今日は長い思い出話。
私が以前勤めていた会社に、木型という
木製の模型を作る人たちがいた。
木型師とか木型の人とか呼ばれていたが
刃物で仕事をする職業柄か気難しい人が多く
無口でなかなか取っ付きにくかった。
それでもピリッとした木型作業場の
雰囲気も人も嫌いじゃなかった。
彼らは自分の道具はもちろん自分の手で手入れしていた。
切れない刃物では仕事にならないし危ないので
皆刃物を研ぐのがとても上手だった。
ある日、私が自分で砥いだ共同工具のノミで作業していたら
通りがかったSさんという木型の人が
あまりの切れてなさに見かねてノミを砥いでくれた。
木型の人に手を入れてもらった刃物は
それはそれはよく切れるのだ。
しかし普段は忙しい木型の人にぺーぺーの私が
刃物を砥いで下さいとは頼めず、大抵自力で砥ぎ
砥いだつもりで刃先を丸めていた。
降って湧いたような幸運、
しかもSさんは木型師の中で一番刃物を砥ぐのが上手い。
私は嬉しくてSさんがノミを砥ぐのを
邪魔にならないように横からずっと見ていた。
Sさんの手はある角度を保ったまま機械のように動く。
私が潰してしまった刃がみるみる蘇ってくる。
「すごいなあ」と呟いたら
Sさんは複雑そうに笑ったあと
又真面目な顔になって作業を続けた。
しばらく経ってから
「でもTさんが砥いだものが一番すごいよ」
Sさんは砥石から顔も上げずにそう言った。
Tさんとは木型の現役を引退して
業務管理をしている工長さんだ。
いつも机に向かって書類相手の仕事をしている。
赤ら顔で三河弁、ビール腹のよく喋るおじさんだ。
ギャグはとってもつまらない。
私はへええと思った。
Sさんの研いだ刃物は恐いくらいよく切れるのに
それ以上の刃物って一体どんなものだろう。
「Tさんの工具はもう無いからなあ
個人で一本くらい持ってるかもしれないけど…」
Sさんは呟くようにそう言って、仕上げ用の砥石に
何度か刃を滑らせ、はいと言って渡してくれた。
そんなTさんの刃物を見る機会があった。
私が手に怪我をした時だ。
ベニヤ板を運んでいて手を滑らせ、
手のひらに水平に、爪楊枝くらいの棘を刺した。
急いで引っこ抜こうとしたが
ベニヤの棘はぎざぎざで返しがいっぱい付いている。
何度抜こうとしても途中で引っかかって折れてしまい
薄い表皮越しに茶色の大きな棘が見えている状態で
立ち往生してしまった。
木の棘は放っておけば自然と排出されるのだが
この時は如何せん 棘が巨大すぎた。
物を持とうと手のひらを曲げると
メリメリ言って物凄い異物感が生じた。
しかも利き手だ。箸より重い物が持てない、
むしろ箸が持てない。
仕方ないので同僚がカッターを使い、表皮を切って
棘を取り出そうとしてくれた。しかし人間の皮膚は
切るつもりがない時はスパスパ切れるくせに
いざ切ろうとすると意外に頑丈なのだ。
つるつる逃げる手の皮に悪戦苦闘していると
そこへTさんが通りかかったのだ。
「ああ、カッターじゃ駄目だ。そら切れん」
Tさんはちょっと待ってろと言ってデスクに戻り
引き出しから大きなしのぎノミを持って戻ってきた。
刃の幅5センチはあるだろうか、建築に使っても
手の治療に使う大きさではない。びびる私にTさんは
これが一番切れるからと笑って
私の手を押さえつけた。笑い事じゃあないよと思ったが
動くと怪我をしてしまうので、我慢してじっとしていた。
棘の先端に刃を入れ、棘に沿って滑らすと
さっきまで逃げに逃げていた皮膚が
今度は刃に吸い付くように切れていった。
めちゃくちゃよく切れたのだ。棘を無事に取り出し終わっても
私はその、Tさんが使ったノミが見たくて仕方なかった。
手の消毒をしながら、あのうさっきのノミ
ちょっとだけ見せて下さいと頼むと
「刃先には絶対触るなよ」と言って
Tさんは見せてくれた。
その刃先が凄かったのだ。
今でもあれは何だったんだろうと思う。
鋼が白く光り、刃の先端に向かって輝きが続いている。
ところが先端の先端に近づくにつれ、
その光が何だか曖昧になっていくのだ。
大げさな言い方かもしれないが
刃が無くなる瞬間が見えない。
先端がまるで空間に紛れるように、
気が散るように曖昧になって
やがて見えなくなるのだ。
ぞっとしてTさんを見ると
Tさんは面白そうにこう言った。
「本当に切れる刀は、刃先が見えないもんなんだ」
だから刃先に触ろうと思うと、実は刃先を通り越した所に
触ることになる。よっていつの間にか切れているのだ。
Tさんは事もなげに笑ってノミを受け取り
元通りに引き出しにしまった。
Sさんの複雑な笑いの意味が分かった気がした。
Tさんは数年前に定年退職して、今は家で
悠悠自適の毎日を送っている。
家では大工仕事は一切しないと言っていたので
あのノミはTさんの工具箱のどこかで眠っているのだろう。
私が見たものが本当だったか、もう一度見て確かめたいが
見るのは怖い気もする。
たとえは悪いが、知らない人が写り込んだ写真のようなものだ。
知らない人だと気付いた瞬間に怖くなり
ああ、曖昧だと気付いた瞬間に怖くなるのだ。
そんな刃物が本当にあった。
誰かにしておきたかった話。
お読み下さり、ありがとう。
