
先日息子と息子の彼女と一緒に門前仲町にある呉出身の大将がやってるお店に行きました。いつも美味しい料理をありがとうございます。
お好み焼きで思うこと
食べ物の発祥地論争、肉ジャガは呉市が先かそれとも舞鶴市が先か等々いろいろあるが、お好み焼きも例外ではない。特に広島を離れてそれがよくわかった。お好み焼きは広島のものしか知らなかったが、初めて一人暮らしをした京都で食べた関西のあのお好み焼き、あの生地と具材をグチャグチャに混ぜるものもが本来のお好み焼きだったとは。その後色々な場所に住んだが、私が慣れ親しんだ広島のお好み焼きは必ず「広島風」と言う枕がつく。
同じお好み焼きでも中身は違う。しいて言うなら、関西で言うところのモダン焼きが広島のそれに当たるだろうか。しかし焼き方も何もかもが違う全くの別物。ただ鉄板を使うという事だけが共通項、それなら「もんじゃ焼き」もお好み焼きと名乗っていいのではないだろうか。いや、そんなしょうもない話はともかく、お好み焼きは広島が発祥、だから広島風と冠す必要は全くない、と高らかに宣う県民意識にとりあえずは参戦するが、いやいや別のものじゃん、といった気持ちが俯瞰した態度に現れてしまったりする。
名前の付け方で思い出した。あのドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスが書いたターヘル・アナトミア。解体新書で杉田玄白と前野良沢が東洋医学で使われていた五臓六腑(五臓であるところの心・肺・肝・腎・脾と六腑であるところの胃・小腸・大腸・膀胱・胆嚢・三焦)をそのまま西洋の臓器に充てたものだから、東洋医学と西洋医学の臓腑の意味がこんがらがってしまった。東洋医学を生業にするものにとって、杉田の功罪は大きいと思うのだが果たしてどうだろう。
脱線して申し訳ない。京都で学生をするまで広島のお好み焼きしか知らなかったこの私。先輩にお好み焼き屋に初めて連れていってもらった時の衝撃といったら。安くて美味いと先輩のお気に入りの店だったが、その値段は600円。広島なら450円でモリモリなキャベツに肉と卵、それにソバも入っている。ソバが1玉増すごとに50円、ソバを3玉にして550円と、高校生でもなかなかに腹が膨れる。そうなのだ、広島のお好み焼きはそれだけで昼飯になるのだ。かたや大阪のは単なるおやつ、あれでは食欲凄まじい中高生の腹は満たされない。そんな、高校生の昼飯がお好み焼きで成り立つ土地で育った私だ、ただ具材を入れたボウルを渡され自分で作れとか、なんたる店の怠慢だと思ってしまう。
と毒づいてはみたものの、京都に長くいた手前、実は関西のお好み焼きも好きだったりする。ああだこうだとお好み焼き奉行が差配する卓を囲んでワイワイできるあの空間、つまみの枝豆やトマトを焼いたり、自分なりに作り方を楽しめる創造性もさすがだと言わざるを得ない闇鍋文化の底力。広島のは自分では到底焼けなかったりするので、関西のその拡張性のあるお好み焼きも実は捨てがたかったりする。
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