聖書VS日月神示[神の怒り」と「地獄」は存在するの家しないのか?「宇宙の知性」の真意が知りたくての中で、キリスト教では地獄があるとしているけれど、日本ではどうかという検証をしておられた。
それによると、日本では本来地獄という概念がなく、お釈迦様の説かれた本来の仏教にも地獄はないそうである。(仏教の地獄の話はヒンヅー教から来たものらしい)
それから物理学者の中に神仏(創造主)の存在を語る人が多いそうである。
その事に関するIn Deepの記事の一部を,以下に引用させて頂く。
やっぱり、ここまで緻密に計算尽くされた世界が、偶然形成される等有り得ないと私も思っていたので、わが意を得たりという感想である。
(以下引用)
ミチオ・カク著『パラレル・ワールド』 物理学者が考える「宇宙の意味」より
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創造主の問題は、「科学は神の実在について何かを語れるのか?」という問題も提起する。
かつて神学者のパウル・ティリッヒは、「神」という言葉を臆面もなしに語れる科学者は物理学者だけだと言った。
実際、人類にとって最大級の疑問 -- 大いなる設計は存在するのか? 存在するとすれば設計者はいるのか? 理性と啓示のどちらが真理に到達する正しい道なのか? -- に取り組んでいるのは、科学者では物理学者しかいない。(略)
ひも理論に見られるような、多くの宇宙の存在を可能にする理論を、だれかが設計したのだろうか? 宇宙が微調整された時計のようなものなら、それを作った時計職人はいるのだろうか。
この意味で、ひも理論は「神には選択の余地はあったのか」という疑問に解決の光を投げかけてくれる。アインシュタインは、宇宙論を考え出そうとするたびに、自分ならどう宇宙を設計しただろうかと問うた。
そのうちに彼は、神には選択の余地がなかったかもしれないという考えに傾いた。
ひも理論は、この見方の正しさを立証してくれそうに見える。
相対性理論と量子論を結びつけようとすると、目立たないが致命的な欠陥 -- 爆発的な発散と、理論の対称性を損なう異常性 -- に満ちていることに気づかされる。
この発散と異常性を解消するには強力な対称性を取り込むしかなく、その点でM理論にはなにより強力な対称性がひそんでいる。つまり、必要なすべての条件を満たす単一のユニークな理論が存在する可能性があるのだ。(略)
私をはじめ一部の物理学者が考えているように、いずれ現実世界を支配する究極の法則が -- ひょっとするとたかたが数センチの -- 式一本で表せたとしても、次にはこんな疑問がわく。
「この式はどこから得られたのか?」
ここにあります、
> 「この式はどこから得られたのか?」
というのは、上のミチオ・カクさんの文章では「宇宙を設計したもの」というニュアンスと関係するもので、つまり、「何がこの(あまりにも正確な)宇宙の法則をもたらしたのか」という意味です。
物理学の世界が究極的なレベルにまで達したとした場合、「式」そののものが完ぺきであればあるほど、この「この式はどこから得られたのか?」という、「深遠な疑問」はさらに強いものとなっていくと思われます。
晩年のフレッド・ホイル博士の著作にも「宇宙の知性」が記述されていました。
『生命( DNA )は宇宙を流れる』という、パンスペミア説や「進化論の否定」、「ビッグバンの否定」などについて記されている著書の最終章で、ホイル博士は以下のように述べています。
フレッド・ホイル著『生命( DNA )は宇宙を流れる』
第11章 コズミック・インテリジェンス より
興味深いことに、われわれが到達した結論、すなわち宇宙に知性があることをロジカルに要請することは、世界の主だった宗教の教義と整合性がある。
世界中のさまざまな文化の中で、「創造主」は独自のすがた形をとる。エホバ、ブラフマー、アラー、天の父、神……宗教の数だけ呼び名もある。
けれども、その根底に横たわる概念は、どれも一緒だ。それは、宇宙は -- 特に生命の世界は -- 想像もつかないほど強力な人間型の知性を持つ「存在」によって創造されたということだ。
地球に暮らしたことのある人間の圧倒的多数が、この概念を完全に、無条件に、本能的に受け入れていたことを忘れてはいけない。
生物にこんな意識を持たせるのは、遺伝子のはたらきである。ひょっとすると、その「存在」がわれわれの部品を創造することにあたって、自らの起源についての真実を本能的に悟るように、遺伝子に細工しておいたのかもしれない。
優れた科学者たちが、その時点で最も進んだ科学で宇宙を考えれば考えるほど、
「宇宙の設計者の存在」
と
「宇宙の永遠性の問題」
に突き当たる。
最高の科学の先に待ち受けているのは、いつでも「創造主の存在」だという感覚があります。
しかし、創造主がどのようなことを私たちにおこない、そして、私たちはどのように(思想的な意味での)対応をしていけばいいのかはまったくわかりません。
もしかすると、地球単位での大きな変化もそれほど先ではないかもしれない時代に、私たちは確実に存在するとしか思えなくなってきている「創造主」とどのように向きあうかを考える時に来ているのかもしれません。
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