます」と過去形で良いのだ。絶対に避けられない「死」への救いに、十分なプロットを提示してくれた。とはいえまだ明らかには救われていると思っていないこの私、そんな私でさえも、救われた気にさせてくれる阿弥陀様に「ありがとう」とだけ伝えたい。

ということで最後に「死」について。この最大の不安と不幸に対する答えの一つが南無阿弥陀仏。浄土真宗の教えは自覚の仏教、私はいつも愚か者なのだとたえず自覚させてくださるのが阿弥陀様。くそしょうもない、考えても仕方がない「死」への安堵を示してくださる阿弥陀様、何があっても救ってやるから、という積極的な阿弥陀様の寄り添いに感謝しつつ、今日も明日も、毎日を精一杯生きたいと思う。


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