私が以前勤めていた会社に、木型という
木製の模型を作る人たちがいた。
木型師とか木型の人とか呼ばれていたが
刃物で仕事をする職業柄か気難しい人が多く
無口でなかなか取っ付きにくかった。
それでもピリッとした木型作業場の
雰囲気も人も嫌いじゃなかった。
彼らは自分の道具はもちろん自分の手で手入れしていた。
切れない刃物では仕事にならないし危ないので
皆刃物を研ぐのがとても上手だった。
ある日、私が自分で砥いだ共同工具のノミで作業していたら
通りがかったSさんという木型の人が
あまりの切れてなさに見かねてノミを砥いでくれた。
木型の人に手を入れてもらった刃物は
それはそれはよく切れるのだ。
しかし普段は忙しい木型の人にぺーぺーの私が
刃物を砥いで下さいとは頼めず、大抵自力で砥ぎ
砥いだつもりで刃先を丸めていた。
降って湧いたような幸運、
しかもSさんは木型師の中で一番刃物を砥ぐのが上手い。
私は嬉しくてSさんがノミを砥ぐのを
邪魔にならないように横からずっと見ていた。
Sさんの手はある角度を保ったまま機械のように動く。
私が潰してしまった刃がみるみる蘇ってくる。
「すごいなあ」と呟いたら
Sさんは複雑そうに笑ったあと
又真面目な顔になって作業を続けた。
しばらく経ってから
「でもTさんが砥いだものが一番すごいよ」
Sさんは砥石から顔も上げずにそう言った。
Tさんとは木型の現役を引退して
業務管理をしている工長さんだ。
いつも机に向かって書類相手の仕事をしている。
赤ら顔で三河弁、ビール腹のよく喋るおじさんだ。
ギャグはとってもつまらない。
私はへええと思った。
Sさんの研いだ刃物は恐いくらいよく切れるのに
それ以上の刃物って一体どんなものだろう。
「Tさんの工具はもう無いからなあ
個人で一本くらい持ってるかもしれないけど…」
Sさんは呟くようにそう言って、仕上げ用の砥石に
何度か刃を滑らせ、はいと言って渡してくれた。
そんなTさんの刃物を見る機会があった。
私が手に怪我をした時だ。
ベニヤ板を運んでいて手を滑らせ、
手のひらに水平に、爪楊枝くらいの棘を刺した。
急いで引っこ抜こうとしたが
ベニヤの棘はぎざぎざで返しがいっぱい付いている。
何度抜こうとしても途中で引っかかって折れてしまい
薄い表皮越しに茶色の大きな棘が見えている状態で
立ち往生してしまった。
木の棘は放っておけば自然と排出されるのだが
この時は如何せん 棘が巨大すぎた。
物を持とうと手のひらを曲げると
メリメリ言って物凄い異物感が生じた。
しかも利き手だ。箸より重い物が持てない、
むしろ箸が持てない。
仕方ないので同僚がカッターを使い、表皮を切って
棘を取り出そうとしてくれた。しかし人間の皮膚は
切るつもりがない時はスパスパ切れるくせに
いざ切ろうとすると意外に頑丈なのだ。
つるつる逃げる手の皮に悪戦苦闘していると
そこへTさんが通りかかったのだ。
「ああ、カッターじゃ駄目だ。そら切れん」
Tさんはちょっと待ってろと言ってデスクに戻り
引き出しから大きなしのぎノミを持って戻ってきた。
刃の幅5センチはあるだろうか、建築に使っても
手の治療に使う大きさではない。びびる私にTさんは
これが一番切れるからと笑って
私の手を押さえつけた。笑い事じゃあないよと思ったが
動くと怪我をしてしまうので、我慢してじっとしていた。
棘の先端に刃を入れ、棘に沿って滑らすと
さっきまで逃げに逃げていた皮膚が
今度は刃に吸い付くように切れていった。
めちゃくちゃよく切れたのだ。棘を無事に取り出し終わっても
私はその、Tさんが使ったノミが見たくて仕方なかった。
手の消毒をしながら、あのうさっきのノミ
ちょっとだけ見せて下さいと頼むと
「刃先には絶対触るなよ」と言って
Tさんは見せてくれた。
その刃先が凄かったのだ。
今でもあれは何だったんだろうと思う。
鋼が白く光り、刃の先端に向かって輝きが続いている。
ところが先端の先端に近づくにつれ、
その光が何だか曖昧になっていくのだ。
大げさな言い方かもしれないが
刃が無くなる瞬間が見えない。
先端がまるで空間に紛れるように、
気が散るように曖昧になって
やがて見えなくなるのだ。
ぞっとしてTさんを見ると
Tさんは面白そうにこう言った。
「本当に切れる刀は、刃先が見えないもんなんだ」
だから刃先に触ろうと思うと、実は刃先を通り越した所に
触ることになる。よっていつの間にか切れているのだ。
Tさんは事もなげに笑ってノミを受け取り
元通りに引き出しにしまった。
Sさんの複雑な笑いの意味が分かった気がした。
Tさんは数年前に定年退職して、今は家で
悠悠自適の毎日を送っている。
家では大工仕事は一切しないと言っていたので
あのノミはTさんの工具箱のどこかで眠っているのだろう。
私が見たものが本当だったか、もう一度見て確かめたいが
見るのは怖い気もする。
たとえは悪いが、知らない人が写り込んだ写真のようなものだ。
知らない人だと気付いた瞬間に怖くなり
ああ、曖昧だと気付いた瞬間に怖くなるのだ。
そんな刃物が本当にあった。
誰かにしておきたかった話。
お読み下さり、ありがとう